エピローグ

 大学弓道の地方大会。弓道の試合専用に設営された、だだっ広いアリーナ会場。観客席には数十段の階段があり、7割程度の座席が埋め尽くされていた。袴姿、私服姿、ひしめくように人の波が動いている。

 アリーナの観客席から手すり越しに見下ろせば、観客席よりも2メートルほど低い位置に、緑色の養生マットが地平線のごとく敷き詰められている、仮設の弓道場があった。

 矢が飛び交う矢道。的場にはウレタン製の分厚いマットが敷き詰められていて、色は濃いグレー。そこには24個の丸い的が設置してあり、「6個を一塊とし」、計4チームが一斉に立っても有り余るほどの広さがある。射位には畳が敷き詰められている。

 射場の両側、矢道と矢取り道との境目には高さ2メールほどある白色のパーティションが隙間なく設置されている。看的小屋に似せた待機場所、その空間も仕切られていた。

 この試合会場には、今大会に参加する各大学から、運営の補助的な手伝いをしてもらっている選手も数多くいる。射場の長机には、的中を記録する選手の姿があり、的場の左右には矢取りのために待機する選手の姿があった。


 夏季にある試合、その地方大会の真っ只中、立の予選中である。

 射場には長椅子が並べられており、ゆがけを右手に着用し、和弓と4本の矢を持ち、待機する選手達の姿があった。白い弓道衣、青い弓道衣、赤い弓道衣など、袴こそ同じであれど、弓道衣の色は大学事によって様々であった。

 射場からは無数の矢が放たれ、的を射抜く音や、ウレタンのマットに突き刺さる鈍い音が鳴り響いていた。弦から手を離す音色。

 カシュン――――カシュン――――ターンッ!

 試合会場では、合計24名の学連役員が大会運営を行なっていた。学連役員は試合に参加しながら運営を行うのである。

 パーティションに囲われた的場では、ぎこちなくもインカムを鳴らし、あたふたと慌てる、学連役員の姿があった。学年は3年生だ。

 インカムは慌ただしくも―――雑音のようなノイズが鳴っていた。


《前射場です! うーんと、この後って個人決勝でしたよね?》 

《後ろ射場です、さっき的中の記録係の人から質問があって……どなたか対応をお願いします!》

《こちら前看的なんですが、トラブルが発生しました! ど、どうすれば……》

《後ろ看的でも………あぁ!? それ、違うんです―――》

《賞状の記入を間違えてしまいました……予備ってあるんでしょうか?》

《招集です! まだ到着していない選手がいるんですけど、射場に入場させてもいいんでしょうか?》

《掲示板が倒れました!! どの順番で結果を掲示すればわかりません……》

《ほ……放送です……緊張して声が……》


 役員が持つインカムからは、時折ノイズの雑音とは別に、ピーっといった電子音も鳴っていた。インカムのマイクボタンが重なると、不協和音のような高い電子音が鳴るのだ。

 3年生が慌ただしく運営をする中、拓真は射場にあるパイプ椅子へと座り、机に運営要項の冊子を広げている。成安は拓真の隣に座っており、パソコンの液晶は黒くなっていた。

 机の上にはイヤホンのついてないインカムが1台のみ。拓真はインカムから鳴る慌ただしい音に、面白おかしく耳を傾けている。落ち着いた様子の拓真と相反して、成安は不安でたまらないと言いたけな表情で、拓真に言った。


「藤本、手助けしなくていいのか? 私は不安な気持ちでいっぱいなんだが……」

「ああ、別にいいだろ。今の3年は1年間役員として経験してんだ。突然主役になったから、テンパってんだろ。それに俺達4年の目的は、次の代に引き継ぐ事、今大会の目的はメインでの運営が目的じゃない、違うか?」

「それはそうなんだが。ここまで慌ただしくインカムが鳴ってると、ミスが発生するんじゃないかと心配でたまらないんだ。君がどうしてそんなに余裕なのか、不思議でたまらない」


 拓真はハハッと笑うと、肩まである襟足をかき撫でた。


「あのな成安。最初からテキパキと出来る奴なんてなかなかいねぇよ。失敗して、経験して、考えて、それで上手くなっていくんだよ。コツを掴めばすぐ出来るようになる。それに、万が一の事態が発生した場合、俺達4年がフォローしてやればいいの。要は臨機応変に対応する。それが試合を運営するコツだ」


 成安は眼鏡をクイっと中指で押し上げた。


「いや、私はその考えに賛成出来ない。あらかじめ予測出来る事に関しては、事前に対応策を決めておく。完璧なマニュアルとまではいかないが、射場を運営する側としては、気持ちに余裕が出来る。問題が発生しても、確実に対応が出来る。私の考えはそうだ。君の思考が異端なんだよ」

「よく言うよ。俺達の代は、毎月の集まりとは別に、何度も集まって打ち合わせしたろ? あれだけ打ち合わせしても、予測不可能な実態は発生した、その時の成安はどうだ? 結局俺が対応したやんけ」

「なはは、まぁな。適材適所ってのがあるだろ。私にとって事前に準備してない案件は、藤本に投げる事にしている。そういう役割分担だったろ」


 拓真は笑う。成安もニヤニヤしながら、眼鏡をクイクイっとする。

 そして、射場内に号令が響いた。


「お入りくだしゃい!」


 裏返ったかのような男の声、拓真は笑いをこらえるのが必死だった。成安もため息を吐くと、パソコンのキーボードを操作し始めた。

 

「行射を開始してください!」


 拓真はほころんだままの表情で、一生懸命に射場を駆け、インカムを鳴らす3年生の姿を目で追う。拓真は立ち上がると、机の上にあったインカムを腰に引っ掛けた。成安のパソコン画面を見て、拓真は言った。


「また小説書いてんのか。今度はどんな話だ? 書けたら読むよ」

「いや、なんでか君には読まれたくない」

「ははは、まぁ、頑張って。インカムは持ってくけど、ちょっと後輩達を頼むわ」

「わかった、出来ればなるべく早く戻ってきてほしい。君がいないと不安で仕方ない」

「俺は不安じゃない。まぁ何かあったら誰かしらのインカムから連絡してくれ」


 拓真は紺色の弓道衣の襟を正し、右腕に着けていた腕章を安全ピンでとめた。墨色の袴を揺らし、アリーナの射場から廊下へと歩いていく。

 ベージュ色の廊下、白い壁。拓真が歩くその先にはトレーを持って歩く小町がいた。飽きれた様子で廊下にあるドアを開け、その部屋へと入っていった。拓真は小町が結んでいた髪、白色のシュシュが見えなくなったあと、視線を廊下へと戻した。

 拓真は廊下を進んでいく。

 開放感のある施設の玄関付近、タイル張りのような模様の床、選手の招集場所ではおよそ12脚のパイプが並べられていた。

 和弓を手に持ち椅子へと座っている選手達。その視線の先には、拡声器を手に持ち、試合の注意事項を説明する学連役員の姿。資料を片手に、裏返りそうな声で喋っていた。


「試合の注意事項です、矢摺籐が破損していたり、目印がある場合は―――」


 緊張した顔で拡声器を持つその隣には、寺尾と伊田がいた。伊田は拓真のほうを見ると、目で合図を送る。拓真は頷くと、掲示板の前で首を傾げる、黒いおさげを背中に垂らした学連役員に声をかけた。


「どうだ黒咲、順番は整理できたか?」

「あ、藤本さん。伊田さんと寺尾さんに言われた通り、掲示し直しました……間違ってないと……思います……」

「ん、なら大丈夫だろ」


 拓真はそう言いながらも掲示された順番を確認する。右上にうたれた数字を目で追い、規則的に並んでいる事を確認した。黒咲は間違えてないようだ。


「大丈夫だよ。もし間違えたら、監督している伊田のせいだ」

「え……でも掲示したのは私で……」

「いいんだよ。それより掲示係の役割について、よく伊田に聞いとけよ。案外、他の部署の手伝いとかするから。4年生は暇してる、3年生が忙しそうなら聞くなら4年生の先輩だ。そのうち慣れるさ」

「は、はい!」


 黒咲はおさげをピコっと動かす。頭を上げたあと、伊田のほうへと向かった。

 拓真は来た道を戻り、射場へと戻る。

 射場の隅にある、パーティションで仕切られた道、養生マットの上を歩き進む。

 対面から、國丸が歩いてきた。國丸が拓真の姿を見つけると、まぶたを開き、眉毛を上に移動させた。


「國丸、的場のほうはどうだ?」

「うん、問題ないよ。今高はまだ残ってるけど、僕は役員控室に戻るよ」

「そうか。じゃあ問題ないな」

「そうだね。じゃあ僕は戻るよ。弁当の手配が出来てるかチェックしないとね」

「おう、それは重要な案件だ。頼んだぞ」

「フフフ、わかってるって」


 そう言うと、國丸はアリーナの廊下へと戻っていった。

 拓真もきびすを返し射場へと戻っていく。

 最後のパーティションを越えると、先ほど拓真が座っていた席に視線を向ける。そこに成安の姿はなかった。視線をさらに奥へと向けると、成安が3年生を指導している姿があった。

 拓真が椅子へと戻ろうとする。


「拓真先輩! お疲れ様でーす」


 拓真は声がした方向に振り向いた。

 白色の弓道衣、黒い袴姿。腰帯にはインカムを引っ掛け、イヤホンを右耳に、懐にはマイクをクリップで止めている。

 艷やかな黒色のポニーテールは腰ほどまであり、鈴木舞香は楽しそうに微笑んでいる。


「なんだ鈴木か。放送係の仕事をサボって、フラフラしてんのか?」

「サボるもなにも、やる事がないんです。安井先輩は3年生の子につきっきりだし。覚える事って言っても、テキスト読むだけだし。だから遊びに来たんです!」

「そうか、余裕があるな〜、関心するよ」

「拓真先輩ならそう言ってくれるって思ってました! 他の先輩なんか、必死なのか話す余裕もないって感じで。不思議だわ〜なんにも難しい事ないのに」

「ははは、そんな事言ってると、いきなりやれ! とか言われるぞ?」

「やれって言われても、やれる自信がありますから。最初は緊張すると思いますけど。でもコツさえ掴めば、あとは経験ですよ!」


 自信満々の鈴木に、拓真は昔の自分を重ねた。拓真も、昔は鈴木のような考えで、大会運営に挑んでいたのである。

 そして鈴木は、愚痴を言うようにボヤいた。


「でも〜。私本当は射場の運営がしたかったんです。でも学連役員になるまで知らなかったんですけど、射場は男子役員の仕事だったんですよね~。なんだか、損した気分です」

「ははは、まぁな。でも、放送だって目立つだろ?」

「目立つっていうかー。あれ、じゃあ拓真先輩はどうして学連に入りたいって思ったんですか? 目立ちたいからですか?」

「違うよ。教えてもいいけど、そうだな〜。じゃあ射場の仕事やってみるか?」

「え? でも私は、放送ですよ?」

「放送だからって、射場やっちゃ駄目って決まりはねぇ。ほら、来てみ」


 拓真は鈴木の手を掴むと、引っ張るように射場を歩く。その時、鈴木は大人しくなる。

 鈴木のポニーテールが左右に揺れ動く。


「行射を開始してください!」


 成安の声がアリーナ内に響く。拓真はマイクを持つ成安に近寄ると、鈴木を掴んでいた手を離した。目を丸くしている成安に言った。

 鈴木は下を向いて押し黙り、胸に左手を当てている。


「交代だ、鈴木に号令を言わせる」

「はぁ!? 鈴木は放送係だろ? なんで射場の仕事をやらせるのか、理解出来ないんだが」

「号令が射場の仕事だなんて決まってねぇだろ。射場の係が試合の招集で全員いないとき、臨時で放送とかにやってもらうだろ? それと同じだ」

「それは……確かにそうだが……でも射場には他にも役員がいるし……ああ、もう藤本の好きにすればいい。私は責任をとらない」


 キョトンとする後輩達を横目に、成安は匙を投げたように、拓真にマイクを手渡し、机がある場所へと戻っていく。拓真は静かになった鈴木に、笑いかけるように言った。


「こんな経験、今しかできない。どうだ鈴木、やってみるか?」

「や、やりたいです」

「そうか、じゃああっちに移動しよう。隅っこにいたほうが、よく見渡せるんだよ」


 拓真は鈴木と一緒に、後ろ射場へと移動していく。椅子が並べてない場所へと立った。


「あの、拓真先輩は。どうして学連役員になろうと思ったんですか?」

「ああ、インカムに向かって喋る姿に憧れたんだよ。一目惚れ? ちょっと違うか、とりあえず、インカムがカッコいいと思ったからだ」

「そうだった………んですね。ふふふ」

「そうだよ、じゃあタイミングを教える。一回やるから、見とけよ?」

「はい、お願いします」


 鈴木は拓真から数歩下がったその場所で、拓真の後ろ髪と背中を見つめた。

 そして息を潜めたような声で、何かをつぶやいた。

 鈴木は胸に手を当て、秘めた想いを巡らせる。

 拓真は、選手達が弓を引く姿に目を凝らした。


───そこには確かにある

   気持ちを一つに繋げ、弓を反らす射手達の姿が

   ただ勝ちたいと願う、純粋な心が描く弧を眺めて

   拓真はその光景を目に焼きつけるように眺め

   そして大きく息を吸い込む


   やがて、澄んだ声が響いた───

                ───お入りください、と。


               ─完─


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弓道推理 — SNS炎上と失格のロジック ― もっこす @gasuya02

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