写真の中の麦わら帽子
「で、金澤くんは? 終業式はとっくに終わったし、もうホームルームから出てくる頃だと思うけれど」
「さあ、どうしたんでしょうね」
ちょうどその時、ばたばたと廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。生徒会室の前で校則違反とは、なかなか大胆な奴だ。一つその顔を拝んでやるか、と引手に手をかけようとした私の目の前で、部屋の扉が勢いよく開かれた。あわただしく飛び込んできたその人物と私の顔同士が、危うくぶつかりそうになる。
「わあっ」
「おっと、環季先輩ですか。すいません、びっくりさせて」
まさか校則違反者が司くんだったとは、副会長が廊下を走っちゃだめでしょうが。いや、そんなことを言ってる場合ではなくて、とにかくちょっと離れて欲しい。君の顔のアップは私に対しては特殊効果持ち、与えるダメージが通常の三倍なんだよ。目を回している私の両肩をつかんだまま、司くんは室内を覗き込む。
「ちょっと急いでて。会長は?」
腕を組んだ白倉さんは、これ以上はないという仏頂面を司くんに向けた。
「私ならここにいるわよ。何だか火急の用件みたいだけれど、まずは八尋さんから手を放さないと、あなたの話なんか聞いてあげないから」
司くんはようやく気付いたのだろう、両手をあわてて離すと、ばつが悪そうに二歩ほど下がった。
「あ、触ったりしてすいません、先輩」
「わ、私のほうこそ、触られてごめんなさい」
「ちょっと八尋さん、どうしてそこであなたが謝るのよ」
白倉さんは
「なんですか会長、そんなに怖い目で睨まないでくださいよ。ただの事故なんですから」
「男の子ってすぐにそんな言い訳しがちよね、事故かどうかは被害者が決めるべきじゃないかしら。ねえ八尋さん?」
「あ、え、事故というか、事案というか、事後というか」
白倉さんはあきらめ顔で肩をすくめた。
「だからそのテンパり癖やめなさいって。で、どうしたの、金澤くん」
あ、と思い出した様に司くんが口調をあらためた。
「実は、うちの学年の奴らがちょっといざこざ起こしてて。その、お互いに手が出たらしいんですが」
白倉さんはすうっと目を細めると、腕を組んで早くも思索を巡らせ始める。
「へえ、青春ね。どちらも大きな怪我はしていない?」
「ちらっと見た限りではそのようでしたが。それでも先生たちが介入するより先に、俺達で事情を確かめておいた方が良くはないかと」
司くんの提案に、白倉さんは大いに満足したようだった。
「さすが生徒会長経験者、賢明ね。怪我をしたうえで先生に事情を聴かれたら、保護者の方に連絡しないといけなくなるからね。まあ、本人たちがどこまで大ごとにしたいかにもよるけれど」
「それで会長、一緒に来てもらってもいいですか」
白倉さんはふむんと一つうなずくと、立ち上がって制服の上着に袖を通した。
「了解。まあ一昔前なら、喧嘩の一つや二つ、というところでしょうけれど、もうそんな時代じゃないしね。過剰になりがちな被害者意識も、世間一般の認識も」
これまでも先生と保護者を相手取るために、白倉さんにもそれなりの苦労があったのだろう。生徒会を最強にしたい、と私を勧誘した時に彼女は語ったけれど、それはあながち冗談ではなく、生徒会が活動の自由を確保するための彼女の本音であったのかもしれない。
「それじゃあ、急いで行きましょうか。金澤くん、あなた腕に覚えは?」
「冗談でしょ、武力介入なんて
「よし、とりあえず事情聴取といきますか。八尋さん、留守番お願いね」
部屋から出て行こうとする白倉さんに、私は慌てて追いすがる。
「え。私も何か、お手伝いを」
彼女は片手で軽く私を制すると、笑いながら言った。
「それこそ武力介入が必要になったらお願いするわ、狂犬さん」
「もう。やめてください、それ」
白倉さんと司くんは連れ立って扉の向こうへと駆け去っていった。だから走っちゃ駄目なんですってば、と頬をふくらませた私は、少し寂しい気持ちで部屋の片づけを始める。
でもあの二人、
放り出されたままの司くんのリュックを持ち上げた私は、大きく開いた開口部から何かが床に落ちたのに気づいて、慌ててそれを拾い上げた。L判の用紙が、細長く折られた白い紙にクリップで止めてある。これって、写真と
女の子だ。大きな麦わら帽子に白いワンピース。肩下まであるストレートの黒髪を風になびかせ、海を背にして一人で笑っている。風に飛ばされないようにと帽子を押さえた右手も、ひさしの影になった顔も、露出した肌はすべて透き通るような白さだった。私よりも少し年下に見えるのに、彼女のたたずまいには、どこか大人びた雰囲気が感じられた。
誰だろう。あれだけ女の子と遊ぶのに割り切った態度をとっていた司くんが、特定の誰かの写真を大事に持ち歩いているということが、私には解せなかった。この写真の中の女の子が彼にとってそれだけ特別な存在らしいということが、私をひどく動揺させていた。変だ、どうして私がこんなにうろたえる必要がある。私は司くんの何でもないし、司くんも私の何でもない、はずなのに。
私は震える指でクリップをはずすと、白い紙片を開いた。それは予想通り、便箋に書かれた手紙だった。もちろん、私のその行為は許されるはずもなかった。この写真と手紙は、明らかに司くんの大切なものに違いないのだから。それを盗み見ようという己の浅ましさに恐怖しながらも、自分の気持ちを殺す方法を私はついに思いつかなかった。
手紙に書かれていた文字が司くんのものだということは、彼からの報告書に普段から慣れ親しんでいる私にはすぐにわかった。つまりこれは、司くんが写真の女の子にあてた手紙に違いない。私は荒くなった呼吸を押さえることができないまま、手紙の文字を目で追った。
今の俺のありさまを見たら、お前は俺のことをだらしないと怒るだろうか。
でも凛のことだから、何も言わずに、ただあきれて笑うだけかもしれない。
お前はいつもそうだった。別れの言葉でさえも、ずっと隠したままで笑っていた。
もちろん俺はそれに気付いていたが、お前が去っていくのをどうすることもできなかった。
返事はもらえないとわかってはいるが、今年もやはり手紙を送る。
一緒に付けた写真は、ファイルを整理していて最近見つけたものだ。お前の写真の中では、多分一番新しいやつだと思う。
もう一度、凛の声が聞きたい。
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