心が温まるということ1話
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第1話
■カフェラテ
ここまでどのようにして歩いて来たかは定かではなかった。十七時半の終業時間を報せる、サイレンにも似たメロディー音が終わらないうちに会社を出てから、部長昇進の時に頑張ったご褒美に自分で奮発して買ったスイス製の腕時計を覗くと、すでに一時間が過ぎていた。
それなのに、自分の感覚としては、一分も経っていないようにさえ思えた。つまりは、時間の流れとは全く異なる世界を歩いていたような感覚なのだ。
雪村幸介は、途方にくれるという言葉の意味を、この年の瀬も押し迫った師走の暗さの中でしっかりと噛みしめながら、見も知らぬ街の商店街を歩いていた。
会社を出て、いつも利用する駅から地下鉄に乗り込んだのは覚えているが、この地下鉄が何線のどこ行きだったのかは、全く記憶に残っていなかった。とにかく現実から逃れるように、最初に来た電車に飛び乗り、適当な駅で降りて、何番出口かを出た。
地下鉄を降り地上に出た後に、幾つかの交差点を渡って来たと思うが、大勢の人の流れにそのまま身を任せながら歩いていたので、果たして本当に信号が青の時に横断歩道を渡ったのかさえ定かではなかった。
それまで、おぼろげだった焦点が、聞こえて来る「ジングルベル」のメロディーを聴いてピントがあった時、気が付けば幸介は見知らぬ商店街の中に立っていた。
割れたような音で先ほど聴いた「ジングルベル」が、安っぽいスピーカーから流れるアーケード商店街を、忙しなく行き来する地元の人たちとは明らかに違う、ゆっくりとした歩調で幸介はアーケードの下を歩いていた。
「いったい、ここは何処なのだろう?」
やっと自分の置かれている現状に意識が戻った時に、まずは、そのことを思った。
周りを見回せば、長い放浪の旅を終えて帰って来た旅人でさえも、今、日本がどんな季節なのかが一目瞭然で判断出来るくらいには、この商店街の店々もクリスマスの装いで飾られていた。
「そういえば、そろそろクリスマスだな」
意識と思考回路が正常に動き出した途端に、ここが何処なのかという疑問を通り越して、「これからどうしようか?」「房江になんと説明しようか?」という不安と心配が、幸介の頭の中を占領した。房江は幸介の妻だ。
一気に襲いかかって来たこの不安な気持ちに拍車をかけたのが、この見知らぬ商店街をたった一人で歩いているという寂しさと孤独感だった。さらには自分一人だけが見知らぬ土地に置き去りにされたような、強烈な疎外感が加わって、幸介の心を十二月の夜の風よりも冷たく凍りつかせていた。
「とにかく落ち着こう」
やはり五十九歳という年齢は伊達に年月を重ねて来たわけではない。幸介はそう思いつくと、とりあえずゆっくり考えることが出来るような店を捜した。それに、無意識とはいえ冬空の下、外を歩き続けていたので身体がかなり冷たくなっていた。気持ちを落ち着けることと、身体を暖めることが先決だった。
老夫婦が営んでいるような、旧い喫茶店でもあれば最適なのだが、見回したところ、すでに時代遅れのこうした喫茶店がそう都合よく見つかるわけもなく、すぐ目の前にあった、大手のチェーン店ではない、個人経営のファーストフードの店に入ることにした。
その店は商店街のメイン通りに沿って全面が硝子張りになっていて、スケルトンの窓から丸見えの店内には、若い人を中心に半分ほど席が埋まっていた。
タッチ式の自動ドアを入ると、「いらっしゃいませ」と女性の声が迎えてくれた。
「まずは、先にお席の方を決めてください。ご注文はその後にセルフでお願いいたします」
そのまま注文のためにカウンターに行こうとした幸介を、さきほど「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた店員の女性が、丁寧な口調で教えてくれた。
「ああ、そうなんだ」
「お一人様ですか。後からお連れの方が来られますか?」
「いえ一人です。連れは来ません」
そう答えながら、幸介は、その店員の胸元に付けている名札を見た。「稲村」と書かれていた。さり気ない笑顔の、感じの良い対応だった。
店の対応の良悪を気に掛けている場合じゃないほど、自分にはあらゆる面で余裕がないことを自覚しているはずなのに、一瞬でもそう思えたことが、何故か幸介には少し嬉しかった。
稲村さんが案内してくれた席は、商店街に向かって大きく取られた窓側のカウンター席ではなく、店の奥の壁側にある、向かい合わせに座る二人席のテーブルだった。今の気持ちとしては姿を曝け出すような窓側の席は遠慮したかったので、希望に近い席に案内されたことを稲村さんに感謝した。
席に鞄と脱いだコート、マフラーを置いて、幸介は注文をするためにレジカウンターに移動をした。
レジには稲村さんが立っていた。カフェラテのトールサイズを注文した。元来、幸介は無類のコーヒー好きだったが、今はコーヒーを飲むよりも優しい味のカフェラテを飲みたい気分だった。
この店は、カウンターで注文をして、そのまま注文した商品を受け取るファーストフード店のようなシステムではなく、注文した物を店員が席まで届けてくれる。
幸介が席に戻ると、それほど間を置かないで、稲村さんがカップに入ったカフェラテを持って来てくれた。紙コップではなく厚めの白い陶器のカップに注がれていた。
ずっしりと重いカップを両手で持って、ひと口飲む。
「美味しい!」と思った。口に入れたらすぐに美味しさが広がるような、インパクトのある濃い目の味ではなく、飲んだ後にじっくりと美味しさが喉の奥に広がって来るような味だった。思わぬ美味しさに、幸介は幸せな気持ちになっていた。たった、これだけのことなのに。
子供の頃に母親から事ある毎に、幸介は良くこう言われていた。どんな小さな出来事にも、そこに幸せを感じ取ることの出来る人になって欲しいという思いを込めて、お父さんと二人で考えて、「幸介」という名前をつけたのだと。その両親の思いは、見事に幸介の性格の中に根付いている。もの心ついてから五十九歳の今日まで、ほんの些細なことにも、その中に小さな幸せを見つけ出しながら生きて来たのだ。
五十九年間を生きて来た中で、ずっと順風満帆だった人間などいないだろう。勿論、幸介にも苦難や辛い時期は何度も訪れた。特に大学を卒業して就職をしてからはその頻度が高かった。
けれど、こうして五十九歳の今日まで、なんとか無事にやり過ごせたのは、どんな苦難の渦中に居る時にも、路地裏にひっそりと咲く名前も知られていない花のように、必ず心に灯りを点してくれる出来事や出会いがあることを信じ、それを見つけることで、辛さや苦しさを乗り越えることが出来たからだった。
「これからどうするか?」
直面した問題はこの一点に絞られている。そのことは勿論分かっていた。分かっていたからこそ、今はそこから遠い所の景色を思い浮かべていたのだ。
何も考えないでボーと過ごす時間、今の今まで幸介はそんな時間をたった一分間でさえも持ったことがなかった。仕事を含めた日々の日常が忙し過ぎて、こうした時間が持てなかったのではなく、敢えて自ら持たないようにして来たのだ。
努力が好きだった。偽善でも綺麗ごとでもなく、こつこつと勉強を続けることとか、努力を積み重ねて行くことが性に合っているのだ。この性格は、仕事の時だけでなく、日常生活においても変わらなかった。
日記は小学校の時から現在まで、一日も欠かすことなく書き続けていたし、季節に関係なく真冬でも午前四時に起床をして、近所を一時間ウォーキングする習慣は、もう二十年近く続いている。
忙しく動いていないと不安なのだ。具体的に、なんに対して不安なのかは解からない。解からないからこそ、得体の知れない不安の素が、お化けのように巨大化して、ふと時間を持て余しそうになると、すうーと幸介の思考回路の中に侵入をして来るのだった。
会社での出世は順調な方だと思う。五十六人いる同期入社の男性社員の中では、係長になるのは十番目だったが、管理職試験に合格して課長に昇進したのは、五番目だった。
そして、次長になり、部を統括する部長に昇進したのは、同期の中では一番早かった。
一年に二、三回行われる特に仲の良い連中が集まる「同期会」のメンバーが、幸介が部長になった時に、「昇進祝い」を催してくれた。幸介がちょうど五十歳になったばかりの時だ。
「結局、派手なパフォーマンスをする奴よりも、雪村のようにこつこつとやるタイプの方が、出世の早道だということを実証したようなもんだな」
次長になるまでは、どのポジションにも同期の中で一番に昇進をして来た米田博之が、全く皮肉を含まない口調で、祝いの言葉を贈ってくれた。
「雪村は上司にも恵まれたよな。大きな実績を出し続けて取締役になった早川常務は、良い言い方をしたら豪傑だけど、悪く言えばどんぶり勘定のタイプだから、その真逆の雪村が部下にいたから、早川常務もすべての業務に取りこぼしを作ることなく順調に出世街道を歩くことが出来たわけだ。『雪村君が部下だったから私は取締役になれた」と、早川常務自身が事ある毎に言っていた。常務の推しは大きいよ」
「気がつけば、ゆっくりと確実に歩みを進めていた亀が、結局一番早くゴールをしていたということだな。『うさぎとかめ』の話は、わが社では実話だったという訳だよ」
部長にはほど遠く、未だに次長にさえなっていない長崎卓が言う。俺が亀なら、じゃあ誰がうさぎなんだと突っ込みたい気持ちを抑えて、
「俺は、亀か?」と笑ってみせた。
五十三歳の誕生日を迎えた直後に、営業部から経営企画部の部長に異動になった。その後、今日まで経営企画部の部長を務めてきた。社内では、経営企画部の部長は、次期取締役への発射台だと言われていた。
「次はいよいよ取締役だな」と、同期会のたびにメンバーから言われていた。
「そんな大それたこと、あるはずないだろう」と、そう言われる度に必ず否定して来たが、実は、幸介自身が取締役を意識していなかったといえば、それは嘘になる。年齢的にも、経営企画部部長というポジションからしても、そうなってもおかしくはないというバックグラウンドは、幸介に取締役を意識させるのには十分な条件だった。
だからといって、熱望をしていたわけでも、欲望をむき出しにしていたわけでもない。それは縁日の露店で売っている綿あめのピンク色のように、うすくて淡い、期待というにはあまりにも現実味の乏しい思いだったのだ。
でもその淡い思いは、ストローから最後に吹き出されたシャボン玉のように、一瞬のうちに弾けてしまったのだ。
そして、今日、雪村幸介は、三十七年間、ただくそ真面目に勤めて来た会社を、自己都合退職したのだった。
■野菜スープ
目は開けているのに、目の前の景色は全く見えてはいなかった。ただ、頭の中に現れたスクリーンに投影される、入社してからの三十七年間の会社勤めの思い出を、なぞるように観ていたのだ。
「あのー、お口に合わなかったですか?」
稲村さんがかけてくれた声を、幸介は、まさか自分に向けられたものだとは思っていなかった。だから、反応をしなかった。
「あのー」
と、今度はテーブルに置いているカフェラテのカップを指差して、声をかけられた。それでやっと稲村さんが自分に対して声をかけていることを認識した。
「えっ、何か?」
「いえ、ほとんど飲まれていないので、うちのカフェラテがお客様のお口に合わなかったのかと、少し心配になりまして、つい……」
そう指摘されてカップを見ると、最初のひと口だけで放置をされたマグカップの上には、テーブルに届いた時に浮かんでいた白い泡がすっかり消えかけていた。
「ごめんなさい。つい考えごとをしていたものですから。いえ、カフェラテはとても美味しいです。ひと口飲んで、この味の虜になりました」
幸介はあわてて残っているカフェラテを半分ほど飲んだ。もう、すっかり冷めてしまっていた。そう感じたことが、幸介の表情に如実に出ていたのだろう。
「もう、冷たくなってしまいましたね」
稲村さんはそう言うと、消えかけてしまったカフェラテの泡のような淡い笑顔を浮かべた。
すでに冷めてしまったカフェオレを飲み続けるのは気が進まなかったが、店にはまだ留まっておきたかったので、幸介は、その場から立ち去ろうとしている稲村さんの背中に向かって、こう声をかけた。
「カフェラテの他に、この店のお薦めはありますか。出来れば温かいものが嬉しいのですが」
「この店の一番のお薦めは、時間をかけて煮込んだスープです」
稲村さんは、さっきよりも濃厚な笑顔を浮かべながら、そう答えた。とても堂々とした自信のある答え方だった。
「じゃあ、それをいただこうかな。スープの種類は沢山あるのかな?」
注文するためにレジカウンターに向かいながら、稲村さんに続けて質問をした。
「いえ、毎日種類はひとつだけなんですよ。今日のスープは、カブと安納芋のポタージュになります。カブの葉と茎も一緒に煮込んでいるので、とても美味しいです」
稲村さんは、すらすらと淀みなく説明をした。
「安納芋。初めて聞く名前だけど、ジャガイモの種類か何か?」
「いえ、ジャガイモではなくサツマイモの種類です。鹿児島の種子島が原産の甘みの強いお芋です」
「へえ、カブとサツマイモの組み合わせなんて珍しいね。しかもポタージュだから身体が温まりそうだ」
「これは、本当は企業秘密なんですが、ジンジャーの搾り汁も入っているので、かなり身体が温まりますよ」
「なるほどね」
幸介はそのままレジカウンターまで歩いて、「今日のスープ」を注文した。
カウンターでは、稲村さんと同じくらいの年齢の女の子が対応をしてくれた。胸の名札には「仲山」と書かれていた。
「バケットとクラッカーのどちらにされますか?」
そう聞かれた。けれど、幸介は帰宅したら、妻の房江が作ってくれている夕食を食べるつもりでいたので、追加注文の主食は断ろうと思った。
「お腹がそれほど減ってはいませんので、どちらも要りません。スープだけで大丈夫です」
「いえ、これはちぎったり、砕いたりしてスープの中に入れて一緒に食べる、クルトンの代わりです。スープには必ず付いているもので、量も多くないですし、一緒に食べるとさらに美味しくなりますので、ぜひ、どちらかお選びください」
仲山さんは丁寧に説明をしてくれた。
「店員さんはどちらがお薦めですか?」
「今日のスープなら、私はクラッカーをお薦めします」
なんの躊躇もなく、仲山さんは答えた。
「それではクラッカーを」
料金を払い、「席でお待ちください」と言われて、幸介は席に戻った。戻る途中に、店内を見渡すと、客のほとんどがスープを注文していた。この店のいち押しはスープなのだと薦めてくれた、稲村さんの言葉を裏付けるような光景だった。こんな寒い日の夜、わざわざこの店に来る理由は、きっとこのスープにあるのだろうと、今日初めて入った幸介にさえ容易に想像出来た。
仲山さんが届けてくれたスープは、両側に取手の付いた大ぶりのカップに入っていた。仲山さんお薦めのクラッカーは、ソーダクラッカーで三枚添えてあった。それを手で砕いてスープに入れた。
スプーンでかき混ぜると、とろりと少し手に抵抗を感じるくらいに粘度があった。カブも安納芋も良く煮込まれていた。スープの色が少しオレンジかかっているのは、安納芋の色なのだろうと思った。
かなり熱そうなので、スプーンですくったスープに何度も息を吹きかけた後に、最初の一口を飲んだ。
「美味しい!」
思わず声が出た。先ほどのカフェラテの時とは違って、このスープは口に含んだ時にすぐに美味しさが伝わって来る味だった。けれど、決して味が濃いわけではなかった。塩や調味料の使用量を極力少なくしているのだろう、素材の味がそのままストレートに美味しさに繋がっていた。
スープには適度のとろみがあるので、残りが半分以下になっても、まだ熱いままだった。稲村さんが教えてくれた通り、スープをひと口ずつ食べる毎に身体が芯から温まって行き、半分の量を食べ終わる頃には、額に汗さえ浮かんでいた。
スープを食べ終わった時には、根拠のない大きな幸福感を抱いていた。
幸せを感じている状況ではないことは、十分に分かっているが、それでも胸の奥から幸福感が湧き上がって来た。後になって振り返ってみる時、幸介はこの時が、「食べること」の重要性とその効能を意識した瞬間だったのではないかと感じていた。
心も身体も温まり、そろそろ店を出ようかと腕時計を見た。七時を五分ばかり過ぎていた。この店から出て、どのような経路で自宅のある駅まで帰れば良いのか。まずは地下鉄の駅まで行って、後はスマホで最短の帰路を検索しようと考えながら、食器をトレイに載せて席を立とうとした時だった。
「止めてください!」
店内に突然大きな声が響き渡った。叫び声に近いほどの大きさだった。
声は客席からではなく、レジカウンターの奥から聞こえて来た。
「完全にセクハラですよ」
そう訴えながら、先ほどスープを運んでくれた仲山さんが、誰かから逃げるようにカウンターから客席のフロアーに出て来た。
「おい、何を人聞きの悪いことを言っているんだよ」
そう言いながら、若くて背の高い男が、仲山さんを追いかけて姿を現し、同じく客席フロアーに出て来た。その男がフロアーに出て来たと同時に、仲山さんはフロアーの隅の方に素早く移動をした。そして、これ以上近づいて来たらすぐに逃げられるように身構えていた。
「いいから、一度カウンターの中へ入りなよ。お客さんも何事があったのか心配をしているじゃないか」
男はそう言いながら、じりじりと仲山さんとの距離を詰めて行く。
「来ないで。もう私に付きまとうのは止めてください。これ以上近づいたら、警察を呼びますよ」
ただの脅しではないことを示すように、仲山さんはポケットからスマホを取り出した。
只ならぬ出来事に、店内の客たちも二人のやり取りに目が離せない状態になっていた。それは幸介も同様で、一度上げた腰を再びシートに戻したくらいだ。
肉食獣が小さな草食動物を追い詰めるように、男が仲山さんの至近距離まで近づき、とうとう彼女の手首を掴んだ。
「きゃあー!」
店内を揺るがすほどの悲鳴が仲山さんから上がった。
この悲鳴を聞きつけて、カウンターの奥から、きっとオーナーか、この店の責任者と思われる四十歳は超えているだろう、中年の男が出て来た。
「カツヒコ、いい加減にしろ」
と、四十男はすごい剣幕で怒鳴った。
この若い男は「カツヒコ」という名前らしい。そして、名前を呼ぶ時の遠慮のない雰囲気から、男とカツヒコが血縁関係者だと幸介は察した。
「オーナー、私、今日でこの店を辞めます。こんな人が居る店で、もうこれ以上働くことは出来ません」
まだ手首を掴んだままでいるカツヒコの手を、掴まれていない方の出て思いっきり叩いて引き離すと、付けていたエプロンをその場で脱ぎ始めた。
「仲山さん、そんなこと急に言われても困るよ。カツヒコには後で良く言い聞かせるからさあ、今日だけでもシフト通りに勤めてくれないかな」
やはりこの四十男はこの店の責任者のようだ。「中に入っていろ」とカツヒコの肩を強く押した。
「無理です」とにべもなく言い捨てると、仲山さんは脱いだエプソンを責任者の男に渡した。そして、先ほどカツヒコが入った所とは別の場所にある出入り口からカウンターの中に入ると、すぐにコートとバッグを持って出て来た。その後の行動は早かった。またフロアーに残っている責任者の男に「お世話になりました」の挨拶もせずに、そそくさと店を出て行った。
事の顛末を一部始終見てしまった幸介だったが、時間にすれば十分足らずの出来事だった。けれどそれは、幸介には衝撃的な出来事だった。アルバイトとはいえ、一度就いた仕事を、こうあっさりと簡単に辞めてしまえる仲山さんというか最近の若者の考え方が理解出来ないでいたのだった。
特に、今、幸介が置かれている状況が、さらに強くそう感じさせたのだろうと思う。
店を出て行った仲山さんの後を、責任者の男の要請を受けて、すぐに稲村さんが追いかけて行ったが、五分もしないうちに、稲村さん一人だけで帰って来た。
「もう姿を見つけることが出来ませんでした。済みません」
稲村さんは、申し訳なさそうに言うと、責任者の男に頭を下げた。
「何も稲村さんが謝る必要なんかないだろう」と、理不尽な対応に、全く他人事であるにも関わらず、幸介は心の中でそう毒づいていた。
「追いかけて欲しいなんて無理なことを言って、こちらの方こそ申し訳なかったね」
この責任者の対応を見て、きちんと常識を持った大人であることに、幸介は何故か胸をなでおろしていた。
「辞めたい奴は、とっとと出て行けば良いんだよ」
カウンターの向こうから、吐き捨てるように言うカツヒコの声が聞こえて来る。
「カツヒコ、口を慎め。多くのお客様が居られるんだぞ」
カウンターの奥に向かって責任者の男が、怒鳴り返した。そして、フロアーの客に向かって、「見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。どうぞ、ごゆっくりしてください」と、深々と頭を下げた。
この責任者の男とカツヒコの関係について、全く自分とは無関係なのに、何故か気になって幸介は考えてみた。
全くの赤の他人ということは考えられない。それに、見た目の年齢差からいっても親子ではないだろう。歳の離れた兄弟、叔父と甥。先輩、後輩の関係。今日初めて入った店で働く人たちの人間関係なんて全く興味を持つことでも、関与をすることでもないのに、幸介にしては珍しく気になって仕方がなかったのだ。
さっきの騒ぎなどなかったように、次々に新しい客が入って来た。今夜は特に冷え込んでいた。ひょっとしたら夜更けには、この冬初めての雪になるかもしれないと、今朝の天気予報では報じていた。夕方になってから街を吹き抜けて行く風が、一度氷のフィルターを通って来たかのように、一段と冷たくなっていた。
身体を胃から温めるために、この店の常連客たちは夕食も兼ねてこの店にやって来るのだろう。
まずは席を確保するために、テーブルや窓側のカウンター席に荷物を置いた客たちが、すでにカウンターの前には五人以上並んで注文するのを待っていた。
レジは二つあるのだが、さっき仲山さんが出て行ったので、稲村さんがそのうちの一つだけで注文を受けていた。
「カツヒコ、お前もカウンターに出ろ」
奥の方で繰り広げられている、責任者の男とカツヒコとのやり取りが幸介の耳にまで届いて来る。厨房の換気扇の音で本人たちは気がつかないようだが、かなり大きな声で話している二人のやり取りは、客席にもはっきりと漏れていた。
「やったこともないのに、俺にレジなんか無理だよ」
カツヒコはレジに立つことを強く拒否していた。
「仲山さんを追い出したのはお前なんだから、ちゃんと責任を取れ」
「勝手に俺のせいにするなよ。出て行ったのは、彼女の個人的な判断なんだから」
カツヒコの声には明らかに怒りが混ざっていた。
「とにかく、カウンターに出て注文を受けろ。これからの時間帯が一番混むってことくらいお前も良く知っているだろう。この状況をどう乗り切るつもりなんだよ、全く」
責任者の男の声にも、カツヒコに負けないくらいに、強い怒りが混ざっていた。
「そんなこと俺の知ったことじゃないでしょう。どう切り抜けるかを考えるのは、オーナーである叔父さんの役割ですよ。責任逃れをしているのは叔父さんの方だよ」
ああ、そうか。二人の関係は叔父と甥で、叔父がこの店のオーナーなのだ。合点が行ったところでもう一度カウンターを見ると、さらに注文待ちの列が長くなっていた。
後になって考えても、この行動は衝動的で軽はずみだったと思う。正義感からなのか、それとも大学時代の四年間を、まだ日本には珍しかった、フランチャイズ展開をしているファーストフード店でアルバイトをして来た経験から、「やれる!」と踏んだのかもしれないが、とにかく居ても立ってもおれなかったのだ。
素早くカバンとコートと、食べ終わった食器が載ったトレイを持つと、カウンターの奥に続くドアを開けていた。
いきなりの乱入者の出現に、驚いて何か言おうとしているオーナーに対して、それよりも早く「手伝います」と怒鳴るように言って、カウンターに立った。
背に腹は変えられない状況だったこともあるが、幸介の突然の申し入れに、まるで条件反射のようにオーナーが肯いた。
「エプロンを貸してください」
背広を脱いで、カツヒコが手渡したエプロンを素早く付けると、空いている方のレジカウンターに立った。
幸介の姿を見て一瞬驚いた表情を浮かべたが、今はそれどころではなかったのだろう、稲村さんはすぐにお客対応に戻った。
幸いレジは旧式で、幸介がアルバイトをしていた店の物と大きく仕様は変わっていなかった。それに、ドリンクメニューは何種類かあったが、スープは先ほど幸介も食べた「本日のスープ」のみで、これにバケットとクラッカーのどちらかを選んでもらえば良かった。
「二番目のお客様から、こちらの方でご注文をお受けいたします。どうぞ」
手を挙げてそう言うと、二番目に並んでいた客と一緒に、何人かの客が列を移動した。
「大変お待たせをして申し訳ありませんでした。ご注文をお願いいたします」
「今日のスープをクラッカーで。飲み物はストレートのホットをブラックでお願いします。それとクラッカーは一袋追加をしてください」
客は三十代前半のサラリーマンだった。さすがに常連客だ。注文の仕方が慣れていて無駄がない。
注文通りに画面をタッチすると、合計の金額が表示されて、現金の入ったレジのトレイが自動で開いた。幸介が大学生の頃とシステムは一緒でも、レジの機能はずい分進化をしているようだ、ただ、その分熟練していなくてもすぐに使いこなせる。
「合計、千八十円になります。お届けをしますので、席でお待ちください」
千百円を受け取り、おつりの二十円をレシートと一緒に手渡した後、常連客だと分かっていてもそう告げた。接客は学生時代のアルバイトと、三十年以上の営業経験で身に付けたものだった。笑顔なら誰にも負けないという自負もあった。
並んでいた五人の注文を受けると、出来上がった順に商品をトレイに載せて客の席まで運んだ。
客足も山場を過ぎると、その後は客が一気に押し寄せるようなことはなかった。ただ、一人、また一人と、来店する客は途切れることはなかった。
「あのー、ありがとうございました」
客が途切れた時に、背後からオーナーが声をかけて来た。
「はい」と、幸介は振り返った。
「見ず知らずの方にお手伝いをお願いして申し訳ありませんでした。でも、本当に助かりました。これは気持ちだけですが、今日の謝礼です」
オーナーは白い封筒を幸介に差し出した。もうこれで手伝いは終了してくれということでもある。
「あの、突然ですが、私をこの店で雇っていただけませんか?」
「はあ?」
当然の反応だと思う。今日初めて来店した初老の男。しかも、名前も素性も解らない、見ず知らずの男に、成り行きで店を手伝ってもらったら、いきなり「雇って欲しい」と申し込まれたのだから。
「私は、名前を雪村幸介と申します。履歴書などの必要書類は明日改めて持参をしますが、とにかく私をこの店で雇っていただきたいのです」
幸介はオーナーの目を真っ直ぐに見た後に、深々と頭を下げた。
「良い話じゃん。こういうのを渡りに船って言うんでしょう。この人、雪村さんというんだっけ。雪村さんは仕事にも慣れていて手際も良いし。客の対応も、こんなこと言ったら失礼だけど、稲村さんよりも数段に優れていると思うよ。雇ってあげたら良いと思うよ。それに仲山さんが辞めたばかりで、年末のこの時期にアルバイトを募集しても、なかなか応募して来ないと思うし」
カツヒコがそう言って、オーナーに幸介の採用を後押してくれる。
「無責任なことを言うなよ。面接もなんにもしていないのに」
オーナーがカツヒコを睨みつける。
「面接なら、明日、改めて出直して、昼間に受けさせていただきます」
幸介はそう提案をした。
「だって、あなた、立派な会社の、しかもかなりの肩書のある人でしょう。僕も長く客商売をしているので、身に付けている物で、その人の生活環境は察しが付くんですよ。スーツの仕立ても上等な物だし。第一言葉遣いが全く違うもの。どういう事情があるのか判らないけど、会社として副業は就業規則で禁止されているでしょう」
どうやらオーナーは、幸介が副業のために雇って欲しいと言って来たと勘違いしているようだ。
「いえ、それなら全く心配はありません。勤めていた会社は今日辞めて来ましたので、副業ではなく本業として雇って頂きたいと思っています」
「辞めたって。雪村さんは今日が定年退職の日なのですか?」
「まあ、そう言ったところです」
詳細な事情については、面接の時に改めて説明すれば良いと考えて、この場は曖昧に肯定することにした。
「雪村さんは、本当にしっかりと店のためになる人だと思います。先ほど、カツヒコさんが言っていたように、お客さんの対応は私よりも何倍も優れていると、私自身も思います」
稲村さんがお世辞で言っていないことは幸介も判っている。実際に、稲村さんが三人の客から注文を取り、会計をしている間に、幸介は楽々と五人の対応を済ませていた。
「分りました。では明日、出来れば店の開店前に、改めて履歴書を持ってお出でいただけますか。正式に面接試験をさせていただきます」
カツヒコや稲村さんの推薦もあって、オーナーは明日の面接を承諾してくれた。人生、どんなことで新しい道が開けるか判らない。まだ、明日の面接試験に漕ぎ着けただけなのに、幸介は半分有頂天になっていた。
「あのう、私はこのまま最後まで店に残っていなくても良いでしょうか。お客さんもだいぶ落ち着いて来ているようですので」
要請されれば、閉店時間まで働く覚悟は出来ていた。
「いえ、今日はこのまま帰っていただいて構いません。これから閉店までは来店するお客様のそれほど多くはありませんので、今日のところはお帰りいただいて大丈夫です。では、明日改めてということで、宜しくお願いいたします」
まだ手渡さずのままだった、謝礼の入った封筒を幸介に握らせると、オーナーは厨房に消えた。
「今日はありがとうございました。仲山さんがあんな形で急に辞めてしまって、正直雪村さんがヘルプをしてくれなかったら、私一人で大パニックになっていたと思います。大変助かりました。明日からは仲間ですので、宜しくお願いします」
稲村さんは、感情が顔に出るタイプなのか、豊かに表情を変えながら、何度も頭を下げた。
「まだ、採用になるか決まったわけではないですから」
幸介がそう言うと、「絶対に大丈夫です」と、稲村さんは笑いながら太鼓判を押してくれた。
■家族
幸介が店を出たのは、九時半過ぎだった。夜気は耳がちぎれるほどに冷たかったが、幸いまだ雪は降り出していなかった。
ここから一番近い地下鉄駅の、地下の改札に続く階段を下りる時に駅名を確認したら、会社から家に帰る路線の逆の方向の駅だった。放心状態で地下鉄の改札を抜けて、最初に来た電車に乗ったので、間違えて逆方向の電車に乗ってしまったようだ。
でも、人生何があるか分からない。この間違いのお蔭で、ふらっと立ち寄ったファーストフードの店の面接を、明日受けることになったのだから。
家に向かう電車に今度は間違えずに乗って、自宅のある駅に到着したのは十一時近くになっていた。
雪になるかもしれないという予報に、足早に帰宅した人や、外出を控えた人たちも多かったのか、この時刻ならまだまだ人で賑わう駅前も、今夜は人がまばらだった。
見るとタクシー乗り場にも客がいなかったので、思わぬバイト代も入って気持ちが大きくなっていたこともあり、幸介は奮発をしてタクシーで帰宅することにした。いつもは徒歩で帰宅する道のりは、タクシーに乗ってもワンメーター程度の料金だった。
運転手に行先を告げて、カバンから謝礼が入った封筒を取り出した。しっかりセロテープで封印された封筒のテープを剥がして、中身を確認した。
「奮発してくれたな」
思わずそう声が漏れた。中には五千円札が一枚入っていた。幸介が店を手伝ったのはせいぜい二時間余りだろう。それなら、時給二千五百円にもなる、いくらなんでもこれは貰い過ぎだ。
自宅には五分程度で着いた。幸介の自宅はマンションではなく、二階建ての一軒家だった。この辺りの大半が田んぼや畑だった頃に開発された宅地に、建売ではなく注文住宅を建てた。その頃は通勤も大変だったが、今は地下鉄と私鉄が相互乗り入れをしてくれたおかげで、乗り換えなしで会社まで行けるようになった。
一男一女の子供たちは、まだ結婚はしていないが、それぞれに独立をして自宅を出ていたので、今は妻の房江と二人で住んでいる。書斎と呼ぶにはあまりにも狭い、幸介専用の個室は二階にあるが、この部屋を使わない限り、家に居る時の大半を一階で過ごしている。
店を出て地下鉄に乗る前に、おおよその帰宅時間をメールで報せていたので、パジャマの上にカーディガンの姿ではなく、洋服姿で妻が迎えてくれた。
「急なお仕事でも入ったのですか?どうやらお酒の席ではなかったようですね」
関係先や社内の会食や飲み会の予定は、ほぼ事前に告げているので、予定外に遅く帰宅するのは、営業から経営企画部に異動になってからは珍しいことだった。だから、房江がそう訊いたのだ。
「うん、後で詳しく話をするよ。それよりも風呂に入りたいんだ。とにかく寒かったからお湯に浸かって身体をゆっくり温めたいんだよ」
「そうですね。そうなさってください。お湯は入っていますので、ぬるいようでしたら、追い炊きをするか、熱い湯を足すかしてください」
幸介は寝室に入ると、一度部屋着に着替えて風呂場に急いだ。
「あなた、お腹の方はいかがですか。おうどんでも作りましょうか?」
湯船に浸かっていると、外から房江がそう聞いて来た。
「いや、もう遅いからビールと軽いつまみだけでいい」
「分りました。ではごゆっくり温もってください」
房江はそう言って、その場から立ち去った。
優しい人だと思う。相手の顔色や表情をきちんと読み取る能力にも長けているし、気配りや気遣いもきちんと出来る人だ。妻の内助の功があったからこそ、自分はここまで来ることが出来たのだと、今でも感謝している。
妻の房江とは、高校一年生の時に知り合った。
その頃幸介は山岳部に所属していて、クラブで唯一の女子部員が、旧姓奥田房江だった。房江も同じ一年生の新入部員だった。
ただ、山好きだった父親に連れられて、小さい頃から数々の山に登った経験を持つ房江と、高校になって初めて山岳部に入った幸介たちとは、明らかに登山というか、山に対する考え方が違っていた。半分以上ハイキング気分で入部を決めた幸介と、山の厳しさや恐ろしさも経験して来た房江とは、必然的に山に対する心構えが違っていた。
入部して初めての合宿が、夏休みに一週間の予定で行われた。相変わらず初心者の域を出ない幸介は、毎日のトレーニングに疲労困憊をしていた。山でのトレーニングを終えて、宿舎である麓の民宿に戻り、風呂に入って夕食を食べた後は、バタンキュウと泥のように眠る毎日だった。
肉体的な辛さだけでなく、どこにも楽しみを見つけ出せない合宿に、山岳部に入部したことを後悔し始めた、合宿四日目のことだった。
夕食を終えて、今日もただ寝るためだけに部屋に引き上げようとしていた幸介に、房江がついでにという感じで声をかけて来た。
「雪村君、今日で合宿も四日過ぎたけど、まだ満天の星を見ていないでしょう」
房江にそう言われるまでもなく、トレーニングを終えて民宿に戻って来た後は、一歩も外に出ていなかった。
声には出さずただ肯くだけの幸介に、「もったいないよ」と、ひと言だけ房江が言った。そして、とても自然な感じで幸介の手を取ると、「行こう」と外に連れ出した。
「うわあー!」
夜空を見上げた幸介は、思わず感動の声を上げた。いや、自然に声が出てしまったのだ。降るような星というのは、まさにこのことだと神様が教えてくれているような星空が、幸介の視界の全てを占領していた。
「山に来ると、こんなご褒美が待っているんだよ」
空を見上げたまま、房江が独り言のようにつぶやいた。
「本当だな。奥田が誘ってくれなかったら、こんなご褒美ももらえないまま合宿を終えるところだったよ。ありがとう、感動しているよ」
幸介は星空を見上げたままそう答えた。
「房江でいいよ。奥田なんて、呼ばれ慣れていないから」
「えっ?」
幸介は房江の言っている意味が理解出来なかった。
「お母さんが半年前に再婚をして、急に苗字が奥田になったから、『奥田』と呼ばれても、なんかピンと来ないんだよね」
まるで今日の天気でも話すようなさり気なさで、房江は決して軽くない話をした。その雰囲気のまま、幸介もまた軽くない質問をした。
「離婚だったのか?」
再婚ということは、一度は結婚がだめになっているということだ。
「ううん、死別。お父さん、頭の中の血管が切れちゃって、潔いというか、呆気ないというか。私が中学一年生の時にね」
話を重たいものにしたくないという気持ちなのだろう、昨日読んだ小説のストーリーでも聞かせてくれるように、さらりと話した。
「大変だったろう」
「きっとお母さんはそうだったと思う。でも、私はまだ中学に入ったばかりの子供だったから、大変というよりも寂しいと思う気持ちの方が強かった」
それは、房江の偽りのない、素直な気持ちだろうと幸介は思った。
「房江は新入部員の自己紹介の時に、お父さんと一緒に良く山に登ったと言っていたけど、それは亡くなったお父さんのことだったんだな」
すんなりと、房江と呼ぶことが出来た。
「うん。今回の合宿で泊っている民宿も、私が小学五年生の時にお父さんと泊ったことがあるんだ。その時に、お父さんが私を外に連れ出して、このすごい星空を見せてくれたの」
今度は少ししんみりとした声で、そう話した。
「お父さんとの思い出の場所なんだな」
「だから誰かに見せてあげたかった。お父さんが私に見せてくれたように」
「それで俺を誘ってくれたんだ。房江と同級生でラッキーだったよ」
幸介は自然に笑顔を浮かべていた。でも、降るような星の光に淡く照らされた房江の横顔は笑っていなかった。
「同級生だからじゃないよ」
「えっ?」
「同級生だから、雪村君にこの星空を見せたかったんじゃないよ」
「……」
じゃあ、どうしてとは訊けなかった。
「雪村幸介のことが好きだからだよ」
こんなこと、女子に言わせることではないよと、四十年以上経った今でも、事ある毎に房江からの非難の種にされている。
この夏合宿が終わった後に、幸介と房江の交際が始まった。五月生まれの幸介が十六歳、十一月生まれの房江が十五歳の時に出会い、今、四十三年の年月が経っていた。
風呂から上げると、テーブルには缶ではなく瓶入りのビールと、この時季なら当然解凍物だろう、枝豆が肴に準備されていた。
席に着くタイミングで、房江がグラスにビールを注いでくれた。風呂上りということだけでなく、今日起こった色々なことが重なって喉が渇いていたので、いや本当を言えば、これから房江に話さなければならない重要な案件のことを考えると、その緊張での喉の渇きの方が大きいだろう。幸介は最初の一杯を一気に飲み干した。
「お前も付き合えよ」
空になったグラスにビールを注ぎ足している房江に言うと、軽く肯いてグラスを取りに台所に行った。
手に取った枝豆は温かかった。冷たいビールの当てなので、きっとそうした心遣いをしてくれたのだろう。
「少しだけ」と言いながらグラスを差し出す房江に、幸介はグラスの半分ほどのビールを注ぎ、形式的に軽く乾杯をした。
「こうして一緒にお酒を飲むのは、本当に久しぶりですね」
ひと口飲んだだけで、房江はグラスをテーブルの上に置いた。「飲む」というほどの量ではなく、これでは「舐める」だよと、幸介は心の中で毒づいた。
「そうだったかな?」
「だって、基本的に家では晩酌もしないし、それに営業から異動して、外で飲む機会もめっきり減りましたから、外で飲んだ勢いで、帰宅後、私を誘って飲み直すこともなくなりましたものね」
房江はほん少し笑顔を浮かべてそう言った。房江のこのさり気ない笑顔の表情が、知り合った高校生の時から好きだった。良く見ないと気づかないくらいの、笑顔ともはにかみとも区別が付かないこの表情に、この四十三年間、なん度救われたことだろう。確かに五十九歳という老いはあるが、この表情だけは時の流れに全く風化されていなかった。
「何か、重要なお話がお有りになるんでしょう」
問いかけではなく、半ば断定のような言い方をした。それでも、幸介は首を傾げて誤魔化そうとした。この期に及んでも相変わらずの小心者だった。
「だって、素面で帰って来たのに、ビールとつまみを用意させるなんて珍しいことですから。あなたは昔から気持ちの優しい人だから、あまり良いことでない話の時には、いつもお酒の力を借りないと言い出せないのよね」
房江はこの時も、幸介の好きなあの表情をした。
「なんでもお見通しだな。もう一杯飲んだら話すよ」
図星を付かれて、幸介は観念した。切り出すタイミングを探していたが、きっかけは房江の方が作ってくれた。
「冬の夜は長いのですから、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。もう少しつまみを作りましょうね」
そういうと房江は台所に立って、簡単なつまみを何種類か作って、新しいビールと一緒に運んで来た。ザーサイと胡瓜をゴマ油で和えた物、油あげをオーブントースターで軽く焼いて、大きめに切ったあとに軽く醤油をかけた物、白菜とゆずの皮を細かく刻んで、塩をかけて水を絞った後で甘酢をかけた物など、どれも幸介の好物だった。
「未だに俺の好きな物を覚えてくれていたんだな」
「あなたはお気に召すと一途ですから、この三種類の料理は、何十回、いえ何百回も作りましたから、忘れたりはしませんよ」
今夜は何故か昔の話が良く出て来る。
二本目のビールが半分以上なくなったところで、幸介は単刀直入に話を切り出した。
「会社を辞めてしまった」
「その話ですか。良かった。心配して損しちゃった」
「えっ?」
房江の想定外の反応に、幸介は肩透かしを食ったような感じだった。もっと深刻に受け取ると思っていたのだ。
「てっきり不治の病を宣告されるのかと、勘違いをしていました」
房江は心から安堵していた。有難いことだと思う。どんなことよりも、旦那の身体のことを一番に心配してくれている。
「そんな、深刻な話ではないよ。まあ、退職も深刻な話には違いないが」
「でも、いきなり退職だなんて。ずい分前から会社を辞めたいと考えていらしたのですか?」
「いや、正確に言うと、辞めさせられたということだ。つまりは解雇」
心情を悟られないように、幸介は努めて軽い感じで言った。でも、これくらいの工作では房江の目は誤魔化せないだろうと思いながら。
「それはまた、あまり穏やかな話ではないですね」
「そうだな。でも懲戒免職ではなく、一応、自己都合退職扱いになっている。だからきちんと規定分の退職金は出るよ。当面の生活費は心配要らない」
幸介はグラスに半分残っていたビールを一気飲み干した。一杯目をあれほど美味しいと感じた同じビールを、この時はただ苦いだけの液体だとしか感じなかった。
「自己都合退職の都合の中に、あなたの意思は、少しは含まれているのですか?」
「いや、何一つとして含まれてはいないよ」
「では、会社都合による解雇ですか?」
言葉ほどに房江の表情に険しさはなかったが、質問している内容はかなり厳しい。まるで誘導尋問にかかっているように、正直に答えてしまう。
「いや、それとも少し違うな。会社都合というよりも上司の都合だ」
隠す必要はないと思った。現実として、幸介はもうあの会社の社員ではない。
「上司の都合と言いますと、まさか?」
「そのまさかだよ。早川常務の罪を被ったという訳だよ」
「ご自分の意思で?」
「いや、そうなるように巧みな罠が仕掛けられていた」
「そうですか。お辛かったでしょうね……。今日はもうこの話はこれで終わりにしましょう。本来なら、子供たちも一緒に『ご苦労さまでした』と、お祝いをしないといけない夜でしたね。粗末な酒の肴で申し訳なかったです」
「こんなに好物を揃えてもらえて、何よりのご馳走だよ」
「こういう時でも、いつもあなたは優しいのね。男の人にとっての会社や仕事のことは私には全く解らないけど、なかなか心の整理が出来ないことだということは解ります。あなたが話しても大丈夫と思える時が来たら、詳しく経緯を聞かせてください。
とにかく、今日まで長い間お疲れさまです。あなたのお陰で家族はなんの不自由もない生活を送ることが出来ましたし、子供たちを二人とも無事に大学まで行かせることが出来ました。あなたが、真面目に働いてくださったお蔭です」
「ありがとう」
幸介は心からこの言葉を房江に贈った。まさか、こんなにすんなりと幸介の退職-正確には解雇だが-を受け入れてもらえるとは思ってもいなかった。房江の性格から、幸介のことを激しく責めたり、罵ったりするようなことはないだろうとは思っていたが、相談もしないでこんな重要なことを独断してしまったことを、責められることは覚悟していた。
「少しゆっくりされた方が良いですね」
家内はそう労いの言葉さえかけてくれた。
「それが、そうゆっくりもしてはおれないんだ」
幸介はそう返して、今日のスープ屋での経緯を房江に詳しく話した。
「まあ、ファーストフードの店でアルバイトを始めるのですか。まるで学生時代に戻ったようで羨ましいです」
「それも明日の面接の結果次第だけどな」
「それならきっと大丈夫ですよ。だってキャリアが違いますもの。なんといっても経営企画部の部長というキャリアがありますから」
房江は、幸介の好きな笑顔を浮かべて、アルバイトの稲村さんと同じように太鼓判を押してくれた。
「商店街の中にある小さなファーストフード店というか、スープ屋に、経営企画のキャリアが役立つとは思えないけどな」
「会社の大小ではなく、経営を順調に進めて行くことの苦労はどこも同じですから。きっとあなたのキャリアが、新しい職場でも役に立ちますよ」
この房江の言葉を、幸介はビールの酔いに任せて聞いていた。けれど、その後この言葉通りになることを、この時幸介は夢にも思ってはいなかった。
「これからのあなたの門出に、改めて乾杯ですね」
もうすでにビールは残っていなかったが、グラスにミネラルウォーターを注いで、二人は乾杯をした。
■採用面接
翌日店が開店する前の午前十時に間に合うように、幸介は家を出た。
朝食に房江がフレンチトーストを焼いてくれた。我が家ではいつもそうだった。子供たちが受験をする当日の朝も、中学二年生の時に長男の正志が、英語検定二級のテストを受ける時や、幸介が会社でTOEICのテストを受ける朝にも、必ず房江が焼いてくれたフレンチトーストを朝食に食べてから出かけた。そして、必ず良い結果を得た。
今日、幸介が店のオーナーの面接を受けることを昨夜知った房江が、今朝、わざわざフレンチトーストを焼いてくれたのだ。
「ジンクス通りなら、これで大丈夫だな」
メープルシロップをたっぷりかけたフレンチトーストを口に運びながら、幸介が言うと、
「ジンクスなんかに頼らなくても、あなたなら実力で大丈夫ですよ」と、房江の言葉が、フレンチトースト以上に背中を押してくれた。
店の名前が「Hot Milk」だということを、幸介は朝十時前に店に到着した時に初めて知った。昨夜は無意識のうちに飛び込んだ店だったし、帰る時には、慌しく店を出たので、改めて店の名前など確かめる余裕がなかったのだ。
店の前に立つと、ノックをすることなく自動ドアが開いた。オーナーがすでに解錠をしてくれていたのだ。
「おはようございます。雪村です」
少し大きい声でそう言いながら、幸介は店内に入った。
「おはようございます。オーナーの柳本です」
この後の自己紹介で、オーナーは、「柳本満 四十八歳です」と名乗った。
「オープンは十一時ですが、その前に最終の準備がありますので、面接は三十分程度で終わります。履歴書は持って来ていただけましたか?」
「ええ、急なことでしたので写真は貼っていませんが、必要事項は全て記入済みです」
幸介は履歴書の入った封筒をオーナーに手渡した。
「写真は必要ありませんよ。実際にこうしてご本人に会っているのですから」
そう言いながら、オーナーは封筒から履歴書を取り出すと、食い入るように内容を確認した。
「絵に描いたようなエリート人生ですね。進学校を出て、難関と言われる名門大学に合格。卒業後は大企業の中でも就職希望人気で常に上位の会社に入社。経営の中枢である経営企画の部長にまで上り詰めている」
オーナーはため息をつくと、「羨ましい限りです」と付け加えた。
「でも、こうして辞めてしまえば、肩書きなんてなんの役にも立ちませんので、今はただの五十九歳の初老の男です」
幸介は笑いながら言った。
「これはまた達観をされていますね。でも、もう一度ご確認しますけど、うちで本当に良かったのですか。少し本気になって探せば、このキャリアならもっとまともな就職先が幾らでも見つかると思いますよ。昨日の今日で、こんなに慌てて決めることはなかったように思いますが」
「この店が私にとってはまともな再就職先だと思ったから、今日こうして面接を受けさせていただいています」
「そう言ってくださることは、この店を立ち上げた本人としては嬉しい限りですが。では、雪村さんがこの店で働きたいと思った、その決め手はいったいどんなことですか。そのことに僕は一番興味があります」
オーナーは強い視線を幸介に向けた。
「それは、この店のカフェラテとスープの美味しさです。ただ、美味しいというだけでなく、口に含んで飲み込んだ瞬間に、心に染みて来て、気持ちを解してくれました。そして、その後に幸せな気持ちにさせてくれたのです。幸せというよりも、安心という表現の方が、その時の私の気持ちがより正確に伝わるかもしれません」
「安心……ですか?」
「ええ、特にスープを飲んで行くうちに、熱さや美味しさが、徐々に安心感に変わって行くのが分かりました。守られていると言いますか、寒い夜に背中から毛布をかけてもらったような、心地良さと安心感を抱きました。なんの根拠もないのに、こうした安心感を抱かせる飲み物や食べ物を提供出来る店は、すごい店だと思いました。
そして、改めて店内を観察すると、スープを目的になんと多くの人たちが、この店に来ているのかと驚きました。皆さんも私が感じたと同じ、それぞれに、美味しさと共に安心を感じるために来ているのではないかと、思いました。これは、私の勝手な想像ですけど」
幸介は、一気にここまで話をした。
「嬉しいですね。昨日初めて来店された雪村さんが、そう感じてくれたことが、とても嬉しいです」
予想もしていなかったことだが、なんとオーナーは指で涙を拭ったのだった。幸介の話に感動をして、オーナーが涙を流す姿を見て、幸介自身も胸の奥を熱くしていた。
「雪村さん、この店の名前の『Hot Milk』は、まさにそういう意味なんですよ。寒い冬の日に、外から帰って来た時に飲む温かい牛乳のように、お客さんの心を温かくする飲み物と食べ物を提供したいと思い、この店をオープンしました。店の名前を考える時、自分の思いをそのままストレートに『Hot Milk』とすることに決めたのです。そんな僕の思いをたった一回の来店で気づいてくださったことを、心から嬉しく思います。ありがとうございます」
オーナーの目から、また一筋の新しい涙が、頬に流れた。この店への思いの強さを、この熱い涙がすべて語ってくれている。
「オーナー、それは来店した回数ではないと思います。特に私は昨夜特別に心が荒んでいましたから、余計にそう感じたのかもしれませんが、この店のスープをひと口食べたら、誰もが心を鷲掴みされると思います。それだけのスープです」
「合格! 合格です」
「えっ?」
「だから、合格ですって、雪村さん。早速今日からこの店で一緒に働いてください」
こうして幸介の、「Hot Milk」でのアルバイトが正式に決まったのだった。面接は三十分の予定だったが、ものの十分もかかっていなかった。
この日は、開店前の十時三十分から、店が閉まる夜の十時まで働いた。
大学の講義を終えてバイトにやって来る、稲村さんと入れ替えで上がってもらって構いませんと、オーナーは言ってくれたが、幸介は自ら申し出て閉店まで残った。
「やっぱり採用でしたね」
午後四時前にバイトでやって来た稲村さんは、幸介の顔を見るなりそう言った。
昼の賄いには、バーガーの具でもある、白身魚のフライにタルタルソースをかけたおかずが出された。揚げ立て熱々と、これまた賄いのために炊いた熱々のご飯と一緒だったので、午後二時という空腹を最大に感じる時間帯だったこともあり、かなり美味しい昼食にあり付けた。
昨日は夜の店の様子しか知り得なかったが、昼間、特に十一時三十分から午後二時までのランチタームには、かなりの人数の客が押し寄せた。
特に今の時期は高校の期末テストの時期と重なっていることもあり、午前中で学校を終えた高校生たちも多かったが、近くの主婦やOLたちに混ざって、意外なほどに高齢の人たちの来店が多かったのが、幸介にとって新鮮な驚きだった。
ただ、こうした高齢者の人たちが、レジの混雑を招いていたのも、また確かなことだった。注文を決めるのにも、料金を払うのにも、とにかく時間がかかるのだ。後ろに並ぶ人たちからも、舌打ちのようなあからさま嫌がらせはなかったが、その誰もがうんざりとした表情を浮かべていた。
年齢の如何に関わらず、健康な人であれば誰でもお腹が減る。その空腹のタイミングが、忙しいランチタイムに集中してしまっただけだ。
OLやサラリーマンたちは、レジの前の長い列に並びながら、「昼休みの時間が決まってない人たちは、時間をずらせよ」と、メニューを決めるのに時間がかかっている高齢者の後ろで、声には出さないが、心の中で毒づいていることが、待たされている時間の経過と共に、歪みが大きくなって行く表情で容易に読み取ることが出来た。
初めての経験だったので、無我夢中で接客をしたランチタイムも終わりが近づき、少し店が落ち着いた時を見計らって、午後二時過ぎにオーナーと二人で、厨房の隅のテーブルで掻き込むように賄いと食べた。開店から稲村さんが来る夕方までは、近所の主婦の壇上さんと田代さんという、共に三十代前半の二人がパートに入っていた。二人とも接客の手際が良く、新参者の幸介のことも、親切に面倒をみてくれた。
「ランチタイムに、レジが混んでしまうのは仕方がないことなのですか?」
熱々の白身魚のフライをひと口食べて、そのあまりの美味しさに感動した後に、オーナーに質問をしてみた。
「どういう意味ですか。お客さんが多く来店してくれているのだから、レジが混雑するのは当たり前のことだと思うのですが」
オーナーは、幸介の質問の意図が理解出来ないというふうに、首を傾げた。
「お客さんが多いからレジが混むのは道理なのですが、レジの列を良く観察していると、混雑を招いている大きな原因は、高齢のお客さんにあることが分かります。高齢のお客さんは、メニューをじっくり選ばれるし、料金の支払いもゆっくりです。消費税の関係で出た端数も、一円の単位まで細かく出されます」
「まあ、うちの店に来てくださる高齢のお客さんには、丁寧な方が多いかもしれませんね。品が良いというのですか、元々生活水準が高い方々が多いことのあるのだと思います。でも、それは、店にとっては決して悪いことではないと思いますが」
「そうです。悪いことではないどころか逆に良いことです。ランチタイムだけに限っても、高齢のお客さん一人当たりの購入単価は、OLやサラリーマン、若い主婦の人たちと比較しても、約二十パーセント程度高いですから。こうしたお客さんを多く常連に持っていることが、「Hot Milk」の強みにもなっていると思います」
幸介は食べることは続けながら、咀嚼の合間にそう説明をした。
「ランチタイムが終了した後に、計算をされたのですか?」
「えっ、何の計算ですか?」
「その、客の購入単価というやつです」
「ああ、そのことですか。すでにこうした解析は、この店でも実施されていると思いますので、私自身が個人的に把握するために、年齢や職業別に、ランチタイムにお客さんが払った料金をメモしていました。その各々の総額を人数で割っただけの、簡単で単純なデーターです」
「そんな解析など、うちの店ではしていませんよ。閉店後にその日一日分の売り上げを集計してはいますが。それと、お客さんの人数はレジで集計をすることが出来ますので、それくらいです」
オーナーはさらりとそう言った。まあ、これだけ繁盛をしている店なので、赤字ということは考えられないから、オーナーとしてもその程度で大丈夫と考えているのだろう。人の好悪ではなく、こうした大雑把な管理でここまで来たオーナーは、経営者としては決して優秀とは言えない。話を聞きながら、幸介はそう判断を下していた。
「では、かかった費用も同様に詳細な解析はされていないのですか?」
半分呆れながら幸介が聞くと、オーナーは少し憤慨したような表情を浮かべた。
「人件費、原材料費、光熱費、この店舗の管理費別くらいには、毎月きちんと集計はしていますよ。それに年に一度は公認会計士さんにも入ってもらって、きちんと確定申告もしています」
オーナーの言い方には、「きちんとやっています」という抗議のニュアンスが込められていた。それでも、敢えて幸介はさらに質問を続けた。
「大変失礼なことをお聞きしますが、それで収支の方がいかがでしょうか?」
「つまりは儲かっているかどうかということですねよ。それなら健全な黒字経営です。アルバイト料の支払いを心配されて、このような質問をされたのだと思いますが、それなら、これまでに一度だってアルバイトやパートさんの給料を払わなかったことも、遅らせたこともありませんので、ご安心をください」
オーナーの声に棘が混ざり始めた。これはヤバイ。
「お気を悪くされたのなら申し訳ありません、私の質問の仕方が悪かったのだと思います。黒字経営をされていることは、店の繁盛ぶりを見れば一目瞭然で判ります。けれど、その利益の中からどれくらいプールをして、定期的な店の改装費や、設備の更新や修繕費に充てられているのか、少し気になったものですから、大変不躾な内容ですが、思い切って質問をさせていただきました。済みません」
今日、十一時の開店から、こうして休憩に入るまでの、たった三時間働いただけだったが、修繕や改装が必要な個所が随所で目に付いた。テーブルの角が欠けているもの、表面のコーティングが剥がれていたテーブルも一台や二台ではなかった。それに、ソファータイプになっているイスのカバーが破れて、中からスポンジが顔を覗かせている物も見受けられた。
他にも、スタンドタイプの照明や、商店街の通り沿いに広く取ってあるガラス窓の枠も、塗装が剥げてかなりみすぼらしくなっている。さらには、テーブルに飾っている造花は、全く季節感がなく、真冬なのにスイートピーだったし、おまけに手入れされていないことがひと目で判るくらいにホコリをかぶっていた。
「そんな修繕費や改装費なんて考えてはいませんよ。うちはフードの味や質の高さでお客さんに還元をしているので、利益は最小限に抑えています。だからこそ、これだけのお客さんが付いてくれているのです」
「確かにそうだと思います。でも、コストパーフォンマンスも同時に追い求めていないと、このままでは店を継続して行くことが年々難しくなって行くと思います」
厳しいことを言っていると自覚しながらも、幸介は敢えてオーナーに対して自分の意見を言った。今日採用が決まったばかりのアルバイト店員に言われることではないだろうと、きっと思っているだろう。そのことはもちろん自覚している。
「例え店の内装がぼろぼろになろうと、安くて美味しいフードさえ出し続けていれば、お客さんは必ず店に来てくれるはずです。店の中がみすぼらしいからと来なくなるような客なら、こちらの方から願い下げにしたいくらいです。付いて来てくれるお客さんだけを相手にして、今まで通りのやり方で店をやって行くつもりでいます」
なるほどと幸介は合点した。腕と味に自信がある職人気質のオーナーが考えるやり方だ。でも、この経営方針だと、時を待たずにこの店は経営が成り立たなくなってしまうだろう。
よくテレビなどで特集をされる「頑固おやじが営む汚いけど美味しい店」は、一つの例外もなくカウンターだけの小さな店だ。こうした店は最初から、規模もメニューも常連客だけを相手にすれば成り立つコスト構造になっているか、もしくは店を運営して行く中で必然的にそうなったことなのだ。
ここで、オーナーの経営方針に口を挟むつもりはさらさらなかった。自分は今日オーナーのお情けでアルバイトとして採用されたばかりの新人だ。例え年齢的には上だとしても、直々にオーナーに意見を言える立場では絶対にない。
十分足らずで賄いの昼食を済ませると、「ごちそうさまでした」と言って、幸介は食べ終わった食器を自分で洗った。この従業員用の賄い一つにしてもかなり美味しいものだった。料理に対して、決して手を抜かないオーナーの料理人としてのプライドと心構えが、先ほどのオーナーの話しの中ではっきり解ったと、幸介は食器を洗いながらそう思った。
■事件
「えっ、大晦日だけでなく、お正月三が日もお仕事ですか?」
クリスマス以降のシフトの発表が、二十六日に行くとカウンターの横の掲示スペースのボードに貼り出されていた。そのシフトのことを帰宅して房江に話した時の反応だった。
「僕も知らなかったんだが、店のある商店街の奥に、信州の古い神社の分院が、江戸時代の中期に移設されていて、古くから、大晦日の夜から元旦にかけては初詣客ですごい賑わいを見せるとのことだよ」
掲示ボードに貼り出されたシフト表を見ていたら、いつも間に後ろに立っていたカツヒコが初詣客の話をしてくれた。
「ほら、初詣の人出は紅白が終ってくらいから急激に増えるし、夜中は寒いから、初詣を終えて帰る人たちが、暖を取るために大勢店に来てくれるわけ。大晦日から正月三が日の期間は特別に甘酒も販売するし」
カツヒコがさらに新しい情報を教えてくれた。アルバイトを始めてまだ三週間足らずだが、この日数を掛け算した分、カツヒコの人の好さというか、何も飾らない無垢な性格を「良い」と感じる気持ちが強くなって行った。
「甘酒とは良く考えましたね。新しい年を迎えるめでたさもありますし、一番に身体が暖まりますからね。それに、テイクアウトもし易いですし」
「でも、うちはテイクアウトをしないから」
カツヒコの言う通りだった。この「Hot Milk」が他のファーストフードの店と一線を介しているのは、決してテイクアウトをしないということなのだ。全てのメニューは店内で飲食し、食器は全て陶器やガラス製で、スプーンやフォークもプラスチック製ではなく、金属の物を提供していた。つまりは、食器は一切使い捨ての物は使わないというポリシーなのだ。驚いたことに、お手拭きさえも布製のハンドタオルを洗濯して繰り返し使用している。
「オーナーが理想主義者というか、使い捨てを極端に嫌悪しているからね。限りある資源を大切にするのが第一優先で、コストや売り上げは二の次という主義なんですよ」
カツヒコは「呆れたでしょう」と付け加えた。と言って、オーナーのこうしたポリシーに反対をしているわけでも無さそうだが、強く共感しているようでもなかった。
「素晴らしいことだと思います。オーナーのこうした考え方に、私は共感出来ます」
「へえそうなんだ。だからって幸介さんまで理想主義に染まらないでよ」
この三週間足らずで、カツヒコからは、「雪村さん」から「幸介さん」と呼び名が変わった。
「理想主義というのは少し違うと思いますけど、こうしたオーナーのポリシーを良いと思う人たちが、常連客となってこの店を支えてくださっているのですから、賛同者は多いと思いますよ」
「まあ、それはそうですけど」
「一杯のコーヒーやカフェラテも、紙コップで飲むよりも、やっぱり陶器や磁器のカップで飲んだ時の方が、断然美味しいですからね」
「それは俺も同感だけどね」
「でしょう」
そう言って二人は軽く笑い合った。
「ところで、このシフト表を見ると、幸介さんは年末年始も一日も休みを入れていないみたいだけど、大丈夫なの?」
「だって、オーナーやカツヒコさんだって同じじゃないですか」
「そりゃあ、俺とオーナーは、どちらかといえば経営者側だから」
カツヒコが面白い表現をする。
「どちらかといえばではなくて、お二人は紛れもない経営者ですから。それに、学生のアルバイトの人たちは実家に帰省するので、働き手が少なくなりますからね。まあ、私はこれで六十回目の正月ですので、今さら特別やることもありませんし」
幸介は自虐的に言ったが。今は、この店で働くことが楽しくなって来ていたので、年末年始を密に働けることは、逆に嬉しいことだった。
「まあ、年末年始はバイト料も割増しになるから、この際ガッチリ稼いでよ」
「ガッチリ稼げるほどですか?」
「いや、そうでもないか。ごめんなさい」
カツヒコはそう言うと、幸介の肩を叩きながら大きな声を出して笑った。人懐っこい性格だと思った。心の垣根を作らない人だとも。例えは大それているかもしれないが、川の水が大海に自然に流れて行くように、自然に相手の気持ちの中に入り込んで行くことが出来るのだろう。
詳しい事情は全く知らないが、幸介が初めてこの店を訪れた時に起こった、カツヒコとアルバイトの仲山さんとの諍いも。きっとこうしたカツヒコの性格が影響をしているのではないかと、今ならおぼろげながら推測が出来る。
「カツヒコさんが経営者の一人であるということで、お聞きしたいことがあるのですか」
「俺に、経営者として? 幸介さんも珍しいね。俺のこと経営者だなんて思っている人なんて、この店には誰もいないよ」
「ここに私がいます」
「だから珍しいと言っているの。まあ、それは良いとして、聞きたいことって何?」
「それでは、簡潔にお聞きします。ランチタイムのレジの混雑の原因について、カツヒコさんはどう考えていらっしゃいますか?」
「ああ。そのこと。それなら、原因ははっきりしているじゃない。年寄りのお客さんたちだよ」
「高齢のお客様のことですよね」
「そう、そのお客様。なんでもそうだけどさ、歳を取ると判断や行動が緩慢になって来るでしょう。だから、注文にしたって、代金を払うことにしたって、やたらと時間がかかってしまうのよ。注文する品は、並んでいる時間に考えておけば良いのに、いざ自分の順番が来てから時間をかけて考えるでしょう。やっと注文が決まったら、今度は代金を払うのに時間がかかる。まあ、大袈裟に言うと、若者の二倍の時間はかかっているね」
厨房を預かっているのでレジには立っていないが、カツヒコは現状の問題とその原因については、正確に把握をしている。やはり経営者としての認識は持っているようだ。
「私もランチタイムの混雑の原因は、カツヒコさんの指摘する通りだと考えています。では、これを解決するためには、これからどう対処したら良いと考えておられますか?」
幸介はさらに突っ込んで聞いてみた。
「そんなの簡単だよ」
先日同じ質問をした時のオーナーとは違い、カツヒコからは頼もしい第一声が返って来た。意外にこの人はオーナー以上に経営者としての資質があるのではないかと思った。
「解決策なんてなし!」
微塵のためらいもなく、そう結論付けた。呆れて見返す幸介に向かって、カツヒコはさらに続けた。
「だってそうでしょう。うちの店は来る者拒まずのポリシーだし、まさかランチタイムは七十歳以上の老人はお断りなんて失礼な対応は出来ないでしょう。年齢に関係なく来店をして下さる人たち全てが、うちにとって大事なお客さんなんだから」
「まあ、そうですね」
期待していた分、正直落胆も大きかった。ただ、こうした考え方や、答え方も含めて、カツヒコの性格なんだと考え方を新たにした。
でも、カツヒコが話の流れの中でつい言葉をこぼした、「ランチタイムは七十歳以上の老人お断り」というアイデアは悪くないと幸介は受け止めていた。言葉としては辛辣だが、アイデアとしては斬新だ。
アルバイトの立場で、これまでに経営者すらも手を出していない領域に踏み入るべきではないことは判っている。それでも、つい先日までは、東証一部上場企業の経営企画部で、部長として腕を奮っていたのだ。こうした懸念事項が見えると、つい改善策を考えてしまう悲しい癖が抜けていないようだ。
しかし、これまで頑なに貫いて来たオーナーの経営方針を、根底から変えなければならない事件が、そのすぐにやって来た。
予定通り大晦日はオールナイトで店は営業をした。
午後十時以降はアルバイトやパートの人たちには帰宅してもらい、毎年、その後はオーナーとカツヒコの二人だけで接客をしていたが、今年は幸介の方から、一緒にやりますと申し出ると、「幸介さんは神様だよ」と言って、幸介のことを抱き締めんばかりにカツヒコが喜んだ。
喜び方があまりにも大きすぎるので、大袈裟でわざとらしいと鼻白んだが、このカツヒコの喜びの大きさの理由が、大晦日の夜になるとすぐに理解出来た。決して大袈裟でも、わざとらしくもなかったのだ。
とにかくすごい来店者の数だった。初詣を終えて冷え切った身体を温めるために立ち寄る客が殆どだったが、オールナイト営業のために準備をした甘酒二百杯分、スープ二百食分は、夜が明けるまでには全て完売をした。
元旦の朝の光が、初日の出を見るために商店街が特別に開けた、アーケード天井の窓から店内に射し込んで来た時には、メニューはドリンクしか提供出来ない状況になっていた。
それでも、ひっきりなしに客はやって来た。
「済みません、今、満席なので」
と断った客は数え切れないほどの盛況ぶりだった。こんな状況を見るにつけ、「テイクアウト」が出来たら、どんなに売り上げを上乗せすることが出来るだろうと、幸介はつい頭の中で皮算用をしてしまう。
客足は元旦の初日の出を迎えた後も一向に衰えなかった。それどころか明るくなった分、初詣に向かう人々の数は、時間を追うごとに増えて行き、店の窓から見える商店街は、初詣に向かう人々が何かの行進のように列を成していた。大袈裟に表現するなら、氷河ではないが、人の河がゆっくりと神社に向かって流れている感じだった。
マイナス十五度の寒気団が南下した影響で、大晦日から元旦にかけてはこの冬一番の冷え込みだった。開けたままのアーケードから見える空は抜けるような青さだったが、晴れた分だけ放射冷却もきつくて、明るくなってからの冷え込みはさらにきつくなった。
こんな寒さの中でも、初詣の人出は、厳しい寒さなんてものともしないで、神社を目指して商店街に繰り出して来ていた。日本人は信心深いというのか、慣例好きというのか、
「毎年行っているから」「行かなかったら、不幸が起きるのではないか」という理由で、人々はこうして寒さの中をわざわざ神社までやってくるのだろうと、冷え切った身体に暖を求めて来店する客の対応に追われながらも、幸介はそう解析をしていた。
「立ったままでも良いから、温かいものを飲ませて欲しいそうです」
ずっと「満席です」と断り続けているのも気が引けて、お客の要望を幸介はオーナーに告げたのだ。オーナーは一瞬迷った顔をした。
「うちの店は、みなさんに着席をして飲食していただいているから」
商売っ気がないというか、融通が利かないというか、オーナーは原則をそのまま返して来た。
「外があまりにも寒いので、とにかく店の中に入って胃の中から身体を温めたいのだと思います。オーナーの理念の「Hot Milk」のような店とは、まさにそれを実行することではないのですか」
これで決まりだと思った。原則を前面に出す人間には、原則で対抗をするしかないのだ。思惑通り、オーナーから立ち飲みの許可が出た。
この時にはすでに甘酒は売り切れていたので、その代わりにホットチョコレートが飛ぶように出た。元々立ち飲みの客は長居のつもりがないので、熱い飲み物を胃の中に入れて、冷え切っていた身体が暖まるとすぐに店を出て行った。
この立ち飲みの客たちは、熱い飲み物を一口飲むと、誰一人例外なく、「生き返る!」と心からの声を上げた。
朝、十一時にはパートの壇上さんが入ってくれたので、それまで夜の十時から固形分を胃の中に入れていなかった、オーナーとカツヒコ、それに幸介の順番に交代で、オーナーが携帯で壇上さんに、店に来る前にコンビニに寄って買って来てくれるように頼んだおにぎりを、搔きこむように食べた。
午後に入り、今度は初詣帰りに軽く食事をする客が増えて来た。朝の混雑が収まった後に、オーナーが元旦分のスープを仕込んでいたので、午後からはスープと白身魚のハンバーガーは提供することが出来るようになっていた。
スープは保温タイプの鍋に入っているので、そのまま器に移せば良かったが、オーナーのこだわりで、人気のフィッシュバーガーの白身魚のフライは、注文を受けてから揚げるため、まとまって注文が入った時は調理も効率良く出来るのだが、そう都合よく運ばないのが現実で、まばらに注文が入る度に、カツヒコがフライヤーに衣を付けた白身魚を滑り込ませなければならなかった。
店がやっと落ち着いたのは、夕方近くになってからだった。寒冷前線の影響で、大晦日から元旦の一日は、まるで街中が冷蔵庫の中に居るようだったと、夕方のニュースでキャスターが街の様子を伝えていたと、厨房でラジオを聴きながら調理をしているカツヒコが、洗い終わった食器を自動食器洗い機から取り出している幸介に教えてくれたが、熱帯植物園の温室のように、商店街側に大きく取ってあるガラス窓からは、開けたアーケードの窓から入る冬晴れの日差しの暖かさと、多くの客の体温が混ざり合った熱と、いつもよりも高い温度に設定しているエアコンの温かさも加わって、店内は少し動くと汗ばむような温度になっていた。そんな中、幸介もかなり早い時点から半袖シャツ一枚で忙しなく店内を動き回っていた。
「幸介さんって、本当に良く働きますね。見ていて感心しますもの」
客足が落ち着いた時に、短い休憩も兼ねてオーナーが淹れてくれたカフェラテを、カウンターの後ろの、客席からは死角になっている場所で飲んでいる時に、パートの壇上さんが言った。
「ありがとうございます。先輩の壇上さんにそう言ってもらえると、励みになります」
やっぱりこのカフェラテは美味しいなと感心をしながら、幸介は壇上さんが言ってくれた嬉しい言葉と一緒に、カフェラテを飲み込んだ。
「幸介さんから先輩と呼ばれるのはおこがましいですよ。年齢だって大分上だし、それに幸介さんは仕事がプロなんですよ。注文の取り方も、商品を運ぶ時も、常に効率を考えているし、それに、どんなに忙しい時にも決して笑顔を忘れないでしょう。ああ、これがプロの仕事というものなんだなと、つくづく感心しっぱなしですよ」
壇上さんがさらに褒め言葉を積み重ねてくれる。
「感心するだけじゃなくて、壇上さんも幸介さんを、いや幸介さん以上を目指してよ」
カツヒコが横から口を挟んで来る。
「そんなの無理、無理」
壇上さんは大きく横に首を振り続けた。
「やる前から無理だと決めつけないでよ」
「だって、こころざしが違いますもの。幸介さんと私とでは」
「こころざし?」
「そう。幸介さんは仕事を極めるために、そして、この仕事の中に喜びや遣り甲斐を求めて働いているけど、私の方は、ただ生活のためですから」
壇上さんはなんのためらいもなく、「生活のため」だと言った。その言い方があまりにも潔くて、幸介は吹き出しそうになってしまった。
「壇上さんは私のことを美化しているだけですよ。私だって生活のために働いていますよ。壇上さんが思っているほど高尚な目的があるわけではありません」
「そんなに謙遜をしなくても」
「いえいえ、謙遜だなんてとんでもない」
この時だった。
「きゃー!」
客席の方から女の人の大きな悲鳴が聞こえて来た。
驚いて、幸介と壇上さんはすぐに声の方向に駆けつけた。
「どうされましたか?」
真っ青な顔をしている二十代後半くらいの女性が、震えながらある方向を指差していた。その指の向こうに目をやった途端、今度は壇上さんが、「きゃー!」と、先ほどのお客以上の悲鳴を上げた。
「ゴキブリが……」
自分が店の従業員であることを認識していれば、決して店員が口にしてはいけない言葉だと思う。けれど、壇上さんは叫んでしまった。食べ物商売の店では決して姿を見せてはいけない「害虫」の名前を。
この「ゴキブリ」という声に敏感に反応をした客たちが、一斉にざわつき始めた。幸介は素早くテーブルの上に置いてある紙ナプキンを掴み取ると、小さなゴキブリを包んでポケットに隠した。
「皆様、お騒がせして申し訳ありませんでした。この店の暖かさに誘われて、虫も外から迷い込んでしまったようです。でも、すぐに処置をしましたので、もう大丈夫です。ご安心をして食事をお続けください」
深々と頭を下げて謝罪をした後、続いて幸介はお客一人一人の席を回って、丁寧に謝罪をした。
この幸介の機転を利かせた対応のおかげで、今回はなんとか事なきを得たが。実はこれで終わったわけではなく、これが事の始まりだったのだ。
カウンターに戻って来た壇上さんを、カツヒコがきつく叱りつけた。
「あんなこと大声で叫ぶなんて、店員失格だよ。もう何年ここで働いているの。従業員としての意識をもっと強く持ってよ」
カツヒコの経営者側の人間としての発言も解るし、ゴキブリを見た瞬間の壇上さんの反応も十分理解出来る。だが、この壇上さんの女性としての正直な反応を一方的にカツヒコが責めてはダメだ。見る見る険しい表情に変化して行く壇上さんの様子を見ながら、幸介はそう感じていた。
「ゴキブリを見たら、誰だってあんな反応をしますよ」
壇上さんは激しく憤慨をしていた。まあ、本人の言葉を借りれば、「生活のため」にここで働いている彼女にとっては当然の反応だろう。
「だから、それは幸介さんも言ってくれたように、外から迷い込んで来たものだから、事を大きくするような、あんな大袈裟な驚き方をしないでよ。あなたも従業員の端くれなんだから、それくらい解るでしょう」
嘘も方便で幸介は咄嗟にそう言ったのだが、この寒い季節に間違ってもゴキブリが外から迷い込んで来ることはない。
「従業員の端くれで悪かったですね。だったら、言わせてもらいますけど、カツヒコさんも白々しいことを平気で言いますね」
壇上さんは明らかにカツヒコに向かって牙をむき始めている。自分のことを非難された上に、「従業員の端くれ」と言われたことで、怒りに火が点いてしまったのだ。
「白々しいこと?」
カツヒコもまた、あとに引こうとはしなかった。
「そうですよ。何が、ゴキブリが外から店に迷い込んで来た、ですか。私はこれまでにも、この店の中でなん度もゴキブリが這っているのを見つけていますよ。それは、何も今日に限ったことではありません。だから、白々しいと言っただけです」
売り言葉に買い言葉ではないが、壇上さんが封印を解いて、自分の中で秘密にしていた重要な事実を暴露してしまった。
「壇上さん、それは本当のことですか?」
幸介は驚いて、すぐに訊き直した
「私は嘘なんかついていませんよ。このことはオーナーにも報告していることですから」
今日以外にもゴキブリの姿を見たという発言にも驚いたが、この事実をすでにオーナーが知っていたということの方が、幸介にとっては何倍も驚きだった。
このゴキブリの一件が、この後さらに大きな問題へと発展してしまうのだが、今日のところは、なんとかその場は収まった。
ただ、幸介はカツヒコの経営者としての傲慢な部分を敏感に嗅ぎ取っていた。そして、幸介が初めてこの店に来た日、アルバイトの仲山さんが辞めたカツヒコとの諍いの原因が、このカツヒコの闇の部分にあるのではないかと、思い始めていた。
予想以上の寒さの影響もあって、元旦に来店する客用に準備した食材も早々に底をついた。夕方になり客が途切れたタイミングで、夕方十八時に閉店することが決まった。
「壇上さん、雪村さん、昨日、今日と大変お疲れ様でした。こんなに早く用意していた商品が完売するとは予想もしていなかったので、今年は元旦から幸先の良いスタートになりました」
店を閉めたあと、オーナーが二人に労いの言葉をかけてくれた。
「予定よりも早く店を閉めることが出来たので、このあと、軽く乾杯をしようと思うのですが、お二人の都合はいかがですか?」
「私は大丈夫です」と幸介は即答をした。
「私はご遠慮します」
壇上さんは、取り付く島もないような断り方をした。やはり昼間のカツヒコとの一件が影響をしているようだと幸介は察した。
「そうですか、壇上さんは残念ですね。それでは、雪村さんと三人で軽く乾杯しましょう」
店を閉めた後、壇上さんはすぐに店を出たが、残った三人は店内を掃除した。この三人は大晦日から元旦にかけてオールナイトで店を切り盛りして来たので、いざ店が閉店してしまうと、一気に疲労が全身に襲って来たのか、掃除が終わると全員が椅子にぐったりと腰を落とした。
■店の経営状態
「さすがに疲れましたね」
オーナーがため息混じりに言葉をこぼした。
「徹夜ですからね。徹夜をするなんて大学生の時以来ですよ」
幸介もまた、そう言う声に疲れが見え隠れしていた。
三人の中では最年少のカツヒコが気を利かせて、缶ビールと乾き物のつまみを持って来た。椅子に腰を下ろした後は誰一人として一度も腰を上げることもないまま、座ったまま缶ビールで乾杯をした。
「雪村さん、本当にありがとうございました。今年は雪村さんが居てくれたおかげで、僕とカツヒコの負担分がずい分軽くなりました。これだけのお客さんの人数をこなせたのは、一にも二にもなく、雪村さんのお陰です。助かりました」
ビールをひと口飲んだ後、オーナーが急に立ち上がって、幸介に深々と頭を下げた。
「とんでもない。私一人では何も出来ませんでしたから、壇上さんも含めた四人の連携プレーの成果ですよ」
「幸介さんがする接客は、壇上さんも言っていたけど、まさにプロですよ。それに、レジの扱いも手際が良いし、この店で働き出してまだ三週間なのに、今ではこの店には居なくてはならない存在になってしまいましたね」
カツヒコは一気にビールを一缶飲んでしまい、二缶目を冷蔵庫に取りに行った。
「カツヒコの言う通りですよ」
「そんな風に褒めていただくと、正月早々穴があったら入りたくなります」
三人で他愛のない話しをしていたら、あっという間に一時間が過ぎていた。せっかく予定よりも早く仕事を終えることが出来たので、元旦でもあるし、家に早く帰りたいと幸介は考えていた。アルコールも入って疲労と眠気がさら強くなって来ていた。
この幸介の眠気を吹き飛ばしたのは、カツヒコの言葉だった。
「それにしても、今日の壇上さんの行為は完全な営業妨害だよ」
カツヒコの口調は怒りと呼んで良いほどに語彙を強めていた。何を指してカツヒコが「営業妨害」と言っているのかはすぐに判った。ゴキブリのことを言っているのだ。この一件は幸介の気持ちの中でも尾を引いていたので、これで一気に眠気が消えた。
「でも、壇上さんが指摘をしていた通り、この件はオーナーもご存知のことだったのですよね?」
幸介がオーナーに話を振ってみた。どんな反応を示すか確かめるために。
「ええ、まあ……」
オーナーは曖昧な返事をした。この曖昧さが関心の低さを言葉以上にはっきりと物語っていた。
「幸介さん、そりゃあ長く食べ物商売をやっていれば、ゴキブリの一匹や二匹は、どの店にでも出て来たりするものでしょう。それを従業員が自ら大げさに騒ぎ立てるなんて、檀上さんは従業員としては失格ですよ。代わりのパートを早急に探さないと」
このカツヒコの発言は聞き捨てならなかった。
「カツヒコさん、それはあなたの考え方が完全に間違っています。食べ物商売だからこそ、衛生と清潔は常に完璧な状態を保っておかなければならないのです。ゴキブリがこの季節に姿を現すということは、常に高い気温を保っている厨房のどこかに巣を作っていると考えた方が良いと思います」
幸介は努めて冷静さを保ちながら指摘をした。
「幸介さん、巣を作っているなんて、それはあまりにも大げさだよ。なあ、叔父さん」
「……」
カツヒコが同意を求めたが、オーナーは肯かなかった。
「オーナー、この店は定期的に業者を入れて害虫駆除の処理をしていますか? されているなら、その証明書はきちんと保存されていますよね?」
「……」
この質問に対してもオーナーは何も答えなかった。ただ、これは答えないということが、そのまま正確な答えだった。
「どうしてそんなことを訊くのですか?」
あれほど強気だったカツヒコの態度が、形勢が悪くなって来たことで急に弱くなって来た。
「今日の件が保健所の耳に入れば、必ずこの店に保健所からの査察が強制的に入ります。そうなれば、良くて指導、悪くすれば営業停止になります。保健所から営業停止を言い渡されれば、飲食店としては完全に致命傷を受けることになります」
幸介は真剣な眼差しをオーナーに向けた。
「営業停止だなんて、あまり脅さないでよ」
そう言ったのはオーナーではなく、カツヒコの方だった。まあ、カツヒコも経営者の一人ではあるのだ。
「脅かしではなく、これは現実に有り得ることです。最近はどんな情報もSNSですぐに拡散をします。そうなれば店の評判は一瞬のうちに崩れ落ちてしまいます」
「せっかくのアドバイスですけど、SNSにアップするような人は、うちのお客さんの中には一人もいませんよ」
オーナーはまだこんな甘いことを言っている。
「例えそうであったとしても、昨夜から今日にかけては、いつも来てくださっている馴染みのお客さんの顔は一人も見かけていません。つまりは殆どのお客さんが一見さんだったということです」
幸介のこうした説明を聞いて、オーナーとカツヒコが、初めて事の重大さを認識したようだった。その目が不安そうに揺れ動いている。
「とにかく、すぐに店内の害虫駆除を実施しましょう」
幸介がそう提案をする。
「すぐって、いつ頃を想定して言っていますか?」
まだ現実味を帯びていない声でオーナーが訊いて来る。「しっかりしてください。あなたの店ですよ」と幸介は心の中で毒づいた。
「業者も今は正月休みですから、休み明けにすぐに予約し、終業後または開店前に駆除を行いましょう」
幸介がさらに具体的に提案をする。
「正月明けねえ」と、相変わらずやる気がない返事が返って来る。
「この期に及んで何をためらっているのですか。店の将来がかかっているのですよ」
幸介はさらに語彙を強めた。それを、カツヒコはオーナーを責めているように受け取ったらしい。
「そんなに矢継ぎ早に責めないでよ。叔父さんがためらっているのは、費用の問題もあると思う。ただ、他にもためらう要因はあると思うけど、費用の問題が一番大きいと思う」
オーナーの代わりにカツヒコがそう説明をした。
「費用。カツヒコさんが言っていることは事実なのですか?」
以前、オーナーが「儲けは二の次で、食材に一番お金をかけている」と言っていたが、まさか、連日盛況振りを見せているこの店が、害虫駆除の費用さえ捻出出来ないことはないだろうと幸介は考えていた。
「恥ずかしい話しをすると、今、まとまったお金が必要だと言われると正直厳しい状況です」
オーナーは目を伏せたまま、そう答えた。
「アルバイトの分際で、私がこんな立ち入ったことをお聞きするのを許していただきたいのですが、オーナーが話してくれたことが、私には信じられないのですが。私はこの店で働き始めてまだ三週間足らずですが、お客さんの数、一人当たりの購入単価、店の回転率の、どれ一つと取っても、資金繰りが厳しいという結論に結びつく要因がないのです」
「まあ、色々とコストのかかることがあるのですよ。経営者ではない雪村さんにはそれが見えていないだけです」
もうこれ以上詳しくは話したくないのだろう。オーナーは話しの幕を下ろそうとしていた。だから、さらに辛辣な質問をすることにした。
「経営者お二人の報酬が多すぎるのではないですか?」
この質問を聞いた瞬間、オーナーが目を大きく見開いたが、表情の変化はそれだけだった。オーナー自らの答えを期待していたが、答えたのはカツヒコだった。
「それは、幸介さんが誤解をしているよ。俺と叔父さんは、生活がやっと出来る程度の収入しかないのが現状だから」
カツヒコの答えに幸介はショックを受けた。多額の報酬を受け取っている方がまだ納得出来たし、救いがあった。
「どういうことですか? 私には全く理解出来ないのですが。あれだけ多くのお客さんが毎日来店して、多くの売り上げもある。アルバイトも含めた従業員数も適正だし、賃金も世間並みである。加えて経営者の報酬も低く抑えられているとなると、コストを引き上げているは、ただただ食材のコストだということになりますが。いくらなんでもそれはないですよね?」
「それがそうだから、俺も呆れているんだけどね」
カツヒコがオーナーを睨むように見ながら、諦めて半分の顔で言う。この表情からこれまでにも幾度となくオーナーに抗議をして来たのだろうと幸介は推測をした。
「オーナー、カツヒコさんが言っていることは事実ですか?」
幸介にはそんな意図は全くなかったが、結果的にはオーナーに詰め寄る形になった。
「前にも話しをしたように、僕は食材には妥協をしたくないんです。お客さんに安心をして口に運んでもらって、美味しく食べてもらうために、野菜やコーヒー豆も、無農薬で有機栽培された物しか使わないことにしています。それで、食材にコストがかかっているのです」
前にも聞いた持論をオーナーは、この時も繰り返した。
「オーナーのお客様に対する考え方は、私も賛同しますし、素晴らしいと思います。でも、経営者としては矛盾が生じていませんか? お客さんに安心して口に運んでもらうために、無農薬の有機栽培の食材にこだわる店が、不衛生の象徴とされるゴキブリなどの害虫が客席に出没する店にしてはダメなのではないですか? オーナーが考えなければならないお客様に提供する安心と安全は、食材だけではないはずです。Hot Milkというこの店全体の安心と安全ですよ。そのことをご理解されていますか?」
「……」
図星をつかれてオーナーはいよいよ黙り込んでしまった。この人は自分の形勢が悪くなると、すぐに黙り込んでしまう癖があるようだ。
「幸介さんが言う通りだと俺も思うよ。でも、幸介さん、ここまで食材にコストがかかっているのには複雑な事情があるんですよ」
「複雑な事情ですか。その詳細話を聞かせてください。オーナーがこのまま理想の店を経営して行きたいと心から思っているのでしたら、財務的に健全な経営内容であることが当然基本です。コストを度外視して、良い物だけをお客さんに提供をするという考え方は、耳障りは良いですが、これは商売ではなく、ただの趣味です。趣味の延長で商売をやり続けていれば、近いうちに経営が悪化して立ち行けなくなるのは火を見るよりも明らかです」
元旦の夕方、店を閉めた後の打ち上げの飲み会が、まさかこんな突っ込んだ話しにまで発展するとは考えていなかったので、幸介自身もここまで来たら、引っ込みがつかなくなっていた。
「叔父さん、幸介さんにきちんと説明をした方が良いって。幸介さんは前の会社で経営に関わる仕事をしていたのだから、きっと力になってくれると思うよ。それに、近くに出来るショッピングモールに、全国チェーンのスープ専門店が出店するという噂も出ているし、このままだったら、どっちみち、この店は行き詰まることになるよ」
カツヒコがオーナーを促している。カツヒコはこのコスト高の問題をなんとか解決したいと考えていたに違いない。カツヒコが言っていた、全国チェーンのスープ専門店が近くのショッピングモールに出店して来る噂もかなり気になった。その前にコスト高の話だ。いや、害虫駆除の方が先か。
「僕からではなく、カツヒコから説明をしてくれ」
苦渋の決断でもするような厳しい顔をして、オーナーがひと言カツヒコに言った。つまりはコスト高を引き起こしている複雑な事情を説明する許可が出たわけだ。
「分かった。じゃあ俺から幸介さんに説明をするよ」
オーナーの顔を見た後、幸介の方に向き直すと話を始めた。
「この店で出している食材は、無農薬で有機栽培だと説明をしたでしょう。この時に、幸介さんは、何かおかしいと思うことや、引っかかることはありませんでしたか?」
説明のはずが、いきなりカツヒコから質問を受けた。
「おかしいというか、難しいのではないかと感じたところはありました」
幸介は感じたことを素直に口にした。
「それは、何?」
「無農薬で有機栽培の野菜というのは理解出来ましたが、コーヒー豆まで無農薬、有機栽培に拘るのは、かなり難しいのではないかと思いました。コーヒー豆は海外、例えば南米やアフリカから輸入した物を使用するわけですから、果たして海外でこのような農法でコーヒー豆を栽培している所があるのかなと思いました」
「さすがに、幸介さん。目の付けところがやはり鋭いね。そうなんですよ。問題はこのコーヒー豆なのです。このコーヒー豆は、海外から輸入をしているわけではなく、国内で作ってもらっています」
「えっ?」
この人は何を言っているのだろうか。コーヒー豆を国内で栽培しているなんて、今までに聞いたことがない。こうした思いが幸介の表情に出ていたのだろう、幸介の顔を見るとカツヒコがすぐにその答えを出してくれた。
「この話を聞いたら、誰でも『えっ?』ですよね。俺も、叔父から最初にこの話を聞かされた時には幸介さんと同じ反応をしましたから。でも、この話は本当です。いつも幸介さんが美味しいと褒めてくれるカフェラテは、この国産のコーヒー豆を焙煎したものですから」
自分が初めてこの話を聞いた時と全く同じ反応を示した幸介のことが、よほど可笑しかったのかカツヒコは笑いながら言った。
「説明された今でも信じることが出来ないのですが、国内のどこでコーヒー豆を栽培しているのですか?」
これは当然の疑問だ。国産のコーヒー豆なんて市場には全く流通していないのだから。
「コーヒーの産地と言われたら、幸介さんはどこを思い浮かべますか?」
「ますは、ブラジル、コロンビア、グアテマラとかの中南米、それにキリマンジェロのアフリカ、ジャワなどの東南アジア、さらにはコナのハワイくらいです」
「コーヒー好きとあって、幸介さんは産地も詳しいですね。では、この産地の特徴はどうですか。例えば気候とか、その他の立地とか」
まるでコーヒーの検定試験を受けているようだと幸介は思ったが、産地の特徴について考えてみた。
「まずは、暑さですかね、赤道に近い分、一年中気温が高いということ。さらには高い山があること、それくらいしか思い浮かぶことが出来ませんね」
「それで十分です。さすがにコーヒー好きだ。だから、同じような条件で栽培出来る場所と言っても、国内では条件を兼ね備えた地域がないわけです」
「ええ、そうだと思います。でも、国内で栽培をされているのですよね?」
「そうです。こんなクイズのような問答を繰り返していても時間の無駄ですので、種明かしをしますが、場所は沖縄県西表島になります」
「沖縄県、しかも山猫で有名な西表島ですか。でも、沖縄県に高い山はあるのですか? 私の認識の中にはないのですが」
今まで生きて来た五十九年間の中で、一度も沖縄県で国産のコーヒー豆が栽培されている情報を耳にしたことがなかった。幸介が前に勤めていた会社は総合商社で、国内外から生鮮食料品も調達をしていたので、こうした情報は一般の人たちよりも集まり易いはずだが、国内産のコーヒー豆が話題になったことすらなかった。
「もう少し詳しくコーヒーの栽培の話をした方が、幸介さんも理解がし易いと思うので、先にコーヒー豆の話を詳しくしましょう」
カツヒコが説明を始めようとした時に、「この話は僕の方から」とオーナーが交代を指示した。
「分かった。じゃあ、叔父さんの方からお願いします」
カツヒコは素直に従った。
「雪村さん、コーヒーの木を栽培するのはかなり難しいことです。それをまず頭に中に入れておいてください」
オーナーはまるで牽制球を投げるようにそう言った。
「はい、分りました」
「コーヒーの木を栽培するための四つの条件は、雨、日当たり、温度、土壌と言われています」
「雨、日当たり、温度、土壌ですね。これは、私の想像とは大きく違っていません」
幸介が頭に浮かべているのは、中南米の熱帯雨林地帯だった。
「まず、雨ですが、コーヒーの木が花を咲かせ、受粉して結実した後、この実が大きく成長する時期には雨が多く、成長した実の収穫時期には乾燥している気候が、コーヒーを栽培するには最も適しています。つまりは、雨季と乾季がはっきりと分かれているということです」
熱帯雨林地帯を思い浮かべていたので、この説明はすぐに納得出来た。だから幸介は大きく肯き返した。
「次に日当たりですが、コーヒーはかなりデリケートな植物で、太陽の光は潤沢である必要がありますが、直射日光は好みません。ですから、コーヒーの木の近くに背の高い木を植えて、直射日光を遮りながらも、枝葉の間から光がこぼれるようにしながら栽培をします。コーヒーは赤道直下の灼熱地帯で栽培されているというイメージを持っている人も多いと思いますが、そのイメージの気候ですと、コーヒーの木はすぐに死滅してしまいます」
赤道直下の熱帯雨林地帯を思い浮かべている幸介の頭の中を、見透かすようなオーナーの説明だった。
「かなり、コーヒーのイメージが変わりました。コーヒーの栽培が難しいのは、こうしたデリケートな植物であるということからですね」
「そうです。この日当たりとも関連するのですが、温度も重要な条件になります。コーヒーが栽培出来るのは、赤道を中心とした南北数百キロの地帯です。これをコーヒーベルトと呼んでいます。けれど、先ほどのように直射日光を嫌うのと同じく、高過ぎる気温も嫌います。年間の平均気温で、二十度から二十三度が最適です。あくまでも平均ですので、一年の中では多少の差はあると思います」
「先ほど、カツヒコさんから、西表島で栽培されていると説明を受けましたが、西表島はこのコーヒーベルトの中に含まれているのですが?」
「いえ、残念ながらコーヒーベルトの中には含まれていませんが、コーヒーベルト内の気候にはかなり近いです」
「西表島でコーヒーを栽培することの理由と経緯については、のちほど詳細に説明をするとして、コーヒー栽培の条件について、もう少し続けて話をします。四つの条件のうち最後は、土壌になります。蕎麦のような例外を除いて、植物は一様に肥沃な土地で良く育ちます。コーヒーの木もその例外ではありません。さらには、水はけが良く、酸性寄りの土壌である方が適しています。
以上の四つの条件以外に、もっとも重要な条件があります。それは、標高です。厳密ではないですが、標高は500から2000メートルの場所が適していると言われています。要するに平均気温は二十度から二十三度が適しているが、一日の中での気温差が大きい方が、固くて味の良いコーヒー豆になるのです」
オーナーはここまで水が流れるように淀みなく話した。先ほどまでの答弁はまったく歯切れが悪かったが、自分の得意分野となるとこんなにも雄弁なのだと驚いた。
「話しは先ほどの西表島の件に戻るのですが、コーヒーを栽培するための四つの条件の中で、雨、日当たり、気温、土壌については、先ほどの話しでは、西表島もコーヒーベルト内に近い気候であるとのことですので、気候的にはコーヒーの栽培は可能かと思うのですが、オーナーが最も重要だと言われていた標高の高さという条件には合致しないのではないですか。私の乏しい知識からしても、沖縄県に標高の高い山がある認識はないのですが。それでも、西表山を選らばれた理由はどこにあるのですか? それと、そもそも、オーナーはどうして、わざわざ国産に拘ったのですか」
幸介は、かなりレアな国産コーヒー豆に拘っている、オーナーのポリシーなのか、ただの好みというか道楽なのか、この確たる理由を察することが出来なかった。
「そうですね。沖縄というか奄美も含めて標高の高い山があるイメージがないですよね。でも、標高500メートル級の山は、石垣島にも沖縄本島にも存在しますし、西表島にも、469メートルの古見岳という山を中心に、400メートル級の壮年期の山が連なっています。
標高は469メートルと低いように感じますが、海抜0メートル地帯に居住地域は集中していますので、高低差はかなりあり、住居地域と古見岳の頂上付近との気温差はかなりあります。もちろん、頂上付近での最高、最低気温の差は大きいです。僕が、栽培をお願いしているコーヒー園は、この西表島の古見岳の頂上付近にあります。
それに、国産のコーヒーは、すでに沖縄本島でも栽培されていて、那覇空港のお土産売り場でも『沖縄コーヒー』として販売もされています」
完全に自分の知識不足だった。沖縄県の島に500メートル級の山があることも、西表島のこともなんの知識も持っていなかったのだ。それにすでに国産の「沖縄コーヒー」が販売されているとは。こうしたオーナーの説明を聞いた後なら、西表島の山の上なら、なるほどコーヒー栽培も可能ではないかと思えて来る。
「西表島でのコーヒー栽培は、もうかなりの歴史があるのですか? 恥ずかしながら、私は今日初めて知ったのですが」
幸介は素直にオーナーに教授してもらうことにした。オーナーの話を聞いているうちに国産コーヒーへの興味がどんどん膨らんでいたのも事実だった。
「いえ、歴史は浅いです。実際にコーヒー豆を収穫出来、焙煎の技術が確立出来たのは三年前です。沖縄コーヒーを目にしたのもつい最近ですから、まあ、沖縄を含めて、日本でのコーヒー文化は明治以降ですし、一般家庭で飲まれるようになったのはもっと新しく、昭和三十年代以降ですから、栽培ということになると、まさか日本でコーヒー豆が栽培出来ると考える人も少なかったでしょうからね」
オーナーは余程この西表島コーヒー園のことに詳しいのか、コーヒー園の歴史だけでなく、木の本数、年間の収穫量とかもすらすら答えた。
「コーヒー豆の栽培に情熱を持ち続けた人が、多くの困難を乗り越えて、ついに国内コーヒー豆の栽培を成功させたという歴史的な話しですね。そもそも、このコーヒー園のことを、オーナーはどのようにして知ったのですか。それと、このコーヒーを店で出そうと考えたのは、やはり味と香りですか?」
今まで淀みなく話していたにも関わらず、この質問になると、オーナーからなかなか答えが返って来なかった。
「幸介さん、叔父さんからは答え難いと思うから俺が代わりに答えるよ。西表島のコーヒー園は、叔父さんが自分で立ち上げたもので、オーナーは叔父さん本人です。自分の店に自分が栽培したコーヒーを出すために、とうとう西表島にコーヒー園を作って、コーヒーを一から栽培し始めたわけです。栽培は現地の農家の方にお願いをしているけど、これまでにも店を臨時休業にして、何度も西表島に様子を見に行っていたし」
カツヒコの説明を聞いて、かなり驚いたのは確かだが、同時に大きな疑問も湧いて来た。確かに「Hot Milk」のコーヒーは美味しいと幸介も思うが、この店のメインはスープや、白身魚のフライを挟んだバーガーだ。それなのに、何故、自分で栽培、しかも国内で栽培するという困難に立ち向かってまで、コーヒーに拘るのか。こんなことを言うとオーナーに怒られるかもしれないが、この店でのコーヒーの格付けは、決してメインではなく、食べ物と一緒に頼むわき役だ。
「オーナーは、どうしてここまでして、国内でコーヒーを栽培することに拘ったのですか。
美味しいコーヒーに拘るなら、世界中には多くのコーヒー豆があるのですから、多くの中から選択すれば、オーナーの舌に応えてくれるコーヒーはきっと見つかったはずですよね?」
幸介の質問に、オーナーは一度大きく肯いた後、口を開いた。
「美味しいコーヒーは世界中から選ぶことが出来るけど、無農薬で有機栽培のコーヒー豆を見つけることは出来ないでしょう。僕のような小さな店のオーナーが調達出来るコーヒー豆は、商業ベースで栽培されている物に限られますので、収穫量を安定させるために、確実に農薬や化学肥料を使用しています。僕は、とにかく自分の目で安全性を確認しないと、その食材は使用したくないので、自分の目で安全性を確認するためにコーヒー豆を自分で栽培することにしたのです。当然、西表島のコーヒー園は、無農薬、有機農法で栽培をしています」
こうした話になると、やはりオーナーは雄弁になる。では、最も肝心なことを聞かなくてはならなくなる。これが重要なのだ。
「自産自消という言葉は、たった今私が考えたものですが、このコーヒー豆を使用することで、確かに安全性は確保されていますし、実際に味も美味しいですが、果たして採算性はどうなのですか? ストレートのコーヒーは、一杯四百円ですよね」
おそらく、こうした質問には沈黙を貫くだろうなと踏んでいたら、やっぱりその通りで、代わりにまたまた、カツヒコが答えた。
「完全な赤字ですよ。コーヒーやカフェラテなどの注文が入る度に、百円玉を何枚も貼り付けて販売しているようなものです。コーヒーの安全性に拘る叔父さんのポリシーは俺も理解出来るけど、それならコストに見合う価格にしないと商売とは言えないでしょう。赤字で販売するなんて、論外ですよ。そう思いませんか、幸介さん?」
「確かに、カツヒコさんの言う通りだと思います。儲けを出すことが商売の基本ですからね」
そう言って、幸介はカツヒコとオーナーの顔を交互に見た。この話にも沈黙を決め込むのかと思っていたら、意外にもオーナーから熱い言葉が返って来た。
「コーヒーはわき役だから、儲けはメインのスープやバーガーから出せば良いことなんだよ」
なるほど、この人は商売には向いていないなと、このオーナーの発言を聞いて思った。経営者としては不適格者だ。店の経営が俗に言う「どんぶり勘定」になっている。利益の大きいものと小さいものを抱き合わせて販売をする戦略は確かにあるが、単品で赤字のものを抱き合わせで販売する戦略は、必ず失敗する。商売の基本は商品毎に必ず利益が出ていることだ。それに、残念ながら、スープやバーガーが大きな利益を生み出しているように、幸介には思えなかった。
「叔父さんはそう言うけど、スープだって殆ど利益が出ていないじゃないか」
はやり幸介が心配していた通りだ。コーヒーと同様に安全性に拘るオーナーは、スープに使用する食材も無農薬、有機栽培のものに拘っている。
「まさか、野菜もオーナーが栽培されているのですか?」
考えられないことではない。コーヒーだって栽培をしているのだから、野菜の方がハードルは低い。
「さすがにそれはないですが、契約農家に作ってもらっています。路地栽培に拘って旬のものしか具材には使いません」
カツヒコの説明を聞いて納得が行く。幸介がこの店で働くようになって三週間になるが、この間、スープの具はカブと安納芋に限定されている。この季節、路地栽培で旬を迎える野菜だからなのだ。
「契約農家といっても色々とあると思いますが、どのような契約内容なのですか?」
どうせオーナーは答えないだろうと踏んで、カツヒコに聞いた。
「畑ごと契約する内容です。つまり、ある面積の畑を契約して、この畑で収穫する野菜は全てもらえるというものです」
一見効率的な契約内容だと錯覚しそうになるが、農業は天候や災害に左右される。
「例えば、雨が続いて日照時間が不足したり、台風や、逆に降雨量が少なかったりした場合は、収穫量が激減することもあるということですよね?」
恐る恐る質問をしてみた。
「その通りです。実際に契約した農家の地域で長く日照りが続き、収穫量がかなり少なかった年があり、急きょ他の無農薬、有機栽培をしている農家から高い値段で野菜を分けてもらったこともありました。逆に収穫量が多すぎて、店だけでは使い切ることが出来ず、そのまま畑で腐らせたこともありましたね。とにかく、天候任せなので、リスクも大きいのが現状です」
こうしたコスト状況に、経営者の一人であるカツヒコが、叔父であるオーナーに苦情を言うのは当然だ。自分がカツヒコの立場だったとしても、毎日のように苦情を言い続けただろう。
当然、オーナーは沈黙を続けていた。この際だからとカツヒコは、オーナーへの不満を幸介に聞いてもらいながら、実はオーナーのやり方を強烈に非難しているのだ。これは、なかなか簡単に改善出来ることではないと、幸介は思った。実のところ、こうした内情を聞いてしまうと、そうそうにこの店を辞めてしまった方が良いと、気持ちがそっちの方向に動きそうなものだが、なぜか、幸介の中では、なんとかこの状況を打破しなければと考える気持ちの方が強かった。というか、辞めるという選択は幸介の頭の中には全く湧いて来なかった。
■経営者
「オーナー。今の経営状況は、必ずしも健全とは言えないと思います。このままだと、この店の余命は一年ないと、前職の経営企画の立場からは断定出来ます」
幸介はきっぱりと言った。
「そうですか」
抑揚のない声で、オーナーは短く答えた。驚くことも、失望することもない、普段通りの声だった。
「でも、僕は食材に関して妥協をするつもりは、全くありませんよ」
このことは、きちんと抑揚をつけて、強い口調で主張した。この人にとっては店の寿命よりも食材への拘りの方が何倍も重要なのだと幸介は確信をした。
「オーナーの食材に対するポリシーは、私も素晴らしいと思います。ですから、妥協する必要などありません」
幸介の言葉に、「えっ?」と、オーナーとカツヒコが同時に声を上げた。
「ですから、考えを曲げる必要はないと申し上げたのです」
「でも、幸介さんの、元大企業の経営企画の立場からは、この店の余命はあと一年なんでしょう」
「そうです。この判断も間違いはないと思います」
「だったら、いい加減なことを叔父さんに吹聴しないでよ。部外者だと思って無責任だよ」
カツヒコはかなり怒っていた。この怒りの矛先が単純に幸介だけに向けられているようには思えなかった。経営者の一人として、叔父であるオーナーの経営を無視した方針に対する怒りが含まれていると幸介には感じ取れた。カツヒコとしても、この店を盛り上げて行くために、これまで頑張って来たのだ。それが、余命一年という末期症状を告知されてしまったのだから。
「もちろん、いい加減なことは一切言っていませんよ」
「何を今さら言い訳をしているの。さっき叔父さんにこのまま考えを曲げる必要がないと言ったばかりじゃないか」
「ええ、それは確かに言いましたが、これは決していい加減な気持ちで言ったわけではありませんよ」
「じゃあ、どんなつもりなのよ?」
「ですから、このオーナーの食材に対する考え方を、店のPRにもっと活用をした方が良いと考えたわけです」
幸介は二人の顔を交互に見ながら言った。そろそろ結論を急ぐことにしよう。
「どういうこと?」
「今のままで、この店の経営を立て直すことが出来るとしたら、どうしますか?」
「余命一年からの復活があるということですか?」
これは、カツヒコではなくオーナーからの質問だ。
「そうです。でも、それには条件があります」
「条件、どんな?」
これもオーナーからの質問だ。
「私を正式な社員、いえ、経営者の一人に加えていただくことです」
幸介はそう要求をした。この店を立て直すには、まず経営者に加わることが肝心なのだ。「幸介さん、何を考えてこの店の経営者に加わりたいと言っているのか判らないけど、決して高い給料なんてもらえないよ。お金目当てなら止めていた方が良いと思う」
カツヒコが、親切心から助言をしてくれていると信じたい。
「成果に似合った報酬は、店が多くの利益を生み出してから頂くことにして、今は一刻も早く立て直しを図ることに集中したいですね。どうですかオーナー、私に賭けてみる気はないですか?」
幸介はオーナーの目を真っ直ぐに見た。
「僕の食材に対する考え方を変えなくても良いという条件さえ飲んでくれるなら、僕は雪村さんを経営者として受け入れることに異論はありません」
声は大きくはなかったが、オーナーはきっぱりと幸介を経営者として受け入れることを約束してくれた。次は、カツヒコだ。
「絶対に約束してくださいよ。この店を立て直すと」
「ええ。約束をしますよ。経営者に加えていただけるなら」
「経営者として認めますよ、だって、選択肢はそれしかないでしょう」
カツヒコも幸介が経営者の一人になることを認めた。
「では、今から私はこのHot Milkの経営者の一人として、提案をします。まず、すぐに害虫駆除の業者を見つけて、一日も早く害虫駆除を行います」
幸介は早速、そう宣言をした。
「ちょっと待ってよ、幸介さん。だから、さっきも言った通りうちには今まとまったお金がないんだって。契約農家の春の契約料を支払ったばかりなんだから」
「害虫駆除の費用は、後払いになりますので、これは交渉次第でひと月やふた月は延ばせると思いますが、もし、ゴキブリの件が保健所に知れたら、保健所からの査察はすぐに入って来ますよ。一刻の猶予もないですから、四日には業者に依頼をしましょう」
「査察って言っても、まだ保健所が情報を掴んでいるわけではないし、事前に査察の連絡があるまで待っても遅くはないんじゃないのかな?」
カツヒコがこの場に及んでこんな甘いことを言っている。
「カツヒコさん、間違った認識をされているので訂正しますが、保健所の査察に事前連絡はありませよ。前触れもなく突然やって来ます。本当に突然来ます。でないと、現場を押さえることが出来ませんからです。保健所の査察は、警察で言えば、家宅捜査と同じです。かなり細かくチェックをされますよ」
幸介はきっぱりと言った。
「家宅捜索と同じだなんて、あんまり脅かさないでよ」
「私は事実を言っているだけです」
何年か前に、行きつけの居酒屋が急に閉店をしたことがある。偶然、店の前を通りかかった時に、店を整理している店主に会った。話を聞いたら、店の裏口を全く店の客ではない人間が歩いている時に、店からドブネズミが出て来るのを見たと保健所に通報をされたらしく、訳も分からないうちに突然、保健所が査察に乗り込んで来て、こと細かく調べられた挙句ネズミの巣が見つかって、店の大改装を指摘されたが、この費用が捻出出来ずに結局この居酒屋は廃業に追い込まれたのだった。
「贔屓にしてもらっているお客さんからの通報ならまだ諦めも付くけど、通りがかりのまったくの通行人に通報されて、店をたたむことになるなんて、本当、死んでも死に切れない思いですよ」
と店主は泣いていた。
こうした前例を知っているから、幸介はとにかく害虫駆除を急ぎたかったのだ。何より、店の衛生を保つことは、オーナーの食材への拘りと同レベルに重要なことなのだ。こうした認識をオーナーとカツヒコにも強く持ってもらう必要がある。
幸介は、この居酒屋の廃業の話しを二人にした。今、保険所の査察を受ければ、確実にこの店は大きなダメージを受ける。本格的に経営を立て直す前に、この店は廃業に追い込まれてしまう。二人はやっと、幸介の説得に害虫駆除を実行することを承諾した。
正月三が日を終わるのを、幸介は待ちわびていた。一月四日、すでにネットで調べていた業者に始業の午前九時になるとすぐに電話を入れた。
この冬の時期なら、害虫駆除も季節外れでオフシーズンなので空いているだろうと勝手に考えていたが、この認識が完全に間違っていたことを、電話をした直後に幸介は思い知らされた。
「明日にでも駆除をお願いしたい」と依頼をしたら、「すでに三か月後まで予定が詰まっている」と言われたのだ。
「えっ、三か月?」と唖然とする幸介に、業者は、「害虫が、夏の間に産みつけた卵が孵化するのが春なので、定期的に害虫駆除を実施している店は、卵が孵化する前のこの冬の時期に害虫駆除を実施するのだと教えてくれた。
三か月間は待てない。卵の孵化前どころか、すでに店の厨房には越冬をしているゴキブリの成虫がいるのだ。
幸介はネットで調べた業者に片端から電話をかけ続けた。どの業者からも一社目と同じ答えが返って来た。けれど、幸介はそれでも諦めなかった。この思いが幸運を呼び込むことになる。
電話の件数が三十件を超した時、ある業者から「たった今、急にキャンセルが出たので、三日後なら作業を行うことが出来る」との、まるで奇跡のような約束を取り付けることが出来たのだった。作業は、三日後の始業前の八時から行うことに決まった。
害虫駆除が入る前日。店が終ると、厨房に収めている鍋や食器など、すべての物を客席のテーブルの上に移動をした。こうした事前作業を全て終えて帰宅したので、自宅に着いたのは、午前0時になっていた。
風呂に入り、軽く食事を終えた時に、房江が真剣な顔で幸介の前にスマホを差し出した。
「なに?」
「これ、SNSで上がっていたのよ」
見ると、SNSに「Hot Milk」の件がアップされていた。
『Hot Milk、実は店内はゴキブリの巣窟。この店は、強烈なファンを持つスープと白身魚のバーカーが評判の店だが、実は厨房はゴキブリの巣窟で、不衛生な実情を知ったら、こんな店で食事なんか到底出来ない。なぜ、こんな内情まで知っているのか、ですか。それは、つい最近まで私がこの店でバイトをしていたからです』
この記事を読み終えて、すぐに仲山さんだと確信した。敵は身内に居たではないが、まさしく内部告発がSNSでされていた。フォローをしている数も半端ではなく多かった、これは一気に拡散をするなと幸介は思った。
「この記事で書かれていることは、事実なの?」
房江が心配そうな顔で聞いて来る。
「事実無根だよ。店とトラブルを起こして辞めたバイトの女の子がいただろう」
「ああ、あなたがアルバイトに採用されるきっかけになったという、その子のことね」
「ああ。この書き込みをしたのはあの子だと思う。腹いせのつもりなのだろうな」
「じゃあ、心配をしなくてもいいのね」
「ああ。全く心配をする必要はないよ」
幸介は平静を装って言ったが、内心は全く穏やかではなかった。とにかく、こうなった以上は時間との戦いだ。保健所がこの記事を見て、どれくらいのスピードで動き出すかだ。
翌日、幸介は午前七時には店に入った。害虫駆除の作業に入る前の最終チェックをする目的もあったが、おそらくSNSはチェックしていないだろう、オーナーとカツヒコにSNSの記事を見てもらう目的もあった。
予想通り、二人はこの店を「不衛生だ」と暴露した、仲山さんがアップしたと思われるSNSの書き込みのことは全く知らなかった。
「あいつ、こんな卑劣な手段を取りやがって」
カツヒコもこの記事が仲山さんの書いたものだとすぐに気付いたようだ。怒りにまかせて大きな声で汚い言葉を吐いた。
「元バイトの子が上げた書き込みですから、信憑性があると、読んだ方は感じると思います。こうなったら時間との勝負ですから、この店が開店するまでに害虫駆除をなんとしても終わらせましょう」
そう言うと、幸介は業者に電話をして、準備が出来ているなら早めに作業に入って欲しいと要請をした。
幸介の要請を受けて、業者は約束の三十分前の七時半には店に到着してくれて作業にすぐに入ってくれた。また、昨日の電話で、とにかく短時間に作業を仕上げて欲しいとお願いをし、作業者の人数も五人に増やしてもらっていた、通常、Hot Milkくらいの規模の店の作業なら、二人の作業者で駆除の作業を行うとのことだった。
さすがにプロの仕事は速くて適切だった。傍らで見ていても惚れ惚れするほどの手際の良さで、「これがプロの技だ!」と思わせるほどに、全くと言っていいほどに無駄な動きがなかった。
害虫駆除の処理は一時間半で完了し、九時には開店準備にかかることが出来た。メインメニューのスープは、昨夜のうちにオーナーが今日の分の仕込みをしていたので、ランチタイムに支障を来すこともなかった。
害虫駆除の費用は、作業者五名、早朝作業手当等、オプションの費用も含めて合計で十五万円だった。これも、申し込む時に了解を取り付けていたが、支払いは振込で、期限を二か月後にしてもらっていた。
十一時の開店の十五分前には、パートの檀上さんと田代さんも出勤をして来た。檀上さんは、制服に着替えると幸介のところに近づいて来ると、「幸介さん、ちょっと」と客席の隅に幸介を連れて行った。
「幸介さん、これ」
そう言って、檀上さんは手に持っていたスマホの画面を幸介に見せた。
「私も昨日見ました。というよりも家内が見つけて私に見せてくれたのですが」
幸介は周りに聞こえないように声を潜めてそう言った。
「これ、あの子だよね。先月辞めた女子大生」
「そうだと思います。おそらく間違いないでしょう」
「最近の若い子は、卑劣なことを平気でするんですね。自分がアルバイトをしていた店ですよ。お世話になった店の人たちや、可愛がってくれたお客さんたちのことなどなんにも考えなかったのでしょうか?」
これは幸介の気のせいかもしれないが、檀上さんが、目を赤くしているように感じた。檀上さんも、このSNSの記事を見てこの店のことを心配してくれていたのだ。
「この記事、かなりの数の人たちがフォローしているし、フォロワーのコメントも、店に対しては批判的な内容が殆どでした。こうした影響がないと良いのですが」
「檀上さん、実は……」
幸介は今朝、開店前に害虫駆除の処置が完了したことを檀上さんに話した。
「ああ、良かった。昨日この書き込みを見つけてから、店のことが気になって、昨夜は殆ど眠れなかったので」
檀上さんは、胸に両手をあてて、心から安心をした表情を浮かべた。
「これまでに私も、カツヒコさんには何度も害虫駆除をやるべきだと指摘をしていたのに、全く取り合ってくれなくて、でも、処置が終ったのなら安心です。きっと幸介さんが説得をしてくれたんですよね」
「いえ、私ではありませよ」
「誤魔化しても判りますよ。幸介さんが言うことなら、あの二人も聞くと思いますもの。逆に幸介さん以外の話しには全く聞く耳を持っていないと思います。ありがとうございます。私からもお礼を言わせてもらいます」
この店は、まだまだ捨てたものではないなと幸介は感じていた。アルバイトの檀上さんがこんなにも店のことを本気で心配してくれている、こんな店なんて他にないのではないかと思った。
十一時の開店と同時に、いつもの常連の高齢者や主婦のお客さんたちが入って来た。三十分後から始まったランチタイムには、近くのOLやサラリーマンたちが押し寄せて来た。SNSの影響などない、いつもと変わらない光景だった。
けれど、注文をした商品をテーブルに運ぶと、OLやサラリーマンの人たちは、ちゃんとSNSをチェックしていて、必ずこう訊かれた。
「SNSにアップされた書き込みを見たけど、あれ事実じゃないよね?」
こう聞かれる度に、幸介とパートの檀上さんと田代さんも、口を揃えて、
「事実無根です」と答えた。
このSNSの一件は、一週間が過ぎてもなんの影響も起こらなかったので、このまま沈静化するものと、店の誰もがあの記事のことを忘れかけていた時に、なんの事前連絡もなく、突然、本当に突然、保健所の査察が入って来た。
「許可証を見せてください。確認出来ないなら営業妨害で訴えますよ」
保健所の職員が店にやって来たのは、午後二時までのランチタイムが終って一時間後の三時だった。客の多い時は避けるという配慮は一応してくれたようだった。
「関係部署の許可はちゃんと取っています」
やって来たのは三人の職員だった。三人共に大きな荷物は持っていなかったので、「これは、書類審査でなんとかなるな」と目論見をした。
「では、中にお入りください。店内にはお客様もおられますので、あちらの隅のテーブルでお話を聞かせていただけますか」
幸介は、職員を壁側の一番隅のテーブルに案内をした。カウンターの中では檀上さんと田代さんが心配そうに幸介の対応を見ている。オーナーとカツヒコは姿さえ現さない。
名刺交換をした。この時のために急いで作った「経営者」の肩書が入った名刺だ。
「いきなり保健所の方がお出でになられたので、大変驚いていますが、お出でになられたご用件はどのようなことでしょうか?」
前に座った三人の職員を一人一人、しっかりと見ながら幸介は聞いた。
「我々が、こちらにお邪魔した理由を、雪村さんは心当たりがないと言われるわけですね」
三人の中では一番年上で、主任の肩書が名刺に書かれていた武田が含みのあるような表情を浮かべて言った。これを見て、幸介は少し嫌な気持ちになった。
「はい、そうです」
言葉に感情が入りそうな危険を感じたので、幸介は短くそう答えた。
「では、このSNSの書き込みはお読みになりましたか?」
武田は胸のポケットからスマホを取り出すと、例のSNSを幸介に見せた。
「私自身は直接見てはいませんが、心配をして下さったお客様からは、この記事の話しは聞いております」
「それで、そのお客様たちにはどのようにお答えになられたのですか?」
「正直に真実をお話ししました」
「正直に、どのような真実を?」
「事実無根ですと。これが真実ですので」
「この書き込みを事実無根と断定される理由をお聞かせ願えませんか?」
武田のこの言葉で、両横の二人の職員が慌てて鞄からノートを取り出す。
「弊店では、定期的に害虫駆除を業者にお願いして実施しておりますので、このSNSに書かれていることは、全くの間違いです。これまでに、保健所の方にご心配をしていただくような、食中毒や不衛生な対応をした事実もありませんし、食品衛生に反するような事実は一切ありません」
幸介はきっぱりと言った。
「害虫駆除の証明書を見せていただけますか?」
「ちょうど、最近、害虫駆除を行いましたので、すぐにお持ちします。檀上さん、害虫駆除の証明書を持って来ていただけますか」
事前に保健所が来た時のシミュレーションはしてあるので、幸介の要請を受けて檀上さんが証明書を持って来てくれた。
「これでございます」
幸介は職員の前に証明書を取り出した。
「駆除の日が、SNSの記事がアップされた翌日になっていますが、この記事を確認して急遽害虫駆除を行ったのでないですか?」
武田が印象通り嫌な質問をして来る。
「失礼な質問には、失礼なことをお返ししてもお相子ということで、言わせていただきますが、保健所の方は人を疑ったりするのがお仕事なんですか。てっきり私は、市民の健康や衛生を守り、適切にご指導をして下さるのが、保健所の仕事だと認識しておりましたが。武田さんのご質問は、まるで私どもの店が罪を犯した店だと決めつけておられるようで、大変不愉快になっておりますが。失礼ですが、ここからのやり取りを録音させていただいても宜しいでしょうか。立場から言えば、私どもは弱者ということになりますので」
そう言うと、幸介はスマホを出して録音をする仕草を取った。
「不愉快になられたのなら、私の不覚の致すところですので謝ります。誤解をされないでください。保健所は雪村さんが認識されている通りの目的で業務を行っております。ご理解をいたしました。こうして害虫駆除の最新の証明書も確認が出来ましたので、SNSの書き込みは事実無根だったという結論にさせていただきます。証明書の番号と業者の名前だけは控えさせてください」
武田の態度が急変をした。こうした弱者には強いがこちらが少し強く出ると、すぐに態度を変える人間は多い。
「お答えいただける範囲で構わないのですが、こうしたSNSの書き込み一つで、保健所は今日のように店などの現場を一軒、一軒訪ねて行くのですか? 今回のように記事が事実ではない場合も多いと思うのですが」
今後の店の経営のための参考になるので、幸介は敢えて質問をした。
「いえ、そのようなことは殆どありません。ただ、今回の件は、該当の書き込みを読んだ方々からの問い合わせがかなりの数あったものですから、所内で協議をしてこうして訪問をさせていただくことにしました。営業中、大変ご迷惑をおかけしました」
「いえ、業務ご苦労様でございます」
立ち上がるとする所員に、幸介は深々と頭を下げた。
「ところで、どうしてこのような書き込みがSNSにアップされたのか、雪村さんには何か心当たりはありますか?」
武田が相変わらず嫌な質問をして来る。
「この質問は、保健所の業務の一環ですか。それとも武田主任の個人的な興味からでしょうか。録音はまだ続いていますが」
「いえ、今の質問はなかったことにしてください」
そう言って、保健所の三人は店を出て行った。
幸介がカウンターの中に帰って来ると、オーナーとカツヒコがやっと顔を出した。
「幸介さん本当に立派だった。堂々としていたし、対応もきちんとしていた。ここで見ている私も田代さんも、脚がガタガタ震えていたのに。それに、オーナーもカツヒコさんは厨房の隅に隠れていたし」
檀上さんが、労いの言葉をかけてくれる。
「雪村さん、ありがとうございます。雪村さんのお蔭で今回の問題を無事に乗り越えることが出来ました」
オーナーは深々と頭を下げた。
「今回はなんとか上手く切り抜けることが出来ましたが、早急に店内の改装をする必要がありますよ。いくら美味しいスープやコーヒーを出していても、窓枠の塗装が剥がれかけているとか、ソファーシートのカバーが破れていては、お客さんはいずれ来なくなってしまいます」
幸介は、内装に関しては全く頓着のないオーナーに釘を刺す意味で言った。一応肯いてはいたが、どこまで本気で考えているかだ。
「そうですよ、オーナー。ゴールデウィーク前にオープンする大型ショッピングモールに、あのスープ専門店の「デリシャススープ」の出店が決まりましたよ。手作りバーガーの有名店も出店するみたいですから。このままだと、お客さんの多くを奪われてしまいます」
檀上さんが、オーナーの危機感を煽ってくれる。これまで、ショッピングモールに出店する競合店の話を聞いても、対岸の火事程度にしか捉えていなかったオーナーが、檀上さんからの話を聞いて、どのように感じたのかが気になるところだと幸介は思った。
特に「デリシャススープ」の出店は注意をしなければならない。この「デリシャススープ」は、幸介が前の会社で経営企画部の部長をしている時に、M&Aで買収をした会社だ。だから、現在の経営者は、幸介が自己都合退職に追い込まれた会社だ。M&Aのプロジェクトリーダーを幸介が自ら務めていたので、「デリシャススープ」の全国の出店数も、年間売り上げも幸介自身熟知している。少し本気を出せば、このHot Milkなんてすぐに潰されてしまう。
この店が生き残るため、いやさらに大きくなるためには大手では決して出来ない戦略が必要だ。経営を立て直した上での戦略。いずれ、巨象に蟻が立ち向かうような闘いをしなければならなくなる。正面から攻めても絶対に勝ち目はない。
これから、どうこのHot Milkを立て直して行くか。「デリシャススープ」や有名手作りハンバーガーの店と闘える店にして行くか。
幸介は、「デリシャススープ」と闘うことで、親会社である、自身を退職に追い込んだ常務の早川を始めとする陰謀の当事者たちの罪を暴きたいと考えていた。
「心が温まるということ」-① 完
「心が温まるということ」-②に続く
心が温まるということ1話 @nkft-21527
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