月光の君と月闇の僕

季都英司

月の光と闇の境界で語り合う二人のお話

 だれも知らない月のお話をしよう。

 月の世界は二つの領域に分かたれている。

 月が明るく輝くところ、そこに一人の少女がいるという。その名を《月光の君》。

 月が暗闇に沈むところ、そこに一人の少年がいるという。その名を《月闇の主》。

 二人はたった一人で月を半分ずつ等しく治め、そして決して関わらず、互いを知ることはなかっった。それゆえにずっと孤独だった。

 そして永い永い時を、孤独に治めた末、統治に飽きたものがいた。

 《月闇の主》だ。

 彼は長きに渡り変化のない月世界に疲れてしまった。

 月面には何も面白いものがない。闇を治める彼の領域には日の光も見えるわけでなく、遙か彼方に見える星空を楽しむのがせいぜい。

 領域の統治に飽きてしまった《月闇の主》は、いっそのことすべてを捨てて旅に出ることにした。これまでじっと耐えた反動か、その行動まではとても早く、《月闇の主》は思いついたその日のうちに自らの城をあとにしていた。


 旅といっても目的はない。

 これまで見ることもなかった月闇の領域を隅から隅まで探検すれば、なにか面白いことがあるのではと思っただけだ。

 しかし、これがまた何もない。

 どこまで行っても変わらない。

 これでは今までと同じだと諦めてかけた頃、《月闇の主》は明るい世界が見えてきたことに気づいた。歩きに歩いてついに月闇の領域の境界まできてしまったことに《月闇の主》は気づいた。

 境界は、互いの領域を完全に隔てていた。

 此方は暗く。

 彼方は明るい。

 境界は触れるとなにも見えないのに堅い感触があって、それ以上のあらゆる侵入を拒んでいるようだった。

 《月闇の主》は境界の向こうを見やって思った。 なんと眩く美しい世界だろう。《月闇の主》は嘆息した。暗い世界と違って、すべてが輝いている。

 ただの丘や砂の一片までもが、こちらの領域と同じもののはずなのに、素敵なものに見えた。

 あの世界に触れてみたい。そう《月闇の主》は願ったが、境界は堅くどんなに力を入れてもびくともしない。

 こんなに近いのにただ見ているしかないのか……。《月闇の主》が唇を噛みしめたとき、どこかからすすり泣くような声が聞こえた気がした。

 辺りを見回すと、少し向こう側に誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。あれが声の主だろう。 そちらに向かって近づくと、そこに居たのは自分と同じくらいの少女だった。

 ただし、少女がいるのは境界の向こう側。少女が自分に気づかないのにじれて、《月闇の主》は自分から声をかけた。

「僕は《月闇の主》。この月闇の領域の王。そこで泣いているあなたはだれ?」

 泣いている少女を前に《月闇の主》が感じたのは、変化への大きな期待感。そして自分以外の人に会えたという興奮。

 少女はそこでようやく《月闇の主》に気づいたようで、うつむいていた顔を上げると、涙を拭い恥ずかしげな顔をした。

「私は《月光の君》と呼ばれるものです。この月光の領域を治める司祭です」

 驚きよりも、やはりかと言う思いが強かった。なにせこの月には、人など自分を含め二人しか居ないと知っていたからだ。自分ではない人はすなわち《月光の君》のはずだから。

「はじめましてかな。こんな挨拶初めてだ。境界ごしで悪いね。一つ聞いてもいいかな?《月光の君》なぜあなたがこんな辺境へ?」

 そう《月闇の主》が質問すると、少し沈黙があった。《月光の君》は、なぜか辺りを不審な様子でキョロキョロと見渡し、こちらを見ては、話しかけて口をつぐむ。どこか恥ずかしげにも見えた。「どうしたの?なにか失礼でもしたかな」

 そこでなにかを決心したのか、《月光の君》はようやく口を開いた。

「いえ、失礼など。そんなことは。ただ……」

「ただ?」

「自分の塔に居るのがつまらなくなってしまったというか、なんというか……。なにか違うものが見たくなって、つい家を出てしまったというか、その……」

 その次の言葉が出ない様子を見て《月闇の主》はつい笑ってしまった。

「飽きてしまったんだね」

 《月光の君》は驚いた顔をした。なぜわかるのかと言った顔だ。

「わかるよ。僕も同じことを考えたからここにいるんだもの」

 何のことはなかった。月を治める二人は、要は時同じくして治めることに飽きてしまったのだ。

「まあなんと素敵なことでしょう。ぜひ私とお話ししていただけませんか?」

 こうして月の支配者二人は、境界の互いで話をすることになったのだ。


 二人は境界越しに話をした。

 《月闇の主》は自分の領域が、いかに暗くて変わり映えしなくて、つまらないかを話した。

「こっちの領域は、どこに行っても暗いんだ。暗いばかりで景色も何もあったもんじゃない」

 《月光の君》も自分の領域が、明るいばかりで実に落ち着かなくて居心地悪いかを話した。

「いつも明る過ぎるんです。まぶしくて目が疲れて落ち着かない。太陽にもいつも見られている気がして不安にさせられるのです」

 《月闇の主》は憤って言い返した。

「何を言っているんだか。そっちの世界は素晴らしいよ!明るくてすべてが輝いていて、光の変化が実に面白い。見ていて飽きない!」

 そう言うと《月光の君》も強く反論する。

「こちらこそ不思議で仕方ないです。あなたの世界には憧れの気持ちしかありません。静かで落ち着いていて、心安らかに居られるじゃないですか。変化のない世界、それは安心があると言うことです」


 そんな感じで、互いに自分の領域の不満と、相手の領域への讃辞を言い合い続けた。これまで生きてきた不満が爆発したのだろう。

 そうして、彼らが生きてきた時間に比べれば些細だが、それでも長い時間言い合いを続けた。ついには二人とも疲れがきて静かになった。

「私、そちらの世界に行ってみたいです」

「僕もだ。でも……」

「ええ、この境界にすべてが遮られてしまう……」

「この境界を抜ける方法はないのかな」

 《月闇の主》は境界を強く叩く。しかし、音すら響かなかった。境界は物質的なものでなく決して壊すこともできない。それは昔から知っていたこと。おそらく《月光の君》も同じだろう。

 《月光の君》は境界を叩く《月闇の主》の正面に立つ。

「私、これまで一人でした。さみしくはあったけど、それでもいいと思っていました。それは仕方ないことだったから。でも、今あなたに会ってしまった。たくさんのお話をした。それがとても楽しかったのです。生まれてからおそらく一番。だから……」

 《月光の君》は境界を叩く《月闇の主》の手に触れようとするかのように、手を合わせた。二人の手はこんなに近づいているのに、境界に阻まれ感触すらも伝わらない。

 姿形はまるで異なるのに、それは鏡映しのように思えた。近くに見えるのに遠い存在。見えるだけの彼方の何か。

「だから、そちらの世界に行くことより、あなたに会いたいです。こんな壁などなく隣に並んで、そして触れてみたい」

 《月闇の主》はその言葉に胸をえぐられるような気持ちになった。それはまさに《月闇の主》の気持ちでもあったからだ。

「……僕も。初めて人と会えた。うれしかった。だからこそ、境界のせいであなたが遠く感じられることが悔しくて仕方ない」

 しばらく二人は、そのまま互いを見つめて黙りこんだ。

 ぽつりと《月光の君》が口を開く。

「しかし、それはかなわないことなのでしょうか。せっかく見られた夢は夢のままなのでしょうか。……いいえ、これ以上を望むのは贅沢なのかもしれませんね。こんなに素敵な出会いがあったのだから」

 《月闇の主》も悔しそうに声を出す。

「そうなのかもしれない……。所詮僕らは、光と闇。交わることはない領域の住民なのだから。だから、残念だけど、この素敵な思い出だけを抱えて帰ろうかと思う。もう望んでいた変化は十分に得られたから」

「……そうですね。これは一夜の夢。素敵な素敵な夢物語。それが見られただけで」


「そろそろ行くよ」《月闇の主》が言い、少し下がる。

「はい。それでは」《月光の君》が軽く手を振りながら振り向こうとした。

 そのとき、

「え?」《月光の君》が驚いた声を出した。

「これは……」《月闇の主》も言葉を失った。

 そこには不思議な光景があった。


 月の領域を隔てる光と闇を生み出すもの、それが太陽だ。その太陽が少しずつ隠れていく。

 太陽と月の間に別の天体が割り込んできているのだ。それは月食と呼ばれる現象。

 二人はそれを知識としてしか知らなかった。

 太陽の光は次第に翳っていく。それとともにやってきたのは影だった。

 紅く広がる影の領域。

 それは光でも無く、闇でも無く、その間にあるものとして月世界を覆い始めていた。

 《月闇の主》がそこで気づいた。

「境界はどうなってる!?」

 《月闇の主》が境界に再び走り寄る。触れた境界は先ほどのような堅さはなく。曖昧に存在感を失いつつあった。

 《月光の君》も《月闇の主》の元へ駆けてきた。「境界が薄れていっています。月食が二つの領域を一つにしようとしているのでしょうか」

 二人は境界越しに、手を重ねた。

 境界は紅い影が月を覆うにつれて、消えつつあった。それとともに、二人に初めての感覚が伝わってきた。

 それは互いの手のぬくもりだった。

 ついに境界は消え、二人の手はしっかりと重なり合う。

 二人は互いを強く抱きしめた。

「ああ、こんな素敵なことがあるなんて!」

 《月光の君》が涙を流す。だがそれは最初に見た悲嘆の涙ではない。

「こんな変化があるなんて考えもしなかった……。あなたに会うこのときのために、僕は変化のない世界で生きていたのかも」

 《月闇の主》も涙を流す。

 永い永い時を生きてきた二人にとって、これが初めての人のあたたかさだった。

 

 それはほんのわずかな時間。

 月食が始まり終わるまでの、一日にも満たない逢瀬。その時を二人は話し、ふれあい、ともに歩いた。

 あっという間の夢の時間。

 月食は終わりに近づいていた。

「境界が戻りつつありますね」

 さみしげに《月光の君》はつぶやいた。

「ええ、僕らはきっと互いの領域以外では生きていけない。だから、今はお別れです」

 《月闇の主》も名残惜しそうに体を寄せる。

 二人は、ゆっくりと手を離し、境界を挟んで互いの領域に歩いて行く。

「素敵な夢でした」

 《月光の君》は笑顔で言った。目には涙が光っている。

「うん、とても素敵な旅だった」

 《月闇の主》も笑顔だった。少し下を向き、そして顔を上げると《月光の君》をはっきりと見て言う。

「でもね、夢のままでは終わらないよ。いや、終わらせたくない」

「え?それはどういう……?」

「また、次の月食の時に会おう。永遠に一緒に居ることはかなわない。でも月食のときにならこうしてまた会えるはずだから」

 《月光の君》は顔を輝かせた。

「ええ、ええ!また是非お会いしましょう。次の月食の時この場所で!」

「うん、光と闇が溶け合うこの時に、また二人の時を!」

 

 月食は終わり、再び月世界には境界が戻ってきた。二人はそれぞれの領域に帰る。

 月が明るく輝くところ月光の領域、そこに一人の少女がいるという。その名を《月光の君》。

 月が暗闇に沈むところ月闇の領域、そこに一人の少年がいるという。その名を《月闇の主》。

 二人は月を半分ずつ等しく治め、そして決して関わらず、互いを知ることなく、それゆえにずっと孤独だった。そう、これまでは。

 もう一人ではない。

 心交わした相手が月の裏側にいる。

 そして、また会うための約束がある。


 次の逢瀬は太陽翳る月食の時。

 

 光と闇が溶け合う、紅い影の時間にまた会おう。

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月光の君と月闇の僕 季都英司 @kitoeiji

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