02-4

 事故があった日以来、二人は唐突なる消失感に襲われ、何事もやる気にならなかった。栄養を気にしていた食事バランスは乱れ、睡眠不足な毎日を過ごしていたせいで体重は五キロも増加。一番問題だと思ったのは、当時の自分の行いについての反省ばかりしてしまうこと。こうして後悔の念は徐々に積み重ねられていき、リセットされることはないままだった。戻れるのなら、あの瞬間に戻りたい。一度でいいから、誰かあの時に戻してください・・・。


 そう願い続けたある日、あの人に出会った。その瞬間を忘れることはできないだろう。なぜなら、机の上に置いていたビールの空き缶が床に転がり、拾おうと手を伸ばした先で消えたのだから。精神状態までも可笑しくなったのかと自分のことを嘲笑っていると、「こんにちは」と何処からともなく低い声が聞こえてきた。


最初は幻聴まで現れたのかと勘違いし、正常に戻れと懸命に耳を手でパンパンと叩いた。すると今度は「そんなことをしても無駄ですよ」とその行為を笑う声がした。


 幻聴ではない。でも、誰もいない。やっぱりおかしい。目に力を入れて閉じる。数秒後、ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした視界の先には、やけに豪華絢爛な茶色い扉と、その奥からシルクハットを被った人が浮くように立っていた。


「えっ、なんですか?」

「浜中剛史さん。貴方、今、過去に戻りたいと強く願われましたね?」


その人物の言っている意味が把握できず、「はい?」と訊き返す。でも、その声が小さすぎて届かなかったのか、「では、こちらの扉に入られますか?」と伝えてきた。惚けているのかと思った。


「惚けないでください」懸命にそう伝えると、その人物は不気味に笑って、扉の向こう側から全身を覗かせてきた。そしてシルクハットをくいっと持ち上げ、顔を見せる。その行為自体、あまりやり慣れていないのか、少しだけ不格好だった。


「あの、どちら様ですか?」

「申し遅れました。わたくしは支配人の加能と申します。加える能力の能で、加能です」


加能という苗字、過去に聞いたことがあるような、ないような・・・。


「私とどこかで会ったことがありましたかね?」

「貴方が見た夢では、お会いしたことがありますよ。覚えていらっしゃいませんか?」

「いやぁ、覚えてないですね」

「そうですか、それは残念ですね」


動物を撫でるようにして、杖に優しく触れる。


「私に何か用事でもあるんですか?」

「はい。わたくしは、浜中様を過去への旅にお連れしたいのです」加能のド直球な言葉に思わず二・三歩後ずさりをしてしまう。


「どういうことですか?」

「浜中様は、つい先日起きたとある出来事に対して、強く後悔の念を抱いているようです。それと同時に、ある方へ怒りの感情も抱いていらっしゃいますね」

「なぜ分かるのです?」

「浜中様を見ていれば分かります。一人で後悔と怒りの感情を抱えるなんて、お辛いことと思います。どうでしょう。この扉へ一度入れば浜中様の行動にもよりますが、少しだけ明るい気持ちを持てるようになりますよ」

「この途方もなく続くトンネルの出口が見つかるというのか?」

「それは、どうですかね? 出口を見つけるのは何を隠そう浜中様ご自身じゃないですかね」


口角を上げ、にっこりと微笑む。話口調は穏やかで、自分よりも年上の趣が感じられた。ただ、その口調はどことなくぎこちなさが残っている。何となく、覚えたての丁寧な言葉遣いを無理に使用しているように感じた。


「あの、その扉には何か意味でもあるんですか」

「はい。こちらの扉は、浜中様が望まれた年月日、時間にお戻ることができます。ただし、規則とタイムリミットがありますので、そこに注意していただく必要がありますが」

「つまり、規則とタイムリミットさえ守れば、過去に戻れるということですか?」

「はい」丁寧に頭を下げる加能。扉の周りはホログラムに輝いている。


「あとですね、申し遅れておりましたが、七瀬平司様も浜中様と同様に、過去にお戻りになりたいと強く願っておられますよ。しかも、同じ出来事に対してです」

「七瀬もですか?」

「はい。もしよろしければ、お二人同時にお戻りになるのはどうでしょうか」

「えっ、二人同時に? そんなことできるんですか」

「はい。規則とタイムリミットを守っていただければ可能です。まぁ、わたくしもまだ体験したことは無いですが」


 体験したことが無いことを、今この場で試そうとしている。実験台にされるのは何となく癪に障るが、警察官という職業をしているからか、誰かの為になるならという一心でつい行動してしまいたくなる。


「七瀬は、扉に入ると言っているんですか?」

「いえ、まだ七瀬様の前にわたくしは現れておりませんので、一緒に行くならば今すぐにでも連絡していただくしか方法がないですね」


七瀬があの日の出来事に対して、どのような思いを抱いて生活を送っているのか全く知らないでいる。もし二人共に過去へ戻れるのなら・・・。


「電話、してもいいですか?」

「もちろん、どうぞです。わたくしは、この場でじっくりとお待ちしますので」


髭を触りながら可愛らしく笑い始める。加能は頑張って丁寧な言葉遣いを心がけているようだった。努力を怠らないタイプなんだな、とまたも人物観察をしてしまっていた。

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