二律背反

 校舎の階段を四階まで上った私は、生徒会室と書かれた黒い表札を見上げた。深呼吸をすると、横開きの扉をそっと開ける。

部屋の中では、こちらに横顔を向けた女子生徒が、窓際にたたずんで暮れなずむ空を眺めていた。焼け落ちていく夕陽に輝く長い黒髪が、花嫁のヴェールのように彼女を飾っている。逢魔おうまが時の中で、私は声を掛けることも忘れて彼女に見惚れていた。

 それはほんのわずかな間だったのだろう、振り向いた白倉さんが笑った。


「合格おめでとう、環季」


 我に返った私は、笑顔を返した。


「会長こそ。東京帝大の医学部なんて、うちの学校ですら二年ぶりじゃないですか?」


 気が付けば私は、白倉さんのことをやはり会長と呼んでいた。未練がましくはあったが、それは去り行く私の高校生活への、せめてものはなむけのつもりだった。そして彼女も私の気持ちを汲んでくれたのだろう、会長という呼びかけを鷹揚おうように受け止めてくれた。


「はは。私でさえ受かったんだ、環季が受けていたら合格間違いなしだったよ。先生たちは学校の宣伝のためにも、環季にも東京帝大を受けて欲しかったんだろうけれどね」


「書記でこれだけ注目されてしまったんです、これ以上目立つのは御免ですよ」


 白倉さんは微笑むと、上目遣いに私を見た。


「先生たちだけじゃなくて、私も環季には東京に来てほしかった。なあんて言ったら、いつかの私みたいにあなたは怒るかな」


 このに及んでどうして、と私は心の中で白倉さんを責めた。もっと早くに彼女がそう言ってくれたなら、きっと私は志望校を変更していた。しかし実際には彼女はそうは言わなかったし、私と同じ大学を選ぶこともしなかった。

 白倉さん、どうしてあなたは私と離れる選択をしたのですか。私を奈落から引き揚げて、なんとか人並みの生活に戻れたことを確認出来て、それで自分の役目が終わったと思ったからですか。私にはわかりません、友達が離れ離れにならなければならない理由なんて。


 納得できない自分の心を押し殺しながら、私は彼女に尋ねた。


「それで会長、引っ越しはいつ」


「明日には向こうに行こうと思ってる。受験した時に大学の周囲を回ってみて、実はもう契約してきたんだ。環季、あなた知ってる? 東京の家賃って、福岡の市内と比べてもべらぼうに高いのよ」


「明日。……そうですか」


 白倉さんの言葉のあまりの現実感のなさに、私の感情はとても追いつかない。黙り込んだ私を見た彼女は、話題を変えた。


「でね。ほら、あの件」


 一瞬、私は白倉さんが何の話をしているのか分からなかった。そして彼女がその猫目をいたずらっぽく輝かせているのに気付いて、ようやくそれを思い出した。


「ああ、告白のことですか。でも会長、明日には、もう福岡にはいないんでしょう?」


「そうね」


「それじゃあ、今からその人のところに行くんですか。もう夜になっちゃいますよ」


「ううん。どこにも行かないわよ」


 何を言ってるのだろう。悠長にしている時間など、もう残されていないはずなのに。


「じゃあ、メールかなんかで告白するんですか? でもそれだったら、東京に行ってからでもできますよね。直接告白するんじゃなかったら、何も今日じゃなくても」


 白倉さんはついと窓から離れると、私の前に立った。いくぶん背が低い彼女は、自然私を見上げる形になる。どぎまぎする私を前に、白倉さんは後ろ手を組んでむふふと笑った。どうしてこの雰囲気でそんなテンションなんだ。


「環季。ラジオ、今でも聴いてる?」


 私は完全に肩透かしを食らった。なぜに、この別れの間際にラジオの話になるのか。


「え、もちろん聴いていますけれど。どうしてですか」


「ラジオ好きの環季に、一つ自慢してもいいかな」


「何でしょう」


「エルミタージュ、あなたに教えてもらったあのラジオ番組ね。実は私、石田さんにメールを読まれたことがあるのよ。それも二度も」


 えっへん、とドヤ顔で腰に手を当てる白倉さん。おいおい、そういう話題はもっと普通の時にしてよ、とは思ったものの、ヘビーリスナーを自認している私は興奮を隠し切れない。


「え、本当ですか? なんてラジオネームですか? どのコーナーですか? まさか、ブリーフ・ブラジャーズ・ショーじゃ」


 詰め寄る私に白倉さんはきょとんとした顔をすると、おなかを抱えて笑い出した。


「馬鹿ねえ、それじゃ私が下ネタの投稿女王みたいじゃない。どんなメールが読まれたかはね、秘密かな」


「ええ、どうして秘密なんですか。それじゃあ今までずっと聴いていたのに、会長のメールがどれだったか、わからないじゃないですか」


「わかる、きっとあなたにはわかる。それに最近送った三度目の投稿も、きっと読まれるに違いないんだから」


 白倉さんの行動力には、今更ながら驚かされる。エルミタージュをずっと聴いてくれていたこともそうだが、それでは飽き足らずにメールを送って自ら番組に参加するとは。だが考えてみれば、興味のあることに対してとことんまで追求するその姿勢は、彼女の生徒会長としての活動と一貫して共通している。それに、隠れ家の利用法は人さまざまであっていい。私のように部屋の片隅から他人の歌に小さな手拍子でエールを送る楽しみ方もあれば、彼女のようにマイクを握って聴衆を巻き込むような楽しみ方をしても、もちろん悪くない。


「大した自信ですね、もし三度も読まれたりしたら大常連ですよ。でも驚きました、会長がラジオ投稿などという地味な趣味を、ひそかに楽しんでいたなんて」


 教えてくれればよかったのに、水臭いなあ。そう思いながらも、知人に自分の投稿内容を知られるのは、やはり気恥ずかしいことであるに違いない。漫画だって小説だって、匿名性があるからこそ自らの本心をさらけ出せる。


「でも、今回で最後よ。福岡の地元放送局に東京からメールを送るっていうのも、筋違いだしね」


「ああ、本当に採用されますかね。わくわくしちゃうなあ。聴いたら、絶対に会長だってわかるんですよね」


「保証するよ。だから、しばらくは必ずラジオを聴いててね」


 そうして、不意に会話が途切れた。今まで包まれていた楽しさと襲ってくる寂しさとの落差に、私は思わず我が身を震わせる。白倉さんとこんな他愛のない話ができるのも、これでしばらくはお預けになるのか。いや、本当にしばらくなのか、それとも。


「会長。向こうで落ち着いたら、また帰ってきますよね」


「そう、ね。心の整理がついたら、ね」


 やはりそうなのか。白倉さんが東京の大学を選んだ理由の一つには、確かに失恋の傷心があるに違いない。ばかばかしい、たかが惚れた腫れたなどという一時の熱病のようなもので、私と白倉さんは異なる道を歩まねばならないのか。


「心の整理って。そんなの、つかなくったっていいじゃないですか」


「簡単に言わないで、環季。私だって大ダメージを食らうことはあるよ。なにしろ三年間、ずっと好きだったんだからね」


 三年間がどうした、私の一年間は決してそれに負けてなんかない。私の友情で、彼女の愛情を忘れさせてみせる。あまりにも傲慢ごうまんだが、私は本気だった。


「今でも私、そんなに頼りないですか」


「そんなつもりじゃ」


 ここは引かない、引くわけにはいかない。あなたが私をここまで変えたのだから。


「もし会長が振られたって、あなたには私がいるじゃないですか。私では、会長の慰めにはなりませんか」


 沈黙、そして。

 うつむいて表情を隠した白倉さんの口元から、苦笑とそれに続く小さなつぶやきが漏れた。


「あはは。二律にりつ背反はいはんしてるなあ」


 二律背反、アンチノミー。白倉さんが振られて、私が慰める。どうしてその二つが、矛盾していて両立不可能なのか。

 どこかおかしい。もしかして私は、何か決定的な勘違いをしているのではないか。


「どういう、意味ですか」


「いずれ、それもわかるよ。ラジオを聴いてくれればね」


 はぐらかされたように感じて言葉を続けようとした私の唇は、突然に熱く柔らかいものでふさがれた。

 白倉さんの、唇で。

 押し付けられる彼女の圧に負けて、私は背後の机に腰を落とした。目を閉じた彼女の濡れたまつげが、夕陽に輝きながら震えているのが見える。


 嘘。


 やがて学生服の衣擦れの音とともに、彼女は私をゆっくりと離した。


 まさか。


 慌てて体を起こした私の視線の先では、すでに扉を背にした白倉さんが寂しく笑っていた。


「それじゃあね、環季。ラジオ、忘れないで」


「会長」


「またね、バーイ」


 白倉さんはくるりと踵を返すと、それきり振り返ることなく、下り階段へと駆け出していった。

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