FUNNNU

洸慈郎

FUNNNU

 ああああああああああああああああああああ。

 ふざけるな。誰が生かしてほしいと述べて、その生存権を譲渡したというのか。脳みそを構成する遺伝子、全部は肉親の半々の物で、一体僕の独自性はどこにある。解体して細胞の一つひとつに唾つけて何か特別だと言い張ってみるのは良い手だとか抜かす前に、この熱を冷ましてくれ。一体何に感化されて、僕は僕という者になったのか。正直、うるさいんだ。テレビをつければ誰かが死んだ、エアコンつけて熱中症対策でもすれば、この鬱陶しいマグマみたいな怒りは冷えて固まるとでもいうのか。それとも王様にでもなれというのか。

 どこまで裸足で行けば、この声が無加工のまま宇宙まで届く。生前憂いた感情がどこまで蒸発する。それともナイフをもって、駅前で通りがかる僕を殺せばいいのか。錠剤を呑んで、それが将来の役に立つ時があるのか。僕に告げられる真実はどこまでが事実なのか。それを教えてくれる無知はどこに行けば会えるのか。とどのつまり、外に行けば人生が変わるとペテンした奴ら、共同体の中で自由を知った口ぶりで言う奴ら、思想家や哲学者の考えていることが僕の役に立ったという痕跡はどこだ。一人で考えればいつか得られる確証とは、そこまで大切なものか。

 嘘みたいな綺麗事で戦闘機が落とせないとしても、それを現実的ではないと一蹴することは可能か。それとも、理想を言えない世界の方が、理性に侵食されたゾンビの集合だとでもいうのか。ああ、神も仏も信じることはないし、かといって教科書の内容を丸暗記もしない。この言葉に偽りないと誰が言える。曖昧な世界で、誰が正義といえるのか、ならば不正義は何に適わないとするのか。空を切開して、星空が見える夜になるとすれば、きっと僕の目を開けば貴方が見ている世界と寸分違わず同じだということを理解できるはずだ。

 もう一人の僕がいたら、それとも死んだ二体の貴方がいれば、少しは世界が壊れるかもしれない。難しい話は嫌いだし、屁理屈を信じようともしない原理主義者も嫌いで、僕の持つ最大の武器を隠してしまった総理大臣もきっと今頃墓の下でふんぞり返ってる。だってそうだろう。この孤独に、何を捧げればいいのか、有象無象は知らないのだ。頭がいいからか、いやこのニヒリズムを生み出すのは決まって悟りに至る各所での啓蒙だ。それを僕は知っている。

 この怒りを鎮火させるのに、一体何を犠牲にすればいい。それでも人は言い続けるのだ、このままでいい、君はそのままでいい、どの口がいう。一度でいいから僕の脳を覗いて、それか僕に成り代わってこのこぼれるほどの虚無を知ってほしい。だが、どうだ、煩わしい話をしてくる貴方はいつもこう告げる。

「君は正しくない」

 そうとも。そう否定されたことはない。だが、肯定を示す一片の態度をひけらかしたことはあるのか。正直者と罵られることを恐れているとするなら、それは僕の怠慢で、貴方の諦観に由来しているのは言うまでもない。現に、貴方も私も、覚悟を決めていないのは明白だ。家に行けば、心臓を取り出しているロボットでいるのか。親しい友人と呼べるいくつかの人間的特徴を持った生物に、自分と同質である存在と感じたことはあるか。それこそ孤独だというのだ。

 この原罪を払うべくして生きるのは、まさしく生き地獄と言っていい。そして多くの人が、これに同意するのだ、私の怒りを鎮めてくれと。昔見た遠い記憶を引っ張り出して、あの時のセミの音に苛立ちを感じていたと告白することに意味があるのか。それがいつまでも鳴り響くことに、いつまで耳が慣れないのか。血を見ることに恐怖して逃亡することに何色の正義があると思い、まさか全ては自分以外が悪いと楽観し、路上に座り込むことで何を我々に抗議するのか。それを知るすべをまた多くの人に伝授しなければいけないのか。

 全く、理解するだけの脳がないのか。誰が主人公なのかという話は生まれた時、羊水で濡れた皮膚に空気が触れた瞬間から地に帰っていったというのに、何を駄々こねる。何か意味を見いだそうとすることの意義に、生へのモチベーションを知ろうとするのはいささか驕りではないか。ならば、初めから教えてほしいと僕は全細胞に宣言したい。僕は一体どうして僕であり、僕という体をもって、僕という精神をデザインしたのか、それを答えてくれる人に会うために町中を練り歩けば、何かしらの成果を挙げられると本気で思っているのか。

 意見の食い違いがなんだ。僕の意見は虚空に消え去るとすれば、貴方の意見は一体どこのごみ箱に捨てたのか教えてほしい。自らが知りたいことに価値があるとするなら、それこそ不正義を知ることで、悪に染まることでも謀反することでもないのは貴方もご存じだろう。では死ねと、街にいるどこか救世主じみた人間に銃を渡し、眼窩を撃ち抜いてと跪くか。しかし、我々はおそらくこの拳と大いなる憤りによってその者を敵とし、いかなる大義を前にしても抵抗するのだ。それは、古今からなる若人の特権だった。それがどうだ、この偽善はびこる鉄拳の数々は。今すぐにでも、貴方がたの腹を裂き、詰め込まれた石を取り除いて見せて、僕が吐き出す方便の残骸を代わりに押し込んであげよう。さすれば、誰の怒りか、何の怒りか、それが判明する日が来るかもしれない。

 いや、それまで待てるはずがない。コップの淵で張力によって保たれる土砂に、積年すればまもなく決壊するものであると貴方も承知だろう。ならば、その間に僕は祈らなければならない。だが、神仏に裏切られ、天井も聖堂もない僕が祈るとすれば、何に縋りつくのが賢明か、教授してはくれないだろうか。それこそ新しきに知る、孤独を忘るることだ。

 早いところ、この骨折り損に対する正当な報酬が欲しい。これまでに何百ともなる屍に埋もれ、時にこの肉を腐らせたか、僕は自覚することもなくここまで歩いたが、その背後で這いつくばる蛆の顔を知らせてはくれないか。そうした奴ら共が一斉に指差しを始めた時、貴方はどこにいたのか。隣にいることはないだろうし、僕の知る有象無象は決して善良とは言い難い塊となって、その辺りで休んでいるようだった。しかし、それを無視して僕を縛り付け、骨に釘を打ち、煮えた油を撒くのは、許可あるものか。僕に触れることを、誰が許したのか。

 その土足が、どこまで汚すか、僕は見るしかできないということを承知でいるのか、それを察することもできないほどに委縮した大脳を持っているのか。はたまた、熟成した被虐心から生じたものかはこの際、僕も訊かないことにするが、誰かの悲願を代弁することはまるで僕がヒーローになり代わるように虫唾が走るような真似はさせないでほしい。そもそも、この屈辱を晴らすため、武装すべき事態を招いたのは貴方の方ではないだろうか。例えば、僕の部屋にある、誰もが触れたことのないカーテンから外を見たことだ。それは美しい景色が見えるだろう。僕も見たことない、本当に自由というのを高々チラ見しただけで窓さえ開けずに、風さえ感じずにいるのに何が鳥のようにだ、何が多様性だ。

 僕に強制してきたものを列挙すれば、言葉を尽くさない限りは無理だろうし、それほどの時間と知能を分け与えてくれた秩序はいつも二十面相している。ゆえに、僕は凡人で、しかし凡人も集まればきっと誰かが特に優れているというのに平等だとか、何か誰しもが持つ特別感を探ろうとして劣等生を量産するのは、この年になってようやく自覚し始めるシステムだ。それに加えて、貴方は破壊すべきなのだ、そこにある天空を。それとも詭弁を尽くす僕に新品の爆弾を誕生日に買ってくれるのか。

 だったら初めから、僕の誕生を祝福する歌を奏でないくれ。悲しみを歌う子供を野放しにする前に、その住み着いた黒い影を光に照らし、不正義によって糾弾してはくれないか。僕が求めているのは救済ではなく、この痛みとなる薬を癒す薬が欲しいのだ。孤独を知れ、孤独に生き、孤独のまま死ね、そして孤独に殺されるがいい、そう僕は僕に要請し、ただ絶望と最期の狭間に火花を眺めるだけでいいと、そう要求しているのだ。本質的なもの、抜本的なもの、それをもはや誰もが知る手立てを持ち合わせていないのに、僕の怒りを鎮めてくれる冷静さを養えるはずがない。

 出会うまで数千万の道があった。その道中で諦めた貴方は達成感あふれる表情で、まるでここが道の終わりだと思ったような口ぶりで、僕に一体どれほどの罵倒があったか、貴方は記憶しているだろうか。その道草は、どれも針のようなものだったのを鮮明に覚えている。僕が傷ついたのは自業自得として、語られる現実がどれも空想であったことは僕の責任ではない。そうだろう。僕と貴方は、僕にも貴方にも、僕や貴方などというものはなく、さしずめ連綿となる意味解釈と環境と教育と、思想といかにも不可分な親の追撃によって、否応なく精製された雫のような個だ。その中で、対立するのは馬鹿と阿保のやることだが、つまり我々は不完全なのだ。

 その中身を知りたくて、今一度貴方は僕を切り裂いて、臓腑につながる松果体の正体を暴こうと必死になる。それは僕の罪か。それとも貴方の罰であるのか、判明させるために、その眼球と脳が視神経によって繋がっているのだろう。または僕には不都合な事実を覆い隠すために、その大声を張り上げるのか。しかし、僕は許さないと、免罪を受け取る気はないと、大いなる父から逃げたときと同様に、この無力な武器を捨てる気はさらさらない。これは後悔であるという自覚は初めからあるもので、この憎しみも色褪せないものであるのは、おそらく僕が貴方に誓ったからだ。

 この犯行、この絶叫、この場で全てを破壊して、いつか残る後世さえも殺してもいいし、この怒りが芽生えてから未来など、それこそ僕の隣に並ぶ木など知ろうともしなかった。感嘆など嫌いで、それでも比較される世を憂わずにはいられず、強かな淑女を殺そうものなら総出で止めに入るのは、誰もがその醜悪さに酔い痴れているからだ。いくら万物を変えようと、その価値たるもの、完璧のイデア、噴出する善意、その最たる例を実証する前に万人が万人に洗礼を浴びせるのに違和感を覚えないのは、誰のせいだ。

 僕が浴びたいのは喝采ではない、という本音を持っているのは、貴方のせいだ。それは当然だと言えるし、激痛に伴ってこの肉体に埋め込まれた承認欲求を破棄せざるを得ない。ハエが集るの如し、一言でいえば、反吐の出る一挙手一投足が僕の尾を踏むのだ。想像してみるべきだ。体にナイフで名を刻まれる痛みと、その愉悦に歪む愚者の列を。

 僕は千差万別に埋もれる。正しく無知でいたい。それを耕す人の利己によって露出する。肥料と管理によって、僕は単なる雑草から立派な根菜になり、同じように売り場で山積みにされた有象無象と並ぶ。この熱を、昂りと思えるならば貴方は僕を知ることは到底叶わない。むしろ互いに盲目でいることを望んでいるならば、それはそれで無知に適うのだ。知ることをやめることで、それに至る。だが貴方が非常に憎い。絶対に僕を開放してはくれない、そうだろう?

 抑えきれようもない。全身を焦がす烈火、そこに身を投げ込まれたのだ。貴方は野次をしながら傍観する、政治家に集るネズミであり、また石細工でもある。そうでないと否定するなら、その手に持つ正義は何か。人を救うと詭弁垂れる間に、その身を少しでも火に近づけてみたか。湧き出る亡者を目撃し、それでも尚、この照り付ける現実に日傘を差そうと思ったことはないのか。僕が知る怒りに触れても、吐瀉物の海にある真水を知りえないのか。解放と支配の相違を理解できない脳を持ち、破壊と知らずに理想を汚し、二本の蝋燭でさえ賭けをする恥知らずだ。中毒に濡れたその煩わしい指導棒を掲げるのは、しょうもないイデオロギーに依存したものであるのに、あたかも自意識が照射する古典的条件付けと表現したがる。

 フロイトもキルケゴールも、もしくは『エミール』も知らない。それとも路上のたばこの煙に犯される、爛れた目を見返すことがあるか。僕の穢れた皮膚の下にいる、醜い正体を暴こうというのか。まさにジャンヌダルクのように、その福音と正しさに駆られて、僕も貴方も火炙りとなることが空論であることを説明するのに、いくつの語彙を尽くせば一致するか。いや、ここはすでに国境もなく、関所もないというのに、地と地は並行して分断しているのをご存じだろう。

 ゆえに、これは戦争だ、冷戦や代理戦争という政治的なぬるま湯ではなく、誰もが犠牲と自己を払って、互いにネオン街と路地裏の排斥を行っている。侵略でもある。僕は個の統率のない濁流で、貴方は一団なる歩兵。振りかざされる正論と共感不能の大それた誰かの理想論と否定を、普遍的法則と歌ってしまえば、いかに僕がアナーキーだとしても、耳に入るのはどんな噂話と陰口でもなく、そのラジオ放送だ。

 ああ、ああ、どうか逃れ難き我が身よ。清めてくれ。冷ましてくれ。叶わずの夢と愛の一片を舌先に。

 仰げば空襲の絨毯爆撃だ。檻となり、枷となり、この死を待ち惚ける僕に一つ安楽の果実を。

 僕は怒りに囚われ、与えられ、慟哭さえ熔かした熱を持つ、独りぼっちの衆徒である。

 これこそ、憤怒だ。憤怒なのだ。愚かさと抑圧と、博徒の暴行によって削られた三角形が醸し出す、条理ない無抵抗が示すものこそ憤怒なのだ。

 大人である貴方は、少年である僕に下す裁きの重さを知った気でいるのなら、どうかこれを思い出してくれたまえ。無教養の主にこれを告げたまえ。そして、ただ惑いたまえ。

 疾うに点火された船なのだから。

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