第一章 インビテーション

え、私ですか?

 三学期の終業式のその日。帰り際のホームルームでは当然のことながら、クラスメイトの全員がざわつき浮足立っていた。明日から始まる春休み、そして四月からはついに高校三年生としての一年間が待ち受けている。部活、恋愛、そして受験。期待と不安が交錯こうさくして、誰もが自分を持て余しているように見えた。もっともこの私に関して言えば、最初の二つには全く縁がないため、つまるところ受験に集中することになるに違いないのだが。


 そしてそんな私の今の心境はと問われれば、とりあえずはこの教室を一秒でも早く離れたいの一言だった。配布された期末テストの成績表、その上位者リストの一番上に私の名前があったからだ。プリントを渡された生徒の視線がもれなく私に突き刺さるのが、うつむいていてもびんびんと感じられる。何だよ、こっち見んな。私が何か悪いことでもしたってのか。頼むから私のことなどすみやかに忘れて、春休みの楽しい予定にでも思いをはせてくれ。


 目立ちたくないのなら手加減すればいいのに、などとは言わないで欲しい。別に一番などになりたいわけじゃない。自分の気持ちにだけは正直に、せめてベストを尽くさなければ心が折れてしまうのだ。だれにも頼ることが出来ないのだから、自分自身を頼るしかない。勉強しかとりえのない私は、それだけが自我を保てる唯一の手段なのだ。後ろ向きな理由で何とも情けないが、それが事実なのだから仕方がない。


「へえ。八尋やひろさん、また学年トップじゃない。さっすが、帰宅部のエースねえ」


 窓際の私の席の左隣から陽気な声が飛ぶ。諸永もろながひなた、硬式テニス部の副キャプテン。彼女は自分の成績表に目を落としたままで、わざと私に聞こえるように言葉を投げつけてくる。くそ、こいつ。まだホームルーム中なのに大声で私の名前をつぶやくなんて、どういう了見なのか。私は嵐が早く去ってくれるようにと祈りながら、何も置かれていない机の上をじっと見つめ続ける。


「まあ八尋さん相手じゃ、私が夏にテニス部を引退して同じ帰宅部になったとしても、テストでは勝てっこないでしょうけれどねえ」


 くすくすとあちこちで笑いが起こる。きっと私の顔は真っ赤になって、唇なんか咬みしめてしまっているに違いない。いいんだ、この屈辱も今日までだ。諸永さんは文系、私は理系なのだから。高三からは文系と理系とはクラスが別になるはず、今日で彼女のからかいともおさらばだ。

 担任の男性教諭が、机をばんばんと叩く。


「こら、諸永。無駄口をたたいているひまがあったら、お前も少しでも八尋に近づく努力をしろよ」


「はーい、先生」


 この最低教師が、おまえは何もわかっていない。諸永さんの嫌味に便乗することで、自分が火に油を注いでいることに気付かないのか。私は顔を上げると、黙って奴をにらみつけてやる。私の恨みのこもったまなざしに気圧けおされたのか、その男性教諭はばつが悪そうに目をそらすと、この後味の悪い高二最後のホームルームを締めくくった。


「とにかくお前たちは来月からは高校三年生なんだ、悔いのないように春休みを過ごすこと。以上!」


 好奇の視線からようやく解放された私は、これ以上のトラブルを避けるべく、いの一番に立ち上がりかけた。そうだよ、諸永さん。あなたみたいな人がいる限り、私は帰宅部であり続ける。冷やかしなどノーサンキューだ。


 急いでバックパックを背負おうとしたその時、教室の前方の扉がからりと開かれた。まだ誰も退室していない教室に、一人の女子生徒が凱旋がいせんした将軍のように颯爽さっそうと入ってくる。わずかにウェーブのかかったつややかな長い黒髪。桜貝を合わせたような唇。何より、猫を思わせる鋭く力のある目。


 彼女の姿を認めるや否や、クラスメイト達からどよめきが起きた。調子に乗った男子グループがこぶしを突き上げながら、おどけた歓声を送る。


「会長、会長、会長!」


 鷹揚おうように片手を挙げてそれに応えた彼女は、笑みをたたえたまま沈黙する。自分に注目を集めるその効果を十分に確認した後で、彼女は鈴のように澄んだ、しかし教室全体に十分に響き渡るほどのよく通る声で言った。


「A組のみんな、久しぶり。高校二年生は、楽しかったかな?」


 イエー、と湧き上がる男女。


「そう言ってもらえると、私もうれしい。君たちの高校三年生も最高に盛り上げてあげるから、引き続きこの生徒会長、白倉しらくら莉子りこをよろしくね。それじゃあ楽しい春休みを、解散!」


 白倉と名乗った女子生徒の挨拶は、男性教諭のそれの万倍もの効果があった。笑顔で教室から出ていくクラスメイトの一人一人を、彼女はバイバイと手を振って見送る。


 私は、彼女をこれほど間近で見たのは初めてだった。


 白倉莉子。高校一年では学級委員長、その二月では生徒会長に立候補して二位にトリプルスコアの大差をつけてのトップ当選を果たし、高校二年の一年間は生徒会長としてその役割を完ぺきにこなしてみせた。彼女の存在とその指導力、実行力は、確かにこの学校の生徒たちに誇りと自信を与えるに十分なものであった。


 だがすべての関係者が何よりも驚いたのは、高校三年への進級を間近に控えたつい一か月前の二月、彼女が再び生徒会長に立候補したことであった。県内有数の進学校であるわが校においては、高三の生徒はそのことごとくが受験に集中するために、通常であれば最終学年で生徒会役員に立候補、あるいは参加することなどはまずないといってよかった。


 いったい何を考えて再び生徒会長に立候補したのか、その理由については誰にも見当もつかなかったし、彼女自身もそれを他人に話そうとはしなかった。頭脳明晰でこの国の最高学府への入学をも容易に狙えるはずの彼女の、乱心ともいえるその行動に対しては、当然ながら複数の教員が止めようとしたとも聞く。


 だがその圧倒的なカリスマは他の候補者たちを全く寄せ付けず、彼女はまたもやトリプルスコアで再選を果たしてしまったのだ。二期連続で生徒会長を務めるなどとは前代未聞だったが、よもやそんなことはないだろうと再選を禁止する条項などというものは校則に規定されておらず、いわば盲点を突いた形で彼女は再び生徒会長の任に着いたのだった。


 白倉さんはひとしきり生徒たちの帰宅を見送ると、腰に手を当てて人影もまばらになった教室の中を見回した。そういえば彼女、何をしに来たのだろう。白倉さんはB組だから、わざわざこのA組に政治的なアピールを行うために来訪したのだろうか。だとしたら、まめで抜け目のないことだ。


 と、白倉さんは隣の席にまだ残っていた諸永さんに視線を向けると、つかつかと歩いてきて彼女の前に立った。諸永さんは立ち上がることもできずに、息をのんで白倉さんの顔を下から見上げている。

 白倉さんは目を細めると、腕を組んで穏やかな微笑を浮かべた。


「ご無沙汰、硬式テニス部の副キャプテン。いや、四月からは繰り上がりでキャプテンに昇格だったわね、諸永さん」


「え、ええ、会長。ご無沙汰しています」


 会長のオーラと迫力に圧倒されたのだろう、あの自信家の諸永さんが、同級生である白倉さんに敬語を使っている。


「おめでとうを言わせてもらおうかしら、新キャプテン。我が生徒会執行部と硬式テニス部は、今後も引き続き良好な関係を築いていきたいものね」


「むろん、です」


 すぐ隣で始まった実力者たちのやり取りに帰るタイミングを失った私は、横目でちらりと白倉さんを盗み見た。クールビューティ。語彙力が崩壊しているが、そう形容するほかに私は言葉を持たない。そして彼女のりんとした美しさを修飾しているのは、彼女の内面からにじみ出る風格もあろうし、彼女の噂をもとに私が勝手に抱いていたイメージでもある。


 白倉さんは、すっかり気をのまれた諸永さんの顔を覗き込んで言った。


「そこで、諸永さん。ちょっとしたお願いがあるのだけれど」


「なんでしょう、生徒会長。私にできることなら」


 諸永さんは幾分ほっとした様子で、愛想のいい笑顔を白倉さんに向けた。逆立ちしてもかなわない相手には太鼓持ちか、なんとも分かりやすい奴、と私は心の中で諸永さんに悪態をつく。そんな彼女に、白倉さんはにやりと笑った。


「今のあなたにしかできない事よ」


「え」


「今あなたが座っているそこの席、私に譲ってくれない? 私達ってもう二年生じゃないんだから、その場所はもう、別段あなたの席ではなくなったわけだし。差し支えないわよね?」


 いきなり退席を強要された諸永さんは、さすがに目を白黒させている。


「それは構わないですが。でも、どうして」


 ようやくそれだけを言った諸永さんに、白倉さんは顔から笑みを消すと冷たく言い放った。


「次期キャプテンにしてはちょっと勘が鈍いわね。人をまとめるには、もう少し察しの良さが必要じゃない? 私は八尋さんと少し話がしたいので、ここに座らせてほしいって言ってるんだけれど」


 白倉さんの口から八尋という名前が出たことに、私は飛び上がった。諸永さんはしばし呆然としていたが、やがて会長の言葉の意味を悟ったのだろう、私を憎々しげににらみつけてくる。憤懣ふんまんやるかたないといった彼女に追い打ちをかけるように、白倉さんはすまし顔で言った。


「別に無理にとは言わないわ、私と八尋さんが出ていけばいいだけだしね。ただ、あなたがいつまでもここに座って油を売る理由があるのかなあ、と思って」


 諸永さんはきっと唇をかむと、がたんと立ち上がってカバンをひっつかんだ。


「私、失礼します!」


「あら、ありがとう。わが校のアピールの為にも、もうすぐ始まる地区大会、頑張ってね。期待してるわよ、新キャプテン」


 諸永さんは白倉さんの言葉が終わるのも待たずに、教室から駆け去っていった。

 白倉さんは片手を小さく振って笑顔で諸永さんを見送ると、肩をすくめながら私の方を振り返った。


「彼女、決して悪い人じゃないんだけれどね。ちょっときついところがあるから、私も思わず意地悪しちゃった」


 そう言って白倉さんは、舌を出していたずらっぽく笑う。冷徹から柔和へと万華鏡のように変化する彼女の表情を、私は黙って見つめることしかできなかった。

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