第15話 懐かしい匂い

 卒業までの一か月間は、束縛から解放に向かうエネルギーと、そこはかとない寂しさがないまぜになって教室の中を漂っていた。


 オレとシュウは最後のテストでも赤点をもらい、居残りと多くの課題を与えられながらも、無事に卒業することができた。


 シュウはこの街の中では名の知れた繊維会社に就職が決まり、オレは個人が経営する小さな印刷会社に決まった。

 あと一か月もしないうちに、それぞれの会社で働くという事実に、心も身体もまるでついていけない。


 そんな毎日の中、再び出会えた恭子センパイに対する想いは、日を追うごとに明確になっていった。一時は未歩と気まずくなる原因になったが、それでもオレは、センパイを嫌いになることはなかった。


 未歩が学校を去って一か月ほどが経った頃、オレはまたビーエモへ顔を出すようになった。

 恭子センパイは何も知らず、またオレの気を持たせるように、からかい始めた。それでもオレは、クリスマスにはちょっとしたプレゼントを渡したり、思い切って初詣に誘ったり、成人式にはサプライズで花束を渡しに駆け付けた。

 しかし、未だにはっきりと想いを伝えるまでには至らない。


 ホワイトデーの三月十四日、オレは恭子センパイに貰ったチョコレート(といっても、どう見ても義理チョコだったが)のお返しで、午後からビーエモへ行く予定だった。


 目を覚ますと、階下で電話のベルが鳴っている。

 時計を見ると、十一時近くだ。程なくして電話が切れると、家の中はしん、となった。

 どの部屋からも物音ひとつせず、家には誰もいないらしい。


 スエット姿のまま階下に降りると、暖房はまだ切られたばかりのようで、キッチンがほのかに温かい。

 洗面所に行き、顔を洗い終えると、また電話が鳴った。四回目のコールで受話器を取ると、聞き慣れた声が耳に届いた。


「はい菖蒲です」


「もしもし、ちょっとぉ、いつまで寝てるのよ」


「えっ、あ、恭子センパイですか?」


 寝ぼけ声で挨拶すると、電話の向こうで、クスクスと笑い声が聞こえてくる。


「いきなりで悪いんやけどさ、今から出てこれる?」


「はい、大丈夫です。すぐ行きます!」


 眠気は一瞬で吹き飛んだ。

 手早く身支度を整え、駅近くのしらゆり書店に向う。

 入口から見渡すと、彼女は女性誌のコーナーで、ファッション雑誌を広げていた。


 ふとオレに気付くと、雑誌を元の棚に戻して歩み寄ってきた。


「ちょっとそこまで付き合ってよ」


 書店を出て、近くの駐車場まで歩く。

 オレは車の免許を取ったばかりだから、今日は助手席に乗せてもらう。駐車場には彼女の愛車の赤いクーペが止まっていた。

 ドアを開けると、車内は素っ気ないほどあっさりしている。


「今日、仕事やと思ってて。それで、これ……」


 オレは忘れないうちに、ポケットの中に入れておいたチョコを渡した。箱は小さめだが、奮発して買ったちょっと高価なものだ。


「わぁ、ありがとう」


「実は黙ってビーエモまで押しかけて、驚かせようと思ったんやけど……」


「じゃあ、逆ドッキリ成功やね」


 センパイは明るく笑って、それをカバンの中にしまった。


 今日は隣町にできた、雑貨屋さんに行きたいらしい。

 仕事が急に休みになり、家族で一緒に買い物に行く予定だったが、母親に急用ができたため、荷物持ちのためにオレを呼んだのだと言った。


 慣れた調子でハンドルを操り、複雑な交差点をスイスイと進んで行く。しばらくすると、緑色の屋根をした洋風の建物が見えてきた。


 白い扉の真鍮しんちゅう製の取っ手を引くと、暖かい空気に混じってお香のような香りが漂ってくる。

 楽し気な雑貨たちに囲まれた夢の空間で、オレは彼女の後について、ふわふわと宙を浮くように歩いた。


「ねぇ、これどう?」


「あ、その色、オレも好きです」


 淡い水色のカップと、朱色のカップ、アロマキャンドルとお香が、買い物カゴの中に入る。

 

「お腹すいちゃったな」


「じゃあ何か食べます?」


「いいところがあるの」


 五分ほど車を走らせると、センパイが昔から家族で通っているイタリアン料理の専門店があるらしい。


「ちょっと寄り道しよっさ」


 食事の前に、彼女はオレを何処かに誘いたい様子だ。初めて通る道をまたひとつ、またひとつと曲がって行く。大通りに見慣れたファーストフード店の看板が見えたが、ひとつ路地に入ってしまえば、そこはやはり知らない景色だった。


「ねぇ、この辺、何か覚えてない?」


 そう言われて辺りを見回したが、特に見覚えはない。


「あそこの曲がり角まで行ったら、分かるかもよ」


 彼女はオレの反応を見ながら右にハンドルを切った。十字路に差し掛かると、古い民家がポツポツとあり、さらにその道筋の奥に小さな郵便局が見える。


「もしかして、ここ……」


 驚くオレの横顔を見て、彼女は、ふふふ、と笑う。

 

 オレと恭子センパイが初めて出会った場所。


 あれ以来、足を運ぶ事がなかったこの場所に、こんなふうにまた訪れるとは思わなかった。


「懐かしいね……」


 車から降りてその通りを歩いてみると、4階建てのマンションの前に、小さな公園があった。五分咲きの桜の樹々の間からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 オレは生まれ変わった景色を前に、しばらく黙って、あの日の情景に思いを馳せた。


 彼女は、公園の前のひらけた空を眺めている。その先に、オレの知らない未来が広がっているような気がした。


「あの、センパイ……」


「何?」

 

「4月になったら、県外の店舗に行くって本当ですか?」 


 少し前に同僚の店員さんから聞いた話だった。言葉にすると急に何かが変わってしまう気がして、本人に確かめる事を先延ばしにしていた。だけど残された時間も、もうあとわずかだ。


「ごめんね、梨九。今まで黙ってて……」


 彼女は少しうつむいて、茶色から黒に戻した髪を撫でた。

 それ以上何も言わず、地面を擦るスニーカーのつま先を見ている。二人の間に降りてきた沈黙は、のどかな春の陽気に溶け込んでしまう。


「あの……向こうに行っても、何かあったらいつでも呼んでください。オレ、飛んで行きますから」


 やっとの思いでそれだけ言うと、彼女の反応も見ずに空を見上げた。星が見えそうなくらい透明度のある青い空だ。この街に訪れた、春という季節の悲しみと喜びを吸い上げたような色をしている。


「いつでもって気軽に言うけど、片道二時間以上かかるんやで」


 彼女は少し怒ったような声で言う。オレは空を見上げたまま言った。


「平気です、それぐらいの距離やったら」


「じゃあ、三十分だけ買い物に付き合ってって言っても来てくれるの?」


「はい。何分でも構いません」


「真夜中でも?」


「全然大丈夫です。オレ、夜型の人間やし」


「その時、急にお好み焼きが食べたいって言ったら?」


「オレが材料を買ってきて作ります。こう見えてオレ、けっこう料理得意なんすよ」


「そんなこと言って、すぐに面倒くさくならん?」


「なりません」


 センパイはしばらくじっとオレの顔を見つめ、あの時みたいにそっと手のひらを差し出した。オレは迷わずその手をぎゅっと握った。


「今は煙草が欲しかったんやけどな」


「え?」


 その瞬間、強く風が吹いた。

 一瞬の出来事に、思わず目を閉じて身を屈めた。


――今日は午後から時折、強い風が吹くでしょう。例年よりも、遅めの春一番となるかもしれません

 

 頭の中で朝の天気予報のアナウンスがよみがえる。


 ざわざわと揺れた桜の木から鳥たちが飛び立ち、空がびゅうっと鳴いた。オレは吹き止まない風を遮るようにセンパイの前に立った。


「大丈夫ですか?」


 恭子センパイは薄く目を開くと、オレの胸の辺りに視線を落とした。そしてオレ以外の誰かに聞かれてはいけないというような、小さな声で言った。


「私、梨九が思ってるより、悪い女かもしれんよ」


「そんなことないですよ」


「私、初めから知ってたんやで」


「何をですか?」


「あの時、梨九に彼女がいたの……」


 悪びれもせず話す唇を、オレは瞬きすることなく見つめた。その間、頭の中で色々な想いが駆けめぐった。


 ふと、西の空の雲の切れ間が光った。見上げると、低く唸る音とともに、太陽の光に機体を輝かせた小型プロペラ機が、一直線に空を駆け抜けて行く。


 すぐさま視線を戻すと、その瞳にからかい半分の笑みはなかった。黒髪が風に舞い上がり、彼女はまた静かにまぶたを閉じる。


 春風が吹き抜ける中、オレはほんのり赤く染まった頬に手を伸ばした。

 口元にかかる黒髪をそっと払うと、睫毛が震え、わずかに唇が開く。


 戸惑う気持ちを風が運び去ると、あの日の懐かしい匂いがする。


 オレはゆっくりとその身体を引き寄せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プラスティックな夜には かみいゆう @kamiyubinan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ