透明な薬

犀川 よう

透明な薬

 致死量手前の愛情。彼女がわたしの口を押さえつけて注ぎ込むそれはいつも一瞬だけ苦くてすぐに甘くなっていった。そのまやかしの甘味料がわたしの判断能力を奪っていき、このままで良いかという安堵と諦め、あるいは彼女への依存という感情をわたしから引き出していった。大学生の身であるわたしの言葉で例えるなら、単位を落とす寸前に感じるような切迫感。落としてはいけないという恐怖感。その懼おそれを無視したらどうなるのだろうという破滅的な好奇心。最悪を超えてしまった後の快楽を含んだ寂寥感――恍惚感。本来は感じるべきでない感情を彼女はわたしに劇薬としてピコグラム単位の量で与えていった。わたしが死なないように、生きないように、投薬を続けて、彼女はわたしを無垢な赤子にしていったのだった。


 同棲して三ヶ月くらいが経った。わたしは彼女の唾の匂いで意識が眠りの底から起き上がるのを感じるが、瞼に乗っかているそれのせいで目を開けることができない。もし勢い良く開けてしまえば、わたしの瞳の中に溶け込むように入ってくるだろう。今が何時かわからないが、早朝までの睦み合いの果てに意識を失ったことを考えると、どうせ午前中の講義には間に合わない。このまま乾くまで寝てしまおうかと考えるが、自分でもわかるくらいに頬と眉を動かしてしまったので、彼女に起きてしまったことを観測され、その量を増やされてしまう。わたしはこのどうしようもない彼女の愚かさを受け入れるために右眼だけ開けてみる。案の定、体温に近い粘性のものが瞳を侵していく。前日にコンタクトを外さずに寝た罰のような歪んだ像が現れる。腹部に感じる重さから彼女が馬乗りになっているのだろう。左眼も強制的にこじ開けてくる。鼻から彼女が噛んでいるだろうミントガムの香りを感じる。目を拭おうにも両手を押さえ込まれていているようで、わたしは為すがままになっている。

 彼女は「起きなよ」と楽しそうに言うが、わたしにできるのは目にじっとりとしたものを感じ続けるだけ。わたしは待つ。何もせずに待っていると、焦点が段々と定まるのと引き換えに、目に痛みを覚えていく。


 ――どいて欲しい。わたしはそう口を開くと、彼女の身体が離れてわたしは自由になるが、独りになると急に不安が襲ってきて、わたしは彼女の手を引いて自分の元に寄せる。わたしには見えない楔が打ち込まれていて、彼女が少しでも遠くに行くと恐怖を覚えるようになってしまっている。彼女がわたしに与えたものに含まれた成分の一部なのだろう。自分でも異常だと理解はしていても身体と心がついてこない。わたしにはそういった類のものが沢山注入されていて、その解毒や寛解は最早期待できそうもない。そもそも、わたしの奥底にある停滞を欲する感情がそれを望んでいないようで、これで良いかという、現状を是とする感情に変性したものが薄い膜のようになって理性を包み込んで、わたし自身の更生を阻んでいるのだった。


 彼女を抱きしめながら目をこすり、視界を正常化していく。目の痛みが三角波のような正確な強弱の繰り返しをつけてやって来る。

 彼女は「おはよう」と、罪の意識など枕に入っている羽毛のような軽さすら感じていない声で言う。わたしは無言でそれを受け入れて、彼女の唇に寄せて、自ら毒だとわかっていながらも透明な薬を摂取する。彼女が出す唾液を吸い込むように受け取っていく。それを僅かでも零こぼしてはいけないと植えつけられた情念に従ってキスで吸い上げていく。恥ずかしい音が部屋の壁に跳ね返っても、わたしは続けていく。彼女はわたしの生の欲望など感じる余裕もなく、ただ唾液を生産し続ける器械になっている。それでいい。それでいいからと、わたしは彼女の頭を抱きしめて離さない。彼女が苦しそうに呻うめき声を上げても許さない。彼女は耐え切れずにガムを舌で投げつけるようにわたしに送り込む。わたしはそれを押し返す。彼女にはわたしをこうした瑕疵かしを担保する責任がある。だからわたしには彼女を縛り付ける権利がある。わたしはわたしの信念に従って続けていく。


 彼女がわたしにした愛情表現のせいで、わたしは乳飲み子のように与えられないと何も生きてはいけない存在へと還ってしまっている。それは彼女が犯した罪であり、わたしはただそれを受け入れただけで、その誤謬ごびゅうを正す責任などはない。明日という現実がどうなるかなんて心配は乳児には必要のないもので、生きるための栄養と愛情を彼女の唾液に求める今だけがわたしには大切な瞬間なのであって、それ以外のことは彼女が背負って生きていけば良いのだと、わたしは透明な薬を貪りながら思っているのだった。

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