解説(言い訳) ④


 閑話では有言実行、洲干島弁天社に家出していた弁天ちゃんと宇賀くんです。

 弁天社の例祭が開港記念日に移動して、それが今なお続く開港祭の始まりなのだとか。いや、今はただのイベントですが。

 神輿を奉納した世話役に生糸商と鉄砲商がいたのが横浜港の性格をよく表しています。

 平和な貿易だけではなく、日本の中での死の商人の側面も持っていたのです。小銃輸入においては国内で六割のシェアを持っておりました。


 そして二人して増徳院にしれっと帰ってきています。理由は埋め立てと建設工事。振動と騒音は今も昔も近隣問題だったのでしょう、きっと。

 景勝地だった小さな岬のお社の、脇の海。港のそばの好立地だけに、埋め立てられて各国公館用にされてしまいます。もう風景が変わるのは諦めている弁天ちゃんですが、昼寝はゆずれなかった……。

 出来上がったオランダ領事館は、寺のようだけど屋根の上に物見のテラスがある奇妙な建物でした。設計はオランダ側がやったのですが、日本人大工が建てたのです。

 オランダさんは他国に先んじて神奈川宿から横浜に引っ越したり、独自の施策を打ち出していたみたい。幕府との付き合いの長さとかのおかげなんでしょうかね?


 浅間神社は富士山信仰のお社です。開港後に砂洲から丘の上に移転させられ、むしろ立派になりました。明治時代には見晴らしの良いお茶屋さんも出来て、観光名所だったそうです。絵葉書にもなるような。


↓前田橋の居留地側から見上げた元町百段

https://kakuyomu.jp/users/yamadatori/news/16818093079498919359


 二年越しで完成した百段坂、弁天ちゃんもお気に入りです。本当に眺めのいい丘でしたが、今は……目の前に首都高狩場線もありますしビルだらけだし、そうでもないかも。



 そこから見てしまった、焼き場の煙。この年は麻疹とコレラというダブルパンチで多数の死者が出ました。薬師ちゃんが落ち込むのも無理はありません。

 予防接種もありませんし、特効薬もない時代。麻疹でバタバタ人が死ぬなんて今は考えられませんが、そういう過去があるからこそ、しつこいぐらいに注射して免疫をつけさせるんですね。


 大まかに、病にこう対処しろという指針は流布していたようです。水に気をつけろとか、これを食べろとか。科学的には間違った内容もありましたが、皆がそれにすがりました。

 麻疹絵。コロリ絵。なんて物があります。疫病を流行らせる悪い鬼を人々が懲らしめる絵柄の浮世絵です。

 絵の横には「~すべし」、みたいなことが書いてある。それを参考にしつつ、なんなら拝みつつ、病の平癒を祈るのです。でも、そんな浮世絵で儲ける人もいるわけで、たくましいなあと思います。

 当時は浮草のような移住者たちが横浜にあふれていました。慣れない土地で病に倒れた人々もたくさんいて、そんな一人として登場したキセは架空の人物です。


 悲しむ薬師ちゃんを連れ出した居留地。きっちり番所が置かれて管理されるようになりました。

 でも笠などの被り物を脱いで名前を告げ、怪しそうなら荷物を改められるぐらいのものでした。そんなに厳しくはないです。だって当時の居留地って外からの物資と労働者がなければ回らないんですから。

 この出入り改め所、つまり関所の内側を〈関内かんない〉、外の田んぼに広がっていった町を〈関外かんがい〉と言いました。現在JRの駅名に残っている〈関内〉はここからきています。


 ワインを買ったのは海に面した輸入品店、ストイト商会。オランダ商人です。あれ、今回オランダさんばかり出てくるな。あ、でもパン屋さんはイギリス人だ。

 開港から三年ともなると、輸入食料品店も増えていたようです。洋酒をはじめ、保存食を売ってくれるんですね。生の牛乳が飲めなければ粉ミルクがあるじゃない……食肉業者もすでにいて牛乳も供給されていたのですが、需要は増大するばかりで追いつかなかったようです。


 ああ、それと生麦事件で亡くなったのもイギリス人でした。

 上海で商売をしている人が、どうして旅先でそんなことに……と思うのですが、どうにも向こうっ気の強い頑固な方だったようです。自分ルールに殉じてしまったのかもしれません。叔父が「あいつはいつかそういう事になると思ってた」と感想をもらしたんだそう。

 幕府が日本での儀礼について外国人に周知徹底していなかった可能性は高いです。ですが日本の事情に通じていた居留民が事件の直前に同じ島津の行列に遭遇し下馬、脇によけて見送ったとも証言しています。旅行者だったからこその無知による、不幸な行き違いだったのでしょう。だけど外国人に対する無礼打ちは条約違反なのでは、島津さん?

 これを含めた攘夷の事件は、まだまだ尾を引いていくことになります。


 そして競馬イベントです。当時の日本では〈駆け乗り〉と呼んでいました。

 春にあったというイベントが、しっかり記録のある競馬としては日本初だと思います。この二年前、1860年に元町で競馬をしたという記載もあるのですが、どういう内容だったのかわかりません。まだ横濱村人の移住が途上なので建物は少なかったと推測できますが……。

 この春・秋の競馬が行われた場所が、現在の横浜中華街にあたります。グランド・スタンドが設営されたのは中華街大通り善隣門付近。

 ほぼ更地だったのですが、端っこに建っていた商館のせいでコースが狭くなったそうです。家なんざコースの中に閉じ込めちまえ、との意見が多数あったとか。どんだけ競馬が好きなのよ……(笑)

 元町百段から観客が見下ろした、というのは創作です。記録は見つからなかったけど、絶対よく見えたはず!


↓元町百段・上からの見晴らし

https://kakuyomu.jp/users/yamadatori/news/16818093079524124352


 * * *


 さて江戸幕府もいよいよ末期。大混乱の世の中で、日本史の主役は京都とか薩長、近くても江戸や水戸になるのですけど。

 この話は横浜から出ません出られません。だって、横濵村の弁天ちゃんですからね!


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