閑話 お話があります
祭だわっしょい
家出宣言の通りに洲干島弁天社へと居を移した弁天の元に、今日は人間の客があった。横濱町総年寄の石川徳右衛門と、弟で元町名主の半右衛門だ。
あまり広くない社の内で、外にもれぬよう声は控えめだ。面白いことでもあったかと微笑む弁天に、徳右衛門はそっと頭を下げた。
「今年のお祭りについて、ご報告があります」
もう五十代後半で横濱町を預かる立場にある徳右衛門。柔和な笑顔で弁天に対しても堂々としたものだ。
「うん。なあに?」
「実はですね、お日にちをずらすことになりまして」
「ずらす?」
「これまで八月十五日に執り行っておりましたが、今後は六月の二日で、と」
それはまた。首をかしげる弁天の後ろで、ピンときた宇賀は口を開いた。
「港が開かれた日ですね」
「左様です」
つまり開港一年を祝って何かと考えてみた末に、弁天社の例祭と合わせてしまえと話が流れたのだろう。なんとまあいいかげんなと宇賀は呆れてしまったが、弁天は軽くうなずいた。
「ふうん。まあいいんじゃないの。いつだってかまわないよ」
「おお、弁財天さまはお心が広い。いや横濱村以来の鎮守ですし、ということは港の守りでもいらっしゃるのだから、これはぴったりだとなりまして」
言われてみればそうかもしれない。
そもそも村人が海の無事を祈りたくて祀られた弁天だった。異国の神を信じる船乗りたちも多かろうが、船が横濱にいるからにはその海の神が守ってやるべき。その辺り、弁天はケチケチしないのだ。
「祭りが早くなるってだけなの? 忙しかろうに、わざわざ来てくれて悪いね」
「いえ、実はですね……」
そら来た。何か悪い話でも続くのだろうと宇賀は身構えた。最近は変わっていくことばかりで気ぜわしくていけない。
だが徳右衛門も半右衛門も満面の笑みだった。そして告げたのは、珍しく良いことだったのだ。
「お神輿を、新しくいたしました!」
「へえ」
弁天は目をぱちくりさせた。
そういえば、神輿はずいぶん前に奉納されたままで古びている。弁天としては祀ろうという心が嬉しいのであって気にしていなかったが、氏子の方は直したかったらしい。良いきっかけだったのだろう。
「傷んでおりましたし、それに小ぶりでしたから。ここはひとつ、横濱村の神のお力と、日本の華やかで美しい細工とを異人に見せつけねばということで、一同張り切りましたなあ!」
珍しく徳右衛門の鼻息が荒い。半右衛門もわくわくしているようだ。
「担ぎ柱含めると
「はい?」
弁天と宇賀が固まった。それはまた、いきなり大きくしたものだ。
親柱は
「五人?」
「私、徳右衛門と、太田町名主の源左衛門。鉄砲商の島田という者と生糸商の小野。あとは
なるほど、と宇賀は納得した。地元の豪農と今伸び盛りの商人、そして遊郭造りを一手に引き受けた楼主が組めば金はあろう。豪華にできるのもわかる。
「となりますと、従来のように洲干島だけを練り歩くのではなく?」
「宇賀さま、そうなのです。弁天社を発って開港場をめぐるのはいいとして、その後は港崎まで」
それはそうなるしかない。金主の元へは回るのが筋というものだが、宇賀はつぶやいてしまった。
「港崎、ですか」
「……はあ。それは弁財天さまとして、よろしくないものでしょうか」
冴えない宇賀の顔色を見て徳右衛門はやきもきした。だってまあ、弁天といえば――だが本人はケロリとしたものだ。
「なんで? 我は吉原もかくやという賑わいに興味があるよ」
遊女たちは芸事を売っているのだ。だからこそ楼主の岩吉も弁天の渡御を望むのだし、守護する神として弁天自身も妓楼に行ってやりたいと思う。
だが下世話な言い方をすれば弁天とか観音というのは女体を差す隠語でもあって。そこで宇賀としては、ものすごく微妙な気分になる。
宇賀には人の肉の欲がわからない。わからない分、野卑な目を弁天に向けられるのが実は心底厭わしかった。考えすぎなのは承知だがどうしようもない。
弁天本人には思いもよらないこの機微を、人の男である石川兄弟はなんとなく感じ取っていた。ただしその目から見ても宇賀と弁天の間柄は清廉で――これはもしや、母親に女を見たくない男児のようなものか。そう思いついた半右衛門は小さく吹き出した。
「どしたの、半右衛門」
「いえいえ。まあ弁財天さまご本人が神輿に乗るわけではございませんし、宇賀さまもどうぞご容赦を」
「え、我が乗れるほどの神輿?」
「絶対に乗っちゃ駄目です!」
強く制止した宇賀に、また半右衛門は笑ってしまった。徳右衛門がさすがに小突き、すまなそうに頭を下げる。
これらの下りが一寸も理解できなかった弁天は、二人になってから「どういうことだったのか」と詰め寄り宇賀を盛大に困らせた。
そして六月二日、盛大に催された例祭。
立派な神輿は、相撲取りまで連れてきてにぎやかに担ぎ上げられた。沿道には物見高く人々が集まり、弁天社は大いに面目をほどこしたのだった。
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