第21話 気晴らしに


「薬師ちゃーん、元気?」


 薬師堂の戸は小さく開いていて、正面奥にはご本尊が安置されている。仏像は揺らめく灯りに優しくこちらを見つめていた。

 今はとにかく薬師如来にすがりたい者が多いので、直にお詣りできるようにしてあるのだった。返事も待たずにお堂をのぞいた弁天は、これじゃ昼寝もしにくいなと肩をすくめた。


「お出かけしてきたの? 弁天ちゃん」


 ひょいと薬師が顔を出す。戸のすぐ脇の壁を背にして座っていたようだ。ここならば賽銭箱の手前で立ち止まる者からは見えない。

 祈る人々も、まさか薬師如来が顕現してすぐそこにおわすとは思いもよらないだろう。民にこんなに寄り添っていただけていると知れれば参拝が列を成すだろうが、宣伝するわけにもいかない。玉宥は少しばかり残念に思っているはずだ。


「百段の上まで行ってきたの。風が気持ちよかった」

「……そう、風よ。悪い風を溜めずに、体を清め、水に気をつければよいのに……」


 ぶつぶつ言う薬師は、流行り病から頭が離れないらしい。まあ、それが仕事なのだが。弁天はスルリと隣にすべりこんだ。


「わかっていても難しいね。特に水は足りていないし」


 町となった横濱は、元が入り江。田だった頃には川からの水で潤せたのだが、人が飲むにはよろしくない。ならばと井戸を掘っても塩が混じってしまう場所が多かった。居留地の辺りは砂洲だったが、そこも真水の井戸は少なく、ふくれ上がった住民は水売りが回って来るのを待ちわびるありさまだった。

 元町は丘裾なので湧き水が豊富で井戸も掘られていた。だがそこも朝夕に水汲みの人が列をなすほど。それに埋め立て地で病がなくならなければ元町での感染もとまらないのだ。人は往き来するものだから。


「薬師ちゃんが心を痛めていてはいけないよ。ドンとかまえて元気でいてこそ、加護も世に満ちるというもの。皆のために微笑むのが薬師ちゃんだと思う」

「弁天ちゃん……」


 励ます弁天を見つめ、うるっとした薬師はそっと弁天を抱きしめた。


「そうね、私がおろおろしていてはいけないの。まあ情けないわ、痛々しいことばかりなので、つい」

「ううん。それが薬師ちゃんの優しさなんだよ」


 弁天だって人々の悲しみに心動かされないわけはない。だが生老病死が人。それを見つめ寄りそうのが神仏だが、それで人のさだめが変わるものではなかった。


「でもさあ、ちょっとこう、気晴らしした方がいいんじゃない?」

「……そうかもしれないわねえ」

「薬師ちゃんも散歩に行こうよ。お堂にこもっていると、それこそ空気が悪くなりそう。体に良くないよ」

「まあひどい。私は倒れたりしないわ」


 ふふ、となる薬師だったが、やはりその微笑みは力ないのだった。

 ここは我が何とかするしかないね、と弁天は腕組みした。




 あまり気の進まない薬師を引っ張り出して、弁天が向かったのは居留地だった。

 大柄な男とも見える薬師は谷戸橋の番所で菜っ葉隊員をぎょっとさせたが、刃物を持っているわけでなし、弁天が隣でニコニコしていれば問題なく通された。宇賀も物腰が丁重で馴染みの顔なのでスルリと過ぎる。


「――あなたたち、しょっちゅう行き来してるのね?」

「もちろん」


 得意げな顔の弁天の後ろで宇賀は申し訳なさそうに身を縮めた。病気平癒に心をくだく薬師と違い、遊び歩いているように思われかねない。それが嘘とも言い切れなくて、肩身がせまかった。

 慣れた足取りの弁天は先頭きって歩いていった。谷戸橋を渡ってすぐの右側には煉瓦造りの異国風な建物がある。


「ここいらは異国のようになるのかしら」

「石の建物に住むなんてね。蔵みたいで面白いとは思うけど」


 まだ急ごしらえの日本家屋が多いのだが、ぽつりぽつりと西洋風の家が建てられつつあった。

 のどかな浜辺は昔とは様変わりし、石積みの護岸になっている。だが寄せる波は変わらず穏やかだ。しばらくぶりに触れる潮を含んだ風に、薬師はほうっと息を吐いた。


「そうね、やっぱり落ち着くわ。何もかもが移ろうように思えてきていたけど、そればかりではないのね」

「でしょ、薬師ちゃん。我らは我ら、ゆるりといこう」


 弁天も気持ちよさげに風を見上げた。蒸気船の煙は流れていくが、港の空はこれまでと同じに広く、青い。


「――でね、この先で買いたい物があるんだなあ」


 弁天はくるりと振り向くと、上目遣いに薬師を見上げた。その瞳の、何やらたくらむ色。


「あら。なあに弁天ちゃんたら、こんな所で買い物だなんて」

「あのねえ、前に食べたパン。覚えてる?」

「パン――ああ、いただいたわねえ」

「あれ、してたでしょ?」

「そうだったけど」


 それは運上所近くで兵吉という日本人が焼いていたパンのこと。好奇心にまかせて買って来た弁天と一緒に食べてはみたが、お茶が欲しくなって困ったのを薬師も思い出した。


「なんと、あれの美味しいいただき方がわかったのです!」

「――まあ!」


 薬師は目を丸くした。どうりで弁天がわくわくと外に誘うわけだ。そんな目的があったとは。

 パンと、そこに添えて食べる食材を買い込む。今日の弁天はしばらく貯め込んだお賽銭を散財する気満々だった。


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