Acte 2-6

 彼からのお誘いはそれ以来なかった。まあ仕方ないだろうと亮はスイーツ研究を一人黙々こなしている。他人に迷惑が掛かるくらいならおひとり様状態なんて構わない。誰に迷惑かけるわけでもないんだし、これが自分の性分なのだからいいじゃないか。


 二つ目のケーキを心ゆくまで堪能し、最後のシューに手をつけようとしたところで、「……ノッチ」と背後から女性の声がする。聴き覚えのあるような甲高い声。聴き覚え? ……いや自分には関係ない。無視。フォークをシューにざくりと突き立てる。

「シノッチ? シノッチだよね?」

 シノッチが二つに増殖して警戒レベルが跳ね上がった。この声と中学時代のあだ名には気安く反応しない方が賢明だ。それを亮は身に沁むほどに知っている。

「あ、やっぱりシノッチだ! 久しぶりじゃん! シノッチシノッチ、ねえシノッチ、聞いてんのシノッチ! コラちょっとシノッチ、こっち向いて聞きなさいよ!」


 徐々にボリュームが上がってくるシノッチ連呼の大安売りに、周囲の客がそろりとこちらを伺っている。俺はなんだ、激安商品の肉か魚か見世物パンダか。そうだ、この人、無視という言葉が基本的に通じない厄介な人なのだということを今になって思い出した。押しつけがましい命令口調に観念した亮は「あのですね」と大きく息を吐き出しながら後ろを振り向く。瞬時、その先から息が止まる。


「久しぶりだね、亮くん」

 シノッチ連呼厄介女性の後ろにもう一人いた――遥香、さん。浅尾遥香。亮の喉仏で詰まった息が音を立てて引っ込んだ。遥香は亮に軽い会釈をした。

 同色の絹のベルトが付けられた薄い水色のワンピースを身に纏う彼女は、まるで春に歓ぶ幸せの小鳥のようだ。手にはカゴバックを持っていて、清楚で愛らしい装いがまた彼女によく似合う。彼女が首を動かすと、肩まで伸びた真っ直ぐな髪が春風になびくレースカーテンのように揺らめいた。その髪の微かな揺らめきが亮の心臓に一瞬の震えを呼び込む。


「ね」の形から口の動かし方を忘れた亮は、その形を迷うように横へ伸ばして引き攣る笑みを顔に塗った。

「お久しぶりです、田子山たごやま先輩。それから――浅尾あさお先輩も」

波立つ心を悟られまいと冷静さを声に保つ。すかさず田子山先輩が口を挟む。

「私たちが卒業してからだから、わお一年? そっかー、もうそんなに経つんだ。ねえシノッチ、その席にいんのって誰? えっ、いない? ウッソでしょー、まさか一人? 一人でここへ来たの。ええー」

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