一度しか言いません

「あ……」


 ノー、と言いかけた私の唇が止まった。

 いつも自ら物陰に潜んでいる私がいきなり生徒会書記などになれば、他の生徒たちの好奇の視線は、今回の期末テストのそれの比ではないだろう。そんな毎日に耐えられる自信もないし、第一、私には何一つメリットがない。

 いや、ないのか? というか、白倉さんの方は私に何かメリットを求めているのか? 表向きには彼女は、生徒会を最強にしたい、などと無理やりな理屈をつけてはいたが。

 白倉さんは、先ほど諸永さんとちょっとしたバトルをしてまで、私にアプローチしてくれた。それはきっと、彼女なりに非論理的な行動だったに違いない。それこそ白倉さんには、諸永さんを敵に回してまで私を書記にするメリットなどないのだから。だから彼女の頭の中には、はなから損得勘定など存在していない。ただただ、私と一緒に活動したいのだと言ってくれている。憐憫れんびんや同情からなどではなく。

 理由は、やはりわからない。ひょっとしたら、このフランクでチャーミングな生徒会長の単なる気まぐれなのかもしれない。そうであれば、ふとしたことで飽きられ、呆れられ、捨てられるかもしれない。うまく彼女の口車に乗せられた挙句、余計な傷を心に負うようなリスクを自ら求めるお馬鹿さんは、まさかいないわよね。

 この私、以外には。


「あ、あの。私で良ければ」

「いや、そこを何とか。初対面の私にいきなり言われて、気が進まないのはわかるけれど」


 煮え切らない私の様子を見て、脈なしだと判断しかけていたのだろう。私の返事を聞くのを待つことなく説得の言葉を口に出しかけていた彼女は、驚きに目を見張った。


「え、今なんて」

「二度は言いません、会長。どんなことするのか分かりませんけれど、教えてくれれば、どうにか」


 白倉さんはいきなり立ち上がると、座ったままの私に抱き着いた。おお、めちゃいい匂い。同じ女子高生であっても、私とは絶対に種族が違う。しかし冷静に味わっている場合じゃない、こんな煽情的な場面を戻ってきた同級生に見られでもしたら、私は社会的に抹殺されてしまう。そうなればもはや、書記の仕事を果たすどころではない。


「あの、会長。おい、白倉さん! ちょっと、何やってんです!」

「ストーキングして、誘ってみて、本当によかった。八尋さん、私あなたを絶対に満足させてみせる。後悔なんてさせないから」

「思いっきり危険なセリフを、耳元でささやかないでくださいよ」


 白倉さんはようやく身体を離すと、白い両腕を私の首に巻き付けたままで私の顔を覗き込んだ。


「あはは。でも、オーケーしてくれてありがとう。後悔させないって言ったけれど、私も後悔したくなかったから」


 屈託のない会長の言葉が反響する中で、頭の芯が急に冷えてきた。握った手のひらの内側が汗で濡れて、両膝が小刻みに震えているのが自分でもわかる。

 私、言ってしまった。引き受けてしまった。後悔させないからと笑って勇気づけてくれる白倉さんには悪いけれど、私はすでに後悔し始めている。人から見られるのが怖い。人と深くかかわるのが怖い。そして何より、私に恐らく好意を向けてくれている白倉さんをがっかりさせるのが怖い。

 だから、断るならば今しかない。前言撤回、私には生徒会役員なんて無理。


「会長。私、やっぱり」


 白倉さんは、続きを言いかけた私の唇を人差し指で抑えた。


「私のことなら気にしなくていいよ。これはあなただけの選択、あなただけの人生。ただ、もしあなたが外に出たいと思っているのなら、そのお供に私を選んでほしいだけ。そうでないのなら、これは私の単なるおせっかい」


 私のちっぽけなプライドなんか、彼女にはバレバレだった。自分の呼吸がいつもより早く浅いことに、私はようやく気付く。なんだかふわふわと、トランポリンの上を歩いているような気分だ。


「実をいうと。今になって、とっても不安が襲ってきてます」


 私はようやく、それだけを言った。


「大丈夫、私がついているから」


 白倉さんは、静かに私の瞳を覗き込んでいる。臆病な私が、彼女の前で裸にされていた。恥ずかしくはなかった、ただ踏み出せないだけ。


「そこまでして、私を書記に誘う価値があるんですか」


 白倉さんは、少し怒ったようだった。


「価値。私は、価値なんかで人を判断したりしないわ」


 やっぱり私は馬鹿だ。テストで点数を取ることしかできない、本物の馬鹿だ。


「……失礼なこと言いました、忘れてください」

「そんなことない。いきなり私を信頼してくれっていう方が、無理な話。付き合うに値しないってあなたが判断したら、その時は私を見限ってくれていいから」

「そんな」

「正解なんてない。ただ、選択しないことが間違いだっていうのは、はっきりとそう思う。そうやって私は生徒会長をやってきたし、今もこうしてあなたを誘っている」


 笑うべきだ、と私は思った。

 きっと気持ちは、後からついてくる。


「よろしくお願いします、白倉会長!」


 私の大声に白倉さんは少しだけびっくりしたようだが、やがて笑みを浮かべると、手を腰に当ててうなずいた。


「これから一年間、よろしく。八尋書記」


 これは、私にとっては大きなチャレンジだ。自分自身でもいまだに信じられないほどに。でも、奇跡なんて待ってはいられない。この初対面の生徒会長に、残り少ない私の高校生活を賭けてみよう。もっともベット出来るコインなんて、このちっぽけな私の身ただ一つしかないけれど。

 それに値するだけのことを、彼女はすでに私にしてくれた。私を必要だと言ってくれる人がいるのだ。他人の視線なんかどうでもいい、私は新たに自分が所属することになるこの組織だけを信じてみたい。

 一度だけの勇気。出してみたよ、みやじー。私は馴染みのアシスタントパーソナリティーに心の中でひそかに報告した。


「それじゃあ、会長。とりあえず新学期が始まったら、生徒会室に集合ですね」


 白倉さんは、きょとんとした顔をした。


「あら、八尋さん。さっそくで申し訳ないけれど、今日中に片付けておかなければならない仕事がもう一つあるわ」


 バックパックを手に取りかけた私は、彼女の言葉に首をかしげた。


「でも、新しい生徒会の発足はまだ先では」

「だから今日中なのよ。とにかく急いで行きましょ、帰宅してしまう前に」

「行くって、どこへ」

「一つ下の階、一年C組の教室よ」


 白倉さんは自分の大柄なリュックをかつぐと、教室のドアへと足早に歩いていく。私は慌てて彼女を追いかけながら、脳裏に浮かんだ疑問を口にした。


「一年。それって、ひょっとして」


 白倉さんは肩越しに振り返ると、いたずらっぽくウィンクを放った。


「生徒会長と書記の二人だけじゃあ、さすがに大変だからね。それじゃあ向かいますか、副会長をゲットしに」

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