第8話 ちょっとしたひと騒動

 馬のいななきで目が覚めた。

 重いまぶたを押し上げると、真っ先に目に映るのは取っ散らかった線の描き散らされたキャンバスだ。どうやら絵を描きながら、そのまま寝落ちしてしまったらしい。


「お嬢様! お嬢様、危のうございます!」


 寝起きのぼんやりした思考でそんなことを考えていると、外からマッケンの悲鳴が聞こえてくる。


(レベッカが危ない!?)


 その言葉で、眠気が一瞬で醒めた。

 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった俺は、大慌てでアトリエの外に出る。


「お嬢様! 早くお降りになってください! お嬢様ぁ!」


 外に出ると、そこでは馬が蹄を打ち鳴らすようにして暴れ回っていた。

 そしてなんと、その暴れ馬に騎乗しているのはレベッカだった。彼女はギュッと手綱を引き搾り、馬の背中にしがみつくようにしているのであった。


「れ、レベッカ!?」


 ただならぬ様子に一瞬動揺する俺だったが、このままではレベッカが危ない。

 とはいえ、こちらが慌てたところで、レベッカにも馬にもただ追い打ちを与えてさらにパニックに陥らせるだけだ。


 俺は内心の動揺を押し殺し、努めて穏やかに馬とレベッカに向けて話しかけた。


「どう、どうどうどう。レベッカ、肩の力を抜くんだ。そんなに手綱を引き絞っては、馬がびっくりしてしまう」

「……! ……ッ、……!」

「大丈夫、大丈夫だ。鼻からゆっくり息を吸って、口からスーッと吐き出して……俺の言う通りにしてごらん、レベッカ」


 顔面も蒼白になったレベッカが、それでもとにかく俺の言うことに従おうとしたのだろう。

 ぜえぜえと荒い息遣いで騎乗していた彼女の呼吸が、少しずつ静かで穏やかなものに整っていく。


 するとレベッカの落ち着きが馬の方にも伝わったのだろう。落ち着きなく蹄を打ち鳴らしていたのが、少しずつ鎮まっていった。


「どうどう。よーしよし、びっくりしただけだよなお前も。大丈夫だ、大丈夫。怖いものはなんにもないぞ」


 頃合いを見て首筋を撫でてやると、馬もホッとした様子でついにその足を止める。

 ぶふーっと拭かれた獣臭い鼻息が俺の顔面を直撃したが、まあなんてことはない。レベッカの危険が去ったならこの程度安いものである。


「おいで、レベッカ。とりあえず馬をまず降りよう」


 馬を落ち着かせたところで、馬上のレベッカに手を差し出す。

 レベッカは顔を青くさせたまま、まだ震える手で俺の伸ばした手を取り馬を降りた。


「旦那様、申し訳ありません。私がついていながら……」

「いい、いい。過ぎたことだ。次気を付けてくれればそれでいい」


 マッケンを適当にあしらいつつ、まだ恐怖で震えているレベッカの肩や背中を優しく撫でていく。

 すると次第に彼女も落ち着きを取り戻していき、青くなっていた頬にもだんだんと赤みが差してきた。


「……申し訳ありません、アルベルト様」

「謝るのはあとでいい。そういうのは、落ち着いてからでいいんだ」

「……はい」


 レベッカを胸の中に抱き寄せると、彼女の呼吸が、鼓動が穏やかさを取り戻していくのが分かる。

 それを意識すると、自然と抱き寄せる俺の腕にも力がこもる。痛くないように、彼女を押し潰さないように、だけど決して手放さないように、彼女の全身をかき抱く。


 レベッカの腕も、俺の背中に回される。


「……」

「……」


 その姿勢のまま、十秒だろうか、二十秒だろうか。あるいはもっと長い時間が経過してから、背中に回されたレベッカの腕が解かれた。


「すみません、落ち着きました」

「俺はまだこうしていてもいいんだけど」

「あの……少々息苦しくもなってきましたので……」


 まあ、思い切り俺の胸に顔面を押し付けてる格好だしな。

 このままでは彼女を窒息させかねないので、仕方なく俺はレベッカから離れた。


 改めて彼女から離れて見れば、彼女の装いは仕事に行く時のそれである。

 どうやら、これから出勤しようとしていたらしい。


「落ち着いたなら、仕事に行けそうかい?」

「はい。……あの」

「送ってくよ。そのついでに、話そう」


 なにか物言いたげなレベッカを遮り、俺は先んじて馬に乗る。

 それからレベッカを後ろに乗せて、いつもの朝と同じように姫さんイザベラの庭園へと馬を歩かせるのであった。

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いつも信頼して支えてくれるクールすぎる妻との幸せな結婚生活~世界一愛しい妻のためなら俺も本気で頑張れるかもしれない~ 月野 観空 @makkuxjack

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