第20話 生きている者は
小僧の平助を困らせつつ本堂前の階段に座り込むのはまだ若い女だった。この時間、そこは日ざかりになってしまっている。
「そんな所で、暑さにやられてしまうよ」
弁天の声にのろのろと上げた顔はうつろで、まぶたは腫れている。おそらく涙の枯れたところなのだろう。
数えで九つになった平助はとても聡い子だ。だが漢籍を読めても、この歳の子どもに女の扱いは難しい。おろおろしているのに宇賀は助け船を出してやった。
「平助、この方に水でもお持ちしては?」
「あ、はい! キセさん、気づかずにすみません」
「生水じゃなくね。庫裡に湯冷ましがあれば、それを」
弁天はそう念を押した。コロリは水に気をつけなければ駄目なのよ、と
「――どなたを亡くされたのですか」
キセと呼ばれた女から一歩離れた場所で、宇賀はおだやかに尋ねた。寺で泣き崩れ動けなくなっているなど、つまりそういうことだろう。
キセは宇賀と弁天を見比べて顔をゆがめ、吐き捨てた。
「どうでもいいでしょ。ほっといて」
「ここで干からびるのを見ていろと? 小僧を困らせていないで家にお帰りなさい」
失礼なまでの強い拒絶に宇賀は厳しく返した。弁天はそれをたしなめ、首を横に振る。
「宇賀の、その言い方は。でもねキセ。泣くのなら家族のところで」
「そんなものない!」
枯れた声で叫ばれて、弁天は眉をひそめた。
「誰も?」
「うるさいね。あんたみたいに良い物を着て、男もいる女に何がわかるんだい!」
怒りでむしろ力が湧いたかキセは立ち上がり、よろけながら走って門を出ていった。取り残された弁天と宇賀は、見送りつつ憮然とする。
「……うん。まあ元気ならいいよ」
「よくないです、あれは」
主を罵られた宇賀がいちおうキセを非難するが、それも控えめだった。家族などないと言い切られれば、あの態度も仕方ない気がする。
「……あ、あれ。キセさんは」
茶碗に水を汲んで運んできた平助がキョロキョロした。弁天はその頭をなでてやった。
「少し話したら、帰っていったよ」
「うわあ、さすが弁財天さま。あの人にお力を下さったのですね」
平助は素直に尊敬のまなざしを向ける。やや居たたまれなさを感じながら、弁天は微笑んだ。
「どうかしらん――キセには何があったの。家族がいないと言っていたけど」
「……子どもらを
「ら?」
「年子の姉と弟でした。三つと二つの――で、その子らの四十九日がもうすぐの時に、旦那さんがコロリで」
「――他に家族は」
「こちらには夫婦で出て来たそうです」
それは可哀想なことを。
横濱村にはいなかった女だ。子らを連れ、新しい港で金を稼ごうと移り住んでみたら病で何もかも失ったということなのか。弁天は空を見上げた。
これまでの村なら何かあっても親兄弟や親戚の誰かしらがいてくれた。天涯孤独もたまにはあるが、生まれ育った集落の皆が放っておくこともない。そんな村の在り方とかけ離れた暮らしが弁天のお膝元で始まっているのだった。
夫の葬式を終えたキセ。送り出せと
死ぬ者は御仏の元へ行ける。だが残った者の救いはどこにある。薬師や弁天が憂うのはそういうことだ。
「一人で元の村にでも帰るのでしょうか」
「そうしたら家族が無縁になってしまうよ。子の墓を置いていくかなあ」
「だけど、キセさんおひとりでは」
平助は暗い顔で言う。暮らしていけなかろうと案じているのだ。女ひとりは確かに多難だが、なるべく何でもなさそうに宇賀は教えてやった。
「働き口はいろいろあるんです」
今の横濱町には男の方が多い。大工に土方、用心棒など体を元手にする職があふれているからだが、その分女手を求める声もあった。
繕い物やら洗濯やらを請け負うこともできるし、飯屋や飲み屋に雇われてもいい。割り切れるなら女郎屋だってあるが、さすがにそれは平助には黙っておいた。
「私は、恵まれているんですね」
考え深げにつぶやく平助は、元町の名主である半右衛門の子。
不自由なく育ち、幼くして才覚を認められ寺で学問をさせてもらっている身だ。キセの境遇や、その儚くなった子らと自分を比べてみればなんと贅沢なと思うのも無理はない。
「ならば長じてから、人を助けられるようにおなり。恩は後に送るものだよ」
「――はい!」
微笑む弁天に諭されて、平助は元気よくうなずいた。深く一礼して戻っていくのを見送った弁天はしみじみした口調だった。
「――あの子は我のことを敬ってくれるから嬉しいよね」
「何をおっしゃいます。皆、尊崇のまなざしをあなたに向けているじゃないですか」
「そうかなあ」
無表情な宇賀に向かって、弁天は唇をとがらせた。そういうところが可愛らしくて、玉宥たちからの扱いが軽くなるのだ。なのに弁天はあらためられない。
「もういいや。薬師ちゃんのお見舞いに行こっと」
「そうですね。ずいぶんお心を痛めていらっしゃいますから」
軽やかにくるりとして向かうのは、境内の薬師堂だった。
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