第22話 実食! 其の弐
ふふふ、と不敵に笑む弁天がパンの食べ方を知ったのは、つい先日だ。
横濱の港が開かれもう三年。増えていく外国人は続々と日本人を雇い入れている。商店で働く者もいれば、居宅で雑用や料理にたずさわる者まで。そんなわけで西洋の暮らしに通じた日本人がずいぶん多くなってきた。
「じゃあ誰かから聞き出したのね。弁天ちゃんたら、頼りになるわ」
「いえ、調べたのは私です」
後ろを歩いていた宇賀がそっと主張した。
町で世間話に聞き耳を立て、それを売る店の当たりをつけ、下見まで独りで済ませてきたのだ。宇賀は弁天のためなら労をいとわない。
「弁財天さまが居留地で男どもとお話すると目立ちますので」
「んー、弁天ちゃんは可愛いものねえ」
宇賀ももう、むやみやたらと弁天と外国人の接触を邪魔しようとは思わなかった。だが警戒はしてしまう。
彼らは礼節を知る人々だ。しかし、そうでない者もいる。その点は日本人と同じ。
酒に酔い、クダを巻き、暴力沙汰を起こす連中は絶えなかった。公使館からの警告にも全員が大人しくなるなんてことはない。そしてこれから行くのは酒も手に入る店だった。飲兵衛の集まる場所など信用できるか、と宇賀はこっそり考えていた。
「買い物をしたら、お堂に戻りますので」
「お店でいただくんじゃないのね?」
薬師は不思議そうにした。パンはおかずと一緒に食べると言っていたような気がしたが。
困ったように眉尻を下げる弁天は残念そうだ。
「お料理はねえ……異人さんの店に混ざるのはまだ遠慮してるの。ほら、お作法もわからないし」
「ああ、そうね。無礼なことをしてしまっては」
「
「へええ。ちゃんと合わせる物があるのね」
ふんふん、とうなずく薬師はゆるりとした微笑みを浮かべていて弁天は安心した。気分転換できたらしい。
潮風。さんざめく波。夏の名残の陽光。そして美味しい食べ物への期待。
変わらないそんなものは神仏の心もほどいていくのだ。
「さて出揃いました、異国のお弁当です!」
「まあまあ弁天ちゃんたら楽しそう」
弁天堂に帰った弁天たちは、車座になり真ん中に戦利品を広げていた。
海岸端の十二番地、ストイト商会という輸入品店で手に入れたワインとチーズ、そしてバターにジャム。パンはさらにグッドマンというイギリス人のパン屋に足をのばし買ってきた。これで珍しい宴ができる。
「店の者と言葉が通じるのは本当にありがたいことです」
「そうだねえ。品物の名も値も書いてくれていたし」
どちらの店でも日本人が応対してくれて助かった。普段から表に出ているのではないようだが、弁天たちを見て呼んでくれたのだ。
パン屋の奥から現れたのが十歳にもならない少年だったのには驚いたが、丁稚奉公に来たというその子は英語をどんどん覚えていって重宝されているらしい。
「えらいわあ。子どもは言葉を覚えるのが早いのね」
「じゃあ、我らなんていちばん駄目なんじゃないの?」
「……そうなりますね」
そんなところで悠久を過ごす弊害が。
宇賀は苦笑いしてワインの瓶を手に取る。栓は店で抜いてもらい、丸めた紙を仮に詰めてあった。こぼさぬよう縦にして持って帰ってくるのは少々難儀だったが。
「お注ぎします」
「ん」
ト、ト、ト。弁天が持つ湯呑に出てきたのは――。
「ちょっと、これでしょ! 半右衛門が言っていた血のような酒!」
「おお……なるほど、血」
きゅぽん、と音を立てて抜いてもらったコルクという物は記念に持って帰っていたが、半分変色していたのはこの赤さのせいなのか。着物にこぼさないようにと言われたのもわかる。くっきりと染みになりそうだった。
「まああ。でも血というには紫がかっていて」
「薬師ちゃんのこだわりも細かいね」
指摘はその通りだが、弁天はとにかくワインの香りをかいでみた。
「……金臭くはないよ。よかった」
「それどころか、甘く感じます」
全員でふんふん匂っているのもおかしいが、珍奇な物は目でも鼻でも楽しめばよい。そしてちびりと舐めてみて目を丸くした。
「甘……いような、酸いような」
「これは、何か果物なのでしょうか」
「渋みもえぐみもあるけれど、軽いお酒だわ」
くぴ、と薬師は一口飲む。唇の端がなんとなく嬉しそうだ。気に入ったらしい。
宇賀は湯呑を置き、弁天と薬師に他の品々を取り分けた。パン、チーズ、ジャム、バター。
「このボートルとかボターとかいうのは油だと言ったよね?」
「はい。牛の乳から油をより分けるんだそうで」
「チーズも、乳だったよね?」
「はい」
「異人さんは乳ばかりなんだね……」
相変わらず海綿のようにふこふこのパンを手に、弁天は正直な感想をもらす。すると薬師が微笑んだ。
「味噌も醤油も豆腐も、みーんな大豆じゃないの」
「わあ、そうだった。ある物はとことん使う、てことなのかな」
言い込められて笑う弁天は、供されたパンのおともを順に試す。薬師も宇賀も神妙に口にしたが、すぐにパクパク食べだした。美味しい。
バターの香りにきょとんとし、チーズの塩気とワインを合わせ、ジャムの甘さに驚き。
「――瓶は、持っていようかな」
食べて、飲んで、ほんのりいい気分で弁天はつぶやいた。
ワインは瓶の分も銭を払って来ていて、店に戻せば金を返してもらえる仕組みだそうだ。だけど何だかもったいない。手元に置いて眺めているのはどうだろう。
そんなのも、たまにはいいかなと思った。
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