地に落ちた夫と天から見守る妻②

「はぁっ……はぁっ……!!」


いくつもの路地を曲がり、何本もの大通りを横断してリューゼルは死神から逃げた。

長らく運動を拒んでいた体はすっかり老いており、道中では何度も小石につまずいた。

両膝に手をつき、肩でなんとか息をする。


「何なんだよあいつ……ごほっ!!」


一瞬だけ見えた外套の中。

こちらを見ていた真紅の瞳が再度頭の中で想起され、思わず咳き込んでしまう。

リューゼルは地面に腰を下ろすと、路地の壁にもたれかかった。


「……そういえば、ミナと出会ったのも、こんな路地だったよな……」


何年前の話だろう。

俺はちょっとした飲食店で働いていた。

波のように押し寄せる来客を席に案内し、食事を運び、笑顔で頭を下げる。

ただ働くことを生き甲斐にしていた俺は、ある日何も考えずに落ちていた石を蹴った。

それがたまたま上級貴族のご子息の足にに当たってしまったんだ。

俺が何で石を蹴ったのかは分からない。

運命……とか言うやつだったのだろう。

後悔はしてない。

そのおかげで俺は、ミナと出会えたのだから。


激怒したご子息が俺を捕らえるように護衛の奴らに命令したので、俺は急いでその場から逃げ出した。


『そっちに行ったぞっ!!』


『決して逃すなっ!!』


何本もの路地と大通りを駆け抜け、俺は生まれて初めて死ぬ気で逃げた。

護衛の奴らはしつこかった。

今思えば、奴らも命がかかっていたのだろう。



ご子息の命令で首が飛ぶのかもしれない、と。



何とか護衛の連中から距離をとった俺が逃げ込んだ先の路地にいたのが、お使いを頼まれたミナだった。

彼女は俺を見た瞬間に駆け寄り、ハンカチを差し出した。

それから俺は、彼女が働く服屋に仕事終わりに訪れるようになって……



どんな時でも、太陽のような明るい笑顔を絶やさなかった妻は、もうこの世にはいない。

戦争が始まる前から体調を崩していた彼女は、開戦をきっかけに安らかに息を引き取った。


『これから一人だけど……リューゼルは平気?』


自分が死ぬその瞬間まで、彼女はどうしようもない俺のことを心配していた。

その時の俺は……何て返したんだっけな。

彼女がいなくなることが悲しくて、自分が何もできないことが悔しくて、彼女を失ってからひたすら後悔して……。


「一人で大丈夫なわけ……ないだろっ!!」


近くに落ちていた石を握りしめ、勢いよく投げる……寸前で手の力が抜けていく。

俺は何も変わっちゃいない。

ミナのおかげで俺は変われた、そう錯覚していただけだった。

彼女を失った今、生きる意味を失った俺は雲に覆われた虚空を見つめ、小さく呟いた。


「なぁ、ミナ……俺はこれからどうやって生きていけばいい?」


誰一人として歩いていない路地に、後悔に溺れる男の嗚咽が響いた。

—————————————————————


ウィスドルト王国地下墳墓。

この国で死んだ死者の遺体は燃やされ、発生した灰は王城の地下にあるこの場所に全て安置される。

これは、ウィスドルト王国にある”死者は平等に扱うべき”という理念から生まれた伝統だ。

墳墓の内部は迷路のようになっているのに地図が残っておらず、最奥がどうなっているかを知るものは絶えた。

平時は王族ですら入ることすら許されず、常に入り口には王国の兵士が見張りをしている……はずだった。


「随分と湿ってるね。管理不足かな?」


この国の聖地とも言えるこの場所に、ランタンを片手に歩く人影がひとつ。

亡霊少女は死の匂いに誘われ、地下墳墓をひっそりと訪れていた。

決して門番がサボっていたわけではない。

門番達は、自らの職種を全うしたと言えるだろう。

……ただ、少し相手が悪かっただけ。


「ん?匂いが強くなった」


亡霊少女は暗闇の中、一度も迷うことなくある地点を目指して足を進めていた。

道の両端を埋め尽くしている、先人達の遺灰が詰まったツボには、一切の目もくれずに。


ランタンの蝋燭の残りが半分を切った頃、亡霊少女はあるツボの前で足を止めた。

向日葵のような鮮やかな黄色一色のツボ。

それは、死んだ本人を表していた色なのかもしれない。

亡霊少女は薙刀を鞘から抜き放つと、ツボに優しく語りかけた。


「最期に言い残しておくことはあるかな?噴水の目の前にいた男の人は、ボクを見た途端に逃げちゃったんだ。おかげで、君のことを知る他の人間を探すのに手間取っちゃったよ」


そう言うと、亡霊少女は黄色のツボの蓋を開ける。

中に入っていたのは誰かの遺灰だ。

墳墓の湿気のせいで、若干湿っている。


『あなたは……リューゼルをどうするの?』


ツボの中から女性の声が聞こえる。

亡霊少女は驚くこともなく、淡々と答える。


「彼には何もしない。ボクが彼に接触したのは、死の匂いが彼に強く染み付いていたから」


『あくまで私が目的なのね。なら、最期にあなたに質問をしていいかしら?』


「うん、いいよ」


亡霊少女が頷くと、ツボの中身の遺灰が空中に飛び出し、女性の姿を形成した。

随分と体が細いが、とても美しい顔をしている。


『ありがと。私、自分を優先することが苦手だったから、死後に克服できて嬉しいわ』



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