第九章 コンフェッション

先延ばしの代償

 光陰矢のごとしとはよく言ったもので、高三の二学期は瞬く間に過ぎていった。文化祭と体育祭、四回の校内模試、それにいくつかの生徒会の仕事。それらを経た本日の終業式も、白倉さんのまとめの言葉と受験生へのエールとで成功裏に終了した。もっとも、例年は高二の生徒会長が高三の受験生を応援するという形式であるのに、今年に限っては受験の当事者である白倉さんが同学年の友人を激励するという、なんとも変則的な事態となってはいたが。もちろん、高三全員の士気がこの上もなく高まったのは言うまでもない。


 生徒会室も冬休み中は施錠されてしまうため、年末大掃除の機会は今日しかない。書類の整理や床拭きなどをあらかた終わらせた私は、冷蔵庫の奥にクリスマスケーキをそっと隠すと、独り笑みを漏らした。またしてもケーキか、馬鹿の一つ覚えだと笑われそうだが、ジャンクフード派の私と違って、白倉さんと司くんの二人はこちらのほうが好物なのだから仕方がない。今年は二学期の終業式とクリスマス・イブが重なっていることもあり、他の多くの生徒と同様に、私も自分の心の浮つきを押さえきれずにいた。


 十二月も下旬ではあるが、エアコン完備の室内は十分に暖かい。私は額の汗をぬぐうと、扉続きであるシャワー室の掃除に取り掛かる。少しくすんだ洗面台をスポンジでこすっていた私は、隣の部屋に誰かが入ってくる気配を感じた。半開きのドアの隙間から聞こえてきたのは、慣れ親しんだ白倉さんの声だ。待ってました、と出ていこうとした私の足は、彼女の言葉でぴたりと止まった。


「何かしら、金澤くん。私と二人だけで話がしたいって」


 どうやら白倉さんは、司くんと一緒だったらしい。それにしても、二人だけとはどういうことだろう。それが私に聞かれたくない話であれば、もちろん盗み聞きなんてするべきじゃない。だがその思いとは裏腹に、出ていくタイミングを失った私は、扉の裏に隠れて耳をそばだてることしかできない。


「八尋さんがいないところでっていうのは、感心しないわね。生徒会は三人そろって一つの組織だってこと、金澤くんもわかっているはずだけれど」


「ええ、会長。だからこれは、生徒会の仕事についての相談じゃありません」


 漏れ聞こえてくる司くんの声がこわばっているのが、離れている私にも伝わってくる。


「個人的な相談ってわけか。でもそれならなおさら、八尋さんの方が適任……」


「白倉先輩。俺と、付き合ってくれませんか」


 私の全身が震えた。司くんが他の誰かを好きになる。私が意識的にあるいは無意識に頭の中から追い払っていただけで、それはもちろんありえない話ではなかったのだ。かつてラジオから流れてきた石田さんの言葉が、私の頭の中で反響する。告白というものは、早い者勝ちみたいなところがあるからね、と。

 私は司くんに完全に先を越されてしまったことを悟った。しかもよりによって、相手はあの白倉さんなのだ。もはやこれ以上は何を聞いても絶望だというのに、私は渦に巻き込まれた難破船のように、二人の会話にずるずると引き込まれていく。


「金澤くん、何か勘違いしてない? こんな言い方はあれだけれど、私は誰にでもいい顔をしているだけ。私にとっては君も他の人と同じ、特別な存在じゃない」


「先輩はそうでも、俺は違います。それに俺だって、恩義と恋愛感情の区別くらいはついているつもりです」


「ふうん……本気なんだ」


「受験が近いこんな時期に、迷惑なのはわかってます。でも先輩、もうすぐ卒業だし。今言っておかないと、ずっと後悔すると思って」


 君は偉いよ、司くん。いくら理屈をこねたって行動に移さなければ、それはなかったも同じだ。彼に告白もせずにあいまいな日常を過ごしていた私は、どこか高をくくっていたのかもしれない。司くんの悩みを知ったことで、彼のすべてを分かったつもりになっていたのか。息苦しさに胸を押さえた私の耳に、白倉さんの押し殺した声が響いた。


「金澤くんって、本当にだめね」


「……どういう意味でしょうか」


「君は有能で心根も優しいけれど、女の子を見る目はまるでないわね。よりによってこの私に告るなんて」


「俺って、そんなに見込みないですか」


「厳しい言い方して悪かったわね、告白って勇気がいるはずだものね。君だって、よくよく考えてのことだとは思う。でも」


 その一瞬の沈黙が、私には永遠にも感じられた。


「ごめんなさい、返事はノーよ」


 司くんがぽつりとつぶやく。


「そう、ですか」


「私、昔から好きな人がいるんだ」


 私はこの期に及んでようやく、白倉さんに対する自分の身勝手さに気付いた。思えばこれまで私が知ろうとしてきたのは、司くんのことばかりだった。自分の事はあれやこれやと白倉さんに話すくせに、私の方からは彼女に近づくこともしなかった。白倉さんにも誰か好きな人がいる、そんな当たり前の事にすら思い至らなかったことに、私は愕然とする。友達だと言いながら、私は彼女を自分の鏡として利用してきたに過ぎなかった。


 きっと私は、白倉さんにずっと寂しい思いをさせていたのに違いない。私の気持ちを分かってくれない、と彼女に言われたことも、むしろ当然だという気がする。決して彼女に関心がなかったわけではない、外の世界に適応することで精いっぱいだったのだ、などというのは言い訳にもならない。


「そうだったんですか。知らなかった」


「当然だよ、誰にも話したことないから」


「その人に告白、しないんですか」


「ふふ、できなくなったんだ。その人に、別に好きな人がいるって知っちゃったからね。今の金澤くんと同じだよ。だから君の気持ち、よくわかる」


 私はすっかり混乱していた。私が想いを告げないままでいるうちに、司くんは今まさに白倉さんに振られてしまった。そして白倉さんは、どこかの誰かにすでに振られていたのだという。他人に同情する余裕などあるはずもないのに、彼ら二人の心の痛みが想像できて、私は涙がにじんでくるのをどうしようもなかった。


 かすかなため息の後に、司くんの朗らかな声が続いた。


「ありがとうございます、気が済みました。かなわぬ恋でもずっと好きだって先輩がいうくらいの人だったら、到底俺がかなうような相手じゃなさそうだ」


「私は今の自分に納得しているけれど、君は私みたいにはならないほうがいい。悪いことは言わないわ、早く新しい恋を見つけることね」


「そんなにすぐには割り切れませんよ。俺の性格、知っているでしょう? せいぜい家に帰ってうじうじと悩ませてもらいますよ、凛には笑われるかもしれませんけどね」


 司くんの乾いた笑い声は、白倉さんの厳しい口調に遮られた。


「金澤くん。言うまでもないとは思うけれど、今のことは誰にも口外無用よ。特に、八尋さんには」


「もちろんです、わざわざ自分の恥をさらすような真似はしませんよ。環季先輩に話そうものなら、生まれて初めて振られたね、って大笑いされるに決まってますから」


「……ここにも、相手の気持ちが全く分からない馬鹿が一人か」


「え、何です?」


「ううん、こっちの話。それじゃあ金澤くん、三学期もよろしく」


「はい、会長。最後までよろしくお願いします」

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