Acte 2-9
「俺も駅に向かうところだったから、そこで待ってたらよかったのに」
「そうなんだ、でも会えなかったかもしれないしね――わあ、亮くん、一年間見ない間に身長伸びた? 私の背丈を追い抜いたよね?」
「……うん、そうかな、そうかもしれない」
遥香を少しばかり見下ろしていることに気が付いて、ささやかな優越感に亮は目を細めた。ああもう俺は馬鹿か。単純者め。先ほどの鬱屈した気分はどこへやら、昔と変わらない遥香の物腰の柔らかさがやっぱり嬉しい。いつの間にか口調や態度も素に戻る。
そういや中学校の頃もこんな感じだったっけ。同じ部員という立場上、周りからの冷やかしや詮索を受けたくなくて、部ではずっと遥香と一定の距離を保つようにしていた。部から離れると幼馴染の仲に戻る。そんな特別な二人の関係が好きだった。
そう、俺は好きだったんだ、この人のことを……
過去形である。亮はすでに振られている。
「やっぱり男の子の成長ってびっくりするなあ」と、何食わぬ顔で遥香がこちらを向く。「ね、亮くん、七月の最初の日曜って空いてる?」
「大丈夫だと思うけど、なんで?」
「定期演奏会するんだよ。『M高校吹奏楽部・七夕コンサート』って。よかったら聴きに来て。チケット送るから」
「さっき言ってた、オーディションのやつ?」
「うん、ソロはどうなるか分からないけど。でも高校の吹奏楽って中学のよりももっと面白いよ。曲もすっごく難しいんだ」
「そう……」と頷きつつも迷いはある。今は音楽どころではないし、大体、振られた人からの誘いを一つ返事で受けるかよという卑屈な思いもあるのだが、「じゃあ行くよ」と、ここできっぱり断り切れない自分が悲しい。
「お金は今払っておく」
財布を出そうとする亮を、遥香は先輩からのおごりだからとやんわりと止めた。いやダメだ、払う、払わないでしばらく揉めて、結局は一人分支払って二人分のチケットを貰う、という妥協案に落ち着く。
「亮くんの住所、変わっちゃったんだよね」
「うん、今は母親の実家にいる」
「いつの間にかマンションからいなくなっちゃってたんだもん。高校だって、まさかK高に行ってるなんて思わなかった。てっきり吹奏楽の強いとこに行くかと思っていたのに。亮くんってほんとにオーボエ辞めちゃったんだ」
「今は音楽よりも勉強がマジで大変。内部進学のやつらは、もう高一の勉強範囲終わってるから。俺みたいに外部から来たやつは、授業に付いていくだけで必死なんだよ」
「そうなんだ。残念だな……亮くんのオーボエ、また聴きたかったんだけどなあ」
遥香は俯いて目を伏せた。肩から髪が幾筋か流れ頬に仄かな影ができる。そうかそんなに俺の演奏を、と下手に浮つかないよう腐心するのも大変だ。
「まあ仕方ないよ。俺は遥香さんのソロを楽しみにしてるから」
「やだ、そんなに期待しないでね。オーディションがどうなるか分からないから」
じゃあまたコンサートでと別れの挨拶をして、遥香はスカートの裾をふわりと翻し駅へ向かって駆けていった。亮はその後をゆっくりと歩いて追いかけていく。彼女に付けられていた香水が後に残される。清涼感のあるシトラスの香りが極薄の和紙となり、鼻腔に残るバニラビーンズに淡い彩りをそっと重ねた。
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