Re:06 Respond

 昴夜と侑生は親友だけれど、その出会いも仲良くなったきっかけも聞いたことはない。


 ただ、侑生はご両親が離婚してお父さんと二人きりで、しかも医者のお父さんは忙しくてほとんど帰宅せず、いつも家に一人。昴夜も、いつも家に一人。二人を結び付けていたのは、孤独感とそれに対する親近感だったのではないかと思う。


 だから、どうして昴夜なのだろうと何度も自問した。侑生と付き合った後で恋心を自覚してしまった、百歩譲ってそれが許されるとして、なぜ相手がよりによって侑生の親友なのだろう、と。


 それは、私が必死に昴夜を忘れたかった理由のひとつでもあった。




 すっかり慣れを取り戻した学校で、はるに「英凜と雲雀、最近余計にいい感じだな」と言われた。


 陽菜は、私が侑生を好きなのだと信じていた。私は肯定も否定もしたことがなかったのだけれど、大人っぽくてイケメンの侑生と付き合っていて好きにならないはずがないという、陽菜らしい理屈に基づいていたのだと思う。


「侑生にもそう言われた、最近距離近いって」


 食べ終えたパンの袋を片付けながら頷いた。いまの私はいつも同じコンビニの同じパンを買っているのだけれど、侑生に「そこは夏休み明けても変わんねーな」と言われたので、どうやらバランス栄養食箱買いの片鱗へんりんはこのときからあったようだ。


「くそっ、惚気のろけかよ!」

「いーなー、英凜と侑生はラブラブで」


 地団太を踏む陽菜の隣で、胡桃は悩まし気な溜息をつく。胡桃はクラスが違うけれど、昴夜の彼女だということでいつも五組まで来て一緒にお昼を食べていた。


「なんで、胡桃ちゃんと桜井だってラブラブじゃん」

「そういうことじゃなくてー」


 本当に二人は全くラブラブではないのだが、そういうことではないので黙っておく。


「侑生って英凜のこと超好きって感じじゃん? 帰りもいつも一緒だし、なにかあったらすぐ英凜英凜って。昴夜、帰りに迎えにくるとかぜーんぜんしてくれないし」


 声を張り上げながら、胡桃が昴夜に視線を向ける。昴夜は少し不服そうな顔をしながらこっぺパンを丸かじりしていた。


「聞いてる、昴夜?」

「聞いてる」

「聞いてないでしょ!」

「聞いてるってば、侑生が英凜のこと好きすぎって話ね」


 聞いていない。胡桃が頬を膨らませているのに気付かないのか、昴夜は「でも最近アイツ気持ち悪いよねー」とわざとらしく口を尖らせる。


「あー、これ絶対英凜と上手くいってんだなって、見てて蹴りたくなる」


 昴夜につられて、つい私達も教室の角に視線を向ける。侑生はお昼を食べ終えて友達と喋っているところだった。タイムリーに、その横顔は大きく口を開けて笑い始める。


「あんな明るい侑生、侑生じゃない」

「わ、あたしあんなに侑生が笑ってるの初めて見た」

「分かる。最近の雲雀、めちゃくちゃ笑うよな、な!」


 最近の侑生は、明るく笑うようになったと評判だ。親友の昴夜が侑生と真逆の子どもっぽいタイプだということもあり、侑生といえば大人っぽくてクールな印象が強かった。それがあんな笑い方をするのだから、女子の視線を集めないはずがない。


 それを見ていると、チリチリと胸に罪悪感が走る。私が抱いているのは愛情のようなもので、恋情ではない。侑生と付き合っているのも、当時の私が選択したこととはいえ、今の私にとっては“別れることができないから”以上のことはない。


 私は、過去より一層侑生に後ろめたいことをしているのではないか。その罪悪感が、チリチリと胸を焼くのだ。


「……侑生はもともと笑うと思うんだけど。それはそれとして、最近ちょっと明るいよね。見てて嬉しいっていうか、微笑ましい」

「お前は何ポジションなんだよ、母親かよ。彼女なんだぞ」

「それは分かってるんだけど」


 だって十四歳年下なんだから、仕方ない。


「おい、桜井、親友がとられたからって拗ねるなよ」

「拗ねてません! 別に侑生は俺の保護者じゃないからね!」


 冗談交じりに憤慨していても、昴夜の本音を知っていれば、本当に拗ねているのだと分かる。


 それを見ていると、少し寂しく、胸も痛い。


 目の前の昴夜は私を好きで、私が侑生と仲が良いことに嫉妬している。それなのに私は、「好き」の一言を告げることができない。何をどうしようと、その心だけは、伝えられない。


「昴夜もさあ、いい加減侑生離れしたら? 侑生は英凜の彼氏なんだし」

「だから別に拗ねてない。ちぇっ、どうせ文化祭も二人で仲良くまわるんだろ」

「お前だって胡桃ちゃんとまわるだろ」

「胡桃はクラスの連中とまわるんじゃないの?」

「あーっ、ほらそういうこと言う!」胡桃はわざとらしくまなじりを吊り上げ「そういうのは、まずは一緒にまわろうって声かけるとこでしょ?」

「んでもクラスの連中とまわるんでしょ? んじゃいいじゃん」

「本当にそういうとこ! 本当に昴夜、ぜーんぜん乙女心分かんないんだから!」


 胡桃はそのまま立ち上がり「昴夜なんかとはまわってあげませーん」と可愛らしく舌を出して、自分の教室へ戻っていった。昴夜は頬杖をつきながらその後ろ姿を見送る。


「なんで俺がフラれたみたいになってんだろ。別にいいけど」

「いやあれはお前が悪いだろ。胡桃ちゃんに謝っときな? 愛想尽かされるぞ?」

「いいのいいの、むしろそのほうが」


 むしろそのほうが……? 昴夜は胡桃を好きではないから、別れても構わないというのは理解できる。でも、こんなふうに態度に出していたことはなかったはず……。怪訝な顔をする私の前で、陽菜も不可解そうに眉を顰めた。


「てか話は変わるけど、英凜。文化祭で揉め事に出くわしても、この間みたいなこと本当やめなよ?」

「この間の?」


 例によって十四年前の話だろうか。首を傾げていると「夏休みの! 俺んの最寄り駅来てたときの!」と力強く言われて、どうやらいまの私の話だと気付く。


「なにしたんだよ、英凜」

「別になにも」

「警察呼んだとか啖呵切ってカツアゲ止めようとしてたの」

「マジかよ、格好いいな英凜」

「そうじゃないんだよ! あのね、危ないからやめてって言ってるの。相手男三人だよ?」


 そうは言われても、傷害前科のついた巨漢でもなければ覚せい剤の中毒者でもない。


「俺が通りかかったときなんて胸座掴まれるところだったからね?」

「胸座掴んだのは昴夜じゃん」

「だから英凜がそうなるところだったからねって話! 駄目だよ、ああいうのは遠くから見てお巡りさん呼んでおしまい。巻き込まれたらあぶないよ」

「でも近くの交番から警察が来るまでどれだけかかるか分からなかったから。その間に逃げられたら意味ないでしょ」

「それは巻き込まれたら危ないの反論になってないじゃん!」


 そのとおりだ。む、とつい顔をしかめてしまった。高校生の、しかもおバカキャラで通っている昴夜にそんなことを言われるなんて、弁護士も形無しだ。


「でも人通りもあったし、きっと私が殴られることはなかったって」

「でもでもうるさい。顔でも覚えられたらどうすんの、ねー侑生」

「何の話?」


 侑生が戻ってきた。侑生の胡桃嫌いは徹底していて、胡桃が教室に来るようになって以来、昼休みが始まった瞬間に別の友達とお昼を食べるようになった。


「この間、英凜がカツアゲ止めようとしてたけど、危ないからマジやめなって話」

「それはやめろ」

「侑生までそんなこと言って。ちゃんと場所は選んでるんだよ、駅前で人通りが多いところ、あと手に携帯電話も持って」

「それでもやめろ。つかそれいつの話」

「夏休みだからもう一ヶ月以上前だよ、昔話にもほどがあるよね」

「説教される覚えはありませんみたいに言うのやめて? 昔でもなんでも危ないものは危ないんだからね?」


 いや待て――鈍い私はこんなときだけピンときた。いま侑生がそれを訊いた趣旨は日付の確認にはない。おそらくいま侑生が抱いた疑問は、“なぜそれを昴夜だけが知っているのか”だ。


 おそるおそるその様子を窺った。しかし傷ついたり機嫌を損ねたりしている様子はない。……私の考え過ぎだっただろうか。


「まあ過ぎたことは仕方ないけど」

「そうやって侑生は英凜の肩持つ……」

「今後はやめろって点には同意する。英凜、意外と怖いもの知らずだからな」


 かと思えば、今度は昴夜が少し憮然ぶぜんとした顔つきになった。いまの侑生の発言のなにが気になったのだろう。


「そんなことはないけど」

「胸に手を当てて考えな」

「思い当たることがない」

「痴呆か?」

「暴言だよ」


 ……ああいや、分かった。侑生が私を“英凜”と呼んだのだ。学校での侑生は「からかわれたくない」と言って私を苗字で呼んでいたのに、さっきは名前を呼んだから。


 昴夜だって私を名前で呼んでいるのだから、そんなことに目くじらを立てなくてもいいのに。


 十四年前の昴夜は、そんな風に幼くて、可愛い。可愛くて愛おしくて、それなのにたまに格好よくて、その表情も言動も、何もかもが大好きだったあの頃の姿のままだ。


 そして私も、あの頃と変わらない。昴夜の一挙手一投足に一喜一憂するほど、相変わらず昴夜を好きでいる。




 灰桜高校の文化祭がやってくる前に、私は侑生に誘われて一色いっしきひがし高校の文化祭に行くことになった。他校の文化祭なんて行くタイプじゃないのにどうしたのかと思ったら「予備校で同じ女友達がアプローチしてくるのが面倒なのでデートがてら牽制したい」という理由だった。言われてみれば全く同じ理由でその文化祭に行った記憶がある。


 一色東高校の文化祭は、記憶のとおりずいぶんと地味だった。一番派手なのは侑生の頭だ。


「なに笑ってんの」

「部外者の侑生のほうが文化祭の雰囲気出てると思って」

「東高は染髪禁止だからな」

灰高うちだって禁止でしょ、形骸化けいがいかしてるだけで」

「普通科は治外法権の無法地帯だからな」


 東高の文化祭のことは、地味だということ以外あまり覚えていない。侑生としたデートのひとつ以上の記憶はないし、手に取ったパンフレットにも大した催しはない。高校の、しかも公立の文化祭なんてそんなものだろう。


「どこ見る? 私はこれ食べたい」

「そういえば、夏休みが終わってからの違和感。この間言ったこと以外」

「なに、太った?」

「金遣いが荒くなった」

「悪口じゃん、失礼な」


 仕方がない、三十歳と十六歳の金銭感覚が同じはずがないのだから。しかも、侑生のいう金遣いが荒いは、ハンバーガーとチーズバーガーで悩むのをやめただとか、一緒に作るお昼ご飯の材料費を請求しようとしないだとかその程度の話で(なお侑生にはきちんと払われた)、決して豪遊しているわけではない。もちろん、私のお財布事情は高校生に戻っているので直すべき点ではあるかもしれないけれど。


「バイト始めたわけじゃないだろ」

「夏休みにお小遣いがはずまれたから、つい」

「だとしても夏休み前の英凜なら縁日で食い物なんて買わない、多分帰りにコンビニで買ったお菓子つまんでる」

「そういう侑生だって、夏休みの前後でちょっと変わったよ」

「なにが」

「明るくなった。陽菜も言ってたよ」


 どうしてか、侑生は少しバツが悪そうな顔をした。……いや、これは照れているのだろう。


 なお、それを感じ始めたのは新学期すぐではなくて侑生の誕生日からだ。そう考えると、例の“英凜が近い”が原因だろうか?


「私との心的距離が近くなったから?」

「そんなはっきり言うなよ」


 赤くなった顔をぷいと逸らし、私の手を掴む。途端に周囲の視線は侑生の頭ではなく私達の手に集まった。


 耳まで赤い。侑生の半歩後ろを歩く私には、不完全な銀色に染まった髪の隙間から、それがよく見えていた。侑生は大人っぽいとずっと思っていたけれど、こうして見ていると年相応に可愛い。


 ……この可愛いは、昴夜に向ける“可愛い”と何が違うのだろう。


「で、さっき言ってた縁日行くの」

「行くけど、まだお腹空いてないから後でいいよ。例の牽制を済ませちゃったほうがいいんじゃないかな、二年四組だっけ?」

「そのとおりなんだけど、言い方がな」


 目的地へ向かいながら、展示用の教室に寄り道してみたり廊下の絵を眺めてみたり、私達はゆっくりと文化祭デートを楽しむ。お互いに口を閉じるタイミングはあっても、変な沈黙が流れることはなかった。


 あの頃も、こんな日々を過ごしていただろうか。侑生と付き合いながら昴夜を好きだった、そんな日々を後悔してばかりだったけれど、いまの私が侑生と一緒にいてそれなりに楽しんでいるように、あの頃の私も侑生と一緒にいることを楽しんでいたのだろうか。


 二年四組の廊下には、うっすらと見覚えのある男子がいた。確か苗字は「小滝こだき」、名前は……多分聞いたことがない。


「うわ、お前、本当に彼女連れてきたの?」その小滝くんがからかうように笑う。


「一人で来るわけないだろ」

「だから俺らと周ればって言ったんじゃん」

「それも変だろ。長岡ながおかは?」


 例の侑生のことを好きな女子の苗字だ。こちらも名前は知らない。


「どっか呼び込みしてんじゃん? チラシ持ってったから」

「あ、そう」

「なんで?」

「いや別に。彼女と来てたって言っといて」

「なにその彼女アピール。彼女さん、雲雀っていつもこんな感じなの?」


 牽制という目的を隠す気もないセリフに笑ってしまった。それを勘違いしたのか、その男子が「うわー、こんな感じなのか。ラブラブじゃん」とわざとらしい大仰なリアクションをとった。


「つかお前、その頭のまんまで来たんだな」

「文化祭だからな」

「お前は客だろ。てかその見た目で頭いいってのが本当に詐欺だよなー。でも彼女さんのほうが頭が良いんだっけ」

「まさか、侑生のほうがいいよ」

「なんだこの褒め合い。女子かよ」


 わずらわしそうな顔をした侑生は「ついでにお化け屋敷入ってく」と廊下の前の列に並ぶ。小滝くんは私達の隣を離れないまま「俺達の努力と汗の結晶をデートに使うな」と憤慨してみせた。


「そういえばさ、俺、雲雀の彼女に会ったら聞きたいことあったんだけど」

「やめろよ」

「雲雀のどこが好きなの?」


 この手の質問は、多分付き合っている男女にありがちだ。そのせいで、この質問が現実でもなされたのか、それとも微改変の結果なされたのかは分からない。


「……どこ」

「あ、これは全部とか言っちゃうヤツ――ッテ!」

「だからやめろって言ったろ」


 悩んでしまったのは、恋愛感情がないからではない。むしろ、まるで好きな人の好きなところを訊かれたかのように悩んでしまった。


「無愛想だけど笑うと可愛いところ、とか……?」

「ああ。はい。ごちそうさまでッテェ! 俺いま悪くないだろ!」

「いいから客引きに行けよ」


 しっしと小滝くんを追い払った侑生の頬はしっかり赤くなっていた。高校生のときにこんな顔を見た覚えはないから、当時の私は訊かれても違う返事をしていたのだろう。


 クラスの子達は一年生のときの昴夜を可愛いと言っていた記憶はあるけれど、侑生が言われているのは聞いたことがない。可愛い、と思うのは私が年上になってしまったからなのだろうか。男は可愛いと言われても嬉しくなんかない、というのはたまに聞くけれど、侑生は違うのだろうか。


「……真面目に答えなくていいよ、ああいうのは」

「狼っぽいところとか言っとけばよかった?」

「他意ありそうだからそれじゃなくてよかったけど」

「私はメンクイだと思われてもいいよ」

「狼っぽいがなんでメンクイだよ」

「銀髪が似合うって顔が良くないと厳しくない? 銀髪に染めた後輩がいたんだけど、全然似合ってなかったというかまるで頭だけおじいさんになったみたいで。侑生みたいに色白で顔も良くないといけないんだなってしみじみ思った」

「そんなヤツいたっけ?」


 しまった。頭に浮かんでいたのは大学の後輩だ。


「……いたよ、似合ってないって自覚したのかすぐに戻してたけど。……名前は私も忘れちゃった」

「ふーん。全然覚えてねー」


 ……誤魔化せただろうか? 十月だというのに背中は冷や汗をかいていた。でも侑生がタイムリープなんてことを勘繰るはずがない。大丈夫だろう。


 問題の長岡さんとは、二年四組の教室を出たところでばったり出くわした。その子は親しげに侑生の肩を叩いていたけれど、侑生以外の男子とも近い距離で接していそうなスポーティな見た目の子で、悪意はなさそうだった。侑生の彼女ポジションの私に対し若干険を帯びた顔を向けたような気もするけれど、相手は高校生、好きな人に彼女がいて嫌な顔ひとつしないほうが不自然というものだ。


「長岡、余計なことばっか話してったな。悪かったな、付き合わせて」

「ううん、全然」


 むしろ、来年三月には別れることが分かりきっているのに“彼女”として牽制しにくるなんて、私のほうが悪い。


「……あの子、侑生のこと好きなんだよね」

「だと思うけど。さっきもわざとらしかったろ、わざわざ牧落の名前挙げてみたり、英凜が分からない予備校の話してみたり」

「そういえばそういう側面もあったかも」

「……英凜、他人の悪意に鈍感だよな」

「悪意ってほどじゃないじゃん。侑生のことを奪い取ってやろうって子じゃないし」


 そういえば、私と侑生が別れた後、長岡さんはどうしたのだろう。二人が一緒にいるのを一度見たことはあったけれど、侑生から話を聞いたことはなかった。


「……それは多分そうなんだけど」

「男女逆ならまだしも、襲われることはないでしょ」

「……まあな」


 釈然としない様子の侑生は、しかしそれを明確に言語化することはなかった。なにかおかしなことを言っただろうか。首をひねりながら、いつもどおりに侑生の部屋にきて。


『嫉妬してほしいとまでは期待してないけど、ちゃんと分かってんの?』


 フラッシュバックのように、その発言が脳裏によみがえった。


 思い出した。もとの私は、侑生のことを好きな女子がいるなんて思いもせず、当然のことながら会っても気づきもせず、侑生に言われて初めて今回の文化祭デートの裏の意図を知ったのだ。挙句の果てに「告白されて迷惑だから牽制したいということは、長岡さんは恋愛対象にはならないのか?」なんて世論調査のような質問まで繰り出した。


『俺が、どれだけ英凜を好きか、本当に分かってる?』


 当然、侑生は傷ついていた。


 ソファに座りながら、背筋に冷たいものが走った気がした。私はまた、侑生を傷つけてしまっただろうか?


「英凜? どうした?」

「……私、余計なこと言ってない?」

「英凜は大体いつも余計なこと言ってるだろ」

「真面目に話してるんだけど」


 紅茶のカップを受け取りながら顔をしかめた。でも、隣に座る侑生の横顔に私の言動を気に病んだ様子はないので少し安心する。


「てか急になんで」

「……帰り道、長岡さんの話しながら微妙な顔してたから」

「……ああ。あれか。いや、英凜は嫉妬とかしねーなって考え直した」


 ……微改変があっても、過去というのは一定の未来に収束していくものなのだろうか? まさしくさきほど思い出したことを口にされて閉口した。


「なに、そんな気にしてたの」

「……自分のデリカシーのなさは心得始めているので」

「心得始めてるって」


 笑った顔は、やっぱり記憶より明るい。


 いや、でもやっぱり、その笑顔にはほんのりと影が差している。


 それを見つめている隙に、唇を奪われる。今日は拒む隙がなかった。


 侑生とのキスを、イヤだとは思わない。過去の私がどうだったかは思い出せないけれど、少なくともいまの私は侑生を拒絶しない。


 恋愛対象でありさえすればキスができるわけじゃない。好きでもないのにこんなにキスをできるのは、きっと侑生だけだ。じゃあ、侑生に抱いているこの感情は、一体なんなのだろう。少なくとも、侑生だけに抱いている特別なものではあるはずなのだけれど。


 キスは回数を重ねるにつれ深みを増し、それと反比例するように私の体は力を失っていく。三十歳にもなって、十七歳になったばかりの元カレの、しかもキスに翻弄されるなんて馬鹿げているし恥ずかしい。でも、三十歳の私より十七歳の侑生のほうが経験豊富なのだろうから仕方がない気もする。


「……悪いって思ってる?」


 キスの合間に、侑生が囁く。


「ん……、悪い、って言うと変だけど、そんな感じ……」


 それはデリカシーがなかったという話だったのだろうけれど、考え事が考え事だったせいで、「好きでもない侑生とキスしていること」と勘違いしてしまった。でも会話は微妙に成立している。


「……じゃ、お詫びちょうだい」


 侑生は私から離れ、ソファの反対側に座り直す。投げ出された長い脚の爪先が、私の爪先に触れていた。


「……お詫び?」

「キス」


 ……キス?


 一瞬理解できずに固まった。


 理解した瞬間には、顔から火が出た。


「……それは」

「イヤならいいけど」

「イヤではなく。……侑生にキスをしたくないという意味ではなく。自ら他人にキスすることが恥ずかしいという意味でして」

「めちゃくちゃ言い訳するな。いいよ、言ってみただけ」


 その手はお菓子をつまみながらDVDの用意をし始める。


 こんな展開、過去にあったっけ。多分あったのだろうけれど、もう覚えていない。あったとして、私は頼まれるがままにキスしたのだろうか。……付き合っている以上はした気がする……、けれど。


「なんか時代感じる映像だな。古いから仕方ないか」


 一体、どうすればいい。混乱している私など知らんぷりで――いや多分気遣って――侑生はテレビ画面に視線を移している。


 あの頃していたとしたら、したほうがいいだろうか。私達の関係は早晩破綻するのだから、してもしなくても変わらないだろうか。


 でも、過去の私なら、間違いなくしていた。


 一人で緊張して考え込んで――文字通り生唾を呑んだ。


「……侑生、目閉じて」

「なに、お詫びくれんの」


 もう始まった映画を前に、侑生が薄く笑みをはく。


「あげるけど、でも目を閉じてください」

「いいけど、ソファでそれってなんか間抜けだな」


 小さめのソファで、侑生が少し体をこちらに向けて目を閉じる。テレビからは序盤特有の雑多な会話が英語で聞こえてくる。字幕を見ていないとほとんど意味が分からなかった。


 そんな雑音を一生懸命脳に入れて緊張を誤魔化し、私はソファの上に正坐するようにして侑生に顔を近づける。


 私から侑生にキスをしたことが、これまでにあっただろうか。


 触れるだけのキスは、大人が子どもに戻っているとは思えないほど幼稚なものだった。


「……これだけ?」


 間近の侑生は、目を開けた。私は、吐息がかかってしまうほどの距離でそのままの姿勢でいる。


 やっぱり、イヤじゃない。私は、侑生にキスをしても、イヤだとは感じない。


「……もっと大人なものをしたほうがいい?」

「そんなことできんの」

「で、できるかは分からないけど……侑生にされた見よう見真似というか……」


 口にしながら、思い出す。私にキスやその先を教えたのは侑生だった。当たり前だ、初めてできた彼氏なのだから。だからそういったことをするとき、私はいつも侑生から習ったことをしてきた――それが侑生以外であっても。


 そんなことを、いつしか忘れていた。


「責任重大だな」

「その気があるなら黙ってください」

「はいはい」


 茶化した侑生がもう一度目を閉じる。そろりと、もう一度唇を近づけた。


 何度か唇だけのキスを繰り返す。少ししてから、下唇を舌でなぞる。唇が開いたのを感じ、そっと舌を入れた。そこから先は、主導権が奪われてしまった。


 こんなことを、何度もしていた。いつも一人の侑生の家で、最初はリビングで、途中から侑生の部屋で、二人きりで秘め事に興じるようにキスをし、肌に触れていた。


 あの頃の私も、いまの私みたいに、この官能に夢中だったのだろうか。


 唇が解放されたとき、私は少しだけ肩で息をしていた。いつの間にか、映画は止まっていた。


 侑生の指先が頬を滑るように撫で、もう一度唇が近づく。熱っぽい目には蓋が落ちた。


「好きだよ、英凜」


 それに返すことのできる言葉を、いまも昔も、私は持っていなかった。

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