解説(言い訳) ➂


 作中は開港一年弱。外国人が増え、攘夷の嵐も吹き荒れています。弁天ちゃんは蚊帳の外なので、事件を耳にしても「困ったものだねえ」ぐらいにスルーしますが。

 前の章1859年の攘夷第一号、ロシア人の件以降もいろいろ起こりました。同年十一月にはフランス領事館の雇い人だった清国人殺害。1860年一月には江戸のイギリス公使館前で日本人通訳の小林伝吉が殺されました。その翌日にはフランス公使館に放火。二月にはオランダ商船船長ら二人が横浜の路上で斬殺。


 また1860年一月には横浜山下居留地で火事がありまして、居留民からは本格的に商館を建築したいという要望が寄せられます。

 各国公使は当初、通商条約に記載された〈神奈川〉ではない〈横浜〉を港とするのは認めない姿勢でした。そのため神奈川宿近くの寺に領事館・公使館を置いていました。

 でも商人にしてみれば神奈川宿は狭いんですよ。それに東海道沿いは武士の往来がありますから、襲撃も怖い。

 その訴えを無視できず、公使たちの側も現状を追認する形で居留地の整備を進めることになりました。


 幕府も居留地の警護の観点からを計ります。それが堀川の掘削と番所の設置なのです。関所が必要とされたのは外国人の隔離のためではなく、警備上の理由でした。

 ロシア人殺害事件以降、神奈川宿から港へつながる〈横浜道〉の要所と、終点であり居留地入口の吉田橋には番所が置かれました。ですが反対側の元町や増徳院方面は、横濱村の農家と居留地が竹垣で仕切られていただけ。一応の門はあったのですが、ゆるゆるですね。

 それを厳格化するための運河です。堀川は三ヶ月の突貫工事で中村川とつながり、居留地は切り離されました。


 元・横濵村の人々は地形すら変わってしまう故郷をどんな思いで見ていたのでしょう。

 様変わりした開港場を鳥瞰した浮世絵(の一部)をどうぞ↓

https://kakuyomu.jp/users/yamadatori/news/16818093078643782006



 そこで発生した浅間神社の丘への参道建設計画。単に参拝者の便宜のためだったかもしれません。でも、変わるふるさとを一望するためだったらと考えたら、とても感傷的で説得力があってイイなと。

 この事業の音頭を取った水主頭かこがしら中山勘次郎は実在します。才気ある男で外国人の受けも良かったそうです。



 そしてなかなかにブッ飛んだ人、石川半右衛門。これも実在の人物です。

 1854年のペリー来航時、旗艦ポーハタン号に小舟で乗りつけたエピソードは石川家の記録に細かく書かれています。

 彼に応対してくれたのは、ペリーの副官と清国人通訳。お土産にもらった扇子へのサインはその二人からです。今回初登場した半右衛門の息子・平助が大正二年に扇子の現物を見たと証言しています。しかし関東大震災の際に焼失してしまいました。

 この平助というのは仮の名です。幼名が調べきれませんでした。半右衛門の長男が助だったらしいのですが生年が合わず、夭逝したのかと。名前の読みだけいただきました。だったカナとも思ってますがw

 石川家の平助くん、大人になってからの名乗りは〈龍山たつやま親祇ちかまさ〉。横浜宗教界の重要人物となる人です。



 そして弁天ちゃんお待ちかねの異国グルメ。まだパンにしかありつけていなくて可哀想です。根気よく待ってほしいところ。

 御貸長屋に店を出した内海兵吉は実在の人です。横濵村の南、本牧ほんもく出身で開港場のパン屋第一号。

 外国人一号は翌1861年、グッドマンのパン屋です。それより早いってすごいですね。グッドマンは開業時に European bakery と広告を打ったのですが、兵吉の日本風パン屋に対抗したのかもしれません。

 パンの伝来そのものはずっと昔のポルトガル人によります。幕末期に異国船が来るようになってから、江戸湾防衛軍の糧食として研究されたりもしていたそうですが庶民には未知の食べ物でした。

 日本では〈パン〉と言いますが、ポルトガル語もフランス語もそんな発音なのでしょうか。とにかく英語の〈ブレッド〉よりパンの方が発音が簡単。アンブレッド○ンじゃ子どもが言えません。



 えーと、ひそかに熱い(?)男の宇賀くん。弁天ちゃんのことが心配で、独り占めしたくてキレてましたが……。

 彼が苛立つのも理由はあります。前述のように浪人が横浜にも入り込んでいましたし、安政年間(~1860年はじめ)には政変や天災・疫病もあって人心が揺れ、食いはぐれの荒くれ者も多かったのです。

 そんな中で就職活動してきた警衛隊員だって腕に覚えアリの連中ばかり。弁天ちゃんは中身は微妙ですが美人なので、宇賀くんが気を揉むのも仕方ないのです!

 その後任務についた警衛隊は、緑の羽織を目印に着ていて町の人から〈菜っ葉隊〉と呼ばれていました。親しみ安く聞こえますが、下々からはそれなりに怖がられていたようですよ。


 宇賀くんが眺めていた港崎みよざき遊廓は、現在の横浜スタジアムの位置にありました。

 横浜なら遊ぶ場所もあるよ、と幕府側が用意した外国人寄せアトラクションです。でもオランダからはそういう施設設置の要請があったそう。うんうん、男だらけで来日しているから。正直でいいね。

 設計は江戸吉原を、外国人接客は長崎の丸山遊廓を手本にして作られました。

 遊女の踊りと唄とで酒を飲むだけでも、けっこうな金がかかる遊びでした。外国人商人は羽振りがいいので通えるのですが、日本人の多くは眺めるだけでした。

 外国人客のことを〈お髭さん〉なんて言っていたそうです。アゴ髭をたくわえている日本人は珍しかったでしょうからね。


 * * *


 本格的に異人さんが増えて、横浜も変わっていきます。

 村のままだったら起こりえなかった騒動や災難にも見舞われてしまい、弁天ちゃんも薬師ちゃんも心を痛めることに……。


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