潮騒

 学校のある我が街から特急電車に揺られて三十分、さらに民営バスに乗り換えて二十分。福岡市の中心部からそれほど離れていない北西部には、博多はかた湾を北に臨んで、いき松原まつばらと呼ばれる砂浜が広がっている。しかし私たちが降りたバス停の周囲は、マンションや比較的新しい戸建てなどが密集している市街地であり、この場所からは海を望むべくもない。


「会長。海にいくなら、もう少し先で降りた方がよかったんじゃないですか」


「大丈夫、ここからなら歩いても十五分とはかからないし。それに、少し寄り道したいところもあるのよね」


 アスファルトから立ち上る陽炎かげろうが、横断歩道の表面を焦がしている。郊外の国道は車通りも少なく、私はどこか異世界に紛れ込んだような錯覚に陥った。十五分か、ちょっとした冒険だな。それにしても、こんな閑静な住宅街で寄り道って。


「何です、飲み物とか買っていくんですか」


「内緒」


 白倉さんは小さくウィンクすると、すぐわきの狭い市道に迷いなく入っていく。この自信に満ちた歩きっぷりは、事前にネットで目的地へのルートを検索して予習していたに違いない。さすがの用意周到ぶりだが、まさか今回も生徒会の仕事だったりしないだろうな。そんな私の心配をよそに、彼女はずんずんと進んでいくと、ある一軒家の前で急に立ち止まった。


「ここね。間違いない」


「え。どういうこと……」


 何気なく表札を見た私は、慌てて回れ右をした。思い出した、司くんって確か、福岡の市内から電車通学しているんだった。白倉さんの馬鹿、悪ふざけにもほどがある。その場を離れるために駆けだそうとした私の右手を、彼女が素早くつかんだ。


「逃げるな、環季。ここで逃げたら、あなた一生後悔するわよ」


「冗談じゃない。後悔されるくらいなら、後悔する方がましです」


 白倉さんは鬼のような形相で私を引き寄せると、両肩をつかんで揺さぶった。


「私言ったよね、生徒会を生かすも殺すもあなた次第だって。出会いをプラスにするのもマイナスにするのも、すべて環季の気持ち一つなんだよ」


 この場合に限っては、彼女の意志の力は、それこそ私にはマイナスに作用した。白倉さんから目をそらした私は弱々しく首を振ると、その手を払いのけた。


「……無理だよ。会長みたいな強い人には、私の気持ちなんてわかるはずがないよ」


 白倉さんの瞳に言いようのない悲しみが広がったように、私には見えた。


「私が強い? 勘違いしないで。あなたこそ、私の気持ちなんてわかるはずがない」


 信じがたいことに、彼女の声は震えていた。全校生徒を前にしてもおくすることを知らない、あの会長が。


「あなたがわかってくれなくても。それでも、私は」


 唇を噛んでうつむいた彼女は、地面に向けて叩きつけるように言葉を放った。


「金澤くんと出会えてよかったって、あなたにそう思って欲しいのよ」


 私は絶句した。彼女がいくら並みはずれたお節介焼きだとしても、あまりにも度が過ぎている。それにどうして、主語が私と司くんの二人ではなく、私限定なのだ。「お互いが出会えてよかったって、あなたたちにそう思って欲しいのよ」とは、何故ならないのか。


「どうして、そこまで」


「いいから。インターホンのボタン押して」


「でも」


「会長命令よ、黙って押して!」


 有無を言わせぬ白倉さんの声音に驚愕しながら、私は震える指でそれを押す。ややあって、電子的に修飾された男の子の声が返ってきた。


「はい、金澤ですが」


 本人か。私が逃げるための最後の口実も、これで消えた。


「あ、あの。八尋です。会長と一緒に」


 司くんが息をのむ表情が、スピーカー越しに見えるような気がした。


「……ちょっと待っていてください」


 しばらくして扉のロックをはずす音、それに続いて懐かしい姿が現れる。白いTシャツと短パン姿の司くんを見て、私は今が夏休みであることをようやく実感できた。彼は小さく頭を下げると、白倉さんを上目づかいに睨んだ。


「臨海学校の下見が生徒会の仕事だっていうから、最後の仕事だと思って、こうして待っていたんですが。会長、確かお一人で来るって言ってましたよね」


 いつの間にか普段の強気な表情を取り戻していた白倉さんは、悪びれもせずに言った。


「そういえばそんな設定だったかな。あれ、ほとんど嘘。ごめんね」


「ほとんど、とは」


「海を見に行こう、っていうのは本当」


 何か言おうとした司くんを、白倉さんは片手で押しとどめた。


「私たちにあなたのおすすめの海、紹介してくれないかな。ここって海に近いんだもの、そういう場所、あるでしょ?」


 二人は黙って視線を交わしていたが、言葉のない戦いは、明らかに白倉さんの方が優勢であるようだった。そしてその結果、司くんのにべもない拒絶という私の予想は外れることとなった。ややためらった後に、彼は小さくうなずくと、自宅の扉に鍵をかけて住宅街の裏側へと歩き出す。私と白倉さんは肩を並べると、黙って司くんの後ろをついていった。




 十分も歩くと、前方にはうっそうとした松林が見えてきた。木々の間を抜けてくる熱い風の中に、いつしか潮の匂いが含まれていることに私は気付く。やがて林は、左右にそびえる茶色の幹に挟まれたトンネルとなり、前方にはわずかに光の出口が見えた。

 私は誰の足跡もついていない新雪の上を歩くように、松の枯葉をそっと踏みしめた。司くんのおすすめの、大切な海。きっと彼は、この回廊を凛ちゃんと何度もくぐり抜けたのだろう。その道を司くんは、今度こそ隠すことなく私たちに教えてくれている。


 そして松林を抜けた私たちは、目の前に輝く空と海と風を見た。絶えることなく押し寄せてくる波は荒く、私の心を強く揺さぶる。白倉さんは黒い髪を海賊の旗のようになびかせながら、感嘆の声を上げた。


「うわあ、すごい。玄界げんかいなだもこうしてみると、日本海とひと続きだって実感できるわね」


 その入江は地元では穴場的な場所なのだろう、人影はまばらで、ただ潮騒しおさいだけが繰り返し響いている。右手には白い護岸とその上から突き出している大小さまざまな帆が見え、そこがヨットハーバーだということが知れた。左手に目を移すと、深緑の木々を冠した小さな半島が、遠く北の大陸へとその手を伸ばしている。


 司くんは今まで歩いてきた岩壁の端に座ると、両足を海の方へと投げ出して、大きく伸びをした。


「先輩たちもどうですか。元寇げんこう防塁ぼうるいというわけにはいかないですけれど、ここの壁もなかなか高くて見晴らしがいいですよ」


 白倉さんが私の脇を肘でつつく。私はちらりと彼女を見ると、黙って彼の隣に座った。そして白倉さん自身はといえば、私たちから少し離れたところに屹立きつりつしたまま、腕を組んで遠く海を見ている。


「あの、司くん」


 我慢できずに声をかけた私に、彼は照れたように頭を下げた。私と同じように、気まずいままで夏休みを迎えたことに、後ろめたさを感じていたのかもしれない。慌てて頭を下げ返す私を、白倉さんが横目で面白そうに見ている。両手を後ろについた司くんは、まぶしそうに目を細めて水平線を眺めた。


「凛、海が好きだったんです。最後にいた病院も海のすぐ近くだったから、あいつ意外と入院生活が苦にならなかったみたいで。景色がよくてむしろ気に入ってる、なんて言ってましたよ。そんなわけないのにですね」


 うなずく私の顔を見て、司くんは少し笑った。


「外泊許可も出るくらいに、あの八月のころは本当に調子が良かったんですよ。環季先輩が見た写真も、その時に撮ったものなんです」


 確かに、写真に切り取られた凛ちゃんの笑顔は、夏の日差しにも負けないほどに快活そのものだった。それでも、透き通るような彼女のあの白い肌は、長い入院生活の結果であったのだろう。


「九月にあいつがいなくなってからの生活は、俺にとってはおまけみたいなものでした。学校も部活も、勉強も遊びも、全くつまらなくて。実際、バスケは退部してしまいましたし」


「そっか」


「生徒会長も辞めようと思っていたんですよ。先生に事情を話せば、それはきっと受理されるに違いありませんでしたから」


「……でも、中学を卒業するまで続けたんだよね」


「凛が言ってたんですよ。お兄ちゃんは馬鹿だけれど、生徒会長をしているときだけはかっこいいって。だから結局、生徒会長は辞めませんでした。途中で辞めたりしたら、あいつ絶対怒りますから。怒ると本当に怖いんですよ、凛は」


 司くんは海に顔を向けたままで、その声を少し大きくした。


「だから俺、会長が生徒会に誘ってくれた時、本当は嬉しかったんです。凛が、もう一度やんなさいよ、って言ってくれているような気がして」


 私ははっとして、白倉さんを振り返った。司くんの声は彼女にも届いているはずだが、白倉さんは無表情な顔を海に向けたまま、ただ潮風に髪を遊ばせている。


 何という事だ、彼女の新生徒会での初仕事は、司くんを勧誘したあの時にすでに始まっていたのか。妹さんを亡くして途方に暮れていた司くんを再び生徒会に参加させること、それが彼を立ち直らせるためのきっかけになればいい、そんな思惑を白倉さんは持っていたに違いない。司くんを生徒会に誘った理由が「経験者だったから」とは、そういう意味だったのか。


 私は白磁のように輝いている白倉さんの横顔を見つめた。司くんのこの一件でも証明されたように、彼女の行動にはやはり必ず理由がある。それならば、白倉さんが私を生徒会に誘った理由とは何だろう。今それを尋ねれば、彼女は私に答えてくれるだろうか。


 私は頭を一つ振ると、司くんへと向き直った。私にこんなに依存されては、白倉さんもやりづらいだろう。彼女が与えてくれた司くんへのチャンス、私は私自身のやりかたでプラスに変えてみせる。


「ねえ、司くん。凛ちゃんって、身長はどのくらい?」


「え、身長ですか。心臓が悪かったせいかそんなに伸びなくて、百四十ちょっとでしたが」


「そうか。それじゃあね、好きな食べ物は?」


「アイスクリーム」


「ばっかねえ、アイスが嫌いな女の子なんていないじゃない。もっと別の」


「じゃあ、お好み焼きかな?」


「ああ、可愛い。後はそうね、好きな音楽とか」


 質問攻めする私を、司くんは怪訝けげんな表情で見た。


「あの、環季先輩。どうしてそんなに凛のことを訊くんですか? 俺の周りの人たちはみんな、腫れ物にでも触るように、凛の話はなるべく避けているのに」


 私は司くんの右腕をつかんだ。まだまだ、全然足りないよ。


「私ね。凛ちゃんのことを、もっと知りたいの」


 戸惑う司くんの目を覗き込みながら、私は催促する。


「パスタ食べながら話したじゃない。遠く離れたってその人のことを想い続けていれば、過去になんてならないって。凛ちゃんについて詳しくなればなるほど、私も彼女をより身近に感じられるんだ。だからどんな小さなことでもいい、たくさん教えてくれるかな」


 司くんは一瞬呆然とした。


「……俺。いつまでも凛のことを引きずってちゃだめだ、忘れなきゃって」


「忘れるなんて、一番しちゃいけないことだよ。いつも一緒なんだよ、好きな時に会えるんだよ。君も凛ちゃんも、独りなんかじゃない」


 だが私たちは、その裏側にあるもう一つの真実にも気付いていた。小説の人物が心の中で生きていて、大切な言葉を伝え続けてくれることもある。記憶の底に隠れた歌が、くじけそうなときに勇気づけてくれることもある。それでも、失ったという気持ちは消えない、消してはならない。人間に痛みという感覚が与えられているのは、それを忘れないためなのだから。


「ありがとうございます、環季先輩。それでも、俺」


 司くんは私の肩に頭をもたれかけた。うつむいて震える彼を、私は左腕で抱き寄せる。


「凛の声が、聞きたい」


「そうだね。悲しい、悲しいよね」


 私たちは寄り添ったまま、誰にもはばかることなく泣いた。痛いときに泣く。こんな当たり前のことが、今までの私たちには出来なかった。自分を粗末に扱って、冷めたふりをするのはもうやめよう。大人になるって、そういうことじゃないはずだから。

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