128話 もう闘えない、それでも走る



 酒場『ゴールドシュガー』は隣接する都民軍事依頼所と提携しているため、店内からでも推薦状を受け付けていると店員に教えてもらった。上等そうな専用の紙を貰い、丁寧に推薦文とサインを書いて、店内ポストに投函した。



 会計を済ませてスクラーロさんに手を振り、店を出る。マイゼン大通りを歩きながら懐中時計をポーチから取り出すと、既に二十一時半を回っていた。店に入ったのは十八時前だったのに、気づけばすっかり夜が更けている。延々と賑わい続けるあの酒場にいると時間感覚が鈍るようだ。



 先ほどメモした情報が脳裏をよぎり、身震いする。ヒュドラー関係者がどこで狙っているか分からないのに、一人で夜更けに外出だなんて、命知らずなことだ。酒場で周りに擬態するためとはいえ、フル装備で良かった……。


 あ、と独り言が漏れた。


「会社に連絡するの、すっかり忘れてたな」


 心配をかけているかも知れない。預けられていた携帯連絡機をポーチの底から取り出す。



 会社のナンバーを打ち込んで通話ボタンを押すと、一瞬で繋がった。


『ルーク?』


「わっ! はい、ルークです――」


『ケインだよ! 連絡遅すぎ! 何してたの! 今どこ!』


「あはは、ごめん……。酒場での情報収集が、思いのほか捗っちゃったんだ」


『……無事なら、いいけどさ……』


「心配かけたね。今まだマイゼン大通りだから、帰社は二十三時くらいになっちゃうな。報告よろしく――って言っても、レイジさんとダンカムさんはもう退社したかぁ」



 なんの気ない言葉に、妙に暗い返事がある。


『……まだ、いるよ』


「そうなの? ……ああ、やっぱ俺達が最近働けてない分の残業が――」


『違う』


「えっ」


『……違うの。……か、カルさんが……うっ、ぐずっ』



 滅多に聞かないケインの涙声が、気がかりだったカルミアさんの非常事態を語った。さぁっと血の気が引いて、連絡機を握り締めたまま帰路を走り出す。


「な、なに! 何があったんだ?」


『分かんない。分かんないの。何も……何も教えてくれないんだもん』


「えぇっ……? で、でもケインが今泣いてるのは何かあったからだろ!」



 彼女は受話口の向こうでしゃくりあげながら言った。



『カルさんが、ちっ、血まみれで帰ってきたんだよぉ……!』



 胸を内側から破らんばかりの動揺。それを抑えて絞り出した声は、上擦り震えてしまった。


「そ、そんな……。無事……じゃ、ないんだよな?」


『ひっく……怪我してるようには見えたよ。でもカルさん、自力でしっかり歩けてたし、ただいまーって笑ったんだ。びっくりして色々聞いたけど、全部、まぁまぁ後でねってはぐらかすんだもん。後でって何? ううっ……私、もう何も分からないよ……』



 言葉を返せないまま、ただただ帰路を急ぐ。繁華街の賑わいは耳に入らない。ケインが懸命に話す声だけに集中し続けた。


『そ、それで。最初に会ったのが私だったみたいだから、すぐにレイジさんとダンカムさんの二人を呼びに行ったんだ。そしたら、三人で会議室にこもっちゃった。ログマが私の代わりに様子を聞きに行ってくれたけど、五分くらいですぐに出てきた……』


「ログマはなんて言ってた?」


『何も聞けなかったって。怪我は一通り治したけど、それだけだ、ってイライラしてた……』


「そうなのか……」



 ログマにすら話してないのか。息子さんの話の時と同じく、男性に話しやすい内容なのかと思ったが、今回は違うんだな。――じゃあなんだよ? 見当もつかない。



 突然平衡感覚が怪しくなり、ふらつく。止むを得ず、ラタメノ広場の往来の中で立ち止まった。……ウィルルが拐われた辺りだった。


 猛烈な目眩と動悸、吐き気で呼吸が乱れる。それを聞き取ったらしく、ケインを慌てさせてしまった。


『ルーク? どうしたの! ねえちょっと!』


「ご、ごめん、なんでもない。多分、疲れと酒が……。急いで帰ろうと思って、走ってたら急に来た……」


『そっか……。疲れてる時に、不安になる報告してごめんね。ゆっくり帰ってきてね?』


「いや……共有ありがとう。早く知れて良かった。ちょっと動転しちゃったから、心を落ち着かせながら帰ることにするよ。また後でね。――あんまり、目を擦っちゃダメだよ」


『あははっ……。たまにはお兄ちゃんみたいなこと言うんだね。ぐすっ――待ってるからね!』


「……うん」


 受話口を本体に納め、連絡機をポーチにしまう。



 視界は未だに揺れている。酒か、疲労か、病か、動揺か。……全部なんだろうな。


「くっそ……」


 水筒の水をがぶ飲みするだけでは飽き足らず、液体頓服薬を飲んだ。酒との相性? 知ったことか。


 ああ、イライラする。目に映る全てが憎いし、耳に入る全てが邪魔だ。そういえば鼻が利かないな、と思ったら、涙を堪えているせいで詰まっていた。またストレスが爆発しそうなのだろう。他人にぶつける前に発散しなくては。……めんどくせえな。


 なんで回復術は、脳に、心に効かねえんだろうな。いや、仕組みが複雑すぎて壊すリスクが大きいから禁忌にされてるって、知ってるけど。無理やりにでも回復して、一刻も早く帰りたいのに、肝心な時に役に立たないよな。



 涙と笑いが勝手に浮かぶ。仕組みは知らないが、俺の限界が近い証だ。


「ふぅ、う……はは、あっはは……ぐずっ、うう……」


 ヤバい精神状態のまま、ひたすら重い足を運ぶ。俺自身が危険な目に遭う可能性など、もうどうでも良くなっていた。



 次から次へと分からないことが襲ってくる――そんなの、闘病だけで充分だ。毎日精一杯なんだよ。


 なのに、あの事件を機に、日々の難易度が跳ね上がった。心のり所だった仲間達が知らない顔を見せる。全容を掴めない危険が迫る。未経験の方法で立ち向かわなければならない。なんだよこれ。俺にとってはキツすぎる。


 今日だって沢山の初体験に挑んで、全力の手探りでかろうじて成果を出した。満身創痍なんだ。その終わりにこんな強敵にぶん殴られたって、俺、もう闘えないよ。




 ――なあ、カルミアさん。血まみれで帰って来たりなんかしたら俺達に心配をかけるって、あんたなら当然分かるよな。


 普段のあんたなら、必要な情報共有は欠かさない。事情を説明して、怪我の程度も開示する筈だ。半端に隠して皆の気を引きたい、心配してもらいたいとか言う思考も持ってないだろ。


 じゃあ、どうして……?




 歯を食いしばり、再び走り出した。走って帰ったって、きっとカルミアさんは何も教えてくれない。本当は、走る元気もない。それでも、走らずにはいられなかった。大事な仲間が、どこかへ行ってしまう気がして。



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