振り向かないで、笑って
朝倉くんと別れた私は、二年A組の教室に足を運んでみた。そこは私が高二の時に通い、今は司くんが学んでいる場所でもあった。誰もいない放課後の教室はしんと静まり返り、徐々に傾いていく西日が、並んでいる机を鈍い銅色に染めている。
高二の終業式のあの日、ここで私は白倉さんに書記に誘われた。眼を閉じれば、あの時の胸の震えが昨日のことのように甦る。私も彼女のように、誰かに手を差し伸べてあげられるのだろうか。不確かな動機で医師への道を選んだ私だったが、その選択は誤りではなかったと今にして思う。巡り合う全ての人々の営みに関わってみたい、それは一年前の私からは考えられない変化だった。
「うわ、びっくりした。司くん、まだ残っていたの」
会えればいいな、会いたいなという期待はもちろんあったけれど、実際に面と向き合うと、やはり困ってしまう。そんな無防備な笑顔を向けるな、あの無愛想な君はどこに行った。
「新生徒会の役員集めでバタバタしてまして。今日、ようやく人事がまとまったところなんですよ」
そう話す口調も、いつもの司くんだった。それでも彼、少し背が伸びたのかな。まさか成長期って年齢じゃないはずだけれど、見上げる角度が何だか大きくなったような気がする。
「そうか、もう会長って呼ばなきゃだめだよね。期待してるよ、金澤会長」
「やめてくださいよ、環季先輩が言うとなんだか皮肉に聞こえますから。もしかして白倉先輩と比べたりしてませんか? そんな事されたらいじけますよ、俺」
「えー、精一杯の激励なのに」
彼が先に笑い、少し遅れて私が笑う。
司くんは二月の生徒会長選挙で、断トツのトップで当選を果たしていた。私の想像通り女子生徒の人気は抜群だったし、高校で帰宅部になった後もそれなりに友人との交流はあったようで、男子生徒からも幅広く支持を集めていた。もともと面倒見の良い彼であったのだ、そうでなければ中三の時に生徒会長が務まるはずもなかっただろう。凛ちゃんにとっても、きっといいお兄さんであったに違いない。
「それよりも、先輩。今日学校に来たってことは」
「ご名答、合格報告だよ」
司くんは破顔すると、私の肩を大きく抱いた。こら、セクハラするな。
「やりましたね、先輩。まあ今までの模試って、ほぼA判定だったんでしょう? がちがちの大本命でしたからね」
「それ、受験前に言われてたら超緊張したかも。君なりに気を使ってくれてたんだね」
「ご謙遜ですね。環季先輩って、勉強では緊張なんかしそうにないし。それに緊張と言えば、俺とこうして話していても、もう昔のようにどもったりしないですよね。なんだかすっかり、図太くなったっていうか」
そうだったね、君って初対面の時は怖かったし。でも今も本当は、決して平気なんかじゃないんだよ。私の恋の行方、どうなるんだろうってね。
「ところで司くん。新生徒会のメンバー、集まったの?」
「ぎりぎりでしたが、つい先ほど、最後の一人を無事にスカウトできました。副会長なんですけれどね」
「へえ。生徒会長の君が男子だから、通例で考えれば副会長は女子だよね」
「ええ。先輩もよく知っている人ですよ」
「え。誰?」
「ほら、須藤さんですよ。先輩が大喧嘩したっていう」
私の脳裏に、眼鏡とそばかす、それに傷跡を残した細い左の太ももが浮かび上がる。少し左肩を下げた、誰にも真似することのできない彼女独特の足取り。
「マジ? そうか、彼女が副会長にねえ。須藤さん、元気にしてる?」
「めちゃ元気ですよ。でもなんか、環季先輩に下着を見られたとか言ってましたけれど。先輩って、そういう性癖ですか?」
私は額を押さえてうめいた。
「あんの小悪魔、よりによって司くんにチクるとは。こんど会ったら、ただじゃおかねー」
「チクったってことは、やっぱり見たんですね。来年の校則に、同性間でのセクハラの禁止を提案しておきます」
はあっとため息をついた私は、含み笑いで司くんに反撃を試みた。
「でもひょっとして、須藤さんが副会長をオーケーしたのって、司くんに気があるんじゃないの? 君の彼女への仕事って、ちょっとした王子様の役割だったし」
「王子様は環季先輩だったんでしょ。詳しいいきさつは知りませんけれどね」
「へ。私?」
「とにかく大学生活がひと段落したら、また生徒会室に遊びに来てくださいよ。彼女、何だか先輩に憧れているみたいですから。さっきなんか副会長にって誘ったのに、書記がいい、なんて駄々をこねていたくらいで」
苦笑いする私の腰を、司くんがぱしっと叩いた。だから触るなって。
「でもこれで、先輩も医師への第一歩ですね。俺もあやかりたいもんです」
窓に向けられた彼の瞳は、こことは違うどこかを見ながら明るく輝いていた。私を見ていないのは少し残念だったけれど、これでいいんだ、と、どこか清々しいような奇妙な気分でもあった。
「あやかる、って。司くんも医学部志望なの?」
「俺の今の成績じゃ、九州帝大の医学部は微妙なラインですけれどね。でも、凛が入院していた病院も、九州帝大の関連病院なんですよ。地元でもありますし、やっぱり狙いたいところですが」
そうか。司くんにとって、病院という場所は常に身近なものであったのだろうし、その志望動機も十分すぎるほどに理解できる。凛ちゃん、あなたのお兄ちゃんは頑張ってるよ。
「うんうん、応援しちゃうよ。進路相談なら随時受け付け中だから、いつでも連絡してね」
さらっとそんなことを言ってしまったけれど、先に連絡するのは、私の方からになるのかもしれない。白倉さんが彼女の片思い相手に告白したら、その次は私のターン。彼女とクリスマス・イブに交わした約束を思い出した私は、いてもたってもいられなくなった。
「ねえ、司くん。ひょっとして、会長、いや、白倉さんを見なかった?」
内心びくびくしながら彼女の名前を出した私に、司くんはあっけらかんとした口調で答えた。
「ようやく聞いてくれましたか、もちろんさっき会いましたよ。白倉先輩の方から俺を探しに来て、しばらく立ち話していたところです」
あれから少し時が過ぎて、彼と白倉さんとの間での振った振られたというわだかまりは、もはや存在していないように見えた。こういうさっぱりしたところは、お互いに生徒会長的な性格だからかなあ、と私はそんな二人をうらやましく思った。
「やっぱり来てたんだ。という事は、彼女の結果は」
焦って尋ねる私を、彼は両手で押しとどめた。
「それは本人の口から聞いた方がいいんじゃないですか。八尋さんに会ったら生徒会室にいるって伝えておいて、なんて言ってましたよ」
「そうか。じゃあ、司くんも一緒に」
彼は笑いながら首を横に振った。
「そんな野暮なことはしませんよ、白倉先輩に好んで憎まれたくはありませんからね。ほら、早く行ってあげてください」
「なによそれ。気の使い方、間違ってるよ」
「間違ってませんって。環季先輩は本当に鈍感だなあ」
何を言っているんだ、少なくとも君には言われたくない。唇を尖らせる私を、司くんは無理やりに教室の外へと押し出そうとした。背中ごしに彼の手の温もりを感じた私は、振り向きたい欲求にかろうじて耐える。司くんとの高校生活は、もう卒業なんだ。
私は扉の手前で立ち止まると、前を向いたままで笑った。
「司くん。生徒会、最高だったよね」
「もちろんですよ、環季先輩。一年間、ありがとうございました」
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