Re:04 Recognize

 修学旅行三日目の夜のことを、私は、私と侑生のXデーと呼んでいる。


 その日、私は侑生の部屋に遊びに行った。侑生のルームメイトは昴夜で、でも昴夜は別の友達の部屋に遊びに行っていなかったから二人きりだった。だから何の問題もないはずだった――私の携帯電話に、昴夜からのメールが届かなければ。


 そのメール自体は、ゲレンデで撮った写真を送ってくれた、ただそれだけだった。でも私はそれを隠そうとして動揺し、侑生もいい加減に業を煮やした――今度何があったのかと。侑生は、私が昴夜にキスされたことにも、文化祭後に私が昴夜の怪我を手当てしたことにも気づいていた。


『……英凜はまだ、昴夜を好きだろ』

『……そんなことないよ』

『見てれば分かるって言ったろ。俺を好きになろうとしてるってことまで含めて、なんならそれと表裏一体で、英凜は今でも昴夜が好きだろ』


 怒っていると言うには静かすぎる口論を経て、私はベッドに押し倒された。侑生の手は、乱暴さの欠片もなく、淡々と、でも有無を言わさぬ雰囲気で私の浴衣をはだけた。


『いいよ、までしよう』


 それまでにも胸を触られたことはあったけれど、足の間に手を入れられたのはあの日が初めてだった。


『牧落と付き合ってる昴夜を見てても辛いだけだし、英凜を好きな俺と付き合って、流されて、昴夜のこと忘れたほうが楽だもんな』


 侑生と昴夜が割り当てられたホテルの一室、私を押し倒す侑生と、浴衣をはだけた私――そこに、思いがけず昴夜が部屋に戻ってきてしまった。鍵は開いていた。


 気が動転していた私は、当時の昴夜の様子をあまり覚えていない。でも少なくとも、侑生から逃げるように部屋を飛び出した私を追いかけてきた昴夜は、怒り狂っていた。あんなものは強姦レイプと同じだ、と。


 自分が何を話したのか、あまり覚えていない。でも、なにかを言い過ぎてしまって、次の日の朝に謝罪したことだけは覚えている。


 それでじゃあ、侑生とはどうしたのかと言われると、これもまたよく覚えていない。フラれるまで三ヶ月近くあったし、侑生のことだから謝ってくれたのだろうし、きっと何事もなかったかのように付き合っていたのだと思う。


 あの頃の侑生は、きっと、私への罪悪感でいっぱいだった。それを思い出す度に、どうして私から決断できなかったのだろうと、私も罪悪感に苛まれる。




 十二月中旬、私達は修学旅行で札幌に降り立った。新千歳空港から約四十分、札幌駅の外に広がる雪景色に、みんなははしゃいだ声を上げていた。チェックインを済ませてホテルを出た後は、私達のクラスでは昴夜が真っ先に外に飛び出て、歩道の脇に積まれている雪に飛び込んだ。


「きゃふー! つめたい!」


 雪やこんこ、犬は喜び庭駆け回る、そのフレーズが頭に浮かんだ。金髪の大型犬が雪に埋もれてはしゃいでいるようにしか見えない。


「馬鹿じゃねーの、このクソ寒いのに」


 それを本気で冷たい目で見ているのは、銀髪の、さながらニホンオオカミだ。でも侑生は寒がりなので耳当てまでしっかりして防寒している。ただ、耳当てに関しては昴夜もしていた。いわく「ばーちゃんに子供が頭を冷やすなって言われたから」と。寒さの厳しいヨーロッパでは、子どもが帽子または耳当てをしていないとお年寄りに注意されてしまう、というのは聞いたことがあった。


「侑生も飛び込もうぜ。そんで写真撮ろ」

馬鹿バッカじゃねーの」

「いいじゃん、俺達相棒じゃん」

「知らねーよ一人でやってろ。……オイ!」


 昴夜と荒神くんが目配せし、本気で嫌がる侑生は雪山に放り投げられた。ボフンッと柔らかく雪に埋もれた侑生を、昴夜達が指差して笑う。


「三国の前だからってカッコつけてんなよ」

「そーだそーだ、侑生だって埋もれろ! そんで写真撮ろ!」


 あ、怒ってる。笑っていた昴夜達は、ゆらりと雪の中から起き上がった侑生に胸座を掴まれ背中を蹴られ、雪の中に埋められるとおりこして顔から雪に突っ込まれた。


「うぶぶ、待ってたんま! 息できない!」

「しなくていい」

「死ぬから! ちょ、ホントに無理、助けて!」

「はー、男子は元気だよなー」


 陽菜と一緒に、少し離れたところでそれを静観する。侑生も昴夜も制服を着ているから、多分シャツ以外の着替えは持っていないはずなのに、濡れることを厭わないなんて、さすが十七歳、若さがある。……いや何も考えてないだけかな。


「ね。あんな元気もうない」

「もうってなんだよ、ババアかよ」

「心は三十歳くらいだから」

「結構上だな!」


 事実なのだけれど、陽菜は冗談にしか受け取らない。もちろん本気で受け取るほうがおかしいのだけれど。


「てか札幌ってもっと雪の中歩くイメージだった、ちゃんと雪かきしてあるんだな」

「市内だからね。北海道神宮の敷地内はもっと雪道だったと思うよ」

「あれ英凜、札幌来たことあんの?」

「……むかしね」

「へー」


 嘘じゃない。もう十四年も前だけれど、さすがに修学旅行イベントとなれば記憶も多少はっきりしている。


 後ろでは昴夜達が相変わらず騒いでいるのを聞きながら、私達は神宮へと出発する。


 過去では、侑生の隣は私と陽菜で、昴夜は別の友達と一緒にいた。でも今は違う、私の隣は陽菜だけで、侑生の隣は昴夜だ。


 この相違を作った原因は、おそらく文化祭だ。侑生と私の関係は、文化祭以来、膠着こうちゃく状態が続いている。仲が悪いわけではない、喧嘩をしているわけでもない、学校ではいつもどおりだし、帰り道はいつも一緒だ。


 でも、私達の会話はまるで仲良くないクラスメイトのそれだし、侑生はあれ以来、タイムリープのことに触れない。だから私も触れない。私達の関係は、ここ一ヶ月近くどことなく気まずい。


 昴夜はそんな空気に気付いているのだろう。侑生にじゃれるのは、きっと私達への気遣いだ。


「あ、おみくじあるじゃん、おみくじ引こうぜ」

「うん」

「え、英凜、占いは信じないっていつも言ってんじゃん」

「それは星座占いでしょ、おみくじは時の運だから引くよ」

「俺も引くー」


 そのおかげで、毎日はごく普通の平和な日常が続いている。昴夜と侑生がおみくじを引いているなんて過去にはなかったし、むしろ一層平和な日々が続いているといっても過言ではない。私も小銭を取り出し、引き換えにくじの箱を振る。


「あー、あたし吉だ」

「うわ! 凶なんだけど! 侑生なに?」

「中吉」

「交換しよ!」

「そういうシステムじゃなくね」


 あれ、凶じゃない。自分の手の中にある「吉」に目を丸くしてしまった。修学旅行で引いたおみくじは「旅行たびだち 北は控えよ」なんて札幌旅行全否定に始まり、なにもかもに対しネガティブな内容が書かれていたのでよく覚えている。でも今回はそうではない。


 旅行たびだち・力を抜くと吉、恋愛・気に病むな、争事あらそい・助けあり、願望ねがいごと・深慮を尽くせ、か……。全体的に悪くない、まあ「吉」とはそういうものだろう。


「英凜、結んで行く?」

「ううん、私はいいや」

「どういうときに結ぶんだっけ?」

「悪いときじゃねーの」

「えーじゃあ俺結ばなきゃ。こういうの空いてるとこなくて困るよね」


 ぼやきながら、でも昴夜は背が高いから比較的空いているところに手を伸ばせる。


「神宮の中から出なきゃいいんだよね、これ? あっち売店あったから行ってみよ」

「名案だな。マジで寒い、暖まりたい」

「ジジイじゃん」


 昴夜が先導を切って茶屋店に行き、暖まりながらイートインでおやつを買って分け合う。陽菜が「あとで送ってやるよ」と言いながら昴夜と侑生、侑生と私の写真を撮る。侑生はもちろん嫌がったけれど陽菜は強行し、私は少しヒヤヒヤした。


「英凜さあ、恥ずかしがってないでもっと雲雀とくっつけよ」


 集合場所に戻りながら、陽菜がお説教じみた口調で言った。侑生と昴夜は少し前を歩いている。


「高校の修学旅行で彼氏が同じクラスなんて最高だろ、ちゃんと満喫しろよ!」

「満喫はしてるよ」

「してねーんだよ、雲雀と喋るのも桜井ばっかりだし。明日はちゃんと二人きりにしてやるからな、恥ずかしがってないで楽しめよ!」


 肩を叩く力が強すぎて、前のめりに転んでしまいそうだった。


 明日は自由行動日。当初の予定通り、私は侑生と二人で小樽市内を観光する。帰り道でさえ気まずいのに、丸一日デートをするなんて勘弁してほしい。重たい気持ちが胸にのし掛かり、深い溜息を吐いた。


 次の日、私と侑生は小樽駅で地図を広げた。昴夜と陽菜は、それぞれ友達と彼氏といなくなってしまった後だった。


「どこ行くんだっけ」

「最初のバスでおたる水族館に行って、お昼前のペンギンのお散歩を見た後に定食屋さんに行って、バスで市街地に戻ってガラス細工を見る。晩ご飯は札幌駅まで戻ってスープカレー」

「予定表でも見たのかってくらい具体的だな。バス停ってあれか」


 ザクザクと侑生のスニーカーが雪を踏みつけて歩き出す。その半歩後ろに私も続いた。


「英凜、バス来た」

「ああ、うん……」


 侑生に促されてバスに乗る。移動中、私達の間には最小限の会話しかなかった。水族館に着いた後は、お互いに気を遣って魚の解説を懇切丁寧に読み、ペンギンのお散歩に大袈裟なくらいはしゃいで写真を撮った。お昼ご飯を食べる間は、撮った写真を見て無理矢理話題を作った。


 この調子だと、明日の夜はやはり、Xデーとなってしまうのだろうか。


 でも、そんな大喧嘩をしてしまうとしたら、それって不幸中の幸いってヤツじゃないの? ふと、状況を俯瞰した私がそんなことを言う。


 侑生と別れておくことが、あの事件を防ぐために不可欠だ。あの大喧嘩は、別れを決めきらない侑生の背中を押すはず。あの事件が起きれば、未来を変えることに繋がるかもしれない。


 ……最低な考えだ。侑生は私を好きだと言う、それを受け取ると決めたのは私なのに、いまはまるで迷惑みたいな顔をして、自分が悪者にならずに済む方法を探している。


 高校二年生の頃ならまだしも、私はもう大人なのに、あの頃からちっとも進歩していない。


 硝子細工のお店に入って、ぼんやりしていると「なに、それ気に入ったの」と侑生が隣で立ち止まる。私の視線の先には、ちょうどストラップがあった。


「あ……いや……そういうわけじゃないんだけど。でも、これ可愛いよね」


 雪の結晶をモチーフにしたガラスのストラップで、何色か種類があった。スマホにしてから携帯電話のストラップなんて買わなくなったけれど、高校生の頃はたくさん持っていた覚えがある。


 ……そういえば、侑生とおそろいのストラップも持っていたはずだ。それこそ修学旅行で買った――……。


「……これかも」

「なにが?」

「いやなんでも」


 別れることになるのにおそろいのストラップなんて。無理矢理顔を背け、次のお店を見ようと侑生の背中も押す。


 それからしばらく、当て所なくぷらぷらと雪道を歩いた。たまにお店に入って暖まり、試食品を口に運び、帰るまでの時間を潰す。


「英凜、こっちの店入ろう」

「いいけど、なに?」


 手を引かれるがままに入ったのはかんざし店だった。侑生が簪を挿すわけがないし、妹さんへのお土産でも買うのだろうか。


 そんな想像は見当違いだよとでもいうように、侑生の指が私の髪を梳いた。今までの気まずさを吹き飛ばすような仕草だったせいで硬直した。


「な、なに」


 単純に、恥ずかしくもあった。


「早いけど、誕プレにするから、なんか選んで」

「え、でも本当にだいぶ早いよ」


 私の誕生日は二月十八日だし、というか私達はいまこんな気まずい状況だし。


「札幌で買ったほうが物珍しいプレゼントになるし。いやここ小樽だけど」

「でもかんざしって、それなりに値段も張るんじゃ……」


 大体、別れることが決まっているのに誕生日プレゼントなんて、侑生にとっては手痛い出費でしかないのでは。それに、こんな風に形に残るものを持っていたって……。


「そりゃいまの英凜が満足する質のものは買わない、つか買えないから。相応の範囲で決めてくれると助かるけど」

「そりゃもちろんそうなんだけど、そういうことではなく……」

「イヤならやめとこうか」

「イヤでは……」


 修学旅行で買ったあのストラップは、どこにしまったか分からない。捨てた覚えはないからどこかにはあるのだろう。きっと、一人暮らしの部屋にまとめて放り込んだ箱のどこかに入っているはずだ。そのくらい、あのストラップは私の記憶の外にある。


 だからって“どうせ別れるから”と、なんでもかんでもなかったことにしてしまっていいのだろうか。“どうせ別れるから”お揃いのものは買わずにいて、二人の写真も撮らず。侑生と付き合っている間の思い出のうち、形に残るものを少しずつ消していって、そしていつか十四年後に戻ったときには、侑生のことは記憶にしか残らなくなる。それでいいのだろうか? 侑生との過去を消すようなことをして……。


 でも、結局好きにならなかった元カレなんだから、それでいいんじゃないの? ……本当に?


 逡巡を隠すために、簪を見て、悩んでるふりをした。それでも答えを出すことはできなかった。


「俺が選んでいい?」

「え? え、いい、けど……」


 その悩みを、斜め上から無理矢理解決された。


 侑生が選んだのは、青色のとんぼ玉がついたシンプルな簪だった。真鍮しんちゅうの二本挿し簪で、同じ色のビーズの飾りがついている。私の好みぴったりだったし、店員さんに勧められるがままにその場で挿せば、よく似合っている気もした。あまり子どもっぽさもないし、安っぽくもないし、十四年後にも使えそうだ。


「……ありがとう。これすごく好き」

「ならよかった」


 薄い笑みをはいたその横顔は、いつの間にか以前の侑生に戻っていた。


 夏休み明けすぐの頃は、大きな口を開けて明るく笑うようになったと評判だったのに、いつの間にかクールな侑生に逆戻りしている。きっと、私のタイムリープに確信を抱いたせいだろう。


 十四年後、私達は連絡すら取り合っていない。私はそう話してしまった。連絡すら取らなくなる“彼女”に、侑生は、どんな気持ちでこれをプレゼントしてくれるのだろう。


 そうでなくとも、自分の親友を好きな彼女わたしに、侑生はずっとどんなことを思っていたのか。


「そろそろ札幌戻るか。他に見たいところあれば行くけど」


 ……過去の私と侑生は、運河の前で二人で写真を撮らなかったっけ。


「……侑生はないの?」

「俺は食べるもの食べたから、別に」


 侑生はどこか素っ気ない態度に戻っていて、躊躇うことなく駅へ足を向けた。私も、それをわざわざ引き留めることはしなかった。


 札幌に戻る電車の中で、侑生はわりと早い段階から転寝を始めた。高い鼻を赤くし、マフラーに顔を埋めるようにしながら私の肩に頭を預ける。その顔は、十七歳よりももっと幼く見えた。


 過去の侑生は、どうして私とおそろいのストラップを買ったんだっけ。高校二年生の誕生日プレゼントはネックレスをもらったけれど、なんで今回は簪なんだろう。


 電車が小樽駅に着いて、開いた扉から冷気が吹き込んできた。「あ」という声も聞こえて顔を上げると、乗って来たのは昴夜達だった。


 昴夜と一緒にいる二人は、私と侑生が並んで座っているのを見てニヤッと顔を見合わせ、昴夜は少し気まずそうに視線を泳がせた。その三人は、私の左隣の席を巡ってじゃんけんをして――昴夜が私の隣に座って、他の二人は離れた席に座った。確か、過去でもそうだった。


 昴夜が隣に座った途端、その身のまとう外の冷気が頬を撫でた気がした。乗客の誰もが厚着をしている座席は少し窮屈で、必然私達の距離は近かった。たったそれだけで胸が熱くなるような、子どものような高揚感を覚えていた。


「……侑生、寝てるの?」

「そうみたい」

「からかってやろうと思ったのに。それ買ったの?」

「ああ、簪?」

「めっちゃ似合ってんね、てかさまになってる」

「……ありがと」


 十七歳の昴夜に褒められても、嬉しいものは嬉しいし照れ臭いものは照れ臭い。


 反面、昴夜が私を褒めるのに、照れたり恥ずかしがったりしたのを見た覚えはない。昴夜にスマートさなんて感じたことはなかったけれど、そんなところだけはハーフらしかった。


「あれ、でも待って、もしかして侑生と選んだ? 侑生のセンス?」

「侑生が選んでくれた。ちょっと早いけど誕生日プレゼントにって」

「すぐそういうキザなことする。褒めるんじゃなかった」


 昴夜がわざとらしく口を尖らせる。過去と違って、昴夜は素直だ。いや、もともと素直なのだけれど、私への好意からくる侑生への嫉妬のようなものを、冗談を交えながらもストレートに口にする。


「……昨日、俺らと一緒に観光したけど邪魔じゃなかった?」

「全然、むしろ楽しかった――」


 口にした後で、“それが侑生と二人だと気まずかった”ことの裏返しではないと気が付いた。


 同時に、私は“昴夜と二人きりで過ごしたかった”とも思っていないことにも。


「それ侑生が起きてるときに言わないほうがいいよ、侑生は多分邪魔だって思ってたから」


 私が言葉を切った理由を失言だったからと勘違いしたのか、昴夜は冗談交じりに笑い飛ばした。


「侑生さ、英凜と付き合ってから優しくなったよね。ていうか丸くなった」

「そうだっけ。侑生って元からこんな感じじゃなかった?」


 正直にいうと、ただ高校一年生の頃のことを覚えていないだけだ。


「もっとつっけんどんだったよ、ほらあれ、手負いの獣って感じ。胡桃みたいな女子に噛みついてたからね、ワンワンって」

「それは昴夜でしょ」

「俺も犬じゃないもん」


 胡桃と侑生といえば、胡桃は侑生を好きだった頃があったらしい。告白はしなかったけれど、ボディタッチやさり気ない間接キスでアピールをしていたのだと。侑生は、それを手酷くフッた。


「侑生ってもともとすぐキレるし手出すし、俺とか舜が二人がかりで止めなきゃいけないことなんてよくあったのに。もうずっと、人のこと殴ってないんじゃない?」

「そんな侑生を蛮人みたいに……」

「本当だってば。別に侑生が喧嘩吹っ掛けるわけじゃないけど、絡まれたら迷わず殴っとくみたいな。見た目より血の気多いからね、侑生」


 どちらかというと昴夜のほうがそう見えるけれど、これぞまさしく偏見というほかない。実際に振り返ってみれば二人とも穏やかといえば穏やかで、でも子どもっぽく憤慨したり怒ったりするところがあった。


「その侑生がさあ、問題起こさないで、英凜と毎日一緒に帰って、そんで誕生日プレゼントに簪選ぶんだもんね。本当に変わったなあ」

「……そうなのかな」

「そうだよ。侑生、英凜のこと大好きだからね」


 知っている。侑生の言動のすべてが、雄弁にそう語る。


 侑生は、同級生の男子のわりに精神年齢が高く、顔もきれいで頭もよく、でもいわゆるがり勉とは違って女子に慣れていないわけでもなく、胡桃がそうだったように、色んな子の憧れの的だった。


 それなのに、侑生には私以外に仲の良い女子はいなかった。陽菜とは多少話すこともあるけれど、それは陽菜が私の親友だからで、あくまで私ありきの関係だった。


 まるで私が、世界の中心であるかのように。


 立っている乗客がいないのをいいことに、昴夜は長い脚を投げ出し、マフラーに半分顔を埋めたまま息を吐き出した。


「……侑生、寂しがりだからね。侑生のこと、よろしくね」


 ……昴夜は私を好きなのに、なぜ、そんなことを言うのだろう。


「……よろしくって」

「ほら、俺達誕生日同じだからね。俺は侑生のこと、双子の弟みたいに思ってるから」

「昴夜のほうが弟だと思うけど」

「みんなそう思うだろうからあえての逆張りなんだよ」

「ただ外してるよ、それ」

「そんなことないもん。……俺と侑生って、似てるように見えるけど全然違うんだよ」


 昴夜は「さむかった」と足を座席に寄せた。座席の下の暖房の熱は、少し離れるだけであっという間に冷たくなる。


「……二人が似てると思ったことないけど」

「そりゃ、うん、見た目とか性格はね。……俺と侑生が仲良いのって、よく『境遇が近いから』みたいなこと言われてたんだけど」


 ああ、それなら分かる。二人ともいつも家にひとりぼっちで、同じ孤独感を共有しているのだろうと、私も思っていた。


「侑生が、ぼそっと言ってたことある。……自分は捨てられた側だから、全然違うって」


 そう考える理由が理解でき過ぎて、何を言えばいいのか分からなかった。自分でも気づかないうちに息も止めていたらしく、息を吸い込んだときには、車内の冷たい空気に肺を支配された。


「……俺の母さんがいなくなったのはさ、まあ、不幸な事故なわけで、別に母さんが俺を捨てたわけじゃない。じいちゃんが死んだのだってそう。父さんの単身赴任だって、俺がヤダって言ってこっちに残った。でも侑生は――」

「……病院の後継ぎだから」

「そ。……侑生の母さんは侑生も連れて出て行こうとしてたけど、侑生の父さんが長男で、侑生も長男だから、雲雀病院の跡取りを連れて行かせるもんかってめちゃくちゃ揉めたらしいよ。裁判するかって話にもなって……。詳しい話は知らないけど……侑生は、母親は自分を捨てて出てったんだって言ってた。母親にとっての自分はその程度だったんだって」


 侑生は、長期休みの度に、お母さんと妹さんのいる岡山へ行っていた。私は漠然と、家族に会いに行っている程度にしか思っていなかった。


 離婚事件は、数えるほどとはいえ経験したことがある。両親がどちらも親権を主張する場合は少なくないけれど、この点はお上の古い考えがあるせいか、特別な事情がない限り母親に親権が認められる。特に、侑生のお母さんは女医だ。経済的に自立しているし、調停・裁判になったとしても間違いなく侑生の親権を獲得していただろう。


 でも、侑生のお母さんはそれをしなかった。、侑生の親権を元夫に譲った。


 その母親に対して、侑生はどんな感情を抱いていて、そして会いに行っていたのか。


 当時の私は、そんな簡単なことを、考えたことがなかった。


「……だから、侑生が英凜と付き合い始めたの見て……」


 なにを口にしようとしたのか、昴夜は一度閉口して悩んで、もう一度口を開く。


「……元気になったなって思ってた。侑生、あんまり寂しそうじゃないなって」


 本当に? 本当に、侑生は、寂しくなかったのだろうか?


 付き合っている私が、侑生でなく昴夜を好きだと、ずっと知っていたのに?


 昴夜はもう一度、マフラーに顔を埋めなおす。私の視線から逃れるように、目も閉じた。


「だから……侑生は一人で平気な顔してるけど、本当は寂しがりだから、侑生のこと、よろしくね」


 なんて答えればいいのか分からなかった。それは、昴夜にそんなことを言われたからではなかった。


 言葉を失った私の隣で、それっきり昴夜も口を閉ざしてしまった。


 電車の外は、しんしんと雪が降っていた。すっかり暗くなってしまった窓の向こう側で、白い結晶が落ち続けている。ガタンガタンと揺れながら、北海道の森の中を、電車が走る。それを見ていると、たまに、窓に映る自分も見える。右肩には侑生の頭が載っていて、左側では昴夜がじっと縮こまるようにして座っている。


 結局、運河の前で写真は撮らなかったし、お揃いのストラップも買わなかった。


 侑生は、それでよかったのだろうか。


 札幌駅に着いた後、侑生を起こしているうちに、昴夜は友達と行ってしまった。終点なのをいいことにゆっくりと起きた侑生は、吹き曝しのホームで背伸びをした後「寒」とすぐに縮こまる。


「……晩ご飯のお店、地下から歩いて行けるよね。行こう」

「ん。昴夜らはどうしたの」

「すすきのでラーメン食べるんだって、行っちゃったよ」


 過去の侑生は、狸寝入りだった。電車の中で、じっと目を閉じたまま、でも私と昴夜の会話を聞いていた。


 でも、いまの侑生はどうなのだろう。あのときとは話した内容も全然違うし、聞いていたとして侑生の行動は全く変わってしまうだろうけれど。


「腹減った、早く行こう。寒いし」

「……そうだね」


 少なくとも、いまの侑生は、口を滑らせることはしなかった。


 次の日、ゲレンデをスノボで滑走していると、隣を轟音と共に別のスノボが滑り抜けた……昴夜だ。侑生と昴夜は身長が同じだから同じスノボウェアを借りている。そのせいで一瞬間違えそうになったけれど、微妙に体格が違うのだ。


 ペースを崩さず滑り降りた先にいたのは、やっぱり昴夜だった。ゴーグルを外して子どもっぽい目を見せながら「英凜、ボード上手いね」と余裕綽々よゆうしゃくしゃくな褒め方をする。


「昴夜ってスノボやったことあるの?」

「あるけど、そんな上手かった?」

「上手いよ、みんなが注目しちゃうくらいには」


 ただでさえ綺麗な顔というか、日本人憧れのハーフの顔なのだから、そこにゲレンデマジックでもかけようものなら芸能人みたいなものだ。


「侑生とは一緒に滑ってないの?」

「リフトは一緒だったんだけど、はぐれたみたい。コース間違えちゃったかな」


 ウェアのポケットからゲレンデの地図を取り出す。地図なんてスマホでPDFを見ればいいと思っていたのに、ウェアに着替えた後で自分の手にあるのが携帯電話だと気付いて愕然とした。数ヶ月経っても技術退には慣れない。


 いま私達がいるのは……とリフト番号に視線を向けていると、“Hi!”だか“Hey!”だか、不意に英語が聞こえてきた。明らかに私達に向けられたその主は、ゴーグルで年齢不詳ではあるものの、髭面のいかにもな外国人だった。


 スーッと滑らかにスキーを滑らせて私達の近くに来たその人が“You’re Japanese, right?”から始めてごちゃごちゃと問答無用で話しかけてくる。なにか返事をしなきゃ、と私が口を開こうとしたとき


“Certainly.”


 隣の昴夜が間髪入れずにこやかに返事をした。


 驚いて顔を向ける間に、その人と昴夜は「中国人かとも思ったんだが」「日本人でも区別つかないことあるからね」みたいなことを英語で話し始めた。唖然とする私の前で「食事って言った?」「そう、和食が好きなんだ、スシとか。どこかいいところを知らないか?」「ごめん、俺ら高校生だから安いとこしか知らないんだ。でも札幌駅の寿司はおいしいって聞いたよ」と、世間話のような観光案内のような話を繰り広げ、しかも昴夜のそれはびっくりするほど流暢だった。なんならたまに何を話しているのか分からなかった。


 まるで旧友のように親しげに話した後、そのおじさんは私に向き直り


“I love your goggles.”


 とにこやかに笑んで、そして去って行った。


 何が、起こった。困惑する私の隣で、昴夜は「英凜、ゴーグル似合ってるって」と通訳をしてくれた。なぜ突然ゴーグルを褒められたのかも分からなかった。


「……昴夜って、そんなに英語できたんだ」

「え? あー、そだね、なんか小さいときに英語聞いてるといいって言うもんね。母親に感謝かな」


 なんでもないことのように笑う昴夜の後ろを、女の子達が「ペラペラだったね」「ハーフだよ絶対」と話しながら通り過ぎるのが聞こえた。きっと、私も彼女達の立場なら同じ感想を抱いただろう。


 でも、昴夜って、お母さんとは日本語を喋ってたって言ってなかったっけ? 英語は得意科目だったけれど、あくまで相対的な話で、そんなにずば抜けてできていたような記憶はない。


「どしたの英凜、惚れ直しちゃった?」


 いたずらっぽく笑う顔が可愛くて照れくさくて、制約とは無関係に「そんなことない」と口を尖らせてしまった。でも実際、高校生のときにこんなイベントがあれば惚れ直していたに違いない。田舎で暮らしていた当時は帰国子女に縁はなく、流暢な英語を聞くだけで三割増しの格好良さがあった。


 そんなところへ、ザッと雪をかきわけ、侑生が滑ってきた。


「やっといた」

「あ、ごめん。道間違えてたみたい」

「ならよかった。山頂、ホワイトアウトしただかするだか、そんなアナウンス聞こえたから」


 遭難でもしたのかと思ってた、と侑生はゴーグルを外す。また、通りすがりの子達が黄色い声を上げるのが聞こえた。


 侑生も、格好いいのにな。私は道を間違えてぼーっとしていて、なんならリフト付近で昴夜と立ち話をしていたというのに、おそらく侑生は滑りながら私の姿を探し、ホワイトアウトのお知らせを聞いて心配までしてくれていた。格好良くて優しいのに、なぜ、私は侑生を好きにならなかったのだろう。


「えー、俺もっかい滑ろうと思ってたのに」

「まだ行けるんじゃね、ゴンドラは動いてるし」

「んじゃ侑生一緒に行こうよ」

「いいけど、英凜は?」

「行く」


 慣れた動きでリフトへ向かう二人に続く。リフトは三人乗りで、少しぎゅうぎゅうと肩を触れさせながら、昴夜、私、侑生の順に並んだ。自然に並ぶと昴夜と侑生が隣り合うはずだったけれど、男が二人並ぶと狭いと侑生が文句を言ったせいだった。侑生は、私と昴夜が隣り合うことを気にしなかった。


「つか、あんなとこで何してたの」

「外人にお店聞かれてた」

「昴夜、すっごい英語ペラペラなんだよ。侑生知ってた?」


 リフトにいるのも忘れて少し身を乗り出し、興奮気味に口にしてしまう。侑生が「え? 知らなかった」と一方の眉を吊り上げれば、昴夜がどこか気まずそうにムッと口を真一文字にする。


「お前の英語、唯一赤点じゃない科目くらいの認識しかなかったんだけど」

「いやいやいやいやいや、英語は赤点じゃないじゃなくて普通に成績良いからね!」

「そういや微妙に発音いいなみたいなのは言ってるヤツいたかもな。顔もハーフっぽいって」

「ぽいんじゃなくてハーフです!」

「でも外人から見たら昴夜って日本人なんだね」

「まあね、そんなもんじゃない? 英凜と一緒にもいたし」

「ごめんね平面顔で」

「そんなこと言ってないじゃん! てか英凜は鼻高くて顔立ちはっきりしてるほうじゃん!」


 ぐらぐらと、ほんのりと揺れるリフトに三人で乗って、くだらない話で笑う。ゴンドラに乗ってもそれは変わらず、降りた後は「ホワイトアウトする前に降りるか」「ホワイトアウトマジで怖いよね、死ぬかと思った」と滑りだす昴夜と侑生に続く。急斜面を滑走する私の前で、二つの後ろ姿はどんどん小さくなった。


 ロッジのあたりまで滑り降りると、昴夜は荒神くん達と合流した。昴夜ほど上手く滑ることができずに置いてけぼりをくらっていたせいで「今度はちゃんと教えろよ!」と憤慨している。


「英凜、次滑らねーの」

「お昼食べない? もう一時だし、次滑り始めたらお腹空いて倒れちゃいそう」

「え、待って? 俺もうゲート通ったじゃん!」


 荒神くん達と一緒にリフトへ行ってしまった昴夜が、キャンキャンと吠える子犬のように私達を振り向く。昴夜も一緒に食べることができたほうがよかったけれど、そこは侑生が彼氏なのだから仕方がない。侑生と手を振ると「ひどい! いじわる!」と空中からも叫ばれた。


 ボードに足を乗せる前に、もう一度リフトを振り返る。昴夜は、恨みがましそうな、拗ねた顔でこちらを見ていた。


 お昼過ぎのロッジは混んでいて、私と侑生がやっと席を確保して食べ始めた頃、滑っていたはずの昴夜達が現れた。私が焼きおにぎり、侑生がカレーを食べる横を通りかかりながら、三人組の昴夜は「あとひとつ席あれば侑生らと交代で座れたのに」とがっくり肩を落とす。


「ここに椅子持ってきちゃだめかな、通路でもないし。でも空いてる椅子がないのか」

「レストランっぽいほう行く?」

「あっち雰囲気ないからヤだってなったんじゃん」

「背に腹は代えられないってヤツ。あんま遠くないならそっちにしよ」


 昴夜がもう一人の友達とゲレンデマップを見るためにロッジの端へ向かう。荒神くんがそれについて行こうとしつつも「つか侑生さあ」と顔だけ振り返った。その顔はちょっとだけ悪戯っぽく笑っている。


「三国と飯食うとき、いっつもそんなのんびり食ってんの?」


 侑生が早食いだという話ではなく、侑生は平均的な男子高校生としてご飯を食べるのが早かった。


「うるせーな、関係ねーだろ」

「ハイハイ、お邪魔しました」

「……英凜、気にすんなよ」


 進捗に大差ない私の焼きおにぎりと侑生のカレーを見比べていると、苦笑いを向けられた。


「一緒に食ってんだから、急ぐ必要ない」

「……そうじゃなくて」


 気を遣わせてしまっていると申し訳なくなったのではない。そうではなくて、思い出したのだ。


 侑生と昴夜と友達になったばかりの頃、二人とファミレスで晩ご飯を食べていたとき、一人だけ食べるのが遅くて焦っている私に、侑生が「急いで食べなくていい」と言ってくれたことがあった。どうせドリンクバーを飲んで居座るから、食事中の人がいるほうがいいのだと、そんな理由だった。


 でも、付き合ってから、侑生が先に食事を終えたのを見たことがなかった、気がする。少なくともタイムリープしてからは間違いない。それに――そうだ、付き合っていた頃も、ちょっとコーヒーを飲むときでさえ、侑生はいつも私のペースに合わせてコーヒーを飲み終えていた。……一緒にいる私が焦らないように、侑生に気を遣わないように。


 私が“いい彼女”であろうとしたように、侑生も“いい彼氏”でいようとしてくれていた。


「……侑生こそ、私に気を遣わないで、食べちゃっていいよ」

「別に、気遣ってるわけじゃない」

「でも荒神くん達と食べるとき、いつも早いし」

「アイツらうるさいからな、聞く側に回ってたら自然に食い終わってる。相対的な問題」


 ほら、そうやって侑生は誤魔化すのが上手い。大人びているといえば聞こえはいいけれど、まさしく“他人行儀”といえばそうだろう。


 私達は、ずっと、こうして他人行儀だったのだろうか。


「つか食べるのが早いといえば、最近ペース戻ったな」

「……どういうこと?」


 じっと考えこんでしまっていたことがあって、反応が遅れてしまった。


「夏休み明けの英凜、めちゃくちゃ早食いだったから。一体どうしたって思ってたけど、最近またのんびりに戻った」


 まったく自覚はなかったけれど、間違いなく職業病だ。上の先生達はおじさんばかり、一緒にお昼をとることもあるが、その所要時間は外出してから戻ってくるまで実に二十分なんてざらだった。周りの友人もみんなそうだったから気にしたことがなかったけれど、帰省したときに親に指摘されたことがある。


「多分、仕事のせい」

「忙しいから?」

「っていうと少し違うんだけど、周りが男だらけで食べるのが早くて。自覚はなかったけど、早食いになったって言われたことはあった」

「無自覚系女子かよ」

「無自覚系早食い女子なんてただの悪口じゃん」


 何気ない会話を続けながら視線を向ける先で、侑生の手の動くスピードは、やっぱりゆっくりだった。


 その夜、お風呂上りに髪を拭いていると、携帯電話にメールが届いた。確認する前に、陽菜が「英凜、雲雀の部屋行くの?」と洗面所から顔を出し、私の視線もそちらに向く。


「特に約束してないけど」

「もったいねーな! 彼氏がいる修学旅行だぞ! なんでもかんでもやりたい放題!」

「発想が男子だよ」

「雲雀の同室、桜井だろ? 絶対気利かせてくれるし、遊びに行けばいいじゃん」

「んー……」


 過去の私は、これから侑生と二人で過ごす。


 でも例えば、いまから私が昴夜に連絡して一緒に過ごすことは可能なのだろうか。札幌を四人で観光したことといい、ゲレンデで昴夜が外国人に話しかけられたことといい、修学旅行には変化があり過ぎる。侑生とのXデーは、変えられる過去と変えられない過去、どちらに分類されているのか……。


「つかあれ使わないの、雲雀がくれた簪」

「今日はスノボだったから、失くしたら困るでしょ」

「そうじゃなくて、いま挿して行けって話だよ。てかここ使ってもいいよ、あたしも友達の部屋行くし」


 ああそうだ、メールが届いていたんだった。手に持ったままだった携帯電話を開いて――目を見開く。


<差出人:雲雀侑生


 件名:無題


 本文:部屋来ない?>


「ほら! 雲雀もそう言ってんじゃん!」


 勝手に画面を覗き込んだ陽菜が、パンッと肩を叩く。


「んじゃ、あたしも遊びに行ってくるから」

「鍵は?」

「英凜持ってて、あたし帰ってこないかもだし。お前は帰してもらえないかもしれないけどな!」


 本当に発想が男子だな……。<すぐに行く>と返事をした後で、簪のことを思い出す。


 挿していくべきか、いや、どうせ別れるのに、目の前で簪を使っているのを見せるなんてそんな思わせぶりなことをしていいのか?


 悩んだ末に、髪を簪で束ねた。


 部屋に行くと、お風呂上りで浴衣姿の侑生が迎えてくれた。その髪は、普段はワックスでいかつく固められているけれど、今はふんわりとして柔らかそうだった。うず、と触りたい欲が芽生えたけれど、三十歳の自分が十七歳の彼氏の頭を撫でるのは犯罪のような気がして堪えた。


「髪、乾かしてねーの」

「長いから面倒くさくて」

「見てるこっちが寒い。乾かそう」


 “乾かして”ではなく“乾かそう”とは? 訝しんでいると、侑生はドライヤーをセットして手招きした。


「乾かすから、ここ座って」

「え、侑生が?」

「俺が」

「私の髪だよね?」

「俺の髪は乾いてる」

「そうなんだけど、そうじゃなくて」


 恥ずかしいんですけど。そう口に出す前に「一回やってみたいから」と畳みかけられ、おそるおそるベッドに座り込んだ。部屋に呼ばれたことといい、侑生が妙に強引というか、積極的だ。


 後ろに侑生が座り、ギィという音と共にスプリングが沈む。緊張のような羞恥のような感覚が、胸の内から湧いてくる。


「……簪、つけてんだ」

「え、あ、うん。濡れた髪で練習するといいって説明書に書いてあったし」

「……これ普通に抜いていいの?」

「うん」


 髪を束ねていた棒が抜けて、濡れて重たい髪が落ちる。後ろから出てきた手に簪を渡され、それを握りしめる。そのまま、侑生はドライヤーのスイッチを入れた。


 ブオーと、うるさい風の音がする。私の髪を梳く侑生の手は、どこかぎこちなくて遠慮がちだ。しかも、途中で「やりにくい」と姿勢を変えられ、侑生の膝の中に座るような形になってしまった。


 気恥ずかしいからなにか喋って誤魔化したい、でも喋っても聞こえないとなると黙るしかない。ドライヤーの轟音が響く中で、そんな微妙な沈黙が流れていた。


「女子って大変なんだな」


 十分ほど経ってから、侑生はドライヤーのスイッチを切った。その手で毛先に触れながら「まだ湿ってる」とぼやく、それだけで背筋がじんわりと熱を帯びた。


「……これだけ乾けばいいよ。ありがと」

「簪、挿してみていい?」


 ……本当に、今日の侑生はどうしたのだろう。さっきとはまた違う緊張を感じながら「いいけど、挿し方分かる?」「店で見てたろ」と簪を渡す。


 スルリスルリと、指先は変わらず遠慮がちに髪を梳く。自分でも頬が赤くなっているのが分かった。年甲斐もないというほど年を取っているつもりはないけれど、そっか、高校生のときって、こんなことにドキドキしてたな、そんなことを考える。


「痛かったら言って」

「ん、大丈夫」


 絶妙な力加減で髪が束ねられていく。私なんかよりよっぽど器用だ。


 そういえば、将来の侑生は何の専門医になるのだろう。医学部に受かったことまでは知っているし、ご両親の職業とは別に医者になろうとしていたから、医者になっていないはずはない。指先が器用だから外科医がいいんじゃないかな、なんていうのは素人の所感なのだろうか。


「侑生って何の専門医になりたいの?」

「なに、急に」

「器用だから外科医が向いてるのかなって。左利きはスポーツに有利なんじゃないかってくらい安直で素人的な感想」

「分からなくはない発想だな。別に、今のところ何もないよ。これで止まってんの?」

「うん、ありがと」


 返事をしながら髪に触れようと手を伸ばしたとき、不意に侑生の体温が近づいた。


 抱きしめられる、と察知した瞬間には腰に腕が回っていた。


 侑生の膝の中で後ろから抱きしめられ、肩に顎を乗せられる。タイムリープ後も何度も経験したことなのに、心臓は跳ね上がり、体が密着したまま動けなくなった。


 何を言えばいい。いや、何も言う必要なんてない。だって、侑生に抱きしめられるのは、いまの私にとって当たり前のことだから。


 ……たとえ、別れがくると、お互いに分かっていても。


「……英凜」


 唇が肌の上で動く。簪に髪が巻き上げられ、うなじは無防備そのもので、背筋が少し官能的に震えた。


 いや、それより、この声音は。脳裏には、この数日間に何度も過ったあの日のことが浮かぶ。


「……なに?」


 ドクリドクリと心臓が鳴っていた。Xデーは変わらずやってきてしまうのかという緊張もあったけれど、何より、あのときと同じように侑生を傷つけていないかという恐怖のせいだった。


「……クリスマス、昴夜と三人で遊ばない?」

「え?」


 それなのに、あまりにも平和な提案に素っ頓狂な声と一緒に振り向いてしまった。私の体に回っていた侑生の腕は、それに合わせて自然と離れた。


「だめ?」

「いや……、私は、だめじゃないけど……なんでこんなタイミングで」


 わざわざ呼び出してする話ではない。しかも、デートをするのではなく、昴夜と三人? 困惑を浮かべると、侑生は取り繕うような笑みを浮かべた。


「早めに話さないと、決心が鈍りそうだったから」

「……決心って」

「……文化祭のときに言ったろ。まだ整理できていない、だからもう少し待ってほしいって。……あれからもう一ヶ月経った」


 何の決心なのか、そこまで聞いてやっと理解した。


「宙ぶらりんのまま、一ヶ月も付き合わせてごめん。今日で最後に――」

「待って」


 慌てて座り直し、真正面から侑生に向き直る。


「侑生は……、侑生は、本当はどうしたいの。クリスマスに三人で遊ぶんじゃなくて、侑生は」

「……俺はそれでいいよ」

「それいいじゃなくて、侑生は?」


 文字通り膝と膝が触れ合う距離で詰め寄るけれど、ああでも、そうだ、侑生が言えるはずなんてないのだ。


 改めて姿勢を正し、真正面から侑生の顔を見た。まっすぐに侑生の目を見つめるのは久しぶりだった。きれいに整った顔に張り付いた笑みと、それについていけず、笑えない目。まるで諦めたような暗い影が、その顔には落ちていた。


 そんな顔をさせているのは、私だ。心臓が締め付けられる痛みに耐えるために、一度、強く唇を引き結んだ。


「……侑生、私ね」

「英凜、無理しないでいいよ」


 溜息を吐きながら、侑生は両手を私の肩に載せる。そのままゆっくり、遠くへ押しやるように、その手に力がこめられた。


「きっと、過去の英凜もそうだったんだろ。俺を傷つけちゃいけない、俺と付き合った以上、自分から別れたいなんて言っちゃいけない、きっとずっとそう自分に言い聞かせて、昴夜への感情を押し殺してたんだろ」


 どうして侑生は、そうして私を見透かすことができるのだろう。私でさえ、あのときは分からなかったのに。


「そのせいで昴夜を失ったのに、もう一度同じ悲劇を繰り返すことなんてない。昴夜に告白できないんだとしても、昴夜はそうじゃないはず――俺と別れれば、昴夜の態度は変わるはずだ。そうして、未来を変えればいい」


 そうかもしれない。私と違って昴夜には制約がないのだから、そうすれば未来は変わるかもしれない――それだけが、未来を変える唯一の方法なのかもしれない。


「でも、それじゃあ侑生が貧乏くじを引いてるだけでしょう?」


 そうだとして、侑生はどうなる? 気持ちに整理をつけたわけではなく、“一ヶ月も経ってしまった”なんて理由で無理矢理別れを決意した侑生は、代わりに深い傷を負うだけなんじゃないか。


 そんなことをしてしまったら、それこそ、過去と同じことの繰り返し――それどころか、過去より一層酷い過去を生むだけだ。


「それでも、昴夜を失うより――」

「ねえ侑生、聞いて」


 侑生の両腕を掴んで肩からおろし、その両手を両手で握る。私より大きな手だけれど、目の前の侑生は十七歳で、いまの私よりずっと年下だ。


 それなのに、未来を知って、私と別れようとしてくれている。たったの十七歳なのに、いわば理不尽に未来を知らされて、私のためにすべてを我慢しようとしてくれている。


「……確かに、私はずっと、昴夜が好きだった。ずっと言えなくて、言わないことで侑生を気遣ってるつもりになってて、ごめんなさい」

「……謝ることじゃない。俺だって気付いてたって、言ったろ」

「それでも、言わなきゃいけなかったのは私。それから、夏休みにこれからの私達がどうなるか話した――私と侑生はホワイトデーに別れて、私は卒業式に昴夜と付き合って、でもすぐに離れ離れになって、侑生も含めて、私達の関係はそれっきりだって。……夢だと思って、余計な話をして、ごめんなさい」

「……別に余計なんかじゃ」

「それなら、そんな変な我慢しないで。私に気遣って、そんなに我慢ばっかりしないでいいよ」


 三国と飯食うとき、いっつもそんなのんびり食ってんの――お昼に、荒神くんからかけられた言葉を思い出す。


「……荒神くんが、侑生がゆっくりご飯を食べてるって言ったでしょ」

「……ああ」

「侑生はいつもそうだった。付き合ってる間、いつも侑生はゆっくりご飯を食べて、私に合わせてくれた。デートもそう、どこかに行くときも、行った先で何かを食べるときも、いつも私に気を遣って、私が好きなものか、私が嫌じゃないかを気にしてくれてた。……侑生はずっと、“良い彼氏”でいてくれた」


 あのとき、気が付いたのだ。私と侑生は、ある意味似た者同士だったと。


 私は昴夜を好きだったけれど、それを言い出せなくて、せめて侑生の “良い彼女”であろうとした。そして侑生は、私が昴夜を好きだと知っていたから、自分と私のために“良い彼氏”であろうとしていた。


 侑生は私を「他人行儀だ」と言ったけれど、侑生もそうだった。悪い意味じゃない、ただ侑生は、どこまでも私を優しく扱ってくれていた。そうしなければ私が離れてしまうと怖がるように、付き合っている以上そうしなければならないと焦るように。


「もっと、我儘を言ってくれていい。いちいち私の気持ちばっかりを優先しないでいいし、見当違いな気遣いばっかりして最低だって、私をなじっていい。……説教してるんじゃないの。私がずっと、侑生にそうさせてたんだって、あの頃の私は考えもしなかった」


 握りしめている両手を、改めて強く握った。侑生の手はいつも温かい。今もそうだ。お陰で、ひんやりと冷たい私の指先はみるみる温まっていく。


 侑生の傍は、こんな風に、いつも温かかった。その居心地の良さに、私はずっと甘えて、溺れていたのだ。


「クリスマスに三人で遊ぼうなんて、私が未来のことなんて口走らなければ提案しなかったでしょう? 侑生のほうこそ、自分の気持ちを押し殺さないでいい。……もちろん、侑生が本当にそう決意したなら、別だけど」


 侑生は、しばらく黙っていた。


「……わざわざ、英凜と昴夜の仲のお膳立てをしたいわけじゃない」

「……うん」

「……でも、クリスマスに俺とデートするってなったら? 俺が我慢しない代わりに、英凜が我慢するだけだろ」

「我慢じゃないよ」

「どうして?」

「だって過去の私は、ホワイトデーまでは侑生と付き合ってたんだから」


 未来を変えたいからって、私と侑生のすべてをなかったことにするのは正しいのだろうか。私は高校生活の半分近くを侑生と一緒に過ごし、忘れてしまうほど些細な日常まで含めて共有していた。それなのに、“どうせ別れるし、卒業してから会うことはないし、結局好きになれなかった元カレだから意味がない”だなんて、そんなふうに言えるだろうか。


 いまになっても、私は、侑生のことを誰よりも特別な人だと断じるのに。


 未来を変えることを諦めたわけではない。ただ、過去は既に過ぎ去っていて、それを書き換えることはできないのだ。過去の私を積み重ねて、現在の私があるのだから。


「侑生と積み重ねた日々が無駄だったなんて、私は思ってない。後悔はたくさんあるけど、でもそのために侑生との日々を失っていいわけじゃない。なんなら、侑生との日々だって、もっとこうしてたらよかったのにって思うことがたくさんある」


 もし、私が侑生と向き合えば、侑生も私に他人行儀にならずに済んだのではないだろうか。そうすれば、せめて侑生にとっての私も、ただ他人行儀な彼氏彼女で終わった相手にならずに済むのではないだろうか。


 昴夜を失いたくない。それでも私は、侑生との関係だって、あんな風に中途半端に終わらせたくない。


「私、自覚はなかったけど、結構我儘で欲張りなんだと思う。昴夜がいなくなる事件を防ぎたいのはそうだけど、そのために侑生を犠牲にしたくもない。最初に話したとおり、侑生にだって、元気でいて、幸せでいてほしい」


 未来の侑生が高校生活を振り返って、“ああ、そういえばあんな頃もあったな”と懐かしく思えるようになってほしい。


「だから――……例えば侑生の誕生日とか、実は過去だと迷走に迷走を重ねてマグカップを買ったんだけど、いま思うと大して知らない相手にした贈り物みたいでセンスないなというか、侑生も大して嬉しくなさそうだったなと思い出して、でもパスケースは多分喜んで……くれたよね? 侑生とそういう付き合い方をできたらいいなと……」


 自信があるのかないのか、よく分からない私の口振りのせいか、侑生は苦笑した。


「……マグカップだったら、凹んでたかもな」

「やっぱり……」

「マグカップがイヤってわけじゃなくて、散々悩んで落ち着くところがマグカップってことに落ち込んでたと思う。英凜と俺の距離はその程度でしかないって」


 私の手の中にある侑生の手が、ようやく意志を持つ。握り返してくる手は、よく知っている優しい手だった。


「……クリスマスだけど、英凜がいいなら、デートして。最後にしたデート、東高の文化祭だし」

「うん」

「弁護士先生を満足させるクリスマスデートは出来ないけど」

「いやそんなの大丈夫だから。大体、弁護士になってからクリスマスデートなんてしたことないし……」


 何が気になったのか、侑生は何も言わずに軽く瞬きをした。でも訊ねる前に「それならいいけど」と続きを引き取る。


「ちなみに、高二のクリスマスは何したの、俺達」

「……確か一色駅のイルミネーションを見て、ファミレスでご飯を食べて侑生の家で映画を見た」

「普通だな。どうせ英凜がいつもどおりのところで飯食えばいいって言ったんだろ」


 覚えていないけれど、そうに違いない。


「……どうせ我儘言いまくるなら、前みたいにうちで一緒に飯作って」

「その程度の我儘でいいの」

「きっと過去の英凜ならしなかったんだから、充分すぎる我儘だろ。後は、まあ、帰りながら考えるけど」


 クリスマスは目と鼻の先で、しかもイブは修学旅行の代休だった。


「……空港でお土産買いたいな」

「お土産?」

「うん。英凜との修学旅行の思い出」


 ――そうか。不意に、過去の侑生が、おそろいのストラップなんてらしくないものを買った理由が分かった。


 あの時点で、私は昴夜と両想いだと分かっていたから、どうせ私と上手くいかないと分かっていたから、最後の思い出を形に残したかったのだ。


 ……本当に。本当に、侑生は、誰よりも、唯一、私のことが好きだったのだ。


 もちろん知っていた。侑生はいつも「好き」を口にしてくれたし、あらゆる言動にその感情は現れていた。侑生を知っている子だって、みんな口を揃えて「英凜にだけは優しい」と言っていた。


 それを、あの頃の私は、いまほど理解していたのだろうか。


「……なんで英凜が泣くの?」


 あまりにも唐突に、侑生の気持ちを理解できてしまった。それが棘となって胸に刺さり、ぼろぼろと涙が零れる。侑生は困った顔はしなかったけれど、苦笑いを浮かべた。


「夏休みに会ったときもそうだったな。タイムリープの話をするたびに、英凜は泣いてる」


 温かい指先が目尻に触れる。涙は止まらず、侑生の手を濡らした。


「本当に、ずっと後悔してたんだな」

「……違う」

「うん?」

「……夏休み、タイムリープして初めて会ったときはそうだったけど、今はそうじゃない」


 過去への後悔が消えたわけではない。でも、いまの涙の理由はそれではなかった。


「私、ずっと、分かってなかった。侑生にも言われたことがあったけど、分かってなかったの、侑生がどれだけ私を好きでいてくれたのか」


 走馬灯のように、あの頃のことを思い出す。


 まだ付き合っていない一年生の夏祭り、暴漢に襲われた私を助けてくれて、落ち着くまでずっと抱きしめてくれた。そんな私を、彼氏でもない男にすがりつくなんてと罵倒した男子に怒ってくれた。付き合い始めた後、昴夜のことで喧嘩になったのに、新庄に捕まった私を、ボロボロになりながら助けてくれた。私はずっと昴夜のことばかりだったのに、ただ自分の片想いだから仕方がないと、一度も私を責めなかった。


 昴夜がいなくなった直後もそうだった。自首する昴夜と最後に会ったのは侑生で、いきなり親友を失って侑生だって精神的にどん底だったはずなのに、私のことを気遣ってくれた。


 英凜は何も悪くない、だからあんまり泣くなよ――そう言ってくれた。


「ごめんなさい」


 あの頃の私は、侑生を、昴夜より好きになることができなかった。それでも侑生は、ずっと私を好きで、誰より大事にしてくれた。侑生は、私にとっていなくてはならない人だった。


 私は、それを全然理解できていなかった。


「ごめんなさい、侑生。本当に、ごめんなさい」


 わんわんと子どもみたいに泣き始めてしまった私を、侑生はやっぱり責めず、ただ黙って抱きしめてくれた。


 扉のノック音が聞こえたのは、すすり泣きに変わった頃だった。


「ゆーき、いる?」


 返事を待たずに入ってきた昴夜は、ベッドの上に座り込んでいる私達を見て――なんなら私が泣いていたことに気付いて、一瞬硬直したように見えた。私は慌てて顔を拭こうとしたけれど、手近なティッシュは既に涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、侑生が新たにティッシュを差し出してくれるのを受け取るしかなかった。


「あ、あの、これは、違うの。その……なんでもなくて」

「いや……うん……いやうん……。……侑生が泣かせた、わけじゃない……?」


 どうやら喧嘩をしていたわけではないらしい、というのは伝わったのだろう。居心地悪そうに目を泳がせる昴夜に、激しく首を縦に振った。


「それなら……、いいけど、いやよくないんだけど。……いやでも……うん。……いや、俺がいない間に英凜連れ込んでるとか引くんだけどな!」


 おどけた態度は、気まずさを誤魔化そうとしているのがバレバレだった。


「引くって、何にだよ」

「なんか……なんかこう、やらしいじゃん! てか俺を邪魔みたいな目で見ないで!」「邪魔だろ、何言ってんだ」

「あ、そういうこと言う! 親友と彼女どっちが大事なんだよ!」


 キャンキャンと子犬が威嚇するような様子で、でも「ちぇっ、俺なんてイルミネーション拒否っただけで胡桃にキレられたのに、なんだよなんだよ」と変な拗ね方をした。


「拒否ったのかよ、行けよ」

「やだよ、別に興味ないし」

「んじゃどうでもいいけど、それはそれとして邪魔だから出て行け」

「あー、そういうこと言うなら出て行きません。ここに座ります、何の話してたの?」

「クリスマスデートの行き先」

「……侑生きらい」


 昴夜は本当にベッドに横になり、枕に顔を埋めた。


 この状況で昴夜がいると、私にとっても少し邪魔だな……ととんでもないことを考えてしまっていると「てか二人いるなら外に遊びに行こ、夜パフェってヤツ」と昴夜もこれまた厄介な提案をした。今しがた、三人で遊ぶより二人でデートしようと話したばかりなのに。


「……夜の外出は禁止でしょ」

「バレないからセーフ。行こ!」


 侑生の顔を見ると「ま、せっかく修学旅行だし」と肩を竦めるだけで拒絶しなかった。これは建前か、それとも本音か……?


「いや……、私は……ほら、先生に見つかるの怖いから」

「俺らが無理矢理連れ出したって言えばいいだろ、行くなら早く行こう」

「侑生、結構乗り気じゃん」


 侑生はそれでいいの? 目だけで訊ねると「着替えてきたら」と畳みかけられた。


「……でも」

「英凜、いいから」


 とりあえず今は気にしなくていいから。そう言われているような気がして、頷いた。昴夜はベッドの上に転がったまま「あー、カップルのアイコンタクトやだー」と口を尖らせていた。


 結局、私達は三人でこっそりホテルを抜け出して、夜の札幌に繰り出した。いまにも崩れそうな絶妙なバランスで組み立てられたパフェに三人ではしゃいで、他愛ない話に笑って、帰路について、これまたこっそりとホテルに戻った。無事、先生に見つかることはなかった。


 例のXデーだったはずなのに、私と侑生はもちろん、昴夜とも、喧嘩になることはなかった。

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