Acte 2-2

 前方に長く、広げた両手が端に届くほどの舟に亮は乗っていた。この乗り物は七夕で使う笹の葉のように細長く、喩えるなら外国の運河で見かけるゴンドラという舟によく似ている。けれども色が違う。木か鉄かはたまたアルミ製か、作られている材質は分からないが床も縁も表面すべてが銀一色に塗装されている。けばけばしいほどの銀の色は派手を通り越して珍妙だという印象により近い。まるで夜空に輝く三日月のように鈍い光を周囲に放ち、四方の霧をほんのりと照らしながら淡い光のトンネルを作っている。


 視界を閉ざすほどの濃い霧の中へ銀の三日月は静々と進み、尖った舟の舳先が霧に溶けては現れる。無数の細かい水滴が亮の体を撫でてしっとりと濡らした。

 波の音に紛れて、ドボン、と水を突くような音がした。


 さてどうしようかと亮は思う。どうしてここにいるのか、どこに行こうとしているのか、そもそもどうしてこの舟に乗っているのか、それらの理由がさっぱり思い出せないのだ。とりあえずはこの状況を把握しようと腕を組みフンと息を吐き出して、ぐるりと周囲を見渡した。「おうい」と小さく声に出したが、誰かがいる気配もない。右を見て、左を見て、上を見て、どこもかしこも真っ白一面であることを再度確認し、どうしようもないなと無駄に考えることを諦めた。


 亮はゴンドラから身を乗り出し、縁につかまりながら川面を覗いた。亮が動くと舟も大きく揺れて白波の泡が無数に立つ。川に落ちそうになってヒヤリとし、慌てて舟の縁をしっかりと握る。波の泡が引くと、光の濃淡を自由に綾なす川の表面に薄っすらと銀色の舟が映り込んだ。


 川面を見ながら、そこにあるはずのものがないのに気が付いた。川に映っている銀色の舟は白い空だけを運んでいる。亮は片手を上げたり振ったりしてみたが、いくら腕を動かそうとも、どれだけ身を乗り出そうとも、顔も手も体も何もかもが川面に映らなかった。

 ――影がない。


 なんじゃこりゃ、と亮は立てた膝に腕を乗せて髪を掻き上げ首を傾げる。やはりこれは自分の創りあげた妄想か。はたまた妙な夢にでも紛れ込んだか。影を失う夢の虚像。記憶の琴線がふと揺れる。どこかで耳にしたオペラの話。

 影、夢、現実、妄想、ゴンドラが導く愛の歌。あのオペラ、なんだったっけ。唇をぐっと噛みながら目玉をぐりぐり動かして懸命に思い出す。

 そうだ、思い出した。確か題名が「ホフマン物語」、オッフェンバック作曲の……


 またもやザブン、ゴツン、ドボンという音がして、亮は首を左右に動かして周囲を見渡した。亮の右手、舟の後方に赤い革カバーのついた二人用の背もたれがあり、そのさらに後ろ、舟がほんの少しせり上がった部分に人の立てる隙間がある。

 舟守がいるはずのその場所には誰もいなかった。物干し竿のような櫂が舷にかかっている。櫂は自分の意思があるかのように独りで水を掻いていた。


 が、どうもよく見ると、舟を進めているわけでも進向を決めているわけでもないようだ。全く動こうとしなかったり、思い出したようにザブンと川に突っ込んだり、ぐるぐると水を掻きまわして泡を作っていたりする。まるで幼い子どもが水遊びをしているようにも見えた。


 舟は気紛れな櫂に身を任せながら、川の流れに沿って悠々と漂っていく。どこに行こうとしているのか、この先自分がどうなるのか、不安がないわけではないが恐怖を感じるわけでもない。危険がなければまあいいやとこれ以上の無駄な考えを放棄して、何もせずこのまま流されてみよう、そう気持ちを切り替えた。

何かを無理に決めるよりも何もしない方がよっぽど気楽だ。何かをすれば心を果てしなく消耗する。


 亮は舟の縁から手を離し、赤い背もたれに寄り掛かって床へ足を投げ出す。次から次へと溢れてくる疑問を払いのけるように瞼をそっと閉じる。

 ふわりと傾く舟の不安定な揺らぎが心を宙に浮かせる。亮は夢の向こうの更なる夢へと意識を飛ばした。

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