第4話 生まれ変わり
そんな病院に入院すると、近くには、他にも点滴を打たれている人がいたりしていることに気が付いた。
「ここは、集中治療室なんだろうか?」
看護婦や医者が、忙しく飛び回っているのが見える。
その空気はかなりなもので、複雑な心境を抱かせた。
もうこうなると、
「ただの不安」
というもので片付けられるものではないことが分かり、リアルで、
「自分の身に、何か起こったということを思い知らされる」
ということであった。
最初こそ、カーテンが敷かれたところに寝かされていたので、まわりを見ることができなかったが、カーテンを自分で開けてまわりを見ると、他のベッドも半分くらいはカーテンに覆われているが、それ以外のところには、看護婦や医者が、詰め寄って、治療を施しているようだった。
その様子は、今まではテレビでしか見たことのないもので、さすがにリアルな、臨場感に圧倒されていたのだ。
しかし、まさか、自分もその渦中にいるということが分かると、さっきまで、漠然と天井を眺めていた自分が、まるで嘘のようだった。
「そんな病院の喧騒とした雰囲気の中に一人いるから、不安に感じるということが押し寄せてくる気分にさせられるのでは?」
と感じた。
ただ、意識として、思い出せない中で、何かが起こり、そのせいで、これだけの
人が巻き込まれたのだろうということは想像がついた。
中には、
「唸っている人」
「うめいているかのような人」
それぞれに、看護婦がついていて、治療を施しているが、医者も数人、てきぱきと指示を出しながら、一人で数人の患者を診ているようだ。
さっきまで、機を失っていた五j分が、カーテンを閉められていたのを思うと、まだ、半分くらい閉まっているカーテンの向こうには、
「意識不明で点滴を打たれている人」
「意識は戻ったが、まだ点滴が終わっていない人」
などがいるのだろうと思った。
かくいう、自分はその後者なのだろうが、たぶん、この様子をいていれば、
「自分が一番マシなのかも知れない」
と感じたことだろう。
ただ、気になるところが、ないわけではない。
というのも、
「先ほどから、思い出そうとすると、頭が痛くなる」
という症状があるからだった。
「外的要因で、記憶がなくなる時というのは、思い出そうとすると、それを妨害するかのように、頭痛がしてくるもののようだ」
という話を聴いたことがある。
まさにその時は、そういう感じだったのだ。
しかし、この状況を見ていると、とてもではないが、医者や看護婦を呼び止めて、
「何となく頭が変なんですが?」
と聞く自信はなかった。
「どうしたんですか?」
と聞かれたとしても、ハッキリとした症状を伝えることができない。
「この忙しいのに、いちいち呼び止めないでよ」
とでもいわれるかのような雰囲気に、
「呼び止めるなんて、できるわけはないよな」
と思っていた。
頭上にある点滴の容器を見ているが、まだまだ終わりそうにもなかった。
「ポタポタ」
とゆっくり落ちる点滴のスピードが、今回のように、悩ましく遅いと感じたのは、初めてだったのだ。
「一体、何があったというのだろう?」
と思っていると、よく見ると、奥の方に、救急隊員と思しき人が、まだ数人残っているではないか。
結構広そうなこの部屋に、たくさんの患者が運び込まれている。
「ベッドはほとんどが埋まっているんだろうな」
と思ったが、よく見ると、もっとたくさんの人がいるようだった、
しかも、
「そこに、さらに、患者が運び込まれているように見えるではないあ?」
と思った。
「何があったか知らないが、これじゃあ、野戦病院ではないか?」
と感じた。
もちろん、そんなのは、テレビでくらいしか見たことがない。いや、テレビで見ているのとは、比較にならないくらいのものだ。
テレビで見るものは、角度を変えたり、喧騒とした雰囲気によって、作り出される臨場感だ。
しかし、実際の場面では、見ているのは、自分しかいないし、治療現場を真後ろから見ているわけでもない。声も、収音マイクで拾っているわけでもないし、後から編集した場面でもない。
だから、実際の臨場感が、テレビとは違う。しかし、リアルな臨場感は、それだけで、映像とは比較にならないものがあり、実際のこの状況は、映像作品としては、放送が難しいところもあるのではないかと思えるのだった。
というのも、
「映像作品には、放映できないものがある。リアルな傷口、視聴者にショックを与える、血まみれのシーン。もちろん、殺人事件や、毒を盛られて苦しむシーンなどは、ミステリーではつきものなのだが、あくまでも、ミステリーの中での、放映できる範囲というもので放映している」
と言えるんおではないか。
しかし、そうではない、医療現場の臨場感に、実際の被害状況や、それによる傷口、リアルな治療風景を乗せるのは、実際の起こりえることとして、同じフィクションであっても、視聴者に与える印象がかなり違う。
だから、臨場感の必要な、救急救命などのドラマは、シーンではなく、
「実際のリアルさを見せない」
かのようなテクニックに、
「いかに、臨場感だけを与えるか?」
ということが問題になってくる。
それを思うと、これらのシーンがどれほど難しいのかということは分かるというものではないだろうか?
だから、最初このシーンを見た時、
「俺は幻覚を見ているんだろうか?」
それとも、
「ドラマを見せられているのだろうか?」
と考えた。
厳格や夢であれば、自分の意思で見ているものであって、ドラマであれば、誰かが作ったものを見ているのだから、客観的な感覚にさせられていると思ったのだ。
そうなると、この臨場感を考えれば、
「ドラマというより、まだ幻想や夢だと言われた方が、さらにリアル感が増してくるのではないか?」
と感じたのだ。
しかし、夢や幻想ではないようだった。
というのは、最初に感じたのが、臭いだったからだ。
もちろん、この臭いが、最初から、
「ドラマにはなかった一番の違いだ」
ということは、自分でも分かっているつもりだった。
「こんな、状態を、どう考えればいいというのか?」
と考えた時に、まず感じたのは、
「この臨場感はウソではない」
と思ったのだ。
それが、臭いに寄るものだと感じた時、
「元々病院というと、その臭いは、薬品の臭いだけだ」
と思っていたところに、
「まるで鉄分を含んだかのような、歪な臭いが混じっている」
と感じた時、それが、
「人間の身体から出る体液の臭いだ」
と感じたのだ。
汗の臭いであったり、精液の臭い。そのどちらも、身体お外に出てしまうと、最初に感じた臭いとは、まったく違うものに変化している。そして、それが、
「血液も同じだ」
と考えると、血液というものに、
「凝固作用がある」
ということを思い出した。
血友病であれば別だが、普通は身体から出血した場合、その血を止めるための人間の本能がはたらき、
「血を凝固する」
ということを、無意識に行っている。
だから、出血してから、凝固が始まり、最後には、かさぶたができるというわけであった。
だが、凝固するまでに、血液は、身体から出た瞬間、そして凝固が始まるまでの一瞬、まだ噴き出している場合もあるだろうが、それだけ、凝固に間に合わないくらいの血が噴き出していれば、
「出血多量のショック死」
ということになる。
特に、急所を一撃の場合は、
「出血多量の前に即死する」
もではないかと思うのだが、そのあたりは鑑識の人の、鑑定によるのだろう。
実際に、死に至ってしまうまでが、一瞬の場合もある。刺殺の場合は、その死が即死であれば、
「死んだ後も、血液が流れ出してしまうまで、流れ出る血は、臭いやその性質は同じなのだろうか?」
ということを考える。
田所の考えとしては、
「同じではないだろうか?」
と考えるのだ。
その理由というのは、
「本当に死んでしまうと、血液は流れ出ないのではないか?」
と思うのであって、
「まだ、血が流れているのであれば、心臓は止まっていて、意識もないのかも知れないが、血が流れ出るために必要な、細胞や機能は、流れ出るまで、死んではいないのではないだろうか?」
と考えるのであった。
その理屈が、正しかろうが、間違っていようが、実際に死んでしまうことに変わりなく、「本当に死んだかどうか、死後の世界では重要なのかも知れない」
と感じるのだった。
「死んだ人間が、どこに行くか?」
というのは、宗教によって、考え方が違うが、大方似ているところがあるのも、面白いというものだ。
死んだ人間は、まず、
「死後の世界」
として、行けるいくつかのパターンを審査されるところがあるという。
それが三途の川の向こう側であることは分かっていて、渡し船で渡った後、日本人が一般的に考えているような、
「天国か地獄か?」
というのは、少しおかしいと思えるのだ。
「天国というところは、神様や仏様が住むところで、よほどの徳を積んだ人間でないといくことができない」
つまり、普通に死んだ人間は、また人間に生まれ変わるための準備をする間、行くところが、いわゆる、一般に言われる天国というところである。
しかし、本当の天国のようなところではなく、まったく想像はつかないことから、
「ひょっとすると、この世と同じような世界ではないのか?」
と考え、違うとすれば、
「神になるような人間、あるいは、地獄に落ちるような人間はいない世界だ」
ということになるだろう。
それは当たり前のことで、だからこそ、
「死後の与えられた世界」
ということなのだ。
そして、彼らは、将来、
「人間に生まれ変わる」
ということが約束されているということであった。
地獄に落ちる人間も、当然一定数いるだろう。
地獄に落ちると、生まれ変われるものは、人間以外ということになる」
ただ、そう考えると、不思議な発想が生まれてくるのではないだろうか?
というのは、
「人間が死んだら、人間に生まれ変わるか、他のものに生まれ変わるかのどちらかだろう。稀に奇跡的に神になる人間もいるかも知れないが、数のうちではないとすれば、生まれ変わった世界の人間は、どんどん減っていくのではないだろうか?」
ということになる。
「神様が、人間を補充している」
ということかも知れないが、もう一つの考えとして、
「生まれ変わる頻度が、どんどん短くなっていけば、全体の人口がさほど、増減することはないのではないか?」
ということである。
そこまで考えると、恐ろしい考えが浮かんできた。
「普通であれば、寿命はどんどん延びているのに、感覚が短くなっていって、辻褄が合うというのはどういうことなのだろう?」
と考えてみると、その発想のすべてとして、
「人間が戦争をするのは、無意識のうちに、生まれ変わりのタイミングを合わせるかのように、殺し合いをしているからなのではないか?」
と考えるのだ。
確かに、昔は、世界各国で戦争が起こってきた。
太古の昔から、戦争のない時代はなく。
「人間は、自分たちの欲得で、自分たちで殺し合うという動物だ」
と言われてきた。
確かにそうである。動物が生き延びるために、
「自然の摂理」
によって、自然界のバランスを保っているという発想とは、まったく違ったところで、人間は行動しているのだ。
ということは、
「神には、人間の考えを抑える力はない」
ということであろう。
考えてみれば、聖書などにおいて、
「神が人間の行動を抑制した」
ということがあるであろうか?
せめて、人間が紙を崇めることで、神に従うというのは、あくまでも、人間の意志がはたらいているのだ。
だから、人間界に憂いた神が行うのは、人間の精神面に訴えることはしないではないか。
「神の力を持ってして、浄化する」
という方法しかない。
「ノアの箱舟」
「バベルの塔」
「ソドムとゴモラ」
などの話が、そのすべてを物語っている。
しかも、
「人間界の再生というものは、人間によって行われるものであり、そこに、神が関与することはない」
ということである。
もちろん、聖書というものは、
「人間が書いたもの」
ということなので、ひょっとすると、すべては、人間の都合のためであり、ここで出てくる神というのは、人間が人間を統制するための、
「道具」
として、作られているものではないだろうか?
そもそも、誰が神の存在を、あたかも正当性のあるものだと決めつけたのだろうか?
そこから、すべてが、始まっているような気がする、
そんなことを考えると。聖書にしても、他の宗教などによる、
「人間創生」
という話は、
「神が人間を作った」
ということにしなければ、まったく辻褄が合わなくなってしまうのだった。
というのも、この理屈は、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という理屈になってくるのである。
かなり以前の漫才で、
「地下鉄って、どこから入れたんでしょうね?」
というネタがあったが、これも似たような発想ではないか?
これは、まず基本的な考えとして、
「あらゆる生物は、生に始まり、死に終わる」
という発想から来ているものだった。
しかも、
「生まれながらにして、人間は自由で平等だ」
という民主主義の考え方であるが、
「果たしてどうなのだろうか?」
ということである。
「自由というのは、社会体制でどうにでもなるものだが、平等だということを言ってもいいのだろうか?」
ということである。
つまり、
「動物は、生まれてくることを選べないのだ」
ということである。
何に生まれてくるかというのが、最初から決まっていたのか、前世からの因縁がそこには含まれているのか。誰に分かるというのだろう?
それを決めるものがあるとするならば、それこそ、
「全能の神」
というものだ。
しかし、
「ギリシャ神話」
などに出てくる、
「オリンポスの12神」
と呼ばれるものは、果たしてどうだというのだ?
「人間よりも人間臭い」
とにかく、
「嫉妬の塊で、その嫉妬のために、人間社会を簡単に破壊するだけの、わがままな連中ではないか」
ということになる。
ということは、
「人間あるいは、それ以下の動植物は、すべての生物の神として君臨し、神以外はまるで奴隷という考えなのかも知れない」
と、考えると、もう一つの考えが生まれてくる。
「人間の祖というのは、元々神だったものが、人間という生物を与えられ、その祖になったのではないか?」
という考え方だ。
神が人間を奴隷としてしか見ていなかったように、人間世界の祖となった神も、人間というものを奴隷とすることで、人間社会の中でも、
「奴隷」
というものの存在が生まれてきたとしても、
「それは当たり前の発想だ」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「生物にある、自然界の摂理というものを、実際にはコントロールしている存在はどこかにいるに違いない」
という考え方だった。
何しろ、
「生まれることが平等ではない」
のだからである。
人間が生まれてくるというのは、確かに平等ではない。
なぜといって、まず、
「いつ生まれてくるか?」
ということを選べない。
というのは、もう一つの不平等な理由である、
「誰から生まれてくるか?」
ということも決まっていないということである。
というのも、
「誰から生まれるかが決まっていないのだから、いつ生まれるかということも決まっていないのと同様だ」
という考えは少し違うのかも知れないが、
何と言っても、
「誰から生まれてくるか分からない」
ということは、
「誰が親になるか分からない」
ということであり、
「平等不平等」
ということをいうのであれば、
「金持ちの親から生まれるか? それとも、貧乏な親から生まれるか?」
ということであり、
「人間の幸福は、金だけで決まってくるものではない」
ということなのかも知れないが、あくまでも、人間の、
「平等不平等」
ということを考えるのであれば、それは、
「どの親から生まれてくるか?」
ということで決まってくるといえるかも知れない。
昔などは、本当に、
「生まれた瞬間から、運命が決まっていた」
と言えただろう。
特に、士農工商のような身分制度がある世の中であれば、
「百姓に生まれれば、死ぬまで百姓」
ということであった。
今の世の中でも、
「職業選択の自由」
と言われてはいるが、
果たして、それが、自由な世界なのだろうか?
いくら、
「医者になりたい」
と思ったとしても、医者になるには、大学の医学部に進まなければいけない。
伊賀生というのは、とにかく金がかかる。貧乏な家に生まれれば、学費が足りないではないか。
それを、
「奨学金がある:
と言われたとして、奨学金を貰って医者になったとしても、奨学金というのは、いずれ返さなければいけない。
だから、病院に、ある意味、
「飼い殺し」
となるだろう。
しかし、最初から金持ちの家に生まれていれば、将来は自分の家の病院を継ぐことになり、
「院長、さらには、理事長の椅子は約束されたようなものだ」
ということで、この差というのは、
「天と地」
ほどの差だ。
ということになるかも知れない。
それを考えると、
「生まれてくる時、相手を選ぶことができない」
というだけで、
「平等ではない」
ということになるだろう。
あくまでも、人間性という意味での話ではないことは確かである。
人間は、
「生まれる時も、自由でなければ、死ぬ時にも自由がない」
という考えは、宗教的な考えである。
つまりは、
「自殺は許されない」
というのが、大方の宗教の考え方だ。
特にキリスト教などはそうだ。
これについての話は、昔の戦国時代からの話になるのだが、
「細川ガラシャ」
という人物を知っているだろうか?
彼女は、本名を、
「玉」
という。
戦国武将の細川忠興の正妻である。
彼女が嫁いだのは、鎌倉時代から、
「由緒正しき、伝統のある細川家」
に嫁いだわけだが、彼女の人生は、
「本能寺の変」
より一変することになる。
というのは、彼女の父親が、本能寺の変にて、主君である織田信長を討ったと言われる、
「明智光秀」
だからであった。
当時の摂津、大和、山城の武将は、ほとんどが、明智光秀につくということはなかった。娘が嫁いだ、細川家も、明智側に就こうとはしなかったのだ。
そのせいもあり、戦力さは最初から三倍ほどの差があり、さらに、山崎の合戦にて、一番の重要ポイントである、
「天王山」
まで取られてしまったのであれば、どうしようもないのである。
圧倒的に有利な状態で戦になれば、結果は、
「火を見るよりも明らか」
というもの、明智方の敗北になった。
そのことが玉の人生に大いなる影響を与え、細川家の領地である、
「丹後の国」
に幽閉されることになった。
それでも、忠興は妻の玉を愛していて、二人は、
「オシドリ夫婦」
だったという。
そんな中で、玉はキリスト教と出会い、
「ガラシャ」
という名前を頂けるだけの存在になったのだ。
そんな玉だったが、秀吉が天下を取ってから、秀吉に、忠興が優遇されていたこともあり、平和に暮らせていたのだった。
だが、秀吉が死に、さらに、豊臣家臣相での、いざこざが起こっている間に、家康が、台頭してくることで、時代が動きだした。
そんな忠興を、玉はしたっていたのだが、家康が、
「秀頼に従わない」
という因縁を上杉家に吹っ掛けて、それに対して、家老であった直江兼続が、家康に出した、
「直江状」
と呼ばれるものが、大義名分となって、豊臣軍が結成され、
「会津征伐」
に繋がったのだ。
直江状によって家康が会津征伐に出た間、家康に付き従った武将の、
「大阪に残している家族」
を襲撃し、家族を人質にすることで、自分の方につかせようという作戦を立てた石田三成方が、次々に武将の家族を人質にしていく中、いよいよ、細川家にも、その魔の手が迫ったのだ。
ガラシャはその時、
「自分が、夫の足かせになっては申し訳ない」
ということで、死を選ぶことにした。
しかし、キリシタンとして、洗礼まで受けている彼女は、自殺は許されない。
「どうすればいいか?」
ということを考えた時、
「配下の武将に、自分を殺させる」
という手段を用いたのだった。
確かにこれだと、
「自殺をした」
ということにはならないから、キリシタンとして、悪いことをしているわけではないといえるだろう。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
自分が自殺できないということで、配下の人間に自分を殺させるというのは、自殺とは違うのだろうか?
自殺の定義がどうなっているのかまでは分からないが、少なくとも、人を巻き込む形になって、
「これは自殺ではない」
といってもいいのだろうか?
それを考えると、
「ガラシャの行動が本当によかったのかどうか、難しいところになるのであないか?」
ということになるのだ。
確かに、配下の人間は、人をいっぱい殺めているかも知れない。
しかしそれは、自分たちを守るために戦ってくれているわけであり、そんな彼らを、
「人殺し」
とはいえないだろう。
だからと言って、
「自殺の手伝い」
をさせてもいいのだろうか?
何も、絶対に、
「自殺というものをしなければいけなかったのか?」
というのも怪しい気がする。
確かに、三成の人質になるのは、恥ずかしいことかも知れないが、生き抜いて、
「旦那の役に立とう」
という考えが、あの時代にはなかったのだろうか?
やはり、時代背景の違いが大きなものであるということは、
「当然と言えば当然」
ということであろう。
ガラシャを殺めた人間にだって、家族もいるだろうし、まさか、上の人間に言われたからといって、その人の自殺の手伝いをさせるというのは、見方によっては、
「パワハラによって、無理強いな命令をされて、従わなければいけなくなった」
ということである。
もし、
「彼が地獄に落ちるとして、その原因を作ったのが、自分なのだ」
ということを、ガラシャは思わなかったのだろうか?
もちろん、時代背景も違えば考え方も違うだろうから、さらに、同じ時代であっても、人それぞれに考え方が違っているだろうから、今の時代でも、
「ガラシャのやったことは無理もないことで、武士の奥さんとしては、実にあっぱれなことであった」
と思う人もいるだろう。
ただ、田所としては、その思いは絶対になく、
「自己満足のために、人を巻き込んだ」
という考えしか浮かんでこないのだ。
ひどい言い方だが、
「死にたいのであれば、いくら許されていないといっても、一人で死ぬしかないだろう?」
と思うのだ。
それでも、
「自殺をしたいが、キリスト教では自殺ができないというジレンマがあるのであれば、キリスト教を最後だけ捨てて、死ねばいいのではないか?」
というのは、そんなに強引な考えなのであろうか?
そんなガラシャは、それでも、
「それくらいのことは分かっていたのではないか?」
とも思える。
いろいろなことを、発想の中から逆算していって、見つけた答えがもし、それだったのだとすれば、後からの人間が、その場にいたわけでもないのに、勝手なことを言うというのもある意味、失礼なことではないかとも思えるのだった。
もう一つの考え方として、
「死んだら生まれ変わる」
という別の発想を持っていたのではないか?
というのは、
前述の、
「死後の世界の話」
として、
「死んだら最初に、三途の川を渡って、裁かれる」
という発想があることを書いたが、それも、
「実際のことかどうか分からない。他にも考えられることはある」
ということで、彼は、一つ考えたこととして、
「死んでから、普通に、死後の世界に入り、そこで裁かれるということが大半なのだろうが、時と場合によって、魂が死後の世界に行かず、同じ瞬間に死んだ人間の身体が空いたことで、そこに入り込むことができる」
という考え方である。
もちろん、記憶も何もかもリセットされるというのは、普通の死後の世界を経由するのと同じであるが、場合によって、なぜそういうことが考えられるかというと、
「死ぬことが決まっている人は、最初から、死の世界には分かっている」
ということである。
分かっているから、死後の世界にいざなうことができるのであり、分かっているというのは、
「寿命に寄る大往生」
「病気によるもの」
「不慮の事故」
と呼ばれる、一種の運命と呼ばれるものだけだということだ。
しかし、それ以外、例えば、
「自殺」
というのは、人間の頭の中で考えていることだから、神には分からない。
ということだとすると、
「死後の世界の事情」
ということを考えると、この考え方から、
「自殺は許されない」
というのも分かるというものである。
要するに、自殺をされてしまうと、せっかく、予定のうちの一人として確定しているものが狂ってくることになる。
もし、自殺をした人間は、うまく、同じ時期に生まれることになっている人間の魂に入り込めれば、生まれ変われるが、それができない場合は、彷徨うことになる。
逆に、うまく生まれ変われるとすると、今度は生まれてくる人間に、
「生まれ変わり」
として入るはずの人間が、
「路頭に迷う」
ということになってしまうだろう。
どちらにしても、
「自分勝手な自殺」
というものは、死後の世界の都合からいっても許されないし、入り込めない魂がどこかに残ることになるのは、あってはならないことなのだ。
と考えると、
「自殺を許さない」
という理屈が分かるというものだ。
どんな理屈があったとしても、自殺を許す、許さないというのは、どこの宗教の考え方でも、大なり小なり、
「許されることではないのだ」
ということになるであろう。
それが、
「宗教における、自殺を許さない」
という概念であるとすれば、
「理屈に合っている」
と言えるのではないだろうか?
人間というものと宗教の結びつきというのは、そういうものなのかも知れない。
「確かに、自分は宗教というものをあまり信じないし、正直怖いという感覚も結構強く持っている」
と言えるだろう。
しかし、辻褄が合っていると思えることを否定もできない。
逆にこの発想が、
「宗教を怖がっている」
と考えると、複雑な心境になるのであった。
宗教という意味で、
「もう片方」
ということで、鑑定を意識していた日下部恭三も、実は、この病院の中にいた。
彼に、限らず、この病院にいる人たちは、大きな爆発に巻き込まれた人たちだった。
何がどうなったのかは、今警察が調査中であったが、そもそも、このあたりは人通りが少なかったので、
「この程度で済んだ」
といってもよかったのかも知れない。
だから、もっと人通りの多いところでは、たくさんの救急病院が埋まるほどの大事故だったのだろう。どうやら、パニックなのは、この病院だけのようだ。
ただ、この病院だけで賄えない患者も、一旦ここに運び込まれてから、病院を転移させられる人もいるようだ。そんな人は、若干の怪我程度の、軽症の人なのだろう。起き上がったり自分で歩ける人は、軽症とみなされたに違いない。
病院内は、警察、マスゴミなども来ていて、完全なカオスと化している。こんな状態であれば、変に起き上がると足手まといになるだけなので、おとなしくしているしかなかったのだ。
そもそも、起き上がれるわけもない。身体には応急手当として、包帯がまかれ、身動きができない状態だった。まるで、芋虫のような自分を、
「情けない」
と思うのも、動けないだけにしょうがないことであった。
それは、日下部も田所も同じだった。
二人は、ちょうどその時、隣のベッドにいるようで、偶然、同じ時間に目を覚ましたようだった。
カーテンを最初に開けたのは、日下部のようだった。
「俺は一体、づしたというのだろうか?」
と、日下部は、そういって、自分の身体を見つめていた。
最近の日下部は、自分が、
「金の亡者になりそうで、怖い」
と感じていた。
何に対して金の亡者なのかということを忘れていたが、少しずつ意識が戻ってくると、
「ああ、鑑定団をよく見ていたんだ」
という意識が最初によみがえった。
そして、鑑定団を見ているうちに、自分の考え方が、
「唯物」
というものに、造詣を深めてきたという意識があった。
だから、
「何かを創造する」
というものに。意識が強まっていたのだ。
そう考えると、今日あの場所を歩いていたのは、ある組織に、何かを依頼しに行こうと思っていたのだが、それが何なのかということが意識から消えているようだった。
頭の中に残っているのが、
「必要悪」
というものだった。
それを考えた時に、最初に浮かんでくるのが、
「パチンコ・パチスロ」
などの、
「三店方式」
だった。
それの良し悪しに関しては、日下部は自分の意見を持っていない。実際に、
「一度も行ったことがない」
というわけではないのだが、その三店方式というものの概要と、
「どうしてできたのか?」
というあらましを知っていたので、どうしても、
「悪」
だとは思えなかった。
すると、次に考えるのが、
「必要悪」
というものだった。
そう考えると、世の中で、
「必要悪」
だと言われているものの、理屈が分かる気がしてきたのだ。
いわゆる、
「反政府組織」
と言われる、
「暴力団関係」
というものも、ある意味で、
「必要悪」
なのかも知れない。
もし、組織がなければ、危険な連中が、単独で世に蔓延ることになるだろう。だからと言って、許せる範囲と許せない範囲がある。
一番の恐ろしさは、
「まったく関係のない人たちの自由を奪うことがある」
という時である。
自分たちの資金源のために、薬物を利用するのに、
「中毒者を増やす」
というやり方は、とても容認できるものではない。
そんなことを考えていると、どこまでの許容があるのか考えると、なかなか難しいところがあるのだ。
そんな彼が、今日行こうとしていたところがどこなのか、分からないでいると、まわりの喧騒に気づくようになった。
日下部という男の性格的なところとして、
「一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる」
というところであった。
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