Re:03 Repose

 十四年後の私に、恋人はいない。


 最後に彼氏ができたのは大学生のときだ。小学生のときの初恋の人と大学で再会するなんて運命的なことをやってのけ、二年生のときに告白されて付き合った。誰が見てもごく自然な流れだった。


 でも、胸の奥には常に昴夜がいて、頭の片隅にはいつもあの日のことがちらついていた。私のせいで昴夜はいなくなってしまったのに、それなのに私は大学生になって、彼氏を作って楽しそうに過ごしていて、それでいいのだろうかと。


 それが原因というわけではないけれど、その彼氏とは卒業前に別れた。卒業後は司法試験を控えて恋愛をする気分ではなかったし、その後も出会いはなく、恋人を作らないまま七、八年が経過していた。


 それでも、それを気に病んだことはなかったし、むしろ安堵することがあった。昴夜はどうしているだろう、侑生には恋人ができただろうか、そう考えるとき、自分が二人より幸せではいけないような気がしていたから。




 年が明けてしばらく、二月の気温だという予報のとおり寒い朝、下駄箱で後ろから「さむいさむい!」と悲鳴のような挨拶が聞こえた。校舎内に飛び込むようにやってきた昴夜は、マフラーに顔を埋めながら靴を脱ぐ。屈んだ瞬間、その頭に白い結晶が乗っているのが見えた。


「おはよー英凜」

「おはよう。雪、降りだした?」

「ちらほらっと。あ!」


 茶色い目が私の頭を見てカッと見開かれる。


「また挿してる!」

「……ああ、簪?」


 髪を切ってもろくに気付かない昴夜にしては目敏い指摘だけれど、さすがに学校に簪をしてくるとそう言われる。ちなみに、みんなにも一体何事かと言われたし、古典の先生には「平安貴族か!」なんてツッコミまで受けた。校則と無縁になって十年近く経っていたせいで、制服を着ていさえいれば何をしてもいいと勘違いしている自分がいた。


「結構便利なの、寝癖直さないでも束ねられるし、ハーフアップにも使えるし」

「ハイハイ。気に入ってるんだね」


 一言でいうとそういうことになる。少し照れくさいのを誤魔化すために簪に触れていると、昴夜は「やっぱキザでムカつく」と口を尖らせた。


「しかもなんかずっと使えそうじゃない?」

「……そうかもしれない」


 落ち着いたデザインのそれは、三十歳になっても適当に使えるだろう。侑生はそれも見越していたのかもしれない。


「それで、最近侑生とどうなの?」

「どうってなに?」

「相変わらず仲良しなのかなって」

「仲良しだけど、なんで?」

「んー、なんとなく。なんとなく、二人の空気が変わった気がしたから」

「……そうかな」

「分かんないけど、俺の勘違いかな」


 本当に、昴夜は意外と鋭いところがある。気付かれないよう、私はマフラーに顔を埋めた。


 「ホワイトデーまでに侑生から別れを告げる」と決めたのは、クリスマスデートの帰り道だった。侑生の家で二人でお鍋をするという、まるで大学生カップルみたいなことをやってのけた後、侑生が「今後のことで話しときたいことがある」と切り出し、単刀直入にその決定を口にしたうえで「付き合い続ける選択肢はない」ときっぱり言い切った。


 ただ、以来の私達は、一応、普通のカップルとして続いている。相変わらずいつも一緒に帰っているし、デートはクリスマスが最後だったけれど、デートをしない理由は年が明けて受験生になったからだ。


 でも、その心に影がないはずはない。昴夜のいう“空気”はそれかもしれない。


 だから、別れるまでに、少しでも侑生に返せるものがあればいい。侑生が私を大切にしてくれているのは、自惚れでもなんでもないのだから。


「……バレンタインのチョコ、少し気合入れて作ろうかな。フォンダンショコラとか」

「一年のとき作ってたヤツ?」

「え、そうだっけ」

「フォンダンショコラって、切るとチョコがとろーって出てくるヤツじゃないの?」

「そうそれ」

「じゃ一年のときのだ。俺もおすそわけもらったもん、俺がちょうだいって言ったんだけど」


 そうか、あれは一年生のときか。自分用と侑生用とを作って、自分用をおやつに持って行ったら、それを目敏く見つけた昴夜に欲しいと言われ、あげることにしたのだった。


「じゃ、別のほうがいいかな。でもそもそも男子って手の込んだバレンタインを求めてはいないのかな」

「ごちゃごちゃ意味分かんない味は好きじゃないんじゃない――って、なんで俺がアドバイスしなきゃいけないの!」


 我に返った昴夜が、ほどいたマフラーを振り回しながらプンプンとわざとらしく足を踏み鳴らす。


「俺にもちょうだい、バレンタイン!」

「でも私の彼氏は侑生だし、昴夜は胡桃からもらうでしょ」

「あーそっか、そういえばそうだった」

「そういえばもなにもないでしょ、何言ってるの」


 これが自暴自棄で付き合った弊害……。


「んー、そっか……バレンタイン、バレンタインねー……」

「侑生に聞いとこっと」

「俺にもちょうだいね。ね!」

「いいけど、侑生と同じものはあげないよ。私の――」

「彼氏は侑生だからね、分かってるよ」


 肩を竦めた昴夜が教室の扉を開ける。侑生はもう席についていて「寒い、閉めろ」と短く苦情を口にした。


「侑生、バレンタインのリクエストある?」

「なに急に。つかまだ二週間以上あるだろ」

「気合を入れてレシピを探そうかなって」

「去年のフォンダンショコラ、うまかったけど」

「侑生がいいならいいけど、同じものだとつまんなくないの?」

「フォンダンショコラなんて普段食わねーから。逆に新鮮」


 そうか、そういうものか。


「でも最近流行ってるものがあるならそれとか」

「最近流行ってるってなに?」

「最近。英凜の中で」


 なるほど、これは暗号だ。私にとっての“最近”、つまり十四年後。


「……ちょっと、流行って言われると分かんない」

「まあ、そんな気はしたけど」

「意地悪じゃん」

「一応聞いてみるくらいいいだろ」


 小馬鹿にしたように笑う侑生の横顔に、かげりは見えなかった。


 バレンタインの二日後の週末、侑生の家の最寄り駅を出ると雪が降り始めていた。吸い込んだ空気は、冷たく透き通っていた。


 侑生に渡すバレンタインチョコレートは、結局フォンダンショコラに落ち着き、その性質上、休日に作って持って行くと話がついていた。


 玄関チャイムを鳴らすと、暖かそうな毛糸のセーターを着た侑生が出てきた。


「はい、バレンタイン」

「昴夜に渡すぶんは?」


 ……玄関先でバレンタインチョコレートを渡した彼女への第一声がそれとは。でも昨日の帰り道でも「俺に遠慮しないで昴夜にも渡しな」と言われたので、予想の範疇といえばそうだった。


 ちなみに、二人ぶんを今朝作ったので、昴夜のぶんは帰り道に持って行くつもりでいた。ただし、さすがに侑生のもとに昴夜宛てのチョコレートを持ってくるほど私もデリカシーがないわけではない。お金がもったいないとは思いつつ、昴夜宛てのチョコレートは駅のロッカーに預けた。


「……それは、まあ、追々」

「アイツもフォンダンショコラ?」

「……あの、私は……、どういう反応を、すればいいのかな……?」

「別に普通に。昴夜と会う時間決めてないなら一回上がれば」

「いや、届けるだけにしようと思ってたし……」


 侑生の家でのんびりお茶を飲んで昴夜の家に行くのは気が引けた。でも「宅配じゃねーんだから」と畳みかけられ、リビングにお邪魔した。


 私が来る時間にお湯を沸かせてくれていたらしく、侑生はすぐに紅茶を出してくれた。冷え切った体に、じんわりと温かさが染み込む。私の作ったフォンダンショコラは、カップとお揃いの陶器のお皿に載せられ、まるで市販のケーキのようだった。


「……ありがとう、おいしい」

「そっか、よかった」

「大人になってもケーキって作ってんの」

「全然。趣味ってわけじゃなかったし、どっちかいうと食べるものの優先度はかなり下がったし」

「まあもとから低いもんな」


 大人になると、相手の食生活を知るほどの関係ではなくなる。そのせいでそのコメントが少しむずがゆかった。


「つか、何時に昴夜の家行くの」

「いやそれは……、決めてないんだけど……」


 この季節だ、最悪玄関前に置いても腐ることはない。……もちろん直接渡したいけれど。


「つか、昴夜も英凜に告んないのかな。横から指くわえて眺めてないで力ずくでやればいいと思うけど」


 それより、侑生はどんな意図でこの話を振っているのか……? ホワイトデーまでに分かれると決めたことといい、最近の侑生はなにを考えているのだろう。探るようにその顔を観察したけれど、何も読めない。それどころか、私の困惑を読み取ったような目を向けられた。


「昴夜に渡すからって、そんな気まずそうな反応しなくていいよ」

「……いやするでしょ」

「言っただろ、俺のせいで後悔の上書きするのはやめてくれって。昴夜に渡すのは俺のためでもある」

「……そう言われても」

「ま、だったら早く別れろよって話なんだけど。……タイムリープのことだけど」

「あ、うん」


 話題が変わるとは思っていなかったせいで、一瞬相槌が遅れた。


「……最近少し、すっきりしたんだ」

「すっきり?」


 てっきり、侑生は気にしないふりをして気に病んでいるのだとばかり思っていた。


 侑生は、フォンダンショコラを食べるフォークを置いた。


「言ったろ、一年のときに。なんとなくだけど、英凜は昴夜を好きなのかもしれないって気付いてたのに告白したって」

「……うん」

「……あのとき、英凜は俺を好きだって言ってくれたけど、それでも俺の中で釈然としなかったというか……英凜がそう言ったんだってことにかまけて、現実から無理に目を逸らしてたんだ、俺は。だから――英凜の気持ちをはっきり聞いて落ち込まなかったといえば嘘にはなるんだけど、だいぶ時間がたって、腑に落ちたというか……諦めがついたって言うべきなのかな。最初から分かってたことだったしな、って」


 反応に困って、口を閉じたままでいた。侑生も一度口を閉じて、続ける話を考えている。


「それに、修学旅行のとき、英凜が言ったろ。俺も英凜に他人行儀だった、みたいなこと」

「うん。悪い意味じゃなくて」

「もちろんそれは分かってる。……俺は俺なりに我儘言ってるつもりでいたんだ、英凜と付き合ってること自体がそうだし、それなりにやることやってたし、妬いても隠さなかったし。でもその反面、好きになってもらいたくて必死だった。それを、必死でいる必要がないって分かって、肩の力が抜けたというか。まあ、それを“諦めがついた”っていうんだろうな」


 まるで告白でもされている気分だった。侑生が私を好きなことはいい加減理解したのに、その素直な気持ちを改めて聞くことが堪らなく恥ずかしく、じわじわと耳が熱くなった。


「でもホワイトデーに別れることになってたって言うなら、それまでこの関係を享受したい気持ちもあって。それでも、十四年後から来た英凜にわざわざ後悔の上書きもさせたくなくて。なんだかなあ、って――」


 そこで侑生の目が私を見る。


「最近考えてた」


 私の不安はまるっとお見通しだったらしい。バツが悪くてますます口の開き方が分からなくなった。紅茶を口に運ぶふりをして必死に視線を逸らす。


「……なんだか、赤裸々に言わせて、ごめん」

「別に、それこそ遅かれ早かれって話だから。……これ、訊こうと思ってたんだけど」

「うん?」

「英凜って、なんで昴夜が好きなの?」


 なにを訊かれているのか、最初は理解できなかった。


 侑生が、私が昴夜を好きな理由を訊いている。受験英語構文でいえば”He is the last person to ask”で説明できる状況だろう。


「なん……、なんで、とは……」

「なんで昴夜なんだろうなってずっと疑問だったから」

「…………」

「素朴な疑問だから、率直に言って。俺が傷つくとかそういうこと考えずに」


 額面通り受け取っていいものか、いつもの無表情からは分からなかった。また紅茶を口に運びながら「ええ……と」と間を持たせるための返事をした。でも私だって、なぜ侑生でなく昴夜なのかなど、分かっていない。


「……なんでと言われると難しいんだけど」

「んじゃどこが好きなの」

「どこ……、どこ……か、かわいい、ところ……?」


 答えながら冷や汗を流してしまった。感情の読めない目が怖い。


「他には?」

「他? ……おバカに見えて頭が良いところとか……優しいところとか……?」

「質問の仕方変えるけど、なんで昴夜のこと好きになったの?」


 つまり私は満足のいく回答をしなかったらしい。仕方がない、「おバカに見える」ところ以外はすべて侑生にもあてはまる。


 しかし、なんでと言われると、今度こそ簡単な質問だ。


「……一年生の夏休みに、三人で、ここで話したこと覚えてる? 私のIQテストの話」

「ああ、この程度じゃ病名はつかないってヤツ」


 やっぱり侑生は、あのテストの意味を正確に理解している。笑って脱力しながら「そう、それ」と頷いた。


「昴夜は、私を正常ふつうだって言ってくれたの。病名はつかないんだから正常じゃん、それの何がだめなのって。……あんまり気にしてたつもりはなかったんだけど、私、ずっと自分がおかしいんだって気に病んでたんだって、そのときに気付いた」

「……昴夜に救われた?」


 救われた……。その表現がむずがゆくてすぐには頷けなかった。でもきっとそうに違いない。


「そんな感じ。今思い出してみたら、そんな大した話じゃないんだけどね」


 大学に入れば、私と似たような人もいたし、なんならもっとずっと危うい人もいた。それこそ、弁護士なんて私みたいな人間に向いている職種だとさえ言われる。事務所の秘書は、私が“そう”だとは気付かずに「あの人ってですよね」と言う。


 それでも、あの頃の私にとっては特別な言葉だった。


「……そっか」


 侑生も、納得したように頷いた。


「そんなもんだな、恋愛って」

「……そうだね」


 いまの私を異常者扱いする人なんていない。なんなら、あの頃だって「ちょっと変わってる」と言われていたくらいで、異常者扱いされたことなんてほとんどなかった。だから、思い返してみれば些細なことだった。


 ――それなのになぜ、私は、十四年間、この恋を引き摺り続けているのだろう。はたとその疑問が胸に沸いた。


 同時に、修学旅行のことが浮かぶ。私は“昴夜と二人きりで過ごしたい”と思っていたわけではなかった。


 それは――。


「まあ、俺が英凜を好きになったきっかけも――」


 そんなところに、話が思いがけない発展を迎え「え?」と声が出た。でも侑生はまったく構うことなく続ける。


「多分、実力テストで抜かれたことだろうしな」

「……実力テスト?」


 想定エピソードはなかったけれど、あまりにも予想外だった。


「つまり……学力ってこと?」

「言ってしまえばそんだけな気がする。……なんか、ずっとつまんなかったんだよな。たまにドラマみたいだなと思うんだけど、うちって祖父さんの影響力が半端じゃないんだよ」


 雲雀病院の院長に就任した人が、医者一族の雲雀家を統べるという話だろう。確かに田舎特有の古い家の話かもしれない。


「だから、祖父さんの意向で高校卒業までは市内にいるって決められてて、でも市内の中学なんてろくなところないだろ。周りが馬鹿にしか見えなくて、すげーつまんなかった」

「……そりゃ、侑生は格が違うから」

「でも有名な科学者になるような天才とか、そういうのじゃないだろ、俺は。俺は平均より頭の出来はいいかもしれないけど、でも俺以上の連中なんていくらでもいるはずで、それなのに現にいるのは俺より馬鹿ばっかりでつまんなくて、でもそう思っちまうのもつまんなかった。だから高校入って、入試も実力テストも英凜に抜かれて、世間知らずの自信満々な鼻っ柱を叩き折られたってわけ」

「……よく意味が分かりません」

「ちゃんと俺より頭いいヤツがいたんだってびっくりしたんだって話。世界が広がったとか、そういう言い方すりゃいいのかな――いや」


 喋りながら、侑生自身も首を傾げた。


「世界が開けたってほうが正しいかも。祖父さんに規律された囲いの中に一生いるような気持ちでいたけど、そうじゃなかったんだなって」


 “囲い”という表現が妙に重たく心に圧し掛かったのは、修学旅行で昴夜から聞いた話があったせいだ。


 侑生のお母さんは、お祖父さんに頑強に反対され、侑生を連れていかずに出て行った。なぜそんな選択をできたのだろうと疑問だったけれど、もしかすると、侑生のお祖父さんが持つ権力は雲雀家に留まらないのかもしれない。法曹界が狭い世界であるように、医者の業界において、侑生のお祖父さんは、侑生のお母さんの進退を左右できるほどの力を持っていた、というのも充分考えられる話だった。


 侑生は、当時のことを思い出すように、宙へと視線を投げながら呟いた。


「その意味では、俺も英凜に救われたのかな」


 侑生が私に救われた――侑生が私に抱くものを、そんなふうに感じたことはなかった。


 でも昴夜も、侑生は私と付き合い始めてから丸くなったと言った。あのときは首を傾げたけれど、もしかして本当にそうだったのだろうか。


 私は侑生の優しさを受け取るばかりで何も返せなかったと思っていたけれど、侑生も私から何かを受け取っていたというのなら。


「……それなら、いいな」


 そんなセリフが、自然と口から零れた。


 拍子に、侑生が私に視線を向けたのが視界の隅に映った。


「……暗くなる前に昴夜の家行くだろ」


 きっと、別のことを言うつもりだったのだろう。誤魔化すように、侑生は立ち上がった。フォンダンショコラが載っていたお皿は、ほんの少しのチョコレートソースを残して空になっている。


「駅まで送るよ」

「大丈夫だよ、寒いのに」

「彼氏はそういうことをしたいもんなんだよ」


 ぽん、と頭が軽く撫でられた。振り向くより先に、侑生はコートを取りに行った。


 駅に着くまで、私達はさきほどの暴露話などなかったかのように、淡々と改札までの道を歩いた。別れるときも、侑生は「わざわざありがとな」と手を振っただけだった。


 中央駅のロッカーで昴夜のチョコレートを取り出しながら、ぼんやりと会話を振り返る。


 最近少しすっきりした、タイムリープの話を聞いて腑に落ちた、諦めがついた……。過去のいま頃、喧嘩をした私と侑生の関係は最悪で、お互いにどう手を離せばいいのか分からない状態が続いていた。でも、いまはそうではない。もちろん侑生は強がってもいるかもしれないけれど、過去よりマシなことに間違いはない。微細な変化は、侑生との関係を多少改善した。


 でも、私に救われていたという、それだけは、この過去で変えたことではなかった。


 そして、私が昴夜を好きになったきっかけはいま思い返せば些細なことで、それでも私は、この十四年間、ずっと――。


 メールのバイブレーションで、はっと我に返った。携帯電話を見ると、差出人は昴夜で「バレンタインが終わるまであと七時間しかない!」とよく分からない催促がきていた。


 こういうところが可愛いと思うけれど、それは私が昴夜を好きだからだ。過去の昴夜は違ったけれど、少なくともいまの昴夜は、実は私と両想いだと勘付いているのではないだろうか。


 色々考えたいことはあるけれど、少なくともいまこの手にあるケーキを渡さない手はない。紙袋片手に電車に乗り込んで、昴夜の家の最寄り駅に着いた後に返信を忘れていたことに気付き「いまから届ける」と返事をした。メッセージアプリに慣れると、いちいち「送信中」という画面が出るのがまだるっこしい。これは閉じてもバックグラウンドで送信してくれただろうか。心配だたので、画面を開いたままカバンに放り込んだ。


 家に着いて玄関チャイムを鳴らすと、バタバタバタッと廊下を走る音が聞こえ「英凜!?」と昴夜が飛びだしてきた。真冬だというのに、昴夜は薄いパーカーを着ているだけだった。


「駅まで行くよって言ったじゃん!」

「あ、そうなの? ごめん見てなかった」


 昔から無精だったような気はするのだけれど、過去に戻って一層メールを見ることはなくなった。いちいち開かないと見ることのできないメッセージなんて時間の無駄でしかないせいだ。


「それより、これ」


 本命と自覚しながらバレンタインを渡すのは初めてで、少し緊張した。渡すというより、紙袋を昴夜の眼前に突き出した。


「バレンタインね。どうぞ、ご査収ください」

「なに、ゴサシュウって。アメリカにある?」

「州の名前じゃないよ」

「ユタ州と音同じじゃん?」

「違うじゃん」

「大体同じじゃん」


 私の手から紙袋を受け取る昴夜の指が、私の指先を掠めた。二月の外気で冷え切った指先から、じんわりと熱が広がる。


 そのまま、背中に手が回された。驚いて声を上げる間もなく、コート越しに抱きしめられた。


「ありがと。大事に食べるね」


 なされるがまま、呆然と立ち尽くす。


 本当は、本命だからね。


 そう言いたいのに言えない口が、パクパクと間抜けに開閉し、いたずらに冬の空気を取り込んだ。


「英凜、めっちゃ冷たいんだけど。お茶淹れるから暖まって行けば?」

「え、いいよ、もう夕飯の時間にもなるし……」

「んじゃ晩飯一緒に食べよ」

「おばあちゃんにも何も言ってないから」

「そっかあ」

「わ、わ、ちょっと」


 ふわふわの髪が、ぐりぐりと肩に押し付けられてくすぐったかった。大型犬が犬同士のじゃれ合いをそのまま人間に向けてきたような仕草で、受け止めきれなかった体が少し後ろに傾いた。


「はー……」

「なに?」

「……ううん。あー、てかちょっと待って、渡すものあるから玄関入って」


 腕が離れたかと思うと、そのまま力強く手を引かれた。さっき掠めたときにも思ったけれど、昴夜の指先はカイロみたいに温かい。


 昴夜が奥へ消えると、タンタンと階段をのぼる音がして、しばらくして降りてくる音がした。戻ってきた昴夜は、手の中に小さな包みを持っていた。


「これあげる」

「バレンタインのお返し?」

「違うよ、誕生日。明後日、英凜の誕生日じゃん」


 目を丸くしながら受け取る。過去にはなかったけれど、そうだ、今回は昴夜の誕生日にそんな話をした。


 包みの中に入っていたのは、ブックマーカーだった。先端にゴールデンレトリバーみたいな子犬がぶらさがっている。


「え、かわいい……」

「俺みたいに可愛いでしょ、この犬」

「それちょっと気持ち悪いよ」

「冗談だよ!」


 照れ隠しで言ってしまったけれど、本当にちょっと昴夜みたいだった。きちんとおすわりしたその子犬を、ビニール袋の上から指先で撫でる。


「……ありがとう。大事に、ずっと使うね」


 丁寧に包み直し、カバンの中にしまいこんだ。未来ではほとんど電子書籍で買っているけれど、気に入った文庫本を買うことはまだある。


 そうでなくとも、このブックマーカーは、私が唯一、昴夜からもらった形のある思い出になるはずだ。


 十四年後に想いを馳せていると、もう一度抱きしめられた。玄関先も寒いから、抱きしめられるとやっぱり温かくて、その意味でも心地がよかった。


「本当は侑生みたいに簪とかあげられたらカッコついたんだけどね、彼氏でもないのにそういうの気持ち悪いって、さすがの俺も分かってるから。……だから文具になっちゃったけど、でも、使ってくれたら嬉しい」


 とはいえ、妙だった。これが過去にない出来事なのは仕方がない、過去の私は昴夜にチョコレートを渡さなかったのだから。


 でも、そこじゃない。過去の昴夜はなぜ、私への好意を隠さないのだろう。それとも、こんなあからさまなアピールにさえ気が付かないほど、当時の私はあまりにも鈍感だったのだろうか。正直、可能性は否定できないせいで分からなかった。


「……昴夜、なにかあったの?」

「ん? なにかって?」

「なにか……寂しいこととか」

「んー……」


 答えないまま、腕の力だけが強くなる。でもこの時期に何かあった覚えはない。


 ああ、でも、私は、昴夜のお母さんが亡くなった日も、お祖父さんが亡くなった日も知らなかった。もしかしたら、過去の私が気が付かなかっただけで、今日の昴夜は寂しい思いをしていたのかもしれない。


 微細な変化が許されると、新たに知ることのできるものもあるのかもしれない。


 背中に手を回し、ぽんぽん、と、慰めるように軽く叩く。かけられる言葉が見当たらなくて、口は開かないままでいた。昴夜も、ただじっと私を抱きしめているだけだった。


「……なにかあったなら、話くらい聞くよ」

「……ううん、なんもない。……なにもないよ」


 本当になにもないのか、私にはなにも言ってくれないのか。少なくとも過去の昴夜は後者だった。あの夜、突然いなくなったように、何かあっても、私にはなにも言ってくれない。


「……言いたくないなら言わなくてもいいけど、もし、本当になにかあったらちゃんと言ってね」


 あの日を避けられないとしても、こうして伝えておくことで、未来を変えることができるだろうか。


「なにがあっても、私は昴夜の味方だから。昴夜が自分を信じられなくなっても、私は昴夜を信じるから。だから、なにかあったら、昴夜の支えにさせて」


 どんなことがあったって私に頼っていい、そう分かってくれたら。


「……うん」


 きっと、いまの昴夜もなにかあったのだろう。私を抱きしめる腕には力がこもった。


「……でも、英凜もね」

「うん?」

「なにかあったら、一人で悩まないで、俺に言ってね」


 ああ、でも、そうだ。なにも言わなかったのは、私も同じだ。


 心配をかけたくないから、新庄に関わってほしくないから、あの日の私はなにもかもを黙っていた。


「俺がだめなら、侑生でもいいんだけどね。英凜は、理性的で我慢強くって……自分だけが傷ついてるなら大丈夫ってひとりで頑張っちゃうけど、あんまりそういうことしなくていいんだよ」


 あの日だけじゃない、一年生のときもそうだった。新庄に襲われたとき、私はそれを昴夜に言わなかった。問いただされても、何もなかったのだと平気な顔をして嘘をついた。後日、ひょんなことで昴夜がそれを知ってしまって「どうして言ってくれなかったの」と怒られたことがあった。


『英凜のこと、心配させてよ』


 黙っていられると寂しいんだと、拗ねていた。


 言ってよかった、言ったほうがよかった。いまならそれが分かるのに。


「……うん。黙ってて、ごめんね」


 家に来る途中で、少年院から出てきた新庄に出くわした。口を塞がれて、制服を捲りあげられて体を触られて。いつもの電車の中なのに、誰も助けてくれなくて怖かった。きっとこの地獄が永遠に続くんだと思った。そのくらい、怖くてどうしようもなかった。


 そう言うことができたら、あの未来は。


「謝ることじゃないってば、責めてるんじゃないんだから」


 昴夜が言っているのは一年生のときのことなのに、頭にはあの日のことが浮かんでいたせいで、泣きたくなった。


「……でも、言ったほうがよかったでしょう?」

「……そりゃ、言ってほしかったよ。頼ってほしかったけど……でも、言えないのも分かるから。ただでさえ怖いのに、口に出したら余計に記憶がはっきり残っちゃいそうだって……特に英凜は記憶力がいいから。だから、言えなくても、英凜を責めたりしないよ」


 そうだったのだろうか。あの日の昴夜は、内心では、どうして言ってくれなかったのかと私をなじっていなかったのだろうか。


「……本当に?」

「ん?」


 涙が溢れ出す。冷たくなった頬を、次々と熱い雫が伝った。


「私が言えなかったせいで、昴夜の人生が狂っても?」


 あの事件が起こった日、昴夜は第一志望に補欠合格した。


 昴夜は、成績が良いほうではなかった。それでも、早々に志望校と受験科目を絞って要領よく対策して、念願の合格を果たした。それは、東京に進学する私と一緒にいるためでもあった。


 だから、補欠合格の画面を見たあの瞬間、昴夜がどれだけ嬉しかったか。一緒にその瞬間を見た私だって、嬉し泣きしてしまうほど喜んだ。これからまた一緒にいられると、昴夜の家で一緒に抱きしめ合ってお祝いした。


 それなのに、あの事件が起こったせいで、昴夜は進学できなかった。もちろん、昴夜は新庄を殺していなかったけれど、自首して捜査機関に勾留こうりゅうされれば、その日常生活を放棄せざるを得ないのは当然のことだった。最終的に無関係だと判明しても、それまでの期間は、昴夜の日常を壊すのに充分だった。


 だから、昴夜はいなくなってしまった。私と一緒に東京へ行くための努力と成果を、すべて躊躇なく捨てて、私の前から消えてしまった――私のために、すべてを捨てさせてしまった。


 私は何の変哲もない日常を送り続けたのに、昴夜の日常はあの夜にすべて狂ってしまった。どうすれば、それをつぐなうことができるだろう。


「当たり前じゃん」


 それでも、目の前の昴夜はそう言ってくれる。まだあの日のことを知らないから。


「言えないのは分かるから。大体、英凜のせいで俺の人生が狂うなんて有り得ないし……俺が英凜に怒ったり、英凜を恨んだりすることなんてないよ」


 それでも、これが私の身勝手な自己満足だと分かっていても、言わずにはいられない。


「……ごめんなさい」

「だから、そんな風に謝ることじゃ――」

「ごめんなさい、昴夜」


 昴夜の肩を涙で濡らしながら、折れそうなほどにその体を抱きしめる。


「私、ずっと、謝りたかったの。ごめんなさいって」


 修学旅行で泣きながら侑生に謝ったのと同じだった。


 書き換えることのできない過去に対して、私は謝ることしかできなかった。


「……本当に、そんな謝ることじゃないのに」


 昴夜が、仕方がなさそうに笑う気配がした。


「……それに、そんな風に謝るなら俺だってそうじゃん。俺は……英凜がどんな目に遭ったのかなんて、全然気付かなかったし」

「言わなきゃ気付かないのなんて仕方ないじゃん」

「それでも、気付きたかったなって思うの」


 私のことが好きだから。そうは言わなかったけど、そう言われている気がした。


「でも、それなら昴夜が謝ることなんてないよ」

「ね、英凜はそう言う。それと同じ」


 穏やかな声は、いつもよりずっと落ち着いていて、まるでいまの私と同い年の昴夜と話しているかのようだった。


 でも、そんなことは有り得ない。ここにいるのは、十七歳の昴夜だ。


「だから、俺達はお互いに謝ることなんてないんだよ」


 それでもきっと、十八歳の昴夜も、三十歳の昴夜も、同じことを言ってくれるという信頼があった。


 私が好きになったのは、そういう人だった。


「……昴夜、私ね」


 だから私は、私を救ってくれた昴夜のことを、忘れてはいけない。たとえきっかけは些細なものでも、この人が特別なのは変わらない。


「私……ずっと……、ずっと、ちゃんと、ブックマーカー大事にするからね」


 それが何の話か、いまの昴夜に伝わるはずはなく。


「……うん。子犬が俺だと思って大事にして」


 軽口で流されてしまったけれど、それでも、私は昴夜のことを忘れないつもりだった。

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