Re:07 Remind

 私は、侑生と付き合っている間に、昴夜とキスしたことがある。


 二年生のときの話だ。お庭になっている枇杷のおすそ分けをもらうという名目だったので、おそらく夏前だったと思う。昴夜に誘われるがまま、キッチンで一緒に枇杷の皮をむき、立ったまま枇杷をかじった。そのときにキスされた。


 私は、それを侑生に対する裏切りだと思った。勝手にキスされたとはいえ、昴夜の家に二人きりだったし、二人で過ごす時間を楽しんでいた自覚もあったから。


 だから、その場から逃げ出した。昴夜の気持ちなんて聞かなかった。昴夜も、後日「出来心だった」と謝っただけだった。私の態度を見て、まさか両想いだとは思わなかったのだろう。


 どうせ過去に戻るなら、その頃まで戻ってくれればよかったのに。そうすれば、私はあの場で逃げ出したりなんてしないのに。そうでなければ、せめて今すぐ、昴夜に好きを伝えさせてくれればいいのに。


 でも、そう都合よくはいかない。このタイムリープでは、昴夜に告白することはもちろん、侑生に別れを告げることも許されなかった。三十歳の私が十六歳になってしまった以上、些細な改変は生じ得るけれど、それはあくまで未来を分岐ぶんきさせない程度に許容されているだけだ。


 それなら、なぜ私は十四年前に戻ってきたのだろう。一体、何のために。






 二度目の高校二年生が始まって、二週間弱が経った。


 さすがに母校への道のりは忘れておらず苦労はなかったけれど、二年生の下駄箱はどこだっただろうか。同じ二年生の後についていこうと、周囲を見回していたとき。


「おはよ」


 後ろから侑生の声がした。


「え、わ、侑生か、おはよ」

「……なにしてんの」

「……夏休みボケを少々」

「……大丈夫か?」


 さり気なく侑生について行く。でも、私に向けられる目は、相変わらず困惑通り越して心配していた。


「この間も話したけど、一回病院でも行ったほうがいんじゃね」

「いや、本当に大丈夫。あのときは……、変な夢を見てると勘違いしてて」

「それが病院案件だろ」

「夏の間に頑張ろうとし過ぎて疲れてたんだと思う、ね。あの後休んですっかりよくなったから」


 苦しい言い訳だったけれど、そこまで言えばそれ以上畳みかけられることはなかった。


「……そう」


 その矢先、下駄箱の前で困ったことに気が付く――出席番号が分からないのだ。


「……次は出席番号でも忘れたの」


 当然といえば当然だ。中一のクラスすら思い出せなくなってきているのに、そんな毎年変わるものを覚えているはずがない。


「……大丈夫、課題ノートに書いてあるから」

「大丈夫じゃなくね」


 まったくもって盲点だった。慌ててカバンの中を探していると「三十番、俺の六つ後」と助け船が出された。


「あ、ありがと。他人の出席番号なんてよく覚えてるね」

「一年の最初、隣の席だったろ」


 入学式の日の教室は五十音順で、ヒバリとミクニは隣同士だった。


 懐かしい。いまより更に一年以上前。あの頃は、昴夜を好きになることはもちろん、侑生と付き合うことなんて想像もしていなかった。


「……本当に大丈夫?」


 そうして少し頬を緩めながら上履きに履き替える私は、少し不気味に映ったのだろう。


「大丈夫大丈夫。本当になんともないよ」

「…………」

「そういえば、誕生日に欲しいものって決まった?」


 侑生の誕生日は九月二十日。ちなみにそれは、昴夜の誕生日でもあった。


「……考えとくけど、好きにしてくれていいよ」


 この頃の私と侑生は、どんな関係だっただろう。さすがにそこまで細かいことは覚えていない。


 高校二年生の夏休みって、何があったっけ。夏祭りは二人で行って、侑生の予備校の友達に会った。あとは……そうだ、昴夜も言っていたけれど海に遊びに行って、新庄が少年院に入ったと聞いたのだ。……でも、それ以上は覚えていない。自慢の記憶力も、さすがに十四年前の日常生活となるとあてにはならないようだ。


 でも誕生日に何をあげたか、それに対する侑生の反応くらいは思い出せるんじゃないだろうか。ぼやぼやと悩みながら教室に入り――今度は自分の席が分からなくて固まってしまった。


「……三国の席は俺の隣だろ」


 トン、と侑生の長い指が机を叩く。覗き込むと、夏休み明けだというのに、引き出しにはぎっしり教科書が詰まっていた。そういえば教科書はいつもできるだけ机に詰め込んでいた覚えがある。


「あ、ありがと」

「ん」


 席に着く侑生は、もう顔に疑問を出さない。気だるげな顔でガラケーを取り出し、始業式までの時間を潰している。


「あーつーいー……おーはよー」


 そうこうしているうちに、昴夜も教室に入ってきた。そのカバンには女子高生のようなクマのぬいぐるみのキーホルダーがくっついている。彼女の趣味ではない、正真正銘昴夜の趣味だ。


 その昴夜と、目が合った。会うのは奇妙な“用事”を済ませた夏休み以来だ。


「……おはよ」

「……んー」


 少し気まずそうに目を逸らし、昴夜は侑生の後ろの席に着く。やがて先生がやってきて、ホームルームを始めて、始業式と新学期の掃除と……と九月一日の行事が進む。


 膠着こうちゃく状態の過去は、それでも時計の針を着実に進めていく。過去に戻った私は何をするべきなのか、何ならできるのか、ちっとも分からないまま日々だけが過ぎていく。




 九月二十日、学校に行った瞬間、昴夜が「英凜!」とまるで尻尾を振る犬のようにその席から身を乗り出す。


「誕生日だよね。おめでとう」

「テンション低!」


 そんなことはない。本当は満面の笑みでお祝いしたい気持ちでいっぱいだったから、昨日から一生懸命シミュレーションしてようやく落ち着いて口にすることができるようになったのだ。


 でも、こんな場面あったかな……。具体的にどうしたかなんて何も覚えてないけれど、昴夜がこんな飼い犬のように目を輝かせていた覚えはない。あの日に影響しない限度で、何かが変わったのだろうか……。


「あれ、桜井誕生日?」


 私達の会話を聞きつけた陽菜はるながやってきて「なんか持ってたかなあ」とカバンを開く。


「あ、チョコ持ってた。やるよ」

「雑! でもありがとー」


 コロン、と昴夜の掌に小さなチョコが一個転がった。


 陽菜は、中学生のときからの親友だった。面倒見がよくて活発なタイプで、私のグレーゾーンを“体が弱い”と勘違いしてよく気遣ってくれていた。高校卒業後にも唯一連絡を取っていた相手で、大学一年生のときには東京で一緒に遊んだこともある。


 その姿と無意識に比べてしまうせいもあって、いまの陽菜はやっぱり幼く見える。茶色いショートボブの髪はくりんと内側に巻いてあって、男勝りなのに根は女の子の陽菜らしかった。


「ねー英凜は? ねーなんかないの?」


 陽菜にもらったチョコレートを口に放り込みながら、昴夜は手を差し出す。


「お菓子買ってきたよ」

「なんでみんなお菓子くれんの? 嬉しいけどさ」


 例えば携帯ストラップとか、ピアスとか、お菓子にしたって手作りとか、もっと心を込めたものはいくらでもあげることができた。でもどれもこれも“友達”という立場には不釣り合いで、仕方なくトッポを買って済ませることにした。昴夜は「ありがとー」と受け取りながらさっそく箱を開けて、それを口にくわえる。


「あれ、俺英凜の誕生日になにあげたっけ?」

「……なんだっけ?」


 私の誕生日は二月十八日、私はもちろん、昴夜も覚えていなくてもおかしくないほど前だった。ただ、私は誕生日に昴夜からなにかを貰った記憶自体がない。


「もらってない……かも?」

「……なんかそんな気がする。今年――じゃないや、来年はあげるね」


 そっか、昴夜が誕生日プレゼントをくれるんだ。ほんの百円、百五十円のお菓子かなにかだろうけれど、昴夜が私に。


 過去になかったけれど、この過去では。


「こーやー!」


 振り向くと、ひょいとでも聞こえてきそうな仕草で教室を覗き込む子がいた。あ、と私は声を上げてしまう。


「あー、おはよ」

「あーおはよ、じゃないでしょ! せっかく来てあげたのに!」


 憤慨しながら入ってきたのは、牧落まきおち胡桃くるみ――昴夜の幼馴染にして現在の彼女だ。


 胡桃は、そのきれいな黒髪をいつもツインテールにしていた。それが痛々しさもなく似合っていたのは、自信満々な美少女っぷりにあるのだろう。私が同じことをすれば放送事故もいいところだった。


 今見ても、やっぱり可愛いとは思う。田舎特有の芋っぽさや幼さはあるけれど、私が卒業後も地味なコミュニティで過ごし続けたせいか、「今になって思えば大したことない」なんてことは微塵みじんも思わなかった。


「おはよ、英凜」

「……おはよ」


 美少女の微笑みを向けられて、つい、視線を泳がせてしまう。


 胡桃は、私のことが嫌いだった。でもそう知ったのは高三になってからだし、その予備知識があってなお、他人の感情に鈍感な私は、今こうして接していてもさっぱり察知できない。なんなら――未来の情報も勘案して――私のほうが微妙な態度をとってしまった。


「はい昴夜っ、誕生日おめでと!」


 胡桃は、まるで自分がお祝いされた側かのように嬉しそうな顔をして、オレンジ色の小箱を差し出す。昴夜の好きな色はオレンジ色だった。


「ありがとー、なんのお菓子?」

「お菓子じゃないですぅ。ネックレス、昴夜ってそういうの自分じゃ買わないから!」


 胡桃の手がリボンをほどいて、「じゃーん!」と効果音付きで蓋を開ける。クロスをモチーフにしたシルバーのネックレスだった。こんなもの、いまどき歌舞伎町のホストもつけていないだろう。時代を感じさせるアクセサリーだった。


「……うん。ありがとう」

「もうちょっと感動してよ」胡桃が頬を膨らませる。


「そうだぞ桜井、彼女からのプレゼントだぞ!」横から陽菜も口を挟む。


「してる、した、めちゃくちゃ感動した。ありがとう」


 接待だったら説教ものの棒読みだった。


 昴夜が胡桃と付き合っていた理由は、自暴自棄だったそうだ。私に失恋し、その私は侑生と順調にキスもなにもかも済ませ、仲良くやっているのだと勘違いし、胡桃と付き合うことにした、と。そんな胡桃は、もともと昴夜の部屋に勝手に入ったり夕飯を差し入れたりと世話を焼いていたけれど、昴夜いわく「高校入るまでほぼ関わりなかった。俺の背が伸びてちょっと人気出たからアリになってツバつけに来てたんだと思う」ととんでもない評価をしていた。昴夜は、一年生のときは背が低かった。


 その胡桃がもう一度口を開きかけたとき「……はよ」とさらにテンションの低い声が割り込んだ。侑生だった。


「おめでと、侑生」

「ん」

「侑生! も、誕生日だもんね、おめでと! はいこれ!」

「置いといて」

「なにその態度!」


 胡桃の手が、侑生の机の上にクッキーの詰め合わせのようなものを置いた。手作りだった。


「どうせ英凜からもらうからそれ以外どうでもいいやって思ってるんでしょ。ね、英凜にはなにもらったの?」

「牧落に関係なくね」

「じゃ英凜に聞こーっと。なにあげたの?」


 きゅるんとでも聞こえてきそうなほど、その大きな目を輝かせ、侑生にしたように私の顔を覗き込む。たじろいでしまうと、隣から侑生が「いいから、教室戻れよ」と助け船を出してくれた。


「もうホームルーム始まるだろ」

「ちぇーっ、二人とも秘密主義なんだから。いいけどね、末永くお幸せにやってくださーい」


 にこやかに笑みながら、胡桃は教室を出て行った。男子達の視線がその後ろ姿を追い、「でも桜井の彼女だしな」とでもいうようにまたそれぞれの会話に戻る。


 それにしてもやっぱり、あの態度を見ていて私を嫌いだとは思えない。人には思いがけない二面性があるものだと、胡桃の出て行った扉を見ながらそんな感想を抱いていた。


「昴夜、これやる」

「え、いらないよ俺クッキー嫌いだもん」

しゅん、パス」

「あざーっ」


 胡桃の手作りクッキーの包みは華麗に教室内を横切り、荒神あらがみくんの手に着地した。


 侑生は胡桃が嫌いだった。過去に胡桃が片親家庭を馬鹿にしているのを聞いたことが原因のひとつらしい。その他の原因は、いわゆる性格の不一致だ。


「つかお前のそのクッソダセェ十字架なに? クリスチャンだっけ、お前」

「違います、てかクリスチャンだったらどーすんの。誕プレなんだけど、どーしよこれ」


 昴夜の手の先で、ジャラリと鎖が滑る。どうやら“ダサイ”と感じるのは令和人だけれはなかったようだ。


「雲雀も桜井も……正気かよ、あの胡桃ちゃんからの誕プレなのに」

「んじゃ池田は俺がこのクソダサイ十字架つけてたらどう思う?」

「そんなダサくなくない? お前顔だけは良いんだからなんでも似合うだろ」

「褒められちゃった」

「顔だけは良いってむしろ悪口じゃないの」

「やめてそういうこと言うの! 俺は褒められたって思いたいの!」


 その手はネックレスを片付けながら「てか首につけるの好きじゃないんだよなあ、首絞められちゃうじゃん」と物騒な心配をする。でも言われてみれば、昴夜がピアス以外のアクセサリーをつけている覚えがないのはそういうわけだったのか。


 ……覚えといえば、胡桃が教室までやって来て昴夜に誕生日プレゼントを渡したなんてイベントにも覚えがない。昴夜の態度はともかく、なぜ私は胡桃の行動まで変えてしまったのだろう。謎だ。


「……それで、侑生は?」

「俺がなに」

「……英凜からなに貰うのかなーって」茶色い目が私と侑生を行き来する。


「なんでお前に言う必要あんの?」

「感じ悪ッ! いいじゃん教えてくれても! ケチ!」

「ていうかまだ侑生に渡してないんだから。さすがに昴夜に先に言うわけにはいかない」

「分かった、当てる。ポッキー」

「自分がトッポだったからでしょ。違うよ、侑生はもっとちゃんとしたやつ」

「俺のはちゃんとしてなかったの?」

「そういうわけじゃないけど、昴夜は友達だから……」


 この遣り取りもなかったはずだ。もちろん細かい会話なんて覚えていないもののほうが多いけれど、昴夜が私と侑生の関係に言及したことはなかったはず。昴夜は私を好きなのだから当然だけれど、じゃあなぜいまは言及するのか……。


 はて、と首を傾げる私の隣では、侑生がじっと私を見ていた。でも何か訊かれたときに誤魔化せる自信がなかったから、気付かないふりをしておいた。




 土曜日、侑生の誕生日をお祝いした。誕生日当日は平日だからゆっくりお祝いできたほうがいいと私が提案していた、らしい。当時の私は一ヶ月以上前から張り切って準備をしていたようだ。


 いまの私はといえば、目の前の侑生が高校生だと思うと彼氏というよりは可愛い弟のように思えて、午前中に映画を見た後はお昼ご飯を作って一緒に食べたし、ケーキはあらかじめ手作りした。


「なんか、急に料理スキル上がったよな」


 口の端についたガトーショコラの切れ端を親指で拭いながら、侑生は首を傾げた。


「まだ真夏のタイムスリップ続いてんの」

「まさか」


 冗談なのか本気なのか分からず、少し心臓が跳ね上がった。


「もとからお祖母ちゃんがいないときにご飯を作ってることはあったし」

「英凜、面倒くさがってカップ麺で済ませるタイプだと思ってたけどな」

「……当たらずとも遠からずだけど」


 三十歳の生活を思い出す。カップ麺は両手と机上が埋まって邪魔だし、お湯を注ぐ必要があるのも三分待たなければならないのも面倒くさかった。だから仕事中の私は黙々とバランス栄養食をかじっていた。箱買いして棚に積み上げられた、しかも同じ味ばかりのそれを見て、先輩がドン引きしながら笑っていた。


「食生活が極端になったのは忙しくなってからだし……」

「忙しく?」

「あ、あの、ほら、急いで出なきゃいけない用事があるときに妥協するのはやぶさかでないって話で」

「……ふーん」


 納得してなさそうな反応のまま、侑生はフォークを置いた。食べ終わってもチョコレートスポンジの欠片がお皿に散乱していないところが、隠しきれない育ちの良さだ。


「……最近の英凜、なんか俺に隠してない」

「え、なんかってなに」

「……なんか。なんか、話してて違和感がある」


 私の高校生活で、誰より長い時間を過ごしたのは侑生だったと思う。一年生のときから付き合っていたし、まだ受験勉強もしない時期だったからデートもよくしていた。だから異変に気付かれるのは当然といえば当然だった。


 そうだとしても、やっぱり、侑生は私のことをよく見ている。


 その侑生に、例えばここで、タイムリープのことを暴露したら、どうなるのだろう。私のタイムリープは強制終了するのだろうか。それとも別れるのと同じように暴露することも許されないだろうか。


 後者なら何も起こらないだけだからいいけれど、前者だとしたら……。


「……結構前だけど、夏休みの終わりか新学期始まってすぐのときも、何か言いかけてなかった?」


 侑生の長い指先が髪を梳き、頬に触れる。中身でいえば十四歳も年下の男の子なのに、触れられると恥ずかしくて仕方がない。


「……言いかけたことはあるんだけど、言えなくて」

「……俺につかってる?」

「そうじゃないよ」


 別れようと思っていた――それはやはり、声にはならない。比喩ではなく、声が出ないのだ。


 するりと、指が頬から耳の後ろに滑る。その感触がくすぐったくて目を閉じた一瞬の隙に、侑生の顔が近づいていた。


「……ちゃんと言わないと、俺はなんでもやるよ」


 付き合いたての頃に言われたことがあった、もし私が侑生を好きでないとしても、付き合っているという外形があればかこつけてキスもその先もするから気を付けろと。


 私の好きな人は昴夜だったけれど、ファーストキスは侑生だった。


「それは分かってる。それは、分かってるんだけど……ちょ、っと、ストップ」


 ところで、いまは倫理的にも心理的にもキスしていいものなのか? 唐突にその思考に至り、慌てて間に手を挟んだ。


 侑生が、少し怪訝そうに瞬きをする。あの頃、私が侑生とのキスを拒んだことがあっただろうか。なかった気がする。


「……話が途中でした。そしてその話は……、やんごとなき事情で言えないという、ことでして」

「やんごとなき事情」

「やんごとなき。不可抗力と言ってもいいです」


 私の手に鼻から下を隠されたままの侑生は、視線を動かさなかった。せいぜい、長い睫毛が瞬きのために上下したくらいだ。


「……タイミングの問題?」

「……そうといえばそうかも――ひゃっ」


 目が少し伏せられたかと思うと、ぺろりと掌を舐められた。慌てて手を引っ込めようとして、そのまま掴まれソファに転がされてしまった。


「……じゃ、言ってくれるまで気長に待っとく」


 手が手のひらを滑り、指が絡まる。


「待って、それは待ってない――」


 かぷりと、食むように唇を重ねられた。


 十三年ぶりのキスだった。舌を入れるわけではない、でも唇をただ合わせているだけとは言えない濃厚さがあった。


 思わず目を瞑ってしまったけれど、逃げるつもりはあった。でも狭いソファの上に逃げ場はなかったし、指を絡めているだけとは思えないほど強く手を拘束されていた。


 侑生のキスは、今だから余計に分かるけれど、手慣れていた。そうでなければ、ただ唇に触れるだけのことがこんなに官能的であるはずがない。昴夜を好きでも、侑生とのキスにはそれを忘れさせるだけの熱があった。


 まだ、たったの十七歳なのに。拒絶するほどの強い意志もないまま、そっと目を開け、長い睫毛が扇状に広がっている様子を盗み見する。でもすぐに恥ずかしくなって目を閉じた。


「……今日、余裕そうだな」


 唇が離れると、いつもの落ち着いた目に見下ろされた。


「……つい、意地で」

「なんの意地だよ」


 十四歳も年下の侑生に好きなようにされるのが恥ずかしかった。そんなの知ったことではない侑生が笑い、吐息が唇にかかる。


「……なんか違和感あるって言ったけど」

「ん」

「なんか英凜が近い」

「近い?」


 遠いじゃなくて?


「……英凜はもっと、俺に他人行儀だろ?」


 思ってもみなかったことを言われて、しばらく言葉が出なかった。


「……他人行儀だった、私?」

「……他人行儀っていうと違うんだけど、“彼女”でいようと努力してる感じ」


 そうだったっけ。言われてみるとそうかもしれない。昴夜を好きなのに侑生と付き合い続けることを選択した私は、せめて“いい彼女”でなければならないという責任感のようなものにさいなまれていた。


「でも夏休みが終わってからそんな感じがしない。……英凜からあんまり緊張を感じないというか。悪い意味じゃなくて、気を遣われてる感じがしない」


 違和感を言語化できないように、侑生は「ごめん、なに言ってんのか分かんないな」と苦笑いして、また軽くキスをする。


 その手は、私の肌には触れない。


 私と侑生は、思春期真っ只中の高校生らしい付き合いをしていた。“最後”まではしないままだったけれど、キス止まりとは言えない。でも、キスを「唇でなにかに触れること」と定義するのであれば、キス止まりと言っても嘘ではない。互いにほぼパンツまで見たことがあるけれど、ただし、それ以上はない。


 つまり、今日だってパンツまで見られてもおかしくはない関係ではあるのだけれど、目の前の侑生がそんなことをする気配はなかった。


 ゆるゆると、侑生の体が私の上に落ちてきた。甘えるように、私の肩に額を載せる。


「恥ずかしいことを言うけど」

「うん?」

「多分、夏休み前の英凜は、外で食べるほうが好きなものを選べるし味も担保されてるしベターに決まってるって言ってた。それが悪いって意味じゃなくて、まあ英凜らしいなと思うんだけど。今日の、昼を作って一緒に食べようとか、ケーキを作ってきてくれるとか……俺と一緒にいる時間を大事にしようとしてくれてる感じがする」


 確かに過去の私はそうしていただろう。それをなぜ今の私がしなかったかというと、ただ今の私にとっての侑生は“可愛い十七歳だから”というだけだ。まだ高校生の男の子にとって、ひとりきりの誕生日なんて寂しいだろうから。お昼ご飯に温かい手作りのものを、誕生日ケーキに手作りケーキを食べてほしい。たったそれだけだ。


 そんな母性のような愛情さえ心地よく感じるほど、当時の侑生は私に心の距離を感じていたのだろうか。


 自覚があるようなないような、そんな複雑な心境で閉口した私の体に、侑生が少しだけ体重を預けてくる。ずしりと重みを感じるけれど、でも全体重には程遠い軽さだった。


「……近いから、もっとしたいような、しなくてもいいような。なんか変な感じ」


 好きじゃなくても、キスでもなんでもしてるうちに流されるよ――そんなことを言われたことがあった。あれはいつの話だっただろう。だから、付き合っている以上はキスもその先も全部すると、今になって思えば拒絶されるのを待っているかのようなことを宣言された。


 私はずっと昴夜を好きだった。でも気付いたときには侑生と付き合っていたから言えなかった。侑生はそれを知っていた。


 昴夜が、昴夜が――在学中も卒業後も私はずっと昴夜のことばかりだったけれど、その間、侑生はずっとどんな顔をしていただろう。


「……ごめん」


 そっと背中に手を回す。抱きかかえると、その体が自分よりずっと分厚いことが分かる。少し涼しい秋風が吹きこんでくる部屋に、人の体温は心地よかった。


「なんで謝んの、いつもよりいいって話なんだけど」

「そのいつもが……見当違いのことをしてたような気がしたから。ごめんね」


 この心地のいい体温を、あの頃の私はいつもどんな気持ちで受け取っていただろう。


「英凜が見当違いなのはいつものことだよ」

「ひどい! 私だって私なりに一生懸命考えてるのに!」

「はいはい」


 投げやりな返事とは裏腹に、侑生が明るく笑っているのを感じる。


 すぐ近くに見える耳たぶには、青のピアスが光っていた。一年生の誕生日に私が渡したものだ。今年はパスケースを渡した。現実には悩んだ末にマグカップを買った記憶があるのだけれど、今になって考えると迷走していたとしか思えない。パスケースは、使うよという意思表示のように、既にカバンにくっついている。


 高校一年生と二年生の大半を、私はこうして侑生と過ごしていた。その間に私が見ていた見ていた侑生は、明るい笑顔を見せたことがあっただろうか。


 自慢の記憶力は、少し頼りない。

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