第三章 パーティシペーション

好奇心は猫をも殺す

 もしも最も得意な科目はと問われれば、私は迷わず現国、現代国語だと答える。理系志望であるにもかかわらず、だ。そしてそう答えると、例えばある人は、あなたは人の心情の機微きびを読み取ることに長けているのだな、などというかもしれない。

 だが現国というものは、小説を鑑賞する類の行為では全くなく、数学と同じく厳格な論理的学問なのである。自分の、あるいは原作者の意図とは全く無関係に、その問題を解いている一般的な生徒にとって最も望ましいと思われる解答に誘導されていく。あたかもそれは多数決のように。結果、現国を勉強すればするほどに、試験テクニックに長じれば長じるほどに、自分のオリジナリティというものは削られ平坦化されてしまう。


 私は昔から、自分はどこか他人からはみだしているところがあるのではないか、という漠然とした恐怖があった。そして実際に、小中学校での生活を通して疎外感を味わってきてもいた。だから現国の問題で正答するたびに、自分の感覚は他のいわゆる「普通」の生徒たちと同じなのだと、つかの間ではあるが胸をなでおろすことが出来た。だが試験終了のチャイムとともに、その一体感は途端に不確かなものとなってしまう。問題を解いている間だけは私は周囲に擬態ぎたいすることが出来るのに、それ以外の現実はどうしてこんなにも息苦しいのだろう。


 現国の過去問五年分を片付けた私は、デスクスタンドだけが照らしている青白い室内で大きく伸びをした。ふと横を見ると、夜も更けてまばらになった街の灯りがイルミネーションのようにまたたいているのが、透き通ったガラス越しに見える。小高い丘の中腹にある我が家は、帰宅こそ上り坂で少しおっくうではあるが、部屋から見える景色は格別であるところが私は気に入っていた。


 そしてイヤホンからは、ラジオを通して石田さんの明るい声が届けられてくる。

 テストとエルミタージュ、私の心の聖堂。


「……というわけで、週明けの月曜日から新学期、という学生リスナーの皆さんも多いと思いますが。春休み最後の週末、残った宿題に追われている人もいるかもしれませんね。みやじーは学生の頃、課題とかどうしてたの?」


 メインパーソナリティーの石田さんの振りに、アシスタントのみやじーが自分の経験を語る。


「不真面目だった僕には、ちょっと耳が痛い話ですね。提出物については、だいたい友達が書いたやつを写させてもらってました。ただ、テストだけはどうにもならないんで。やっぱり、休み明けっていうのは憂鬱ゆううつでしたね」


「でも久しぶりに友達に会えるっていうのは、楽しみでもあるよね。クラス替えなんかもあったりしてさ、ちょっとしたわくわく感が」


「それは確かにそうですね」


 わくわく感か、と私は暗い天井をにらむ。私、本当に書記なんか引き受けちゃったんだな。その理由のほとんどは、生徒会ではなく白倉さん個人の魅力であるわけだが。

 大丈夫。やれる、やれるはず。わくわくというよりはびくびくだが、くよくよするよりは、はるかにましな気分だ。


 ラジオの中の二人の会話がひと段落したところで、いつものメロウなメロディが流れてきた。おっと、もう午後十一時半か。金曜日の夜というものは何か特別な開放感があって、時が過ぎていくのが名残なごり惜しい。


「さて。本日も最後を飾るのは、この『恋の試し書き』のコーナー。文具店においてある試し書き帳のように、恋についての悩み事を不特定多数の方に吐き出そうという趣旨のコーナーです。ちょうど、新学期の話題にふさわしいメールが届いています」


「石田さん、さっそくお願いします」


「それでは、ラジオネーム『放課後ガール』さんからのメールです。こんばんは、石田さん、みやじーさん」


「こんばんはー」


「最近この番組を知りました、初めてメールさせていただきます。私は、今度の四月で高三に進級する女子です。おや、この前もやっぱり新高三の女の子からのメールが来てたよね」


「高校生活も残りわずか、迷える若者たちの悩みを一身に引き受けてますねえ。これも石田さんの人徳というやつですか」


「いいこと言うねみやじー、私も若者ですが。おっと、続きを読まないとね。私には同じ学年にずっと気になっている人がいるのですが、今まで話しかけるチャンスが全くなく、正直焦っていました。そこで思い切って春休み直前に、ダメもとで同じサークルに入ろうと誘ってみたところ、なんとオーケーをもらってしまったのです」


 ひえー、積極的だなあ。恋する乙女の行動力、感嘆するほかない。私が未成年でなければ、度数の高いシャンパンを開けて祝うところだ。


「これまで本当に接点がなかったので、まだ友達未満の関係なのですが、その人は一体どんな気持ちで私の誘いをオーケーしてくれたのでしょうか。ちょっと勘違いしそうで自分が怖いです、第三者の視点からアドバイスをいただければ幸いです。とのことですが、どうかな、みやじー?」


「石田さん、凄いですねこれ。サークルに一緒に入ろうなんて誘うのが、まずもって難易度高すぎませんか?」


「そうだねえ。しかもそこで入ってくれるんだから、『放課後ガール』さんの想い人が、彼女に興味を持っているのは間違いなさそうだね」


「それじゃ、これは脈ありじゃないですか」


 そりゃそうだ、誰だってそう思う。それが友情か、それとも恋愛感情かどうかは抜きにして。


「ただしこの石田から言えるのは、すべてはこれからってことです。なにしろ、お互いに相手のことをほとんど知らないという事ですから。接する時間が増えるにしたがって、いいところと悪いところが少しずつ見えてくるはずです。その一つ一つをいかに大切にできるかどうかで決まるのかな、と」


「なるほど。好きになるっていうことは、相手をもっと知りたいと思うことから始まりますからね」


 そうだ、そうだった。私は、白倉さんのことをほとんど知らない。だが先日のスケートボードの一件で、ほんの一部分ではあるが、私は彼女の人となりに触れることができた。どうやら私は、明らかに彼女に興味があるらしい。おや、これって私、白倉さんが好きなのかな? やだな、彼女に変に思われちゃう。


 と同時に、私の脳裏にもう一人の影が浮かぶ。不機嫌を顔に貼り付けた、新副会長の金澤くん。私はぶんぶんと頭を振った。別に彼のことなんか、知りたくもない。きっと金澤くんのほうも私に対しては同じスタンスなのであろうから、こちらから歩み寄る義理も道理もない。たまたま思い出したのは、私自身が他人と接した機会というものが極端に少ないからに過ぎない。あー、まったくもう。もっと交友関係を広げないと、いつまでも金澤くんのことを考える羽目になってしまうぞ。


 私は思考を現実に戻すために、すっかり冷めた緑茶をぐいっと飲み干した。ラジオの向こうでは、石田さんがメールに対する回答のまとめに入っている。


「いずれにしても、同じサークルに所属するというのは最大のチャンス。『放課後ガール』さんは、これからお相手の人のことを知るにつれて、もっと好きになっていくと思います。チャレンジは始まったばかり。我々、心から応援しております」


「頑張ってください」


「それではこの曲を聴きながらお別れです。アメリカ発の女性バンド、フェローメイデンの一九八四年の大ヒット曲、インビジブル・パスウェイ。それでは皆さん、また来週」


「また来週、おやすみなさい」


 高低の落差のある切ないギターリフと、それに重なるピアノの旋律。曲がフェードアウトすると同時に、私はラジオの電源ボタンに指を触れた。


 週明けは、高校三年生の、そして生徒会活動の始まり。

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