Acte 2-17

 えっと吃驚の声が出た。「私がですか。オーディションは」

「次回はなし。浅尾さんの腕を見込んで、先生から直々に指名させてもらうよ。曲はルイス・ボンファの『黒いオルフェ』ってやつ。知ってるかな」

「知ってますけど……難しいですよ、あの曲」


「黒いオルフェ」とは一九五九年に公開されたフランス、ブラジル、イタリアの映画である。この映画の主題歌は別名「カーニバルの朝」とも呼ばれていて、人の愛と悲しみを切々と歌うボサノヴァの曲調が素晴らしい。一度耳にすると離れないメロディー、心の琴線をギターのように震わすこの曲は世界中のアーティストによってカバーされていて、フルートソロの定番として吹奏楽でもよく演奏されるものである。


「おお、さすが知ってるねえ」的場先生は広い額が光るほどにパッと破顔した。「そうそう、そうなんだよ。僕もフルートをしてたから、あの曲の難かしさはよく分かる。高校のときにどっかの演奏会で生で聴いたんだけど、あのソロはねえ、鳥肌立ってビビるくらいすごかったよ。こうなんか、胸のところを抉ってくるっていうか、そそってくるっていうか、いや、言い方変かな、コホン……いやあ、フルート吹きだったら一度くらいは吹いてみたい曲だよねえ。うん、うん。それを是非とも浅尾さんの演奏で聴きたいなあって思ってたんだ。今回のソロを遠慮してもらったのはこういうことだよ。これはね、僕の中では既に決定事項だから、その心づもりでいて」


「はい……分かりました」

 余程の思い入れがあるのだろうか、唾を吐くほどの興奮で額から七色の光が放たれそうだ。オーディションに落ちた悔しさが、その勢いに気圧され吹き飛んだ。戸惑いながらも遥香はコクリと小さく頷く。


「それから、フルートパートのアンサンブルコンテストの曲はもう決まった?」

「いえ、まだ先ですけど」

「そっか。決まったら教えて。それと浅尾さん」的場先生の眉が上がって、額の横皺がまた増えた。「ソロコンテストには興味ないの。出たいんだったら僕が手続きするけど」

「いえ……そこまでの自信はないですし」

「え? そうなの? 今までにソロコンに出たことは」

「一度もないです」

「ええ、なんだか勿体ないなあ。君だったら本気でやれば全国にでも行けそうなのに。自分でいうのもなんだけど、ここの高校って吹奏楽のレベルがそれほどじゃないから、浅尾さんの才能が埋もれちゃってる気がしてね、以前から気にはなってたんだ……ソロコン、一度くらい挑戦してみてもいいんじゃないかなあ」


 痛いところを突かれた。ソロコンのことは訊かれたくない、というのが遥香の本音だ。

「そうですね……考えてみます」と判断を保留にして口を濁す。

「浅尾さんは、大学はどこを目指しているの」

「ええと……関東の私立を目指しています」

「音楽系は? 音大とか芸大とか、そっち方面は考えていないの」

 音大。芸大。今まで頭になかったことだ。一、二と瞬きし、「いえ、まさか」と、首を左右に振って否定した。「私にそこまでの腕はないですし」


「そう? そんなことはないと思うけど。今からでも本格的に練習すれば十分可能だよ。まあこれは君自身のことだし、プロの道なんて生半可な気持ちじゃとてもできないからね。先生がとやかく言うことじゃないけれど」

それじゃあ定演のことは頼んだよ、という括りで先生からの用件は終了した。

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