第七章 セパレーション

夏の予感

「お送りした曲は、マサチューセッツの一九八八年のファーストアルバムから、ウェーブ・アクロス・ザ・ブルーコーストでした。七月も一週間を過ぎました、今週は夏に関連した曲にスポットを当てています」


 英語の長文問題を終えて一区切りついた私は、水滴の付いたグラスから麦茶を一口飲んだ。窓を全開にしているのに、夜の生暖かい空気は微動だにしない。九州でも内陸に位置している我が街は、すでに全国でも有数の暑さを記録している。さすがの私もいつまでも長ジャージで過ごすわけにはいかず、薄手の半そでシャツとショートパンツに衣替えをして、なんとかしのいでいる次第だ。

 だがどうという事はない、ラジオから流れるAORの透明感に満ちたメロディが、私の精神をけだるい肉体から引き離してくれる。部屋に居ながらにして夏のビーチサイド・サンセットを味わえるのだ、これで勉強がはかどらないわけがない。


「さて、今夜は素敵なゲストをお招きしています。様々なメディアでブレイク中、若手女優の最右翼。この方、キャシー吉田さんにスタジオにお越しいただきました。拍手!」


「こんばんはキャシーです、ナイストゥーミーチュー」


「エルミタージュに、よう来んしゃったね。ばりばりの地元放送局やけん、何のお構いもできんけど、ゆっくり楽しんでいかんね」


 石田さんのいきなりの方言に、キャシーさんが弾んだ声で笑った。


「あはは、懐かしい! ちゃんと私の事、調べてくれとったとね。なんか、恥ずかしいっちゃけど」


「おお、まだ方言話せるんですね。リスナーの皆さん、お聞きいただいた通り、キャシーさんは地元福岡県の出身なんです。意外と知られてませんよね、これ」


「そうですね、私が福岡に住んでいたのは中学生までだったので。その後両親の仕事の都合で上京することになって、せっかくだからオーディション受けようかなって、そんな感じのデビューでしたから」


「ここ二、三年は多くのドラマや映画に出演されて、九月からのテレビドラマでは、なんと主演を務められるとか」


「そうなんです。で、今回たまたま福岡での撮影がありまして。今日はちゃっかり番組の宣伝をさせてもらいに来ました」


「いえいえ、こちらこそラッキーてなもんです。でもそれじゃあ、ひょっとして福岡の思い出ってあまり残っていないのでは?」


「凄くたくさんありますよ。久しぶりに昔の友達と会えたんですけれど、本当にみんな変わってなくて。今みたいな方言トーク、ばり楽しかったです。あ、ちょっとわざとらしいですか?」


 確信犯的なキャシーさんの言葉に、石田さんが笑い返す。


「いえいえお心遣いありがとうございます、最高のご褒美ですよ。確か、福岡の市内にご実家があったとか」


「そうなんです。でも街並みも昔のままのところが多くて、いつも通っていたとんこつラーメンを食べに行ったりとか。撮影がおまけみたいな感じで、申し訳ないくらい楽しんじゃいました」


 ほっこりするなあ。私はそれこそ、愛校心や郷土愛などといった集団への帰属意識にはまったく欠けているという自覚があるのだが、同じ何かを知っているという人には、やはり共感するものがある。行き過ぎたナショナリズムは有害に違いないが、同好会程度ならば許されるだろう。とんこつで細麺でバリ硬、私も大好きだ。


「さて、そんなキャシー吉田さんに、番組恒例の質問コーナーに参加していただこうと思います。毎回適当な二択問題に答えていただいて、それをもとにゲストの方の人柄を探っていこうという趣旨なのですが」


「えーこわい。心理テストみたいですね」


「いえ、ちょっと大げさに言ってみただけです。それではキャシー吉田さんに質問です。あなたは山派、それとも海派?」


「うわー、これ悩む。夏が近いからこういう質問なんですね」


「その通りです」


 スタジオも茶の間のこちらも、しばしの沈黙。


「うーん。どちらかといえば、やっぱり海、かな?」


「ほう。その理由は」


「うまく言えませんけれど、ほら、山って何かをゲットするために行くっていうか。森林浴みたいな自然のオーラとか、頂上に登ったときの達成感とか、登山道を攻略する楽しみだとか」


「なるほど。して、海は?」


「海はですね、何かを捨てに行くところだと思うんですよ」


「おお、なんだか深い回答ですね。どういうことでしょうか」


「例えば、鬱屈うっくつしたやるせなさだったり、恥ずかしい思い出だったり、忘れられない痛みだったり。そういう、日頃はなかなか手放せないものが、広い海を目の前にするとばかばかしく思えて来て。どうでもいいやーって、くよくよしている自分を脱ぎ捨てられるんじゃないかなあって。私もそれなりに悩んだときは、よく百道浜ももちはまなんかに行ってましたよ。だから私は、困った時に助けてくれた海に一票です」


 あらかじめ用意されていた拍手の効果音に、石田さんとみやじーの本物の拍手が混じる。


「いやあ、とても素敵なお話になりました。そうですね、福岡にはきれいな海がたくさん残っていますからね」


「海の話してたら、なんだか行きたくなりますね。能古島のこのしまに行く時間なんてないかなあ」


「ブースの向こうで、マネージャーさんがだめって身振りしてますね」


「えー、けち」


「そんな多忙なキャシーさん、お仕事のほうもきっちりお願いします」


「あ、そうでした。じゃあ、番宣を。『エンゼルフィッシュと海牛と飛行機雲』、九月より各局でオンエアーされます。私演じる主人公と漁師のウミウシ君が喧嘩しながら仲良くなるお話、よろしくどうぞ。みんなが知ってる福岡の海も見れますよー」


「うまくまとまりましたね。それでは、これからも益々のご活躍を期待しております。福岡にまた来られた時には、このエルミタージュに優先してご出演の程、お願いします」


「もちろんいいよね、マネージャー。お、オッケーだって。それじゃ石田さん、みやじーさん、リスナーの皆さん、楽しいひと時をありがとうございました。シーユーアゲイン」


「キャシー吉田さんでした、もう一度拍手!」


 ぱちぱち、ひゅーひゅーという効果音がフェードアウトして、コマーシャルが流れ出す。


 山と海か。私もどちらかといえば、海かな。山というのは、すでに親しくなった人たち同士が出かける場所のようなイメージがある。それに対して果てしなく広がる海は、内省的な気分に自分を導いてくれる。自分が必ずしも孤独を好きなわけじゃなかった、というのはこの前の抜き打ちデートで司くんに語ったとおりだが、それでも独りで静かに瞑想する時間というものは、誰にでも必要だと思う。海で告白する、というべたな展開が広く受け入れられているのは、キャシーさんが言ったように、自分の気持ちに正直になれるからなのだろう。それに下衆な話をすれば、海の方が男の子と出会えそうな気がするしね。山で出会えるなんてのは、熊かイノシシくらいなものじゃないだろうか。


 まあ、こんな妄想をいくらしてみたところで、今の私は受験生なのだ。別に一日くらい海に出かけても、それで不合格になるようなやわな勉強はしていないつもりだ。だが私がそうであっても、恐らくは周囲が遠慮して、私をおいそれと海には誘ってはくれないだろう。じゃあ、お互いに受験の結果など眼中にない白倉さんと二人で行くか?

 私の頭の中は、白いバスタオルを素肌に巻いた彼女のシャワー上がりの姿で一杯になった。それはやばい、私の煩悩は海にすら捨てきれそうにない。

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