第5話 大団円
彼は、学生時代に、趣味で小説を書いていた。
というのも、
「文芸サークル」
に所属していて、そこで発行される機関紙に、自分の小説が載ることが嬉しくて、学生時代は、アルバイトをしては、サークル代に充てていた。
アルバイトと、学校の勉強以外では、ほとんどを小説執筆にあてていた。
彼の書く小説というのは、SFのようなものであったり、
「奇妙な話」
さらには、
「ミステリー系」
と呼ばれるものが多かった。
「奇妙なお話」
としては、ジャンルとしては、
「オカルトなのではないか?」
と思い、ジャンルをオカルトとしていたが、それは、都市伝説のようなものであったりする話が多く、短編が多かった。
「長編にすると、ダレる」
という意識が強く、特に好きな作家、つまり、
「自分が、奇妙なお話を書きたいと思わせる作家」
というのが、短編を得意とし、その作風や作法というものに、共感しているからだった。
その作家の特徴として、
「最後の数行に、大どんでん返しを持っていき、読者をあっと言わせる」
というやり方を、まるで、
「自分のバイブル」
として、啓発する気持ちになっていたのだった。
SFという発想は、ベタな、
「タイムスリップもの」
から、マルチバースや、タイムパラドックスなどに派生する形のもの。
そして、もう一つの巨頭として考える、
「ロボットもの」
であった。
このロボットものというと、いわゆる、
「ロボット工学三原則」
などを考えさせる元となる、
「フランケンシュタイン症候群」
の考え方に帰属する話であった。
ただ、SFというのは、基本的に、
「ありえない」
という話に話が行き着いてしまうことが多い。
というのは、
「タイムスリップ」
にしても、
「ロボットもの」
にしても、それぞれに、
「タイムパラドックス」
「ロボット工学三原則」
さらに、それに繋がる、
「フレーム問題」
などが絡んでくることで、これだけ科学が発達しているのに、
「タイムマシン」
はおろか、
「人型の、自分で考えて行動する」
という人工知能を持ったロボットの開発ができていないのだ。
「ロボットというものの、外観」
を開発することはできても、肝心の人工知能ができないのだ。
それが、ロボット工学三原則であり、フレーム問題であった。
そこに大前提としての、フランケンシュタイン症候群というものがある。
「理想の人間をつくろうとして、怪物を作ってしまった」
というお話から派生した考えだが、それをなくすために考えたのが、
「人工知能に、三原則を織り込む」
というものであった。
「ロボットは、人を傷つけてはいけない」
「ロボットは人間のいうことを聞かなければならない」
「ロボットは、自分の命を自分で守らなければいけない」
という、ざっくりとした考えである。ただ、ここには、絶対的な、
「優先順位」
というものが存在し、例えば、
「人間のいうことを聞かなければいけないが、それは、人を傷つけてはいけないという大前提の下でしか通用しない」
というような発想である。
このパターンの可能性を辻褄を合せて開発しないといけないというところに難しさがある。
そして、ここで問題になる、
「フレーム問題」
というのは、
「次の瞬間には、果てしない可能性が広がっている」
という前提があるとして、
「果たして、ロボットに、その無限の可能性を整理できるだけの知能を植え付けられるだろうか?」
ということである。
「その場合のまったく関係のないことを考えても仕方がないが、関係があるかないかということを、判断できるだろうか?」
この問題は、
「すべての可能性をパターン別に考えればいいのではないか?」
ということであるが、これも難しい、いや不可能といってもいいものであり、なぜなら、
「無限のものをいくらパターンで区切ったとしても、結局、無限にしかならない。つまり、無限は何で割っても、無限でしかない」
という数学の計算方法からも、不可能だと分かるのだ。
だが、この考え方を、人間を中心とした生物は、それを無意識のうちにできている。たぶんそれが、
「本能」
というものなのだろうが、この考え方をロボットの人工知能にいれることができるとすれば、
「ロボットは完成する」
といってもいいだろう。
そこで考えられるロボットとして、
「サイボーグ」
つまり、
「改造人間」
というものがあれば、
「どちらの問題も解決されるのではないか?」
ということである。
というのは。
「身体は、人間よりも強靭な、ロボットなのだが、人工知能の部分を、本当の人間の頭脳を入れることができれば、三原則にも、フレーム問題にも、対応できるロボットができるのではないか?」
ということである。
だが、日下部は、
「無理だろうな」
と思っていた。
「フレーム問題は解決できても、三原則は難しいだろうな」
ということであった。
そもそも、人間そのものが、
「戦を好み、自分の欲のためには、平気で人を殺す種族ではないか?」
ということである。
したがって、サイボーグであっても、
「人間には及ばない」
という意識を持っていないと、結局、フランケンシュタインのように、
「俺が、この世界の支配者になることができる、頭脳と、力を持っている」
と考えたとすれば、今度は、仲間のロボットを量産し、自分を頂点とした、
「絶対王政」
のような世界を作り上げ、
「人間なんか、奴隷にしてしまえ」
ということで、完全に、
「フランケンシュタイン状態」
になってしまうことだろう。
その考えが、
「結局どこで区切って考えたとしても、結果は同じにしかならない」
ということで、逆に小説のネタとしては、これほどいくつも、
「矛盾」
という発想をいくつものパターンに当てはめさせることで、
「小説ほど、無限の可能性のあるものではない」
と言えるのではないだろうか?
それを、日下部はずっと趣味でやっていたのだ。
だが、大学を卒業してから、小説を書くことは辞めなかったのだが、その間に、
「もう一人の自分」
という性格が宿っているのを感じた。
その性格というのが、
「金儲けに走る」
という性格だった。
最初は、別に違和感はなかったのだが、しばらくして、
「俺って、こんなに金持ちになりたいなんて思っていたんだっけ?」
と感じることであった。
確かに、お金があれば、自分の小説を本にして売ることだってできるだろう。ただ、だからと言って、もし本当に金が手に入れば、急にもったいなくなり、使わずに、貯金をすることになるかも知れない。
「この世の中、金さえあらば何でもできる」
という考えと、
「政府があてにならないので、自分の身は自分で守るために、貯金をする」
という両方の考えがあるのだった。
ただ、
「金はいくらあってもいい」
という考えは絶対に持っていて、それだけに、
「俺っていつから二重人格になったのだろうか?」
と考えるようになっていた。
それと並行して、まわりの友達からも、
「お前は変わっちまったな」
と言われるようになっていた。
「どこがなんだよ?」
と逆らってみたくなるのも当然というもので、
「お前は、何か裏表があるんだよな。前は表はすべてだったのに」
という。
どうやら、日下部の意識していないところで、友達を傷つけていたようだ。
本人としては、
「なるべく日下部を傷つけないように」
ということで、自分の留飲を下げるという目的で、
「これでも最低限なんだけどな」
と考えながら、話をするのだった。
だが、日下部本人には、何のことだか分からない。
「要するに、二重人格ということか」
と気づくまで、少し時間が掛かった。
友達も、さすがにそこまでは口にしなかった。本当であれば、友達の優しさに感謝すべきなのだろうが、
「なぜ言ってくれない」
とばかりに、文句に繋がってしまうのだった。
だが、今回の事故で、それ以外の記憶があいまいになってしまっていたのだが、逆にそれは、
「それまで分からなかったことが表に出てきて、逆に表にあったものが、裏に行ってしまったのではないか?」
と考えた。
その時一緒に考えたのが、それだった。
いつもであれば、このことを意識はするが、すぐに消えてしまうはずのことなのに、今回は消えることはなく、元々の自分も戻ってくる様子はなかった。
「頭を打ったのだろうか?」
と考えると、それに違いはないだろう。
特に、昔のことを思い出そうとすると、頭が痛くなってくるのだ。
それは、手で頭を抑えたくなる感覚で、テレビなどで記憶喪失になった人が記憶を思い出そうとして、
「ああ、頭が痛い」
といって、呻くような感覚に似ている。
もちろん、こんな形の頭痛は初めてなので、テレビの様子と同じものなのかなど分かるはずもない。
「記憶を失っている」
という感覚も、あくまでも、自分が考えているだけのことであって、
「それ以上でも、それ以下でもない」
という感覚である。
日下部は、
「本当に自分は自分なんだろうか?」
というような、禅問答に似た感覚を覚えていた。
それこそ、
「ニワトリが先かタマゴが先か」
という、何かのパラドックスを考えているように思うのだった。
ただ、日下部は、そこで、夢を見た気がした。
その夢というのは、死んでしまった自分の肉体を漠然の眺めている姿だった。
だが、それは、自分が幽霊になったわけではなく、
「誰かの身体に乗り移っている」
という姿であった。
「死んでもいないのに、どういうことだ?」
死んでもいないというのは、あくまでも、
「三途の川を渡り、そこで裁定を受け、人間に生まれ変われるというところに行ったわけではない」
という意味である。
日下部はあくまでも、
「人間が生まれ変わるためには、必ず死後の世界を経由する」
という考えの元だった。
ただ、その中で、一つ気にしていたのが、
「死んだ瞬間に生まれた人の魂に入り込む」
という考え方であった。
ただ、この考え方になると、
「死後の世界」
という概念を完全否定することになる。
あるなしの問題ではなく、
「生まれ変わるのに、死後の世界に行くという発想はなくなる」
ということである、
ただ、この考えでいけば、前述のように、
「生まれ変わる人間がどんどん少なくなっていき、人間はほとんど、いなくなってしまう」
ということになる。
しかし、どのように、その帳尻を合わせるかと考えた時、このように、
「死んだ瞬間に、生まれた人間に入り込む」
ということでもないと、辻褄が合わなくなる。
ただ、その時に弾き出された人がどこに行くかということは、また別問題であるが、それを考えた時、
「生まれた時の記憶がない」
というのは、
「この辻褄合わせのために必要になるからではないか?」
と考える。
そうなると、
「意外と、死後の世界も、存在していて、しかも、生まれた人に死んだ人が乗り移る」
という考えの両方がうまく噛み合うというのが、一番正しいということなのかも知れない。
そんなことを考えていると、今度は、
「本当にそうなのだろうか?」
とも思う。
聖書における、
「ノアの箱舟」
「ソドムとゴモラ」
のように、神は、
「人類の滅亡に近いことをやって、浄化を考えている」
そうなると、
「いきなりの生まれ変わりではなく、決まった生まれ変わりの中で、人間が、どんどん少なくなっていくのを正しい」
と考えているのかも知れない。
つまり、
「人間に生まれ変われないのは、人間が悪いわけで、それがうまくいかないということを誰が非難できるだろう。つまり、滅亡するなら、人間が悪いわけで、神も、自らの手を下さなくてもいい、この考えがある意味、一番自然ではないだろうか?」
だとすれば、この場で、自分が死ぬシーンを見ている自分の魂は、誰かのところに、意識を持たずに入ってしまうのだろうか?
「どうせ意識がないのだから、神にとっては、どっちでもいいことなのかも知れない」
と考える。
「となると、この自然の流れを作ったのが、本当に神なのか?」
ということになり、人間が神と言っているのは、
「ひょっとすると、人間の頂点にいる人で、その人が、人間という、サイボーグを操っているのかも知れない」
人間というサイボーグはいずれ、死んだら、創造主である、
「人間の神」
に奴隷のごとく扱われる。
しょせん、人間が人間を扱う世界なのだ。
そんなことを考えると、目が覚めた時、そこにいるのが、田所であり、先ほどまで田所が考えていたことが乗り移ったようだ。
「本当に、似たようなことを考えていたのか、それとも、乗り移った時に、っ記憶がリセットされたのか分からないが、命が続いていると思ってはいるが、人間は入れ替わっている」
ということもありえるのだ。
「こんな考えの転生だって、あってもいいだろう」
これを考えたのは、
「果たして神か?」
「人間の神か?」
それとも、
「それ以外のモノなのか?」
誰にも分かるはずがないだろう……。
( 完 )
輪廻転生のバランス(考) 森本 晃次 @kakku
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