Re:02 Resist

 後悔を消化できないまま、私の過去は淡々と過ぎていく。できることは、いまの昴夜に謝っておくことくらいだった。それでも、私の後悔は消えない。


 私以外にも、そうして消えない後悔を抱えている人はいるのだろうか。仕事をしているときに、たまにそんなことを考えていた。仕事柄、人と人との争いはイヤというほど見ている。そんな中、口では「相手が悪い」と言っていても、実は「やり過ぎた」「自分も悪い」と思っていることがあるのではないかと。もし過去に戻ったら同じことはしないのではないか、逆に似たような経験があれば同じことは繰り返さないのではないかと。


 そんなことを先輩に話したときは、笑われてしまった。そんなにみんながみんな人間ができているわけではないと。


 後悔と反省は全然違うのだと、先輩は言っていた。




 ホワイトデーの日、私が入った瞬間に教室は騒然とした。何事かと真っ先に陽菜に目を向け、しかし目を逸らされ、間抜けに目を瞬かせる羽目になった。


 クラスメイトの子達が、声を潜めてなにかを話し合う。状況からして私のことに違いないけれど、腫れ物に触るように、誰も何も話しかけてこない。


 ただ、陽菜が、意を決したように口を開いたのが見えた。そのとき。


「英凜」


 廊下から私を呼んだのは、胡桃だった。開いた扉の向こう側には、胡桃の友達らしき子も二、三人いた。


「……なに?」


 昴夜と侑生は、まだ来ていなかった。


「なに? あたしが何言いたいか、分かるよね?」


 何も分からずに首を傾げているうちに、ズンズンと胡桃達は教室へ入ってきた。まるで印籠のように、胡桃は私に携帯電話の画面を突き付ける。本体よりも大きなぬいぐるみのストラップがジャラリと揺れた。


「これ、どういうこと?」


 あ、と声を上げそうになった。


 そこには、私が昴夜と抱き合う写真がうつっていた。


 夕暮れどきの薄暗い中、昴夜の家の玄関前で抱き合う私は、しっかりコートを着込んでいる。ということは、おそらく先月のバレンタインの写真だろう。


「これ、英凜でしょ? しらばっくれても無駄、この後、駅で英凜と昴夜が歩いてるの見たって子もいるから」

「別にしらばっくれる気はないけど、これがどうかしたの」

「は?」


 しかし、私が声を上げそうになったのは、隠し撮りされていたのを驚いたからではない。


 微細な変化はあれど、過去にほとんど同じ出来事があったからだ。


「開き直るつもりなの? 友達の彼氏と浮気しといて?」

「浮気の定義から始めて。私と昴夜が何をしたの?」

「言い訳しないでッ!」


 バンッと、揺れるほど勢いよく机が叩かれた。


 胡桃はそのまなじりを吊り上げ、唇を震わせながら「信じらんない、本当に悪いことしたって思ってないんだ?」と私を責め続ける。


「言っとくけど、英凜が昴夜とラブホ行ってた写真だってあるんだから」

「ああ、ラブホね」


 心当たりのある出来事に深く頷くと「なに開き直ってんの!?」と怒号が飛んだ。それはそうだ、これは私が対応を間違えた。


「友達の彼氏なのに、っていうか自分の彼氏の親友でもあるのに、よくそんなことできるよね? 気持ち悪ッ」

「三国さんさあ、ちょっと桜井くんと仲良いからって調子乗り過ぎたんじゃないの?」


 胡桃の後ろに立っている子がずいと前に出た。きっと過去にも似たような立場で胡桃の味方をした子なのだろうけれど、顔に覚えはなかった。


「三国さんが桜井くんを名前で呼ぶのも、近い距離でベタベタするのも、胡桃はずっとイヤだったわけ。ていうかイヤに決まってるよね、なんで分かってるのにそういうことするの?」

「胡桃がどれだけ我慢してたか分かってる? でも友達だから何かあるわけないって三国さんを信じてあげてたの」

「三国さんが桜井くん誘惑したんだって、みーんな知ってるんだから。雲雀くんのことだって裏切って、サイテー」


 彼女達は似たような罵倒を何度も繰り返していたけれど、やがて胡桃が「もういいよ」と彼女達を制した。ちょうど、いつも侑生達が登校してくる時間だった。


「あたし、英凜を責めたかったわけじゃないから」


 わざわざ隣の校舎にまでやってきて私を責めにきたその口でよく言う、とはさすがに私も口に出さなかった。


「でもあたしがどんな気持ちだったか分かる? 英凜と話すことなんてないから。もう二度と、話しかけないで」


 親の仇のごとく私を睨み付け、胡桃は踵を返す。その友達も、ビッチだのサイテーだの吐き捨てて教室を出て行った。廊下からは「本当に言い訳ばっかだったよね」「なんで被害者が泣き寝入りしなきゃいけないんだろ」とまだ罵倒が聞こえていたけれど、それが聞こえなくなったかと思うと、侑生と昴夜が登校してきた。


「おーはよ」

「……なんかあったのか?」


 じろりと睨むように侑生が教室を見回した、それだけでサッとみんなが視線を落とす。私は首を横に振った。


「なんでもないよ、気にしないで」

「ふーん?」


 昴夜も首を傾げたけれど、誰も何も言わなかった。


 これは、胡桃の罠だった。昴夜と別れた胡桃は、私と昴夜は一年生のときからセフレであって、しかもそのせいで別れる羽目になったのだと噂をばらまき、できる限りの友達を味方につけて私を糾弾した。お陰でさすがの私も動揺したし、噂を本気にした男子に襲われかけたし、一ヶ月で三キロやせて学校も休んだ。


 でも、あれは三年生になった後の出来事だったはずだ。私がお祖母ちゃんの死でてんやわんやしているうちに噂が流れ、しかもクラス替えをして私が侑生と昴夜と別のクラスになっていた。だから余計に悪質だったのだが……バレンタインに私が昴夜にチョコレートを渡したことで、過去が少し変わってしまったらしい。


 逆に言えば、胡桃にこうして罠に嵌められることは変わらない過去だったようだ。過去で使われた写真は修学旅行のもの――侑生と喧嘩して部屋を飛び出した私と、そんな私を抱きしめる昴夜の姿を撮ったものだった。あの事件がなくなり、被写対象がなくなった結果、バレンタインの写真が撮られることで帳尻が合ったらしい。


 そんな呑気なことを考えながら、一時間目が終わるチャイムが鳴った瞬間――バァンッと激しい打撃音が聞こえて跳び上がった。


 おそるおそる隣を見ると、侑生が机に教科書を叩きつけたところだった。


「この噂、なに」


 私が怒られているわけではない、それが分かっていてもゴクリと喉を鳴らしてしまう。そのくらいの恐ろしさがあった。


「俺と英凜がヤッてたんだって」


 昴夜も頭の後ろで腕を組み、足を投げ出す。授業中だったはずなのにいつの間に噂の内容を知ったのか、なんて疑問は馬鹿げていた。授業中の二人は、ずっと携帯電話を見ていたのだろう。


 でも、そんな風に騒ぎにして、私を庇わなくてもいい。過去の私は少なからず傷ついたとはいえ、いまの私にとっては二度目の経験なのだ。いまさらショックを受けることなどなにもない。


「二人とも落ち着いて。大した噂じゃないから」

「大したことあんだろ。侮辱だぞこんなん」


 慌てて制しても、侑生は私さえ睨む勢いだ。


「英凜がどうでもいいっつっても俺らにはどうでもよくない。なんでこんなことになってんだよ」

「俺に訊かれても知らないもん。あのさー、しゅん


 みんなの視線が一斉に一人に注がれる。白羽の矢が立てられた荒神くんが、ゲッと顔をひきつらせた。


「誰から聞いたの、この噂」

「……俺が聞いたのは東高のヤツだけど、ソイツは、灰桜高校うちの裏掲示板見たヤツから聞いたって」声は上擦っていて、らしくない説明口調だった。


 いわゆる学校裏サイトというヤツだ。現代も生き残っているかは知らないけれど、全員匿名で発信内容が悪口に限定されていること以外は現代のSNSと大差ないと思っている。その内容が苛烈化しやすく、こぞって特定個人を攻撃しやすいこと然り。


「で、その裏掲示板になんて書いてあったんだよ」


 侑生の声は尋問よりも冷ややかだ。お陰で荒神くんの視線は泳いでいる。


 ……これは、二人が授業中に荒神くんも巻き込んで示し合わせたのでは? そうに違いない。荒神くんは二人と仲が良いとはいえ、二人をなだめたりいさめたりする役割を負っていることも多かった。親友同士の二人とはちょっと立場が違ったのだ。


「……三国が……一年の頃に昴夜とラブホ行ってたみたいな話」

「あーうん、行った行った」


 昴夜が頷き、教室は再び騒然としたけれど。


美人局つつもたせのヤツだよね?」


 それが、別のどよめきに変わる。


「……美人局って、なんだ?」


 おそるおそる、陽菜がやってきた。今朝の態度からして、陽菜も噂を信じてしまっていることは間違いなかった。


「一年のとき、そこの馬鹿が美人局にひっかかったんだよ」


 言いながら、侑生が荒神くんの隣を指差す。中津なかつくんが「あのときは本当にスミマセンでした」とぺこぺこ頭を下げた。きっと侑生達は彼にも根回ししたのだろう。


「ナンパしてきた女とラブホ行ったら、自称彼氏が出てきて、うちの彼女を連れ込んでなにしてやがるって、恐喝されたんだよ。十万だったな」

「十万!?」


 ひぇーっ、なんて悲鳴つきのオウム返しは、他のみんなが事の重大さと真実性を信じるのにうってつけだった。侑生も昴夜も、陽菜には協力を頼んでいなさそうなのに、完璧なリアクションだ。


「それが美人局だって分かったから、三国が話つけに行ってやったんだよ。金は女に持ってこさせろって言われてたしな。そのとき、ラブホがどういうもんか分かんねーと勝てる口喧嘩も勝てねーつって、俺と昴夜が連れて行ったんだよ」

「あー……確かに英凜、雲雀に教えてもらわないとラブホなんて知らないよな……」

「馬鹿にしないでよ、そのくらい知ってる」


 口を尖らせれば、じろりとでも聞こえてきそうな様子で侑生と昴夜が私を見た。……いまは知っている、いまは。


「……そういうわけで、裏掲示板に載ってんのはそのときの写真だって話ね」コホンと昴夜が咳払いした。


「そっかあー!」


 そこで陽菜が大声で頷いた。その顔には明らかに安堵が広がっていた。


「じゃ、その写真誤解だったんだ! 実はさ、あたしもその写真見ちゃって、てか写真見たからうわマジかもって思ってどうしよってなってたんだけど。胡桃ちゃんも誤解したんだな」

「誤解?」


 侑生が鼻で笑い、その笑顔は凍りつく。


「……誤解だろ?」

「胡桃はさぁ、美人局のせいで俺と英凜がラブホ行ったって知ってんだよね」

「え……」

「そのとき、侑生が女装したもんねー」

「マジ!?」陽菜が叫び、侑生のこめかみに青筋が浮かんだ。


「女に金持ってこさせろって言われてたけど、英凜だけ行かせたら危ないから。侑生に女装させよって話になって」

「めっちゃ似合うだろ絶対!」

「黙れよ」

「でも英凜が化粧品持ってないから、胡桃に借りたし胡桃に化粧させた」

「絶対めちゃくちゃ美人になったよな!? 写真ないのか!?」

「いまそういう話はしてねえんだよ!」


 本気で怒鳴る侑生の後ろで、私は額を押さえる。侑生は女顔なのを気にしていた。


「いましてんのは、だから牧落が写真を見てするはずねーってことだよ。アイツは知ってんだからな」

「あ、そっか、そういうことか」


 陽菜の反応で話が脱線したけれど、お陰でわざとらしくない程度に事情を説明することができていた。


 胡桃は今朝、私が昴夜と一緒にラブホに行った写真もあると言った。でも胡桃は、その写真が美人局を罠に嵌めるためのものだと知っていたのだ。


 噂のいびつさが、じわじわと教室内で広がっていく。


「……んで、その裏掲示板ってやつを見せろよ」

「あ、はい、どうぞ」まるで舎弟のように、荒神くんは両手で携帯電話を差し出した。侑生が勝手に操作するのを、私と昴夜はそれぞれ後ろから覗き込む。


 真っ黒い背景に白い文字で「ハイコー ウラ掲示板」と書いてある。その下に、荒神くんに教えられたとおりのパスワードを入力すると、同じデザインで今度は文字ばかりの画面が出てきた。何度かページを戻ると、話題のラブホの写真が出てくる。その下には、ご丁寧に『優等生さん一年生、ラブホにて』というコメントまで書いてあった。


「うわー、俺幼い! 懐かしい」

「なに言ってんだ?」

「はい、すみません」


 気持ちは分かる。一年生の昴夜は、まだ背が伸びていないし、あまりハーフっぽさも目立っていないし、いまよりさらに可愛いのだ。私も頬を緩めてしまいそうになり、コホンと咳ばらいをして誤魔化した。


「えーと……『彼氏の親友とヤってるとかヤバすぎでしょ』『自分が一番じゃないと気に入らない人っているよね』『1年の時点でサクッと優等生食ってる桜〇もすごい』『桜〇が意外と手早いのは有名』……俺マジで悪者扱いなんだけど」

「それはどうでもいいんだけど」

「よくないよ?」

「この掲示板だけでそんな噂広まるか?」


 ゴクリと、誰かが唾を呑みこむ音がした。


「まー広まんないよね。メールでも回ってたんじゃないの、ちなみに池田は?」

「あ、うん、あたしは……胡桃ちゃんから直接聞いた」

「は? なんて?」


 鋭い目が陽菜を睨む。どうどう、とその肩を叩いて宥めた。


「えー……その、裏掲示板見に行ったら、ラブホの写真があったんだって言われて……あと、英凜と桜井が抱き合ってる写真が送られてきて、どう思う、っていうメール」


 どう思う――胡桃は、自分からは言わなかったのだ、“これってそういうことしてたってことだよね”“浮気してたってことだよね”と。


「抱き合ってんのはあれだけど、ラブホはおかしくねと思って……ちょっとこれはマズいんじゃないかなって思って、もし本当だったらヤバイから、英凜に聞いたほうがいいし、なんならあたしから英凜に聞くよって言ったんだけど。胡桃ちゃんから、巻き込みたくないからいいよって言われて……」

「三国に連絡されたら嘘がバレるからだろ。お為ごかししやがって、何言ってんだ」


 侑生の舌打ちが響き渡る。まるで自分がされたかのように、陽菜が震えあがった。


「でもあたしは胡桃ちゃんから直接聞いて……それが最初かな、『これ見た?』って他にもメールきたけど……」

「黙って噂信じてる連中は、誰に何聞いたんだよ」


 苛立った声に、誰もがたじろいだ。自分が噂を広める一因となっていたのだと、侑生にバレませんように――そんな内心が聞こえるようだった。


「……胡桃ちゃんのさ、ブログだよね」


 そんな中で、誰かが小さく呟いた。そうだった、と他の子も頷く。


「ブログ?」


 昴夜が眉を顰めると「あの一部のうるせー連中がおもんねー話を連ねてるヤツか」と侑生が呆れた声で相槌を打った。


 きっといまはすたれた文化なのだろうけれど、この頃は、友達が見るのを前提に日常の出来事をブログにしている子達がいた。いまほどSNSが流行っていなかったから、その代わりだろう。


 それを、胡桃は使っていた。


「……そのブログを使って言い触らしたってことか」

「胡桃のブログかあー。アイツ、ああ見えてカースト上位だもんね、みんな見てんのかな」


 昴夜が自分の携帯電話を取りだし、胡桃のブログを開く。白い背景の上下をパステルピンクの斜線が挟み、同じくパステルピンクとパステルブルーのハートが控えめにあしらわれていて、文字は黒に近い茶色……シンプルだけど少女らしいデザインで、今見てみるといかにも胡桃らしく、そして時代を感じさせるページだった。


 胡桃はかなり頻繁にブログを書いていたけれど、直近の日付は<2007/01/30>で終わっていた。


「……最近の日付のはない」

「……ちょっと、借りていい?」


 昴夜から携帯電話を受け取り、適当なブログ記事をクリックして、URLの文字列に規則性があることを発見する。そのURLの一部を手で修正して「ページが存在しません」と表示された後、もう一度URLを修正すると。


<2007/03/13 20:23


 友達が裏掲示板に載ってるっていうから見に行ったらこんなのがあった。完全に彼氏と友達……。こっそり浮気してたみたい。わざわざ当日からズラしてバレンタイン渡してるし、今までもこうやって土日に会ってたんだろうな。彼氏のことも友達のことも信じてた私が馬鹿みたい。。>


「なんだこの気持ち悪い文章。悲劇のヒロインごっこは一人でやれよ」


 現れたブログを一読し、侑生は吐き気でもしそうな声音で呟いた。どれどれ、と言いながら陽菜も画面を覗き込む。


「うわ本当だ……。てか英凜、どうやってこの記事出したんだよ、削除されてたんだろ?」

「削除はされてなかったよ」


 ブログのURLは、サーバーのドメイン後の文字列が規則的だった。その内訳は、胡桃が独自に設定してるユーザーID、”blog”という機能名、通し番号らしき数字、そして日付。ということは、最後の二ヶ所を変更すれば、特定の日のブログを出すことができる。特に、最新のブログなら直近の通し番号に1~2を足せばいいし、噂が広まった直後のいま、ブログが書かれた日付を特定するのは容易かった。


「もちろん、URLを直接入力してもアクセスできない可能性はあったけど、古いだけあって杜撰ずさんなのかな。ブログのトップページから削除するだけで、記事を非公開に――外部から表示できない状態にはできなかったみたい」

「すげーっ、探偵みたい!」

「……よく知ってんな、そんなこと」

「一応、専売特許だからね」


 訴訟を扱う弁護士にとって、証拠収集能力も必要な能力のひとつだ。さすがの侑生も首を傾げていたけれど、ここでは詳しい説明はできない。


「それより、結論出たよね」


 ひょいと、昴夜が私の手から携帯電話を取り返した。


「発端は、裏掲示板。でも噂を広めたのは胡桃」


 え、胡桃ちゃんが――? そんな動揺が、波紋のように広がる。


 当然といえば当然だった。胡桃は、悪い子じゃない。明るくて可愛くて、負けず嫌いなところもあるかもしれないけれど、昴夜が「カースト上位」と評したように、男女問わず人気者だった。


 その胡桃が、私をおとしめる噂を広めるなんてことがあるだろうか? みんなそう思っているのだろう。


「……でも桜井、英凜と抱き合ってたのは本当なんだろ?」


 おそるおそる、陽菜が口を挟んだ。


「お前らが仲良いのはそりゃ……知ってるけど。彼氏がそういうことしてたら、怒るのは分かるってか……」

「んでも俺、バレンタインには胡桃と別れてたよ」

「え?」

「えっ」


 驚いたのは陽菜だけではない。私も、それは聞いていなかった。


 確かに、過去でも二人がバレンタインに破局したとは聞いた。でも今回は何も言われていないし、それこそいまの昴夜が私に何も言わない理由がないし、てっきりその過去もズレたのだと思っていた。


「マジかよ……んでも、この、抱き合ってたのって……」

「バレンタインの後だよ、土曜だったもん」


 だから浮気でもなんでもないんだ、そう言いたげな昴夜に、陽菜が釈然としないながらも頷こうとしたとき。


「それと、お前が英凜を抱きしめるのとは別だろ」


 ……思わぬ伏兵が、昴夜を刺す。


 しんと、水を打ったように教室内が静まり返った。それは打ち合わせになかったのだろうか、昴夜も口を閉じて、黙って侑生を見た。侑生は、答えを待つように椅子の背に腕を置いて振り返る。


「牧落との関係で浮気じゃないのは分かった。で? お前は、なんで英凜を抱きしめたの」


 なぜ。その理由を、昴夜はなんて説明するのか。ドクリと、私の胸は高鳴った。


「……可愛かったから。つい」


 みんな黙ったままだった。侑生も何も返事をせず、じっと昴夜を見上げ、静かに立ち上がる。


 そして、昴夜の横面を殴り飛ばした。


 近くの椅子や机を薙ぎ倒しながら、昴夜は床に転がった。私は絶句したし、近くに座っていた子達も悲鳴を上げながら飛びのいた。廊下の扉も開いて「なんだ、どうした!?」と先生が飛び込んでくる。この噂は先生達にも知れ渡っていて、その真偽のほどはと、教室内の会話に耳を澄ませていたのだろう。もう、とっくに二時間目は始まっていた。


「人の彼女に手出すなよ」


 冷え冷えとした声は、とても演技には見えなかった。


「……ごめん」


 昴夜は、頬を手のひらで押さえて俯いていて、その表情は分からなかった。


 大丈夫? そう駆け寄りたかったけれど、それをできる立場ではない。ぐっと拳を握りしめて立ち尽くしていると、先生が「雲雀、桜井……」と参ったような声で二人を呼んだ。


「ちょっと……、廊下に出なさい」


 昴夜が黙って立ち上がり、侑生が教室を横切るのに続いた。


 二人が出て行き扉が閉められた後、そっと陽菜が歩み寄ってきた。


「……英凜、その……ごめんな、英凜のこと、疑って」

「……ううん。疑われるような写真があったのは事実だから」


 他の子達は「じゃあれガセだったんだ」「牧落さんが勘違いしてたってこと?」「いやそうじゃなくて、わざと嘘ついたって話だろ……」と、この噂を終息させていく――きっと、侑生と昴夜の目論見どおりに。


 侑生が昴夜を殴ったのも、“昴夜が一方的にしたことだ”と印象付けるためだったのだろうか。廊下を見つめても、その答えは分からなかった。


 その日、丸一日、二人は口をきかなかった。いつも兄弟かと思うほど仲良い二人がそれなので、三月だというのに、教室はまるでシベリアのように凍えた空気に包まれていた。


 放課後、私は一人で胡桃のクラスへ向かった。侑生には「どこ行くの」と怪訝な顔をされてしまったけれど、侑生がくると胡桃達が勢いづきそうだったので「先生に呼ばれてる」と誤魔化した。


 私が胡桃のクラスに立ち入った途端、ザッと一斉にクラス中の視線が向けられた。他人の注目を集めるのは大人になっても慣れていなくて、少し緊張しながら教室内をつっきり、胡桃の前に立つ。すぐに、胡桃を庇うようにその友達がさささっと集まってきたし、胡桃は親の仇のごとく私を睨み付けた。


「……よく、ここまでできるよね」

「何が?」


 どちらかといわずとも私のセリフだった。


「侑生と昴夜を使って、あたしを貶めたんでしょ。全部知ってるんだから、五組でなに話してたのか」


 二人を利用したつもりはなかったのだけれど、庇ってもらっておきながら関係ないですと言うつもりはなかった。


 それに、正直、十七歳の胡桃を相手にする気にはなれなかった。まったく同じことが過去に起こっているし、そのときにも侑生と昴夜が私を庇ってくれている。ここであえてもう一度、胡桃を弾劾する意味はない。


 それでも、別の意味で、胡桃には言っておきたいことがあった。


「安心して。裏掲示板に写真を載せたのが胡桃だとは、話してないから」

「は?」


 静かに告げると、逆ギレ気味の返答がきた。


 誰が最初に裏掲示板に書き込みをしたのか――その疑問は解消されないまま、侑生が昴夜を殴って、話は有耶無耶になってしまった。でも私は、それが胡桃の仕業だと知っている。過去もそうだったし、今回も証拠があった。


 カチカチと、携帯電話を操作する。スマホと違ってスクショ機能はなく、画面メモという形でブラウザをオフラインで閲覧することができるだけだった。でもそれで充分だと、胡桃に見せる。


「裏掲示板の最初の投稿は、私と昴夜が抱き合ってる写真から始まるでしょ。この投稿日時は十三日の午後八時七分、それから、胡桃がブログを書いたのが同じ日の午後八時二十三分。これがどういう意味か、分からないはずないよね?」

「は、全然分かんないんだけど


「十六分しかないの」


 裏掲示板に写真が載ってから、胡桃がブログを書くまでの時間が、たった十六分しかない。そもそも十六分というのは最大時間――“裏掲示板に投稿されたのを即座に見た場合”だ。ツイッターのタイムラインじゃあるまいし、じっと裏掲示板に張り付いて新規投稿を待っているなんて考えにくい。


「裏掲示板の投稿後たった十六分で、写真の載ったブログを書くなんて、誰が聞いたって不自然だと考えるに決まってる。胡桃が載せたんでしょう?」

「は、なにそれ? 言っとくけど、友達が裏掲示板に載ってるって連絡くれたんだから」

「その友達と共謀がないって――口裏合わせをしてないって、どうして言えるの? その友達は胡桃の友達で、胡桃に味方して当たり前なのに」


 うっかり法律用語を口にしそうになってしまった。まるで自分が弁護士として胡桃と話しているかのように。


 胡桃のしたことをまとめると、こうだ。まず裏掲示板に匿名で私と昴夜の写真を投稿し、同じ学校の人達に「三国と桜井が浮気している」と広める。あたかも自分もその噂を耳にしたかのように、ブログでは「裏掲示板に写真があった」と書く。裏掲示板はともかく、胡桃のブログは、胡桃と同じクラスの子達も利用しているサービスなので、必然たくさんの友達に見てもらえる。あとは友達が勝手に噂を広めてくれるという寸法だ。実際、胡桃のブログには胡桃を擁護し、私を非難するコメントが連なっている。


「それに、胡桃はブログで、私と昴夜が土日に会ってたって書いてたけど、裏掲示板には、あの写真がいつのものかなんてどこにも書いてないの。写真を撮った人しか、あれがいつなのかは分からない。……しかも、この角度、昴夜の家の向かい側から撮ったのが丸分かりでしょう?」


 きっと、何も考えずに「浮気の証拠掴んだり」と写真を撮り、裏掲示板とブログに載せ、後になって自分しか撮ることのできない写真だと気付いて、慌てて投稿を下書きに戻したのだろう。裏掲示板の投稿は削除できなかったようだけれど。


「別の犯人を仕立て上げたいのなら、詰めが甘いよ」

「……なにそれ」


 一連の証拠を見せて携帯電話を閉じたとき、胡桃は唇を戦慄わななかせるほど怒っていた。


「逆ギレするなんてサイテー! 大体あたし、そのブログ記事、英凜が可哀想だと思って三十分で削除したのに、なんでそんなの持ってるの!?」

「ねえ、胡桃、気を付けて。ブログについてるコメントにも、全部日時が入ってる――いつブログを非公開処理したかなんて、ログが残ってるの」


 最後のコメントが書かれたのは、九時五十七分――胡桃がブログを公開してから、優に一時間は経過している。


 やはり、胡桃はそうなのだ。どこに何の証拠が残っているかなんて、考えもしない。削除すれば大丈夫、見えないようにすれば大丈夫、そう軽信して、平気で嘘をつく。


 つい、溜息をつきながら、少し長い瞬きをする――十四年後のことを思い出した。


 弁護士になって数年、私のもとにはある依頼が舞い込んだ。それは、SNSでの名誉毀損に基づく損害賠償請求だった。


 現代では、数年前から発信者情報開示請求という事件が流行っている。そう言うと分からない人もいるかもしれないけれど、“SNSで他人を中傷した人を突き止めるもの”と言えば分かるだろう。私が扱った事件はその亜種で、私の依頼者はいわゆる絵師で、他の絵師に名誉を毀損されたと泣いていた。


 「私の大切な作品がパクられました」――相手方は画像付きでそう投稿したそうだ。もちろん事実ではなかった。しかし誰も彼もが、その投稿を信じ、私の依頼者を中傷し、炎上した。私の依頼者は、次の日の朝、鳴りやまぬ通知を見るまで炎上に気付かず、しかも確認したとき、既に相手方の投稿は削除されていた、代わりに「、削除しました。みなさん、どうぞ怒りを納めてください。私は大丈夫です」という投稿を残して――そして相手方のアカウントも消えた。


 アカウントを消したから大丈夫だと、軽信したのだろう。しかし、相手方の、依頼者を糾弾するために、当初の投稿をスクショして残していた。それだけではない、数々の同情のコメントは残ったままだった。


 それを頼りに調査し、結果、相手方の本名は判明した――「牧落胡桃」だと。


 現代の私は「牧落胡桃」宛てに、「弁護士三国英凜」として損害賠償を請求するむねの内容証明郵便を発し、その返答を待っている最中だった。


 胡桃は、十四年後も、全く同じことをしてしまうのだ。高校時代にブログで私を非難したように、大人になった後はSNSで他者を中傷して。


「……私は昴夜に対して曖昧な態度を取ったし、黙って抱きしめられたのは否定しない。ごめんなさい。だから、胡桃が私を嫌いになるのは当然といえばそうだし、みんなと一緒になって悪口を言いたいのも仕方がないと思う」

「あ、そ、じゃ認めるんだ、昴夜と浮気したって!」


 やっぱり浮気してたんだ、と周囲の子達が賛同した。浮気の定義から始めてほしい、というのは最初にした話なので、もう一度繰り返す気にはなれなかった。


「想像も含めて、悪口を言うこと自体をとやかく言うつもりはないの。嫌いな人がいるのは仕方がないことだから。誰かの言動がどこか鼻について、癪にさわって、イヤになる、そんなのはどちらかが悪者でなくとも起こることだと思う」


 ちなみに、その依頼者は、過去にSNSで有名私大卒だと自慢話をしていた。一方で、高校教師の親を持つ胡桃は、地方の公立大学に進学したことに、コンプレックスを抱いていた。


「でも、それを不特定多数の前でするのは間違ってる。特に、ネットなんてすぐに火がついて騒ぎになるんだから、なおさら。今回は私だからいいけれど、これが知らない相手だったら? 全く知らない他人に一斉に攻撃されるとどれだけ怖いことか、想像できるでしょう?」


 死にたくなった、とその依頼者は言った。私はただ好きで絵を描いていただけなのに、仕事の傍ら、見てくれる人の反応を楽しみにしていた趣味だったのに、もう手が震えて絵が描けなくなった、と。


現代いまはまだ、そんなに大きな騒ぎにはならない。でも、匿名だったら何をしてもバレないなんて甘い時代は終わるの。むしろ、ネットにはあらゆる証拠が残る――デジタルタトゥーって言葉ができてるくらい。あなたの将来のためにも、こういうことは二度としないほうがいい」


 これをいまの胡桃に話して、未来の胡桃に通じるかは分からない。それでも、十数年後の胡桃がこの話を思い出す可能性はある。


 胡桃も、私と同じように、自分のしたことを後悔するだろうか。今朝、この噂を聞いて以来、ずっとそんなことを考えていた。


「……何の話してるの?」


 もちろん、目の前の胡桃は苛立った顔で、口元を歪めるばかりだ。


「英凜が何言ってんのか、全然分かんないっていうか、本当に話通じてないんだ? もういい、二度と話しかけないで」

「……ちゃんと、忠告したからね」

「うるっさいな! なんで英凜が偉そうにあたしに説教してんの!?」


 胡桃は両手を机に叩きつけ「英凜はさあ、最初からそうだよね」とまくしたてる。


「勉強できて当たり前、守ってもらって当たり前、大事にしてもらって当たり前! そういうところ、本当に直しなよ? 自慢話だっていい加減にしてよ、聞く側がうんざりしてるって分からないわけ?」

「いまはそんな話はしてないでしょ」

「は、じゃあ何の話してんの? 正直に謝れば許すつもりだったのに、なんでたったそれだけのことが言えないの? 他人に迷惑かけるなって親に教わらなかったの? あたしはいつも言われて育ったけど!」


 ぱちくりと目を瞬かせてしまったのは、そのセリフに覚えがあったからだ。未来の胡桃が私の依頼者を中傷したメッセージには「正直に謝罪してくだされば許すつもりだったのに、たったそれだけのことを言ってくださらないのですね。しかしこれ以上、私はこの件についてあなたを晒し上げるつもりはありません。他人に迷惑をかけるなと言われて育ちましたので」とあった。証拠として集めたからよく覚えている。


 本当に、胡桃は、過去でも未来でも、まったく変わっていないのだ。


 私が黙ったのを論破と勘違いしたのか、胡桃は勢いづいた。


「そうやって、自分の悪いところを認められないで、侑生のことも、あたしのことも傷つけて、それなのに平然としてるなんて人として有り得ない! 英凜なんて――」

「おい、牧落」


 ハッと振り向くと、開きっぱなしの扉の向こう側に、苛立ちを隠しもしない侑生が立っていた。


「英凜が黙ってんのをいいことに、ぎゃあぎゃあうるせぇヤツだな」

「侑生、私は大丈夫だから――」

「言いたいことがあんだよ、俺も」


 大股でやってきた侑生は、さっき私がされたことの仕返しだと言わんばかりに、その手を机に叩きつけた。


「お前、今朝、英凜が昴夜に近付くために自分と仲良くしてたって言いにきたらしいな。お前痴呆か? 最初にうちのクラスにきたのはお前だし、昴夜と付き合ってんのを理由にうちのクラスに入り浸ってたのもお前だろ。英凜がいつ、お前にすりよった?」

「は、何言って」

「英凜が昴夜の名前呼んでるだの仲良くしすぎだのってのもそうだ。お前はどうなんだよ、俺はお前に名前呼んでいいなんて言った覚えはないし、誕プレだって押し売りレベルに迷惑だ。第一、今まで用意したことなかったのに、俺が英凜と付き合った途端にご丁寧に手作りを渡してくんだもんな。一体何のアピールだ?」


 胡桃の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。戦慄わななく唇から「なにそれ、そんなの全然、なんでもない」と言葉が零れたけれど、まとまりがなさすぎて文章になっていなかった。


「大体、お前は浮気だなんだって喚いてるけど、昴夜が勝手に英凜に手出してんだろ。責めるならテメェの元カレを責めろ」


 胡桃と昴夜が別れたことは、まだ広まっていなかったのだろう。周囲の子が「え、胡桃、桜井くんと――」と困惑を口走った。


「で、俺はクリスマスに英凜と別れてる」


 えっ、と私は声を上げそうになってしまい、慌てて口を噤んだ。


「お生憎、お前がどんだけヒデェ噂流そうが、俺と英凜には関係ねえよ。……昴夜の件だって一ミリも関係ない、受験に集中したいから別れたいって俺が頼んだし、広めないでくれとも言った。勝手な想像で暴走すんのは好きにすりゃいいけど、他人巻き込んでんじゃねーよ」


 そう締め括った侑生は、少し唖然としたままの私を振り向き「帰ろう、もうコイツと話すことねーだろ」と廊下を示し、私の返事も待たずに歩き出した。侑生が教室を出て、私がその背中を追いかける頃になっても、胡桃とその友達の話し声は聞こえてこなかった。


「……侑生」


 少し前を歩く侑生に、駆け足で追いついた。侑生は眉間に深いしわを刻んでいる。


「先生に呼ばれてんじゃなかったのかよ」

「……ちょっと、未来のことも関係してたから、侑生に言うのもなって」

「アイツ、未来でもネットで他人の中傷すんの?」


 私がタイムリープしているという前提知識があれば、あの会話を聞くだけで充分想像のつくことだろう。とはいえ、弁護士の守秘義務があるので頷くことはできない。……趣旨に鑑みれば、過去にも適用されるはずだし。


 ふん、と侑生は鼻を鳴らした。


「やりかねねーな。匿名ならなにやってもバレねーって高括ってる、典型的なクソ野郎だぞ、牧落は」

「……それより、さっき話してたこと」


 クリスマスには別れた――侑生は、冷ややかに平然と言ってのけたけれど。


「……ごめんなさい、あんなこと言わせて」

「……別れてたって話?」

「……そう」

「別に、制約さえなければ、夏休みには終わってたことだし。……そうだな、そう考えると」


 五組の教室の前まできたとき、扉を開ける前に、侑生は立ち止まった。


「今回の件、俺のせいでもあるな」

「そんなことない!」


 思ったより大きい声が出てしまって、自分でもびっくりした。侑生も目を丸くして振り返る。


「……別れられなかったのは俺側の事情だろ」

「確かに試みようとしたのは事実だって話したけど――」


 私は“侑生と別れることができればよかった”なんて思っていない。


 でも、それを口にしてどうなる。


「……これは、過去でも起こってたことで、そのとき別れなかったのは、私の選択でもあったから」


 慌てて言葉を変える。侑生は「そうは言ってたけどな」と肩を竦めただけで、追及してくることはなかった。


 私達の話し声が聞こえたのか、カラカラと教室の窓が開いて「おかえりー」と昴夜が顔を出した。その頬は、いまは痛々しく赤くなっていた。


「結局胡桃に会いに行ってたの? ごめんねー、うちの幼馴染がヒステリー起こしてて」

「まったくだ。それにしても、ざまーみろだな」

「なにが?」

「お前の顔」

「あのね、これ本当にマジで痛かったからね!」


 頬に手を添え、昴夜はわざとらしく「いたいよう」と呻いた。教室内には、もう誰も残っていなかった。


「……殴ったの、演技じゃ……ないんだよね?」

「いやちょっと殴っとくかって話はしてたんだよ。んでもそんな本気で殴るなんてことになってなかったから。もう絶対侑生に顔殴らせない」

「もう殴る理由もねーだろ」

「分かんないよ、また英凜に手出すかもよ」

「だとして、俺には関係ねーよ。別れたから」

「え?」

「え……」


 呆気にとられた昴夜の前で、私も困惑を向けた。あれは、その場凌ぎの方便じゃないの?


 侑生はしれっと繰り返す。


「別れた、俺達」

「……胡桃になんか言われたの?」

「いや、もともと今日までに別れようって決めてた。でも牧落にはクリスマスってことにしたから、そういうことにしといて」


 昴夜の目が私と侑生を交互に見る。侑生がどういうつもりなのかは分からないけれど、昴夜の前でわざわざ断言するということは、そういうことなのだ。


「だから、お前が英凜に何しようが、俺が怒る権利はもうねーよ。好きにしな」


 次の返事を待たず、侑生は「んじゃ、俺帰るから」とカバンを持って踵を返す。慌てて振り向いて視線で追いかけて、でも待ってと言うより追いかけるべきだと思って、私もカバンを掴んだ。


「……ごめん昴夜」


 昴夜は、居心地の悪そうな顔をしたままだった。


「私、侑生と帰るね。また、来週学校で」

「……ん」


 もしかしたら、ここで待っておけば、昴夜が告白してくれるかもしれない。侑生はそのお膳立てをしてくれたのかもしれない。それを考えることができてもなお、侑生を追いかけずにはいられなかった。


 教室を出ると、侑生はもう廊下にいなかった。走って下駄箱まで行って、校舎の外をたらたらと歩く後ろ姿を見つける。


「侑生!」


 背中に向けて叫ぶと、ちゃんと立ち止まって振り向いてくれた。


「一緒に帰ろ。……さすがに、こんな終わり方なんてない」

「確かに、牧落との話の流れで終わったってのは一生の汚点だな」


 それこそ冗談っぽく答えながら、侑生は笑みを浮かべた。私がその隣に並ぶと、歩き出す。


「でも今日、ホワイトデーだし。ちょうどよかったろ」

「……確かにそう決めたけど、でも、クリスマスに別れてたことにするっていうのは」

「別に、英凜のためじゃない。この噂の後に別れたってなると、噂のせいで別れたんだって言い出す馬鹿がいてもおかしくないからな。余計な面倒事を避けられるならそのほうがいい。その意味で、やっぱり修学旅行で別れとくのが一番良かったんだろうけど、それはあんま考えないようにしてる」

「……対外的にはいくらでも誤魔化せるから?」

「じゃなくて、それって結果論だから」


 私にとって今回のことは既知の過去だったけれど、侑生にとってはそうではなかった。だから、私と違って、あの時点で別れるほうがベターであるなど、知り得ないものだ。


「後付けで正しいだの間違ってるだの決めるの、好きじゃないんだよな。結果見りゃ、誰だってどうとでもいえるだろ。だから、修学旅行で別れとけば迷惑かけなかったなって……思わなくはないけど、まああの時点じゃ無理だったんだから仕方ない」


 苦笑いを浮かべる侑生の横顔を見ていて、年明けに見ていたような影が落ちていないことに気が付いた。


「それに、昴夜の顔、ぶん殴る口実もできたしな」

「あ、あれやっぱり本気で殴って……!」

「そのくらいいだろ、アイツ、英凜に手出し過ぎだから」


 きっと侑生は、去年の枇杷の季節に私がキスされたことも言っているのだと思ったけれど、この侑生はそれを知り得ないのだった。この侑生には気付かれないままで過ごせますように、とこっそり念じた。


「それに、英凜がタイムリープしてくるくらい泣かせてるみたいだし。あそこまで言えば告白くらいするかと思ったんだけどな」

「……やっぱり、未来は変わらないんだろうね」


 結局私と侑生の別れがホワイトデーになったように。


「英凜から抱き着いたりキスしたりしたら、なんか変わるんじゃないの」

「キッ……、いや、どうなんだろう……」

「半分冗談。……英凜がしたいことも、そういうことじゃないわけだし」


 どういうことだろう? 首を傾げると、侑生も首を傾げた。


「別に、いまの昴夜と付き合いたいわけじゃなくて、未来を変えるために告白したかったんだろ。昴夜がいなくなる未来がやってこないようにって」


 言われていることの意味が分からず、思わず立ち止まってしまった。侑生も一緒に足を止めてくれる。


「……どういう」

「……なんだ、自覚なかったの」


 苦笑いを浮かべながら、侑生は小首を傾げた。


「修学旅行のとき、英凜は、昴夜を好きって言っただろ。……もちろん、いまでも好きなのかもしれないけど……見てて、懺悔とか罪悪とか、そんな感情のほうが強いのかなと思ってた。俺に向ける目が変わったみたいに、昴夜に向ける目も、タイムリープ前と後で全然違ったから」


 侑生に言われたことがあった。好きな人の好きな相手くらい、見れば分かる、と。私が昴夜を見る目を見ていれば、私が昴夜に向けている感情が分かると。


 その感情が、いつの間にか変わっていた? 自覚がなかったせいで、呆然と立ち尽くした。


「……俺が言うことじゃないのかもしれないけど、英凜、そんなに、過去に縛られなくてもいいよ」

「……でも、私があの日、間違えたんだよ」


 返事をする声がかすれていた。


「あの日……私が、昴夜に、言わなきゃいけないことを言わなくて……」

「それを言えなかったせいで、未来が狂うなんて分かるわけないだろ?」


 伸びてきた手が、軽く私の頭を撫でた。よく知っている、温かくて大きな手だ。


「例えば、牧落がやったことなんて、大騒ぎになるのが目に見えてる――英凜を傷つけたくってやったのが丸わかりだ。でも昴夜のことは……言ってしまえば、俺がそもそも英凜に告ったのが間違いだった可能性もある」

「……間違いなわけないでしょ」

「でも、俺が告らなければ、多分昴夜が英凜に告ってた。そしたら未来はまるっと変わってた。俺だって、英凜と付き合ったら昴夜を失うなんて言われたら、まあ告んねえから。その意味で“間違い”だったんだと思う」


 気持ち悪いから昴夜に言うなよ、と侑生は苦笑しながら人差し指を立てた。


「でも、マジで結果論だろ。勉強みたいに、解説見て答え合わせしてやり直して、次に生かせるもんばっかじゃねーし、満点とんなきゃいけないテストが待ってるわけでもない。その時々でちゃんと考えてやったことなんだから、後から間違ってたなんて否定しなくていいよ」


 私にだけ向けられる優しい目が、柔らかく細められる。


「英凜のいう過去でも、英凜は誰かを傷つけようとしたわけじゃないだろ。俺と付き合ったから言えなかった、昴夜を心配させたくなかったから言えなかった……歯車ひとつ狂えば違う未来が待ってて、英凜のやったことだって間違いじゃなくなってた。その程度のことなんだから、そんなに自分を責めなくていいよ」


 ずっと、昴夜のことを好きだった。今だって、会えば懐かしさも愛おしさもこみ上げる。


 それなのに、それが純粋な恋心でなく、後悔のつかえとなっていたのは、いつからだったのか。


 それを見透かした言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。人目も憚らず泣きじゃくる私に、侑生は狼狽することはなかった。ただ、まるで道の端に寄せるためのように軽く肩を抱いてくれた。


「タイムリープしてすぐ、俺に会ったとき、英凜は俺に謝ったよな。……でも、謝ることなんて何もなかったんだよ。俺は、英凜と付き合えて幸せだったんだから」

「ずっと、昴夜のことを、言えなかったのに?」

「……俺は多分、ずっと寂しかったんだけど。英凜と付き合い始めてから、家に帰って、ひとりで、なんだかなあって虚ろな気持ちになることがなくなった。英凜が俺を好きじゃないって分かっても、それと同じくらい俺を大事にしようってしてくれるだけで、それだけでも充分で、寂しくなんかなかった。……いや、もしかしたら、昴夜を好きでも絶対に俺を捨てようとしない英凜に、救われてた」


 本当に? 昴夜が言ったとおり、本当に、侑生は寂しくなかった?  あの頃の私は、侑生を傷つけてばかりではなかった?


「……大丈夫だよ、英凜」


 頭の上から、侑生の声が響く。


「俺は――俺だけじゃなくて、きっと昴夜も、誰も英凜を責めてない。英凜がミスったわけじゃない、そんなこと言ったら俺だって昴夜だってミスってる。だから、英凜ばっかりそんなに過去の俺達に縛られなくていい」


 英凜はなにも悪くない、だからあんまり泣くなよ――また、あの日のセリフを思い出す。


 ずっと後悔していた。ずっと私が悪かったのだと思っていた。でも、侑生は最初から――最後に会ったあの日から、私が後悔し始めたあの日からずっと、否定してくれていたのだ。


 昴夜への恋心は引き摺っても、過去への後悔ばかり見つめて泣き続けなくていい、そう言って。


「……遅くなったけど、俺達、別れよう。周りの連中にはクリスマスってことにしたままで、本当に、今日までで終わり。俺の我儘に付き合ってくれてありがとう、英凜」


 泣きすぎて返事ができず、ただ激しく首を横に振った。


「侑生」

「なに」

「……大好き」


 侑生は、それを私の涙ごと笑い飛ばした。


「俺と別れたことも、後悔するなよ」

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