タイム・ゴーズ・バイ

「ああ、もう! 高二までは環季といい勝負してたのに、どうしてよ!」


 白倉さんは椅子に座るや否や、リュックの中から期末試験の成績表を取り出すと、それを周囲に盛大にぶちまけた。


「まあまあ、私はサブ教科の芸術が良かったから」


 なだめる私を彼女は涙目でにらみつける。


「それを言うなら、期末の点数には体育も含まれているんだから、私に超有利なはずじゃない。それがどう、ふたを開けてみれば頼みの数Ⅱですら環季に負けるなんて。あなた明日から、私につきっきりで勉強教えなさい!」


「いや、会長に教えることなんて本当に何もない。誤差ですよ、誤差」


「誤差でこんなに差がつく? あり得ないったら」


 白倉さんはばんばんと机をたたいて駄々をこね続ける。この負けん気の強さが彼女の原動力なのだろうが、それを向けられた方はたまったものではない。


「ほ、ほら、見てください会長。三位の人なんか、こんなに離れてますって」


「三位なんかどうでもいい! 私は上にしか興味ないんだから!」


 だめだ、取り付く島もない。仕方がない、こういう方法は教育に良くないとわかってはいるのだが。


「まあまあ、会長。試験お疲れさま記念に、冷蔵庫にケーキありますよー」


 机に突っ伏していた白倉さんの耳がぴくりと動いた。


「え、マジ?」


「駅前のファンテーヌってケーキ屋さん、知ってます? モンブランのデラックスな方、奮発して買っちゃいました。これを食べたら、休み明けの課題テストでまた私とファイトする元気が出ますか?」


 彼女はがばりと身を起こすと、背筋を伸ばして私に現物を所望した。


「出る、出るともさ! さあ、君の話すところのモンブランとやらを、早くこの私に見せてくれたまえ」


 なぜにイギリスの某名探偵口調なのかといぶかしがりながら、私は備え付けの冷蔵庫から白い箱を取り出した。


「これはさすがに良心の呵責かしゃくに耐え兼ねましたので、私の自腹です。心して味わってください」


「もう、あなたって本当にできる書記だわ。どれどれ……おお凄い! 山というか、もはや花だよね、これは。本物の栗も丸ごと乗っかってるし」


「えへへ、実は私も食べるの初めてで。それじゃ、紅茶も入れましょうかね」


 白倉さんの喜ぶ顔に満足しながら棚からティーカップを取り出す私の背中に、彼女の笑いを含んだ声が聞こえてきた。


「へえ、それにしても」


 どきりとして振り向いた私の目に、好奇の色をたたえた白倉さんの瞳が映る。


「な、なんですか」


「きっちり三人分あるじゃない。ちょっと二人の間の空気が変わったような気もするし。あなたたち、何かあった?」


 白倉さんが言うあなたたちとは、すなわち私と司くんに他ならない。私は顔のほてりを鎮めるために、カップをわざと乱暴に机に並べた。


「何かって、何ですか! 司くんも期末試験だったんですから、ね、ねぎらってあげて、当然ではないですか」


「むきになるところが怪しい」


 かちーん。元はと言えば、白倉さんが男の子と二人きりで仕事に行かせりしたからじゃないか。知らない人と一緒なんて、ハードルが高いから嫌だって言ったのに。それに司くんと二人になったことについては、まったくの事故だったんだから。

 私は唇を尖らせると、白倉さんの目の前にあるケーキの皿を下げ始めた。


「そんな勘繰りをされるくらいなら、モンブランなんてない方がよかったですね。あートラブルの元だわ、さっさと片付けようっと」


 白倉さんは慌てて自分のケーキを両腕で抱え込んだ。


「ちょ、冗談よ。ただ、役員同士が仲良くしてくれるなら、それに越したことはないなって思っただけ。ほら、機嫌直してケーキ食べよ?」


 私はため息をつくと、彼女のカップに熱い紅茶を注いでやる。


「まったくもう。機嫌を損ねていたのは、私じゃなくて会長の方じゃないですか」


 司くんとメルアドの交換をしたあの日の一件以降、私たちの関係が変わったかといえば、別に何も変わらなかった。つっけんどんだったり、嫌味を言って私をからかったり、たまに笑ったり、いつもの司くんだった。私の方も、知らんふりをしたり、皮肉で返したり、紅茶を入れてあげたり。その変わらない毎日が、私には嬉しかった。思い出になんてさせない、思い出にならないくらい当たり前の日常を一緒に過ごしてやるんだ。


 白倉さんはモンブランをフォークの先でちょいちょいとつつきながら、ぼそりとつぶやく。


「ところでさ、環季」


「なんですか」


「あなたの第一志望って、やっぱり九州帝大の医学部?」


 生徒会に入って三か月になるが、白倉さんと進路の話をしたのはこれが初めてだった。高三という私たちの立場を考えれば信じがたいことかもしれないが、お互いにその話題にあまり興味がなかったからなのか、あるいはなんとなく避けていたからなのか。


「まあ、そうですね」


「なるほど。あなたのお父様も、確かそうだったよね」


「さすがのリサーチですね。でも、父が卒業した大学だからというわけではなく、単に家から一番近い国立だから、というのが理由ですが」


 私はわざと的外れな答えを返した。面接試験で志望理由を聞かれて、家から近いからです、なんて答えたら、それこそ一発で落とされるに違いない。だが、ほかの答えはすぐには思いつきそうにもなかった。そして白倉さんは、やはりその先を聞いてきた。


「お医者さん、なりたい?」


「なりたいかと言われれば、よくわかりません。というか、なりたいものなんて今まであったのかな? ただ、私が身近で見たことがある職業がそれしかなくて」


「そっか」


 紅茶をかき混ぜる白倉さんは、どこか浮かない表情だ。こういう彼女は珍しい。あるいは、私の答えが期待外れだったせいなのかもしれない。それはそうだ、こんなふわふわした考えが彼女の参考になるわけがない。本当に私は役立たずだ。


「駄目ですよね、こういうのって。もっと、病気の人を助けたい、なんてきちんとした動機があればいいんですけれど。あれもできない、これもできないって言い訳ばかりしている私に、そんな資格があるのかな」


 白倉さんは紅茶に口をつけると、立ち昇る湯気越しに優しいまなざしを向けた。


「ううん。環季、お医者さんに向いていると思うよ」


「どこがですか。コミュニケーション能力には乏しいし、感情のコントロールがうまくないし。人の気持ちだって、やっぱりよくわからないし」


「だからいいんじゃない。あなたって、いつも一生懸命。悩んで、迷って、それでも少しでも相手とわかり合いたいって思ってる。あなたは人を信じることができるし、人に信頼される素質があるわ。それって、何よりも重要なことじゃない?」


 嬉しい。嬉しいんだけれど、白倉さんの言葉はあまりにも自分の認識とギャップがありすぎて。もっといい自分になりたいとは思っているけれど、何をどうしたらいいのだろう。


「やっぱりわかりません、自分では」


「早い話、そのままでいいってことだよ」


 白倉さんはさらりと言うと、モンブランとの格闘を再開した。人の心をさんざんかき乱しておきながら、おいしそうにケーキを頬張る彼女が小憎らしくなって、私も同じ質問を彼女にしてみる。


「で、会長はどうするんですか? 進路」


 取るに足らない世間話でもするように、彼女はぼんやりとした口調で答えた。


「どうしよっか。環季、決めてくれない?」


「何、冗談言ってるんですか。受験まであと半年なんですよ」


「冗談なんかじゃないわよ、本当に迷ってる。決まってるのは理系の学部ってことだけ」


 白倉さんは弱々しく笑った。これも、いつもの彼女にはないことだった。


「あの、ご両親はなんと?」


「やりたいことがないのなら、どの学部でもいいからとりあえず東京帝大に行っとけって。それなら就職でも留学でも選択枝が広いから、なんてうちの親は言ってるけれどね」


「まあ、合格できる実力があるのなら、間違いないのは東京帝大か九州帝大の医学部ですよね。うちの学校のトップレベルは、決まってどちらかですから」


「ふん。成績で進路を選ぶって、私には不純な動機に思えるけれどな。でも、学生が最高、なんて言ったら怒られるわよね。あー、一生ずっと生徒会長やっていたい」


 退屈に飽きたように、白倉さんは大きな伸びをした。その瞳も仕草も、やはり猫そっくりである。こういう無防備な姿の彼女を独り占めできて、なんだかみんなに申し訳ない気分だ。


「ふふ、会長は変わってますね。私も会長は会長しか考えられないですけれど、そうも言っていられない時が来ますよね」


 もちろん浪人なんかごめんだけれど、でも、いつまでも受験が終わらなければいいのに。そんなことを考える自分は、やはり白倉さんに甘えているのだろうな。部屋の外に出たくない病が再発して、生徒会から出たくない病にランクアップしているのかもしれない。そんな私の横顔を見ていた彼女は、背もたれをぎしりときしませて天井を見上げた。


「でも、そうねえ。どうしても卒業しなきゃなんないっていうのなら、環季と一緒のところに行こうかな」


「え。会長も医学部に?」


「医学部はともかくとして。友達と一緒の学校に行きたいって、立派な理由にならない?」


 正気か、この人。大学だぞ、小学校じゃないんだぞ。


「そんな安易な。私、会長の人生を狂わせたくありませんよ」


「いいじゃない、自分で決めるんだから。どんな進路でも選べるようにと思って、私は勉強を頑張ってきたわけだし」


「その結果が私ですか。もっと自分を大切にしてくださいよ」


 私は頭を振ってため息をついた。私をからかって面白がるのは、彼女の悪い癖だ。そんな白倉さんは何を考えているのか、にこにこと笑っている。


「まあ出願は統一テストが終わってからだし、ぎりぎりまで考えておくかな」


 まったく、変な冗談ばかり言って。まあこれほどの余裕でいられるのも、どんな大学でも選べる優等生の強みというやつか。


「みんな受験でぴりぴりしてきてますから、誰かに聞かれでもしたら嫌味だって睨まれますよ。頭がいいっていうのも考えものですね」


「環季、あなたには言われたくないんだけれど。あ、成績のことを思い出したら、また納得いかなくなってきた。ちぇっ、モンブランで忘れてやる」


 どうして私のことになると、こうも子供っぽいのか。私は苦笑しながら、彼女のカップに紅茶を注ぎなおした。


「どうぞ、ゆっくり召し上がってくださいな」

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