Re:05 Reconfess

 昴夜を好きだと気付いたときに侑生と別れるべきだった。きっと誰もがそう思う。


 それでも私が侑生と別れなかった――別れることができなかった原因は、きっと一年生の十二月の事件にあった。


 その日の私と侑生は、学校の帰り道で口論になった。きっかけが何だったのかは覚えていない、でもきっと昴夜のことだ。


「好きなヤツの好きな相手くらい分かる」「でも私は侑生とキスしてイヤだなんて思わない」「“イヤじゃない”と“好き”には天地の差がある、英凜にとっての俺は“好きな友達”だろ」――そんな喧嘩をした。


 それでも私は、侑生と付き合うと決めたのに。生半可な覚悟じゃない、侑生を好きになる、そう決めたのに。私はそう泣き出してしまった。


 口論の末、私達は別々に帰り、そして私は運悪く新庄に出くわした。無理矢理酩酊めいていさせられ、乗じて強姦もされかけた。準強姦未遂だった。助けにきてくれた侑生は散々になぶられ、大怪我をし、頬には大きな傷跡が残った。


 侑生のことは大好きだった。誰よりも特別だった。


 それでも、それが枷だったのではないかと言われると、否定することはできなかった。私も、そして侑生も。




 文化祭の日、二年六組は英国風の喫茶店をすることになっていた。


 私は陽菜と共に更衣室でメイド服に着替えた。膝丈の黒いワンピースで腰から下には白いエプロン、裾にはレース、肩はクラシカルに膨らみ、胸元にリボンを結んだそれは、三十歳が着ると痛々しいどころの騒ぎではない。何度も鏡を見て、自分の顔が十六歳であることを確認した。


 陽菜にその姿を茶化されながら教室へ向かう途中、昴夜と侑生の後ろ姿を見つけた。


「アイツら足なげーな、おーい」


 振り向いた二人の髪は、ダークブラウンにカラーリングされていた。さらに、昴夜はいつもふわふわの髪をワックスで優等生風にかためていたし、侑生もその髪をおしゃれに後ろに流している。スーツ用のベストと黒い蝶ネクタイをつけた二人は、英国風執事見習いといったところだ。


「おい雲雀、彼女のメイド服だぞ」

「……あ、そう」

「侑生はそういうものに興味ないから」

「イケメンなのは顔だけにしろよ雲雀ッ」


 格好つけているのではなく、本当に興味がないのだと思う。侑生は、ここに来るまでに擦れ違った男子達と違って私の胸元やスカートの裾をじろじろ見ることはしないし、私の顔を見て「媚びてる服装は三国のキャラじゃないなとは思う」と言うくらいだ。


「侑生、もともと媚びてる服装嫌いじゃん、フリフリふわふわーみたいなの」

「好きなヤツいんの、それ?」

「いるからあるんじゃないの?」

「いると思って着るヤツがいるだけじゃねーの? どんだけ顔が良くても自分のこと一人称で呼ぶのはヤベェって気付いてない女子みたいな」

「コワッ、たまに雲雀のキライなタイプ聞くとゾッとする」


 私の視線は、隣の昴夜に釘付けだ。現実でも見たことがあるはずなのに、目の前の昴夜が可愛い通り越して格好よすぎるのだ。ハーフの昴夜にはもともとうってつけの衣装なのだろう。


 可愛いと格好いいの絶妙なバランスの上に立っている。ドキドキしながら、目が合わないのをいいことにその姿を舐めるように見てしまった。これは……これは、三十歳の私が十七歳の昴夜に対してしていると考えると、犯罪……? いや見るだけなら自由……。


「つか英凜も反応しろよ、彼氏の恰好に!」


 そうして見惚れてしまい、陽菜の声を受けて無理矢理侑生に焦点を合わせた。侑生だってもちろん、背が高くてスラッと足が長くて、顔もきれいで、文句なしに格好いい。


 そっか、高校生のとき、こんなに格好いい人が彼氏だったんだ。侑生が格好いいことは知っていたつもりだったけれど、あまりにいつも隣にいるから忘れてしまっていたのかもしれない。


「格好いいね、よく似合ってるよ」

「……はあ。最近の英凜に熟年カップルみたいな余裕を感じる」


 深い溜息と共に、陽菜は昴夜の隣に並んで歩き出す。私の隣に並んだ侑生は、不良なんかではない、まるで普通の同級生のようだった。


 ああ、でもそうだ、高三になるとき、侑生は髪を黒く染め直したんだ。懐かしい、あの頃を見てるみたいだ。


「なに、髪の色似合わない?」

「まさか。それも含めて似合ってるよ」


 教室に戻り、各自シフトを確認しつつ喫茶店を開く準備をする。陽菜の配慮によって、私と侑生は揃って十三時から休憩をとることになっていた。


「英凜、写真撮ろうぜ」

「私はいい」

「ひばりー、あとで撮ってやるからあたしらの写真撮ってー」


 写真は苦手だった。レンズを向けられると緊張してしまう、その姿を他人のアルバムに残されることに抵抗があったのだ。でも陽菜は私を無視し、侑生に携帯電話を渡す。


「自分で撮れるようになればいいのにな、こういうの」

「自分で撮れるようにってなんだよ」

「他人に頼まないでも。この画面側にカメラつけて、自分で撮影画面見ながらシャッター押せればいいんだろ、理論上簡単そうだけどな」

「えー、何言ってんのか全然分かんね」


 要はスマホの自撮りだ。さすが侑生、アイディアが素で先端技術をいっている。


「三国、カメラ向けると顔が強張こわばるよな」

「写真は苦手なんだって」

「ほんとだ」


 昴夜が侑生の肩に腕を載せながら笑う。ほら、そうやって昴夜の中に残る私がブサイクになってしまう。だからイヤなのだ。


「カメラ目線じゃなかったらちゃんと撮れてるのにな。英凜の写真は盗撮しなきゃ」


 そうか、昴夜は私を好きなんだから写真が欲しいのかもしれない。そんな文脈ではないのについ納得してしまった。


 私は、昴夜の写真をあまり持っていなかった。この時代はスマホほど携帯電話内蔵カメラの画質がよくなかったというのもあるけれど、陰キャの私に彼氏でもない男子の写真なんて撮る機会がなかった。いま思い出せるだけでも、持っているのは修学旅行の写真と、せいぜい集合写真くらい。


 いまの私が昴夜の写真を撮れば、十四年後の私の手元には、もっとたくさん、昴夜の写真が残るのだろうか?


「私の写真はいいから、昴夜の写真撮ってあげるよ」

「一人で? 恥ずかしいじゃん、侑生一緒にうつってよ」

「なにが悲しくて男二人の写真を」

「いや待て、お前ら二人の写真は需要がある! 英凜にしてはいいこと言った、撮ろうぜ!」


 私と陽菜がカメラを向ける向こう側で、侑生は直立不動に無表情だけれど、昴夜は色んなポーズをとる。途中からふざけた仕草になっていたけれど、笑顔のピースの写真を撮ることができたのが嬉しい。


「ありがと」

「めちゃくちゃ撮ったね、なに? もしかして売るつもり?」

「自意識過剰」

「いま鼻で笑ったよね? んじゃ次、英凜の写真撮ろ」

「いやだから私はいいって」


 私は昴夜の写真が欲しいけれど、昴夜に私の写真を持っていてほしいかと言われるとそれは微妙だった。昴夜の中にブサイクな自分を残したくなかったし、百歩譲ったところで侑生とのツーショットを持たれるなんて謎過ぎる。


「いいじゃん、高二の文化祭の思い出に。卒業した後、懐かしいなーって見れるよ」


 “懐かしい”……。十四年後の昴夜は、私のことをどう思い出しているのだろう。それこそ、昴夜と一緒に写真を撮った記憶はない。昴夜は私の写真を持っているのだろうか。持っているとして、それを見てどんな感情を抱いているのだろう。遠く離れたところで、もう二度と会わない私のことを、どんなふうに。


「ほら、雲雀も横に立てよ」

「なんで俺まで」

「だって桜井が英凜のピン写持ってるの謎じゃん。あ、でも準備するからちょっと隅に行っといて」しっしと、陽菜は私達を窓際に追いやる。


「えー、俺、カップルの写真撮らされんの?」

「だから私はいいから。侑生だけ撮ってあげて」

「いや余計に意味分かんないから。いいよ、二人並んだの撮ったげるよ」


 十四年後の昴夜は、私を忘れてしまっているだろうか。忘れられていたら寂しいけれど、忘れてくれてたらいいな。侑生も昴夜も、私のことを忘れて、ちゃんと誰か幸せにしてくれる人を見つけてくれていたら。


 でもたまに、私と同じ気持ちで振り返ってくれたりしないかな。好きだったな、あの頃に戻りたいな、って。


「三国、頭の飾りズレてる」

「そう?」


 昴夜が携帯電話を手にカメラを起動しようとする前で、侑生が私のヘッドドレスに手を伸ばす。学校でベタベタするタイプじゃないのに珍しい。みんな準備で慌ただしく、誰も見てないからだろうか。


「ん」

「直った? ありがと」

「んじゃ英凜と侑生こっち向いてー」

「だから私は――」


 映らなくていい、とかたくなに拒否しながらもカメラのほうを見ようとして――ぐいと顎を動かされた。


 カシャンッと古臭いシャッター音が響いたのと、侑生にキスされたのと。どちらが先だっただろう。


 驚きのあまり声が出なかった。唇を拭うことすらできなかった。


「後で送っといて」


 侑生は撮られた写真を確認もせず、弁解もせずに私達に背を向け、準備に動き回るみんなに合流しに行った。


 私と昴夜が、呆然と取り残される。教室内は「チョコレートケーキどこ?」「家庭科室、誰か行ってきて」「小銭ってこれで足りる?」「テープとって」「ここ、剥がれてるんだけど何があったっけ?」そうやってせわしなく奔走するばかりで、誰も私達のことなんて見ていなかった。


 昴夜と昴夜の携帯電話以外だれも、私と侑生のキスなんて見ていない。


 でも、なんで、よりによって昴夜。他の誰に見られても冷やかされて終わるだけなのに、どうして昴夜。


 誰より一番、昴夜に見られたくないのに。


 昴夜は、バツが悪そうに視線を泳がせていた。携帯電話を持ったまま、どうすればいいか分からないように何度も瞬きする。


「…………」

「…………」

「……英凜にも送ろうか」

「いや消し――……、いや……私には、いい、です……」


 言葉尻にかぶせて削除を迫ろうとして、でも侑生がこんなことをした理由を考えると言えなかった。


 分かっている。侑生は、昴夜に見せたかったのだ。もしかしたら、見せたい通り越してその手元に残そうともしていたのかもしれない。


 こうして、私達は平然とキスする間柄だと。


 昴夜が頭に手を伸ばし、でも今日はワックスで固めているのだと思い出して、手を降ろす。それからもう少し沈黙したあと、ようやく携帯電話をポケットに突っ込んだ。


「……相変わらず仲良いね、英凜と侑生」


 私を好きだった昴夜は、どんな気持ちでそう口にするのだろう。


「……そういう話じゃない」

「……侑生があんな見せつけるタイプなんて知らなかった。あーやだやだ」


 カラ元気のような軽口と共に、昴夜も準備に混ざりに行く。残された私は、一人で泣きそうだった。


 過去に、こんな場面はなかった。侑生が昴夜の目の前で私とキスしたことなんてどこにもなかったはずだ。それなのにどうしてこんなことが起きるのだろう。未来を変えるどころか、友達以上になることのできない私達の関係を上塗りするかのように。


 私は、どうしても昴夜と一緒になってはいけないとでもいうのだろうか。


 クラスの喫茶店自体は順調で盛況だった。これといったトラブルはなく、一方で侑生と昴夜の顔による広告効果は抜群で、八割方は二人を目当てにした女性客だった。私が接客をしている間なんて、廊下の侑生がナンパされているのも聞こえた。


「英凜ィ、そろそろ休憩? 更衣室からさー、あたしのケータイ取ってきてくんない?」お昼過ぎ、陽菜が時計を見ながら言う。


「いいよ、どこにある?」

「多分スカートのポケットの中、よろしく」


 廊下に出ると、侑生はしつこくナンパされたままでいた。そのせいか、その顔はすっかり不機嫌そうに変わっていて、看板も下ろし、そこに腕を載せて壁に寄りかかっている。


 その視界の隅にメイド服の白と黒がちらついたのだろう、私が話しかけるより先に視線がこちらを向いた。


「休憩?」


 ……いや、先に謝って。急に、しかも昴夜の前でキスしたことを謝って。


 そう口にしたかったけれど、ここでそんなことを言えるはずもない。


「……そう。お昼のパン、更衣室に置きっぱなしだから取ってくる」

「ん」


 いつもどおりの態度で返事をした侑生は、いってらっしゃいとでもいうように手を振った。


 休憩時間は一緒に回ることになっていたけれど、どんな顔をしよう。いや、最初にキスの話をしよう。仮に私が侑生を好きでも、あれは怒っていいはずだ。


 そうして更衣室に向かう途中「ねー、三年一組ってどこ?」と後ろから男子の声が聞こえた。振り向くと、知らない制服を着た二人組がいる。


 これはナンパに違いない。無視しようとしたけれど「ちょちょ、シカトしないでよ」と後ろから肩を抱かれた。そうして私の目の前にぶら下がったその手に地図付のパンフレットを持っている、馬鹿なのか馬鹿にしているのかどちらだ。


「離してくれませんか?」

「可愛いねー、友達なろうよ。一緒に回ろ、どこのメイドやってんの?」


 ナンパの対処法は上手いことを言おうとせず、ただ無視し続けるに限る。ぐいと腕を押しのけようとしたけれど、さすがに相手の力が強かった。


「離してくださいってば。……ちょっと」


 誰か先生でもいないかな、と手近な教室の窓を開けたけれど、生徒のほかは一般客しか見当たらなかった。


 乱暴に振り払っても大丈夫かな。うっかり殴っちゃったなんてことになっても、十六歳の私の内申点に影響することはないかな。


 そんなことを考えていたとき「ウゴッ」ボコッと鈍い音が響いた。同時に見上げていた顔には肌色の何かがめり込んでいた。そのままドンッガタガタッとその男子は横から吹っ飛ばされたかのように廊下に転がり、近くの女子達から悲鳴が上がる。


「ッテ、なんだよ!」


 まさか悩んでいるうちに本当に手を出してしまったのだろうか。ハッと自分の手と見比べながら振り向いたけれど、そんな馬鹿な話はない。


 犯人は昴夜で、看板を首からぶらさげ、ぷらぷらと手を振っていた。


「メイドさんはおさわり禁止だよお」


 それを見て、過去にも全く同じことがあったと思い出す。あのときも二人組にナンパされ、昴夜が助けてくれた。


「ゲッ……桜井」

「はい、桜井です。うちのメイドさんにおさわりしたのは誰ですか」


 バキバキバキッとその手の中で拳が音を立てる。苛立ちと怒りに満ちたその表情は、助けられた側の私すら震えあがってしまうほど怖かった。


「俺達ちょっと道訊いただけなんで! んじゃ!」


 二人組は、まさしく脱兎のごとく逃げていった。様子を見守っていた野次馬も、それを機にぱらりぱらりと散っていく。私と昴夜だけが間抜けに廊下に取り残された。


 おそるおそる、昴夜を見上げる。詳しいやりとりは覚えていないけれど、過去の昴夜はそのまま怒って立ち去ってしまった覚えがあった。


「……ありがとう」

「んーん。英凜なにしてたの、休憩?」


 でも、いまの昴夜はナンパにしか怒っていない……。ということは、当時の私はなにか気にさわることを言ったに違いない。


「……そう。更衣室にお昼ご飯と陽菜のケータイ取りに行こうと思って」

「ついでだからついて行こっか、またナンパされても困るし」


 それどころか、そんな提案までしてくれる。なんなら私は、侑生とのキスを見せつけることになってしまった朝を思い出してちょっと気まずかったのに。


 これから侑生も休憩に入る。そう考えると、昴夜と一緒にいるのはあまり侑生に良くないのだけれど、更衣室に行くだけなら。


 それに――頭には今朝のこともちらつく――侑生にはちょっと、怒っているのだから。


「じゃ、お願い。でも女子更衣室のまわりうろついてたら変態と間違えられない?」

「そこは庇ってよ!」

「当たり前じゃん、一瞬でも冤罪が生じちゃうよって話だよ」


 笑いながら、執事服を着た昴夜の隣を歩く。


「クラスどう、お客さん入ってる?」

「入ってるよ、昴夜のお陰かな」

「バラまいてるからね、チラシ。行ったら俺ほどじゃないけどイケメンいるよって言って」


 昴夜は、今朝のキスのことには触れなかった。なんなら平然と侑生のことを口にする。


「そうやって侑生にさり気なく仕事押し付けようとしてるんだ、バレたら怒られちゃうよ」

「そんくらいいいじゃん、俺、今日ずっと客寄せパンダのパパパンダなんだよ」

「でもみんなパンダ見にくるんだよ、主役じゃん」

「適当なこと言っておだててもだめだよーだ」


 お互いにクラスの出し物を着て、お喋りをしながら歩いて、昴夜は看板をぶら下げ、たまにその手のチラシを配って宣伝もする。クラスで与えられた役目を果たしながらも、まるでデートのようだった。


 この時間がずっと続けばいいのに。更衣室に着くまでじゃなくて、もっとずっと、文化祭が終わるまで。


「あ、そういや写真買ってないや」


 渡り廊下で、昴夜が立ち止まる。視線の先には、体育祭の写真が廊下一面に貼られていた。


 そういえばこんなシステムがあった。撮影者は、おそらく学校と提携している写真館のおじさんで、行事のたびにランダムに生徒の写真を撮影する。その写真はイベントが終わってしばらくすると現像されて廊下に貼りだされ、私達は注文票の貼られた封筒に番号を書いて代金を入れ、写真を注文する。まだ生徒がスマホを持っていない時代ならではのシステムだろう。


「私もまだ買ってないや。いま見ちゃおうかな」


 昴夜の返事を待たずに歩き出してしまったけれど、すぐ後ろをついてきてくれる気配がする。飼い犬のようで可愛かった。


 この手の写真に、私は映っていることが少ない。写真家のおじさんはランダムに写真を撮るとはいえ、結局は選手宣誓だの騎馬戦だのの花形の競技に出ているか、おじさんに「写真撮って」と人懐こく言えなければ、そうそうきれいに写真におさまることはないからだ。実際、私が見つけたのは端っこにちまっと映っている自分だ。


「お祖母ちゃんには買ってって言われたけど、こんなの買ってもね」

「英凜、これめっちゃ大きく映ってるよ」

「あ、本当だ」


 でも、昴夜の指先には私が陽菜の隣でハチマキを振って応援している写真がある。昴夜は「あとこれ? とー、これ。これはちょっと小さいけど」と迷いなくいくつかの写真を指差す。私が先輩と喋っている写真、髪をポニーテールに結び直す写真、棒を拾って走る写真……。


「よく見つけるね。ウォーリーを探せとか上手い?」

「んー、んー、どうだろ……あ、あとこれ」

「……ほんとだ。お祖母ちゃんに言っとくね、昴夜が写真見つけてくれたって」


 言われた番号を封筒に書き込みながら、私はこっそり、昴夜の写真を探す。昴夜を好きだと気付かれることは構わないし、むしろ気付いてほしいけれど、それとこの気恥ずかしさとは話が別だった。


 昴夜の写真は次々と見つかった。徒競走にクラス対抗リレー、色別リレー等々、花形競技を総なめしていたし、なにより見た目がいいので目立っていたのだろう。中でも、ハチマキを真剣な顔で巻きなおす姿を映した写真に目がいく。一番日の高い時間帯、輝く陽光を受けた髪には金環が輝き、ハチマキは風に巻き上げられ、凛々しい眉と目つきには、まさしく“選手”の貫禄がある。


 こんな写真、あったっけ?


「……これ、よく撮れてるね」

「あー、これね。侑生にからかわれた、心霊写真みたいだって」


 とぼけた返事は照れ隠しだろうか。でも実際、写真の下半分に無数の指紋がついている。色んな女子が指差して「かっこいい」とはしゃぐ姿が目に浮かんだ。


「たくさん注文入ってるんじゃない? 写真屋さんのおじさんも写真家冥利みょうりに尽きてそう」

「知らない女子が自分の写真持ってんの、なんか複雑」

「ていうか、そのときに写真買わなかったの?」


 てっきり、昴夜もまだ見にきていなかったのだとばかり思っていた。もしかしたら、私の写真もそのときには見つけていたのかもしれない。


「んー、侑生達と一緒に通りがかりついでに見たって感じだったから」

「男子は買わないよね、写真」

「侑生は英凜の写真買ってたけどね」


 ……反応に困って閉口してしまった。誤魔化す言葉は思い浮かばないまま、昴夜と侑生が一緒に映った写真を見つける。侑生の背中に昴夜が背中からぶつかりながらカメラに向かってピースをしている。不意打ちだったのか、侑生は迷惑そうだ。でもその写真のすぐ下に、全く同じ構図で侑生の手がピースに変わっている写真がある。


「なにこの奇跡の連続写真」

「あー、やったやった、このポーズ」


 この写真も、過去に覚えがない。こんな二人の写真があれば間違いなく覚えているはずだし、おそらく買いもしたはずだ。でもこんな写真は手元にない……。


「この写真、昴夜も買ったら?」

「卒業したら恥ずかしくなるやつだよ、こんなの」

「私は買うよ」


 宣言しながら素早く番号を書き込む。タイムリープの恥はかき捨てだ。


「えー、やめてよ恥ずかし。んー、でも侑生との写真ってそういえばないかも」


 ぶつぶつ呟きながら、でも昴夜も封筒に番号を書き込む。


 それが、注文票の右側だと――つまり左側の番号欄はすべて埋まっているのだと気付いた。


「……他に何の写真買うの?」

「え?」


 バッとでも聞こえてきそうなほど素早く、昴夜が封筒を背中に隠した。


「なんで?」

「いまの番号、右端に書いてたでしょ。他にも……十枚は買うんじゃないの、それ?」

「あー、うん、父さんに写真買っといてって言われたから」

「どの写真?」

「あーっと、ね、どれだっけ、これ、とか……」


 適当に指差された写真には、確かに昴夜が映っている。でも自分の写真なら番号を教えてくれればいい。


 もしかして、昴夜は私の写真を買うのだろうか。


 このときの昴夜は私を好きだという情報が、その自意識を裏付け、私の胸を高鳴らせる。


「番号見せて、私も買う参考にしたい」

「え、やだよ」

「そんないかがわしい写真を買うわけじゃないんだから」

「いかがわしいかもしれないじゃん!」

「なんでそこでムキになるの」


 見せてよ、と手を伸ばし、それをかわされながらも笑ってしまう。ああ、やっぱり、昴夜は可愛い。


 そうだ、だって昴夜は私を好きだったんだから。幼馴染と付き合っていたけれどずっと私を好きだった。でもそんなことは言えなくて、私にバレるわけにもいかなくて、その感情を必死に押し殺していたのだろう。


 この頃の私が、一生懸命侑生を好きになろうとしていたように。


 それが頭に浮かんだ瞬間、ヒヤリと背筋が冷えた。


「……どしたの?」


 ……いまだって本当は、侑生と一緒に過ごしている時間だ。


「……いや」

「そういや侑生と休憩かぶせてたっけ? 早く更衣室行こ」


 何の写真を買ったのか見られたくない昴夜にとって、私の狼狽は渡りに船だったのだろう。昴夜は封筒をポケットに突っ込み、私の肩を掴んでぐいと無理矢理方向転換させた。


「英凜は――写真たくさん選んだね」

「……卒業した後、見返せるものは多いほうが嬉しいから」


 いまは、私が昴夜の写真を買ったと気付いてくれればいいと思った。私と違って、昴夜には制約がないはずだから。


 でも昴夜の視線は、私の封筒を一瞥いちべつしただけだった。まるで何の期待もないかのように。


 告白できないということは、きっとこれを眼前に突き付けることも叶わないのだろう。そしてきっと、昴夜がこの封筒を注視することもない。


 一般客立ち入り禁止のテープをまたぎ、昴夜を背に更衣室に入った後、これでもかと番号を書かれた封筒を、そっと胸に抱く。


 例えば、見覚えのない写真とか。今日、昴夜と一緒に文化祭を歩いたこととか、写真を一緒に選んだこととか、更衣室まで来たこととか。過去の一部を変えることができることに、もう疑いはない。


 それなのにどうして、私と昴夜の未来は変わろうとしないのだろう。


 パンと携帯電話片手に出ると、昴夜はしかめっ面で携帯電話を見つめていた。そのまま「ごめん英凜、なんか後輩がトラブったっぽい」と顔を上げる。


「……トラブったって、どうしたの? 例の……他校生が来てる?」

「みたい。ちょっと俺行ってくるね、これよろしく」


 首から下げている看板とその手のチラシを私に押し付けて、昴夜は走って行ってしまう。


 今度は、過去と同じだ。他校の不良がやってきて騒ぎを起こし、昴夜と侑生が騒動に引っ張り出される。二人とも生徒指導の先生にこってり絞られて帰る羽目になって、以後は文化祭を楽しむどころではなくなってしまう。私が昴夜と喧嘩しなくても、この過去は変わらないらしい。


 可変と不可変の分水嶺ぶんすいれいは、一体どこにあるのだろうか。


 教室に戻ると、侑生はいなかった。陽菜が「雲雀なら慌てて教室出てったよ、なんか外やべーじゃん?」と教えてくれた。教室の中から見ると、南門でうち以外の制服も混ざった乱闘騒ぎが起きていた。中庭を挟んだ反対側の校舎には、その騒ぎを聞きつけて窓から顔を出した野次馬が見えていた。


 騒動を起こしていた人達が散り散りになる頃、ようやく先生が出てきて――真っ先に昴夜に詰め寄る。素行のよくない昴夜はいつだって生徒指導の恰好の的だった。


 そんな昴夜を、私はずっと見つめていた。侑生も同じ場所にいたけれど、過去のこの時間にそうしていたように、侑生が教室を見上げていることになど気が付かず、昴夜ばかりを。


 文化祭が終わり、すっかり外も暗くなって、そろそろキャンプファイヤーを始めるという頃になって二人は戻ってきた。教室に残っていたのは過去と違って私だけだった。


「もーやだ、なんで俺達だけ怒られるの」

「頭が悪いから」

「俺の!?」

「ちげーよあのクソジジイのだよ」


 ぐったり疲弊しきって見えたけれど、先生の悪口をいう元気はあるようだ。


「……災難だったね、二人とも」

「ほんとに。お陰でぜーんぜん文化祭楽しんでない」

「お前はシフト時間だったろ」

「説教されてる時間が自由時間だったんですう。あー、更衣室行かなきゃ、めんどくさ」

「三国、着替えてねーの」


 メイド服のままの私を見て、侑生が眉を吊り上げる。


「そんなにお説教長いと思わなくて。いまから着替えてくるね」

「ん」

「あれ、侑生は更衣室行かないの?」

「俺は休憩入る前に荷物持ってきてた」

「ズッルい! 俺の荷物だけ置き去りなの!」


 憤慨しながら昴夜が更衣室へ行く。それと一緒にならないよう、少し間を置いてから、私も更衣室へ行く。


 本当は、着替えておくことはできた。二人がいつ帰ってくるかは分かっていたから、着替えておいたほうがすぐに侑生と帰れるのは分かっていた。


 でも過去では、二人が帰ってきた後に私は着替えに行き、それから侑生の待つ教室へと戻る道中で、帰路につこうとしていた昴夜と遭遇し、保健室で昴夜の怪我の手当てをする。どうせ未来が変わらないなら、都合のいい過去くらいなぞりたい。


 その目論見もくろみどおり、更衣室を出て帰る途中で昴夜に出くわした。


「昴夜、手首怪我してなかった?」

「んー? んー……なんかやや捻った気はする、よく分かったね」


 くい、くい、と昴夜が左手首を軽く動かす。


「見てたら分かるよ。癖になる前に応急処置だけでもしとこう」


 保健室のほうを促すと、昴夜は少し驚いた顔をした。でも、どんなに思わせぶりなことを言ったって伝わらないのが、この世界のルールだ。


「……なんか英凜が優しい」

「普段は優しくないみたい」

「普段も優しいけど、でも侑生が一番じゃん」


 待たせていいの、とその顔は教室のほうを向く。


 侑生が一番、それはそのとおりだ。だって私は、“侑生の彼女”だから。


「湿布貼って固定するくらいだから大丈夫だよ」

「それもそっか」


 ごめんね、と内心で侑生に謝った。過去と同じことしかしないから。少しだけ、二人でいさせて。


 保健室の鍵は開いていた。窓の外からはキャンプファイヤーの光がほのかに差し込み、窓際がぼんやりとした橙色に照らされていた。


 明かりをつけて、まるで養護教諭と生徒のように椅子に向かい合う。私の膝の上には包帯と湿布が乗っかった。


「……大変だったね、文化祭なのに」

「んーね、なんでよりによって今日なんだろね。いや今日狙ってたんだろうけどさ、文化祭めちゃくちゃにしたい的な感じで」


 ポツポツと他愛ない話をする。それが終わってほしくなくて、無駄に丁寧に湿布を切って、貼って、包帯を伸ばす。昴夜も急かしはしなかった。


 それでも、いずれ処置は終わる。それが惜しくて、包帯を止めるためのテープが見つからないふりをした。


「……今朝の」


 引き出しの中を漁る私の背中で、昴夜が呟いた。なんだっけ、と一瞬考える。


「写真、やっぱり送ろうか?」

「え、なんで、いいよ」


 そうか、侑生とのキスシーンか。振り向いた先の昴夜は、怪我していないほうの手で頬杖をついて視線を虚空に投げている。


「……でも侑生とのツーショットだし」

「……あんな写真じゃなくてもいいよ」

「逆に貴重かもよ、もう二度と撮らないかも」

「二度と撮らないけどいいよ。大体、侑生だってわざわざ昴夜の前であんなことしなくても……」


 何を続ければいいのかわからず、仕方なくテープを手に取った。昴夜の前に座り直し、その手を取って包帯を留める。


「……ね。思いっきり俺に見せつけようとしてたよね」


 そうだよね、と頷いていいのか分からず、黙っておいた。


「……ねえ英凜」

「……なに?」


 最後のテープを留めた。


「……キスしよ」


 そのまま、手を止める。


 そうだ。覚えている。文化祭の終わり、保健室で昴夜の怪我の手当てをしているとき、同じようにキスをねだられたのだ。


 あのときは、わけが分からず逃げ出した。昴夜は私を好きではないと思っていたし、私は侑生を好きになりたくて必死だったから。昴夜のそれは、悪質な冗談か悪戯なのだと思って本気にしなかった。


 でも、そうじゃない。昴夜は私を好きだったから……それでも私が侑生と付き合っていたから。


 これはきっと、昴夜に言える精一杯の「好き」だ。


 用の済んだ手を離そうとして、逆に掴まれた。でも逃げられない強さじゃなかった。怪我をしている左手だし、まるで添えるような優しい掴み方だった。思い切り引き抜けば易々と逃げられるだろう。


 それでも逃げずにいることが、「好き」を口にできない私の、過去に対してできる精一杯の反抗だった。


 「いいよ」は言えなかった。例によって声が出なかった。


「……なんで?」


 代わりに、それは口にできた。


「……なんとなく」


 昴夜も、私を好きだとは言わない。


 私はなにも答えられなかった。私が黙って視線を落としているせいか、昴夜も黙っていた。


 沈黙が落ちるばかりで、昴夜はキスなんてしなかった。


「……ごめん、じょーだん」


 安っぽいパイプ椅子が、ガタンと音を立てる。それで金縛りが解けたかのように、私も顔を上げた。


「前にやって怒られてるからね、同じことはしないよ」

「……そういえば怒ったっけ」

「そりゃ怒るよね、彼氏の親友にキスされたら」


 どこかわざとらしく笑いながら、昴夜は私の代わりに余った包帯やハサミを片付ける。


「ごめんね。二度としないから安心して」


 行こう。昴夜が先にカバンを持った。


 私は、力の抜けた足で立ち上がる。扉を開けて待っている昴夜のもとへ、ゆっくり歩み寄って。


 抱き着きたかったけれど、まるで足に根が生えたかのように、それもできなかった。


「じゃ、俺先に帰るね。手首ありがと」


 私にできるのは、昴夜の背中を見送ることだけ。言葉だけでなく、動作に対する制約も課せられているらしい。


 つまり、ここで昴夜に抱き着けば未来が変わってしまうのだ。それは告白と同義だから。


 裏を返せば、いまの私は「こうしていたら未来は変わっていた」ばかり突き付けられている。


「……なんで、言えないんだろう」


 高校二年生に戻ってきたのだと分かったときは、混乱しながらも期待していた。未来を変えられる、あの事件を起こさずに済む、十四年後も昴夜がいるかもしれない未来に変えることができると。私が侑生と別れて昴夜に告白さえすればいい、そうすれば幸せな未来が待っていると。


 後悔だらけのこの過去を書き換えることができる、と。


 でも、そうじゃない。このタイムリープは、未来につながる軌跡を書き換えることを、許してはくれないのだ。


 教室に戻ると、いたのは侑生だけだった。キャンプファイヤーの明かりが届かない窓の外は真っ暗で、明かりはついていても、教室の中はどこか薄暗い。なにより、喫茶店の飾りを隅に残した空間には、お祭りが終わったあと特有の物寂しさが漂っている。その空間の端で、侑生は一人、机に腰かけていた。


「おかえり。帰るか」


 私を見て顔を上げると同時に携帯電話を閉じる。戻ってくるのに時間がかかった私のことをとがめないどころか、理由さえ聞かずに。


 過去もそうだった。侑生はきっと、私が昴夜と一緒にいたことを分かっていて何も言わない。


 そうして目を瞑る理由が分からなかった。侑生が私を好きでいてくれるからだとは分かっても、そこまでして私と付き合っている理由が、今でもさっぱり、分からない。


「どうした?」

「……今朝、なんでキスしたの?」


 当時の私なら、そんなことは訊かなかった。昴夜を好きだということが後ろめたくて、侑生の前では昴夜の名前を口に出すことすらできなかった。


 侑生は驚かなかったし、気まずそうにもしなかった。


「……それは、なんで学校でって意味?」

「……違うよ」


 侑生は一度口を閉じる。質問の意図が分からないのではなく、答えるべきか悩んでいるように見えた。


「……英凜が」


 昴夜を好きだから――と続くと思った。


「怒ると思ったから」


 でも、違った。それがどういう意味なのかは分からなかった。


「……いや、英凜は怒らないよな。……まあ怒るかどうかはどうでもいいんだけど」


 侑生の視線は、一瞬逸れてから私に戻ってくる。


「どんな態度に出るかなと思って」

「……何を試されたの、私」


 侑生はもう一度閉口した。


「……英凜」


 もう一度口を開く前に、侑生は、手近な机に足を投げ出すようにして座り、膝の上で軽く手を組む。


「……なに?」

「訊こうと思ってたんだけど」


 昴夜となにをしていたのと、問いただされるのだろうか。


 問いただされたとして、答えることは「保健室で怪我の手当てをしていただけ」であって、それ以上でもそれ以下でもない。一緒にいたいというやましさがあったことは否定しないけれど、どうせ何も変えられないことは分かっていた。だから困ることは何もない。


 それでも、ほのかな後ろめたさが心にある。そんな私を、侑生の静かな目が見上げた。


「いまの英凜は、十六歳? それとも、三十歳?」


 あまりにも予想外の質問に、何の反応もできなかった。


 たっぷり一拍、硬直していたと思う。薄暗い空間で、侑生がほんのりと苦笑を浮かべたのを見て我に返った。


「その反応ってことは、三十歳のほうなんだな」

「え、いや、なん……」

「夏休みに会ったとき。酷過ぎる白昼夢見たつったって、リアルに語り過ぎだろ」


 困惑する私から、侑生は目を離さなかった。私のほうが目を背けたくなるほど、じっと私を見つめている。


「……真夏のタイムスリップなんて冗談だったし、つか家に行ったときに話したとおり、どっかおかしいんじゃないかって、わりと本気で思った。でも、新庄が死んで、その犯人が昴夜だって話題になって、でも英凜は弁護士になったからその裏話まで知っててってのは……妙に具体的だし、頭やられた妄想にしては現実味があって、話の筋も前後関係もしっかりしすぎてた。……それに」


 らしくないほど饒舌に説明して、侑生は手を伸ばす。手を握られ、私は一瞬、目を逸らしてしまう。


「さすがに変わりすぎだよ、英凜。夏休みが終わる頃から、俺に向ける目が、今までと全然違う」

「……違う、って。一体、どんなふうに」

「……近いんだよ」


 “英凜が近い”、タイムリープ直後にも、そう言われたことがあった。


「英凜はもっと他人行儀だったって、言ったろ。それなのに、最近の英凜は全然そうじゃない。昴夜の前でキスすれば怒るし――」


 私が怒るか見たかったというのは、そういうこと。


「……たまに、申し訳なさそうな目で俺を見る」


 自覚はなくはなかった。どうせホワイトデーに別れると決まっているのに、こんなことを侑生にさせていいのだろうか、といつも思っていたから。


 言葉を失っている私の前で、侑生もしばらく黙っていた。後夜祭を楽しむ声も聞こえない静かな教室で、ただじっと、沈黙が落ちている。それでも、侑生が私から目を逸らさないから、私も逸らすことができなかった。逸らしたくて堪らないくらい、自分の感情が後ろめたくて仕方がなかった。


「……なんで」先に口を開いたのは侑生で「俺と、別れないの」

「……なんでって」

「いまの英凜は、昴夜を好きって自覚してて、しかもこのままじゃ昴夜を失うって分かってるんだろ」


 タイムリープの制約があるらしい、とは答えられなかった。答えることはできたけれど、侑生に、そんなことを言いたくなかった。そんなことを答えるのは、“制約があるから付き合っている”というようなものだ。


「それに、昴夜が英凜を好きなのだって、分かってるだろ?」


 喉と胸が一気に絞めつけられたような、そんな苦しさに襲われる。私と付き合っている侑生がそれを口にする、その痛みが喉を絞めつけた。


 この時点の侑生は、それを知らなかったはずだ。でもいま知ってしまっているのは、夏休みに、私が軽率に口にしたから。


「……ごめん、私が――」

「英凜に聞いたからじゃない」


 素早く、言葉尻をさらうように否定する。


「何年アイツの親友やってると思ってんの。見てれば分かるよ。……見てれば分かったけど、ずっと、否定する理由を集めてたんだ」


 喉は、いまにも嗚咽を漏らしそうなほどに苦しくなっていた。


「アイツがあんなにかわい子ぶるのは、英凜の前だけ。遊びに誘うのも、ナンパされてるのを助けるのも、英凜だけだよ。……俺だけはずっと知ってたんだ、英凜が昴夜を好きで、アイツも英凜を好きだって」


 侑生が、私は昴夜を好きで、昴夜も私を好きだと確信していたこと。昴夜が、ずっと私を好きで、その言動のなにもかもが私の特別さを裏付けていたこと。


 私の目から涙が零れてしまった理由が、そのどちらなのか分からなかった。


 そこでようやく、侑生が目を逸らした。視線を手元に落とし、暗く目を伏せる。


「……ごめん、いまは、別れようって言えない」


 今度は胸が痛んだ。それは私の痛みではなかった。


 侑生は、この三ヶ月弱、私と別れることになると知っていた。


「……まだ、整理しきれてない。英凜のいう“過去”で、俺達が別れたのがホワイトデーだっていうなら、ホワイトデーまでにはちゃんと言うから。それまでには、ちゃんと、俺から別れようって言う。だから、それまでは待っててほしい。ごめん」

「……侑生が謝ることじゃない」

「ごねてんのは俺だろ。……それに、英凜側には俺と別れられない理由があるんじゃないの。それだけじゃなくて、昴夜に告白もできないとか」


 侑生の話の速さを、少し恨めしく思った。他の誰相手でもできただろうけれど、侑生にだけは、何を言っても誤魔化せないだろう。


「告ったら未来に戻る?」

「そうじゃないけど、物理的な制約がある。……声が、出なくなる」


 どんな状況下においても昴夜に「好き」を言えないことを説明すると、侑生はまたしばらく黙った。そんな非現実的な、と言いたいのだろうけれど、そんなことを言い始めたら私の存在自体が非現実的なので何も言えないのだろう。


「……そう」


 ややあって、侑生は溜息交じりに頷いた。


「納得した」

「なにに?」

「もし未来の英凜なら、なんで俺と別れないんだろうって思ってた。それだけが仮説を裏付けてくれなかった」

「……制約がないから別れないんじゃないよ」

「でも、告白できたらしてたんだろ?」

「それは……試みたことは、否定しない。ごめん。でも、試みたのは夏休みの……タイムリープした直後のことで……」


 苦しい言い訳だった。侑生に配慮せずに自分本位に行動しようとしたのは間違いではないし、今日だってそうだった。


 それでも、言い訳をしたくなるのはなぜか。この期に及んでいい子ぶりたいからか、あるいは純粋な罪悪感のせいか。


 続く言葉が出てこなくて、ただ息を呑みこむだけになってしまった。


 侑生は、私をどう考えているのだろう。自分の親友を好きだけれど、告白することも別れることも選択できない彼女のことを、どんなふうに。


「……ごめん、困らせたかったわけじゃないんだ」


 伏せられた目は、私と合わないままだった。


「ただ、どうしてなんだろうって……違和感が残ってたから、それを解消したかっただけなんだ。……そんなに、期待もしてたわけじゃない」


 期待――“もしかしたら自分のことを少しは好きなのかもしれない”“だからのかもしれない”という期待。


 私をどう考えているかなんて、それを聞けば充分――いや、聞かなくたって充分だった。


「……侑生」

「帰ろう、英凜」


 これ以上の会話を拒絶するような言い方だった。


「とりあえず、帰ろう。……もう少し、整理したい。だからごめん、いまは何も話す気になれない」


 机を離れ、ぎゅっと私の手を握りしめる。ただ手を繋いでいるだけのはずなのに、まるで小さい子どもがすがってくるかのようだった。


「もう少ししたら、もっとちゃんと、英凜の感情に向き合うから。だから、もう少しだけ待ってほしい」


 ゆっくりと頷くことしかできない私に、侑生はただ黙って手を引いた。文化祭の片づけもそこそこに散らかった教室内を、侑生が器用に何にもぶつからずに歩く、その足跡をたどるように、私も同じところを歩く。


 少し肌寒くなってきた秋の夜を、私達は手を繋いで、でも無言で、それでもずっと手を繋いだまま歩き続けた。それ以外に、私達を繋ぎ止めるものがないかのように、侑生はずっと、手を離さずにいた。

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