窓越しに黄昏は流れ

 やがて泣きつかれた私は、海風にしみる目で隣を見上げた。白倉さんはやはり腕を組んだままで、少しずつ黄金色を増していく海面を眺めている。私の視線を感じたのだろう、彼女は前を向いたままで口を開いた。


「それでどうするの、金澤くん。どうしても副会長辞めるっていうのなら、私たち二人で生徒会活動を続けるまでだけれど」


 私は白倉さんの言葉に仰天した。


「ちょっと、会長。三人でも十分ブラックな職場環境なのに、二人だけでなんて無茶過ぎませんか」


「十分可能よ。八尋さんが、副会長と書記と会計を兼任してくれればいいんだし」


「そこは会長が副会長を兼任するんじゃないのか……」


 司くんは赤くなった目をこすると、笑いながら立ち上がった。


「会長が許してくれるのなら、俺、戻りたいです。せっかく環季先輩が買ってきてくれたケーキ、食べ損ねちゃいましたからね」


 あの時、やっぱり気付いてたんだ。そうよ、せっかくのモンブランだったのに。それでも、彼が戻って来てくれるのなら。


「まかせて、いつでも買ってきてあげるわよ。何なら、一緒に買いに行くってのはどうかな」


「こら、調子に乗るな」


 白倉さんはふくれっ面で私を軽く蹴った。うう、なんだかさっきから、私の扱い悪くないですか。


「でも良かったわね、八尋さん。あなたどうやら、三役兼任しなくてもよさそうよ」


「いやあ司くん、冗談抜きで助かったよ。二人でやるって言った時の会長、本気の目してたし」


 ふんと鼻を鳴らすと、白倉さんは司くんの胸を人差し指でつついた。


「それじゃあ金澤くん。あと半年間、私と八尋さんの仕事をしっかり学んでおいてね。来期は私たちほどのスタッフが集まるとは限らないわよ」


「はい……はい? 来期って」


「もう、鈍いわね。私たちは卒業なんだから、来期の生徒会をよろしくって言ってるのよ」


「それって、まさか」


 白倉さんは肩をすくめると、私の方を振り向いた。


「八尋さん。後の説明、お願い」


「はいな。凛ちゃんは副会長なんかじゃ、きっと納得してくれないと思うよ。司くんはもう、高三で生徒会長をやるしかないってことだね」


 私の解説に、司くんは目を見張った。


「そんな馬鹿な。そもそも白倉先輩が、高三なのに生徒会長をやってるっていうのが前代未聞なわけで」


「いいじゃない、会長がせっかく前例を作ってくれたんだし。それに司くん、君が選挙で負ける道理はないでしょ。何しろ、女の子受けは抜群みたいだしねー」


「何です、環季先輩。その嫌味な感じ」


「別に」


 司くんは額に手を当てて、あきれたように天を仰いでいる。しかし私は、彼の口元が笑っているのを見逃さなかった。


「参ったな。俺、先輩たちほど受験に余裕があるわけではないんですが。まあ、とりあえずは勉強でもしておきますか」


 どうやら司くんの覚悟は決まったようだ。彼にはきっと見えているのだろう、凛ちゃんの笑顔が。こっそり私に後ろ手でピースサインを送る白倉さんに、私もピースで返す。


「この八尋環季がつきっきりで勉強教えてあげるから、受験は絶対に大丈夫。だから、凛ちゃんの為にも必ず生徒会長に立候補すること。ですよね、会長」


 白倉さんの顔が途端に険しくなる。


「はあ? 何言ってるのよ、八尋さん。あなたはまず私に勉強教えなさいよ」


 うわ、期末テストのことをまだ根に持っているのか。彼女、こういうところは実に執念深い。


「受験も近いっていうのに、校内テストなんかで競っている場合ですか」


「勝ち逃げは許さないわよ。負けっぱなしで卒業なんて、絶対に納得いかない」


 白倉さんの子供っぽい一面を初めて見たであろう司くんは、驚きの表情だ。私は苦笑しながら白倉さんの肩を叩いた。


「仕方がないなあ。最後まで受けて立ちますよ、会長」


 挑戦的な白倉さんの猫目を睨み返してやると、彼女は嬉しそうに私の背中をはたき返した。そんな私たちをうらやましそうに見ている司くんも馬鹿騒ぎの輪に加えてあげることにして、私と白倉さんは二人して笑いながら、彼の背中をばんばんと叩き始める。せっかく海に来たんだ、いらないものはどんどん捨ててしまえ。海は捨てるところ、エルミタージュでもそう言ってたじゃないか。


 笑いすぎて涙目になった私は、服の砂を払って二人を振り返った。


「さあて。高校最後の海も満喫しましたし、そろそろ帰りましょうか。私も会長も夏休みの残りくらいは、さすがに受験勉強しておかないとですね」


 そうね、と白倉さんはショルダーバッグをかけ直しながら、少しずつ暮れていく空を仰ぎ見た。


「まあ、八尋さんについては何の心配もないけれど。私はまず、進路を決めるところから始めなきゃいけないからね」


 彼女のさらりとした一言に、司くんが信じられないといった表情で訊き返す。


「マジですか。会長、まだ大学決めてないんですか」


 私も意外な思いだった。この前白倉さんとの間で志望校の話が出た時には、私と一緒に九州帝大に行こうかな、なんて言っていたけれど、あれはやめてしまったのか。別にこれといった進路を決めていないのなら同じ大学を受験してほしいな、などと安易な気持ちで誘ってはいけないのだろうが、白倉さんと離れ離れになる自分が想像できない。急に心細くなった私に、彼女はつかみどころのない笑いを浮かべた。


「本音を言えば留年したいけれど、成績も出席日数もとっくにクリアしているからね。金澤くんを殴ったら、素行不良で落第できるかしら」


「やめてくださいよ。仮に落第なんかしたら、白倉先輩はまた生徒会長に立候補しかねませんからね。前人未到の三期連続に挑戦、とか言って」


「あら、それいいわね。実はね、今思えば高一の時から生徒会長になっておけばよかったな、なんて思っているくらいなのよ」


 恐ろしいことを言う。高一で生徒会長になるためには、中三の時点で立候補しなければならないではないか。いくら中高一貫のわが校でも、あまりに非現実的だ。いや、白倉さんならばあるいは。そんな余計な想像をしてしまうほどに、彼女は何から何まで破天荒だ。


「冗談じゃない、会長と生徒会長を争うなんてことになったら、俺に勝ち目はないじゃないですか。迷惑すぎる、さっさと卒業しちゃってください」


「はいはい」


 白倉さんは笑って手を振った。ダブっても生徒会長に立候補などできるのだろうか、と私はため息をつく。校則には恐らく禁止規定はないだろうが、そのような前提がそもそもの念頭におかれていないに違いない。


 私たち三人はそんな雑談を交わしながら、まだ熱を持つ砂浜を連れ立って後にした。もと来た松林を過ぎたところで、白倉さんが私を振り返る。


「ねえ、八尋さん」


彼女の含み笑いは、私に意地悪な提案をしてくる前触れだ。まあ、その続きを早く聞きたいと思ってしまう私も大概ではあるが。


「なんですか、会長」


「せっかくここまで来たんだし。私たち、金澤くんのご両親にご挨拶したほうがいいんじゃないかしら」


「ちょっと、そんな急に。いくら何でもご迷惑では」


 狼狽ろうばいする私など歯牙にもかけず、彼女は容赦なく話を進めていく。


「金澤くん。ご両親のどちらか、今ご在宅?」


「え、母ならいますけれど。別に気を使わなくてもいいですよ」


「まあまあ、玄関先でもいいからちょっとだけ。ねえ、八尋さん」


 私はラフな自分の服装に目を落とすと、恥ずかしさに耳が熱くなった。


「ご、ご挨拶。こんなことなら、もっとましな格好で来ればよかった。でもきちんとした服なんて、この前司くんに会った時のあれしか持っていないし。だからといって同じものを着たりしたら、がさつな女だって司くんにドン引きされただろうし。ぶつぶつぶつ」


「まずい、また八尋さんがテンパり始めた。ほら金澤くん、早く行くわよ」


「ほんとに来るんですか、会長」


 白倉さんに手を引かれながら、私はありとあらゆる可能性について思案を巡らす。


「お、お母様、はさすがに初対面ではなれなれしい? 誤解させちゃう? 自己紹介だけして、会長の背中に隠れさせてもらうか。いや、いっそのことインターホンだけ押して、離れて様子を見るっていうのもありかも」


「ありなわけないでしょ、まったく。挨拶って言ってるのに、ピンポンダッシュするってのはどういう了見よ」


「大丈夫かな、この二人……」




 紆余曲折を経ながらも、なんとか司くんのお母さんに挨拶を済ませた私と白倉さんは、再び電車で帰途についた。二人掛けの座席の窓側に座っている白倉さんは、足を組み頬杖を突いて、現れては過ぎていく夕暮れの街並みを眺めている。


「あの、会長」


「うん?」


白倉さんは視線だけを私に向けた。祭りが終わった後のような寂しさが、私たちの間をゆっくりと吹き抜けていく。


「会長、私に何か隠してませんか」


「ん。何を」


「私、びっくりしました。司くんを副会長に指名したのが、会長の仕事の一環だったなんて」


 白倉さんは、猫目を優しく垂らして笑った。


「そんな風に言われると、私が計算高い女みたいで可愛げがないわね。彼に副会長が務まるだけの能力があったっていうのは本当よ。もともと目をつけてたから、どうせ誘うのなら彼のお悩みもついでに、なんてね」


 三人で過ごした海辺で卒業の話が出たことで、私は時間が有限であることをいまさらのように思い出していた。もう、残された時間は少ないのだ。今まで幾度となく自分の中で繰り返してきた疑問を、私は思い切って彼女にぶつけた。


「私を誘ったのも、仕事だったんですか」


「どうしてそう思うの」


 白倉さんは無表情に言った。失礼な質問であることは、もちろん分かっているつもりだ。


「私、会長に本当に感謝しています。救ってもらったって、大袈裟じゃなく思っています。ひょっとして、引きこもっていた私を更生させるのが、会長の目的だったのですか?」


「私、言わなかったっけ。環季が必要だから誘っただけだって」


「それは、そう聞きましたけれど」


「あなたに関してだけは、表も裏もないわ。声をかけさせてもらったのは、本当に私の都合。せっかくの高校生活だもの、私だって一つぐらい我がままを言わせてもらっても、ばちは当たらないと思うんだけれど」


「私と一緒にいることが、会長の我がままなんですか」


 白倉さんは寂しげに笑った。


「……ねえ、環季。人の欲って、きりがないよね。私はみんなが思っているような聖人じゃないよ。あなたも私のこと、そう思ってる?」


「私は」


「私が本当は醜い人間だって知っても、環季は私のことを見捨てないでいてくれる?」


 私が白倉さんを見捨てる。そんなこと、あり得ないじゃないか。私は彼女が美しい生き方をしているから慕っているんじゃない。他人の弱さを無視したり軽蔑したりすることのない彼女の誠実さを、私はたまらなく尊敬しているのだ。もし白倉さんに自己嫌悪という名の雨が降りかかるのならば、私は彼女の傘となって、その虚しさを彼女の代りに一身に受けたってかまわない。だって、私は彼女の。


「当然ですよ、友達ですから」


 彼女は目を閉じてふうと息をつくと、薄く笑った。


「本当、あなたは私の気持ちなんて全然わかってくれないんだから」


「え」


 私、何か間違っただろうか。彼女が期待していた答えを、うまく返せていなかったのだろうか。困惑する私の肩を軽く叩いて、白倉さんは明るく笑った。


「さあ、二学期からも気合入れていくわよ。環季に頼みたい仕事、すでにいくつもピックアップしてあるんだから」


「……はは、お手柔らかにお願いします」


 私は彼女の言葉の意味がついに分からないまま、ただ半笑いするしかなかった。

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