ハリネズミの憂鬱

 夜は更けていく。イヤホンからスローなバラードが流れて来たのをきっかけに、私はペンを止めて、ほぼ片付いた今日の自習の成果を眺めた。


「……それでは今夜の締めくくりは、いつものこのコーナー、『恋の試し書き』。文具店においてある試し書き帳に気になることが書いてあるのを、ふと見つけてしまうことってありますよね。そんなふうに、恋についての悩み事を不特定多数の方に吐き出そう、という趣旨のこのコーナーです」


 おっと、私には何の役にも立たない、しかし最も耳をそばだててしまうこのコーナーが来たな。というか、「恋の試し書き」が始まったってことは、もう午後十一時半なのか。この番組を聞いていると、時が過ぎるのが本当にあっという間だ。


「王様の耳はロバの耳、ってやつですね。もっとも、僕はともかく中年に片足を突っ込んでいる石田さんには、恋って奴は少々荷が重い話題のようにも思われますが」


「だまらっしゃい、みやじー。この石田、一生現役ですから」


「なんかのコマーシャルで聞いたことありますね、そのフレーズ」


 そりゃないよ、みやじー。石田さんってまだ独身なんでしょ、それを年寄り扱いなんてして。石田さんみたいな人だったら、どもり癖のせいでうまく話せないであろう私であっても、巧妙な話術でリードしてくれそうだなあ。いや待てよ、番組ではもちろん話し上手でも、私生活では意外と寡黙という可能性もある。ギャップえか、それもまた一興だな。


 そんな私の妄想をよそに、番組は進んでいく。


「えー、それでは気を取り直して。ラジオネーム『迷い猫』さんからのメールです。石田さん、みやじーさん、初めまして。初めまして」


「初めまして」


「私はこの四月で、高校三年生になる女子です。実は私には、高校一年生の時からずっと片思いしている男の子がいます」


 おっと。春から高三ということは、私とご同業か。うーん、片思いとな。素直にうらやましいぞ。


「彼とは今までクラスも部活もばらばらで何の接点もないのですが、なぜかずっと気になっているのです。新学期から同じクラスになれるかどうかもわかりませんが、お互い受験生、このまま何も言い出せずに高校生活が終わってしまうのではないかと不安でいっぱいです。石田さん、みやじー、こんな私にかつを入れてやってください。というお悩みですが、どう、みやじー?」


「まあ、片思いしているその彼に現在彼女さんがいない、ということをリサーチ済みなのは大前提として。もちろんそうですよね、『迷い猫』さん?」


「そこは『迷い猫』さんにもぬかりはないだろう。そうじゃないと、迷い猫じゃなく泥棒猫になってしまうからね」


「おっと石田さん、うまいこと言いましたね。今夜は冴えてるなあ」


「今夜は、というのは引っ掛かるけれどね。それで、みやじーならどうする?」


 告る。それ一択じゃん。感情移入の激しい私は、自分のことを棚に上げて「迷い猫」さんを応援し始める。


「二年間告白できなかったのに、いきなり今になって告白する、というのはなかなか思い切れないでしょうね。ここはひとつ、このみやじーが策をお授けしましょう」


「いよっ、恋の諸葛しょかつ孔明こうめい。して、その方策とは?」


「名付けて、受験ストーキング作戦」


「……よくわからんし、加えて何か犯罪臭がするね」


「いえいえ石田さん、これは実に古典的な方法です。恋愛心理学に、吊り橋効果というものがあります」


 そいつは私も聞いたことがある。緊張や恐怖などの外的な刺激が異性と共有されたときに、その興奮が恋愛感情によるものだと錯覚してしまい、恋に落ちやすくなるという心理状態だ。ゾンビ映画を見に行くカップルというのは、こういう効果を無意識に狙っているのかもしれない。というか、この私に恋愛心理学など、豚に真珠もいいところだが。役に立たない知識なら英単語の一つにでも変換しろ、と自分を叱りたい。


「で、みやじー。この場合の吊り橋効果とは」


「高校三年生と言えば、受験。いわば、人生最大の危機的状況を共有しているわけですよ。近づいてくる受験に、いやがうえにも増していく緊張。そこにつけ込んでストーキングです」


「公共放送でストーキングなどお勧めしてもいいのだろうか。で、意中の彼の後をつけて行って、いったいどうするの」


「なんだかんだ言っても付き合うためには、一度だけ勇気を出す必要があります。教室でも図書館でも塾の自習室でもどこでもいい、勉強し始めた彼の様子を見計らって、おもむろに隣に座るんです。この際、彼に必ず声をかけます。『隣、座っていい?』と」


「おお、なるほど」


「この言葉、勘のいい男なら『私と付き合ってよね』と同義に受け取ってくれるはずです」


 私は仰天した。そんな馬鹿な、まさか世の男どもは隣に座る許可を得るだけの言葉を、みんなそんな風に受け取ってしまうのだろうか。それが本当ならば、男とはまさに餓狼、がっつきすぎにも程がある。誰かの隣に座るときに常に無言を押し通してきた今までの私の行動は、まったく僥倖ぎょうこうだったと言わざるを得ない。


「それで、勘の鈍い男の子だったら?」


「さらに押します。『座っていい? 座るね。君がいいよって言ってくれるまで、私ここを動かない』と。彼がオーケーしてくれれば、もう付き合ったも同然です。次回からは必ず彼の隣に座れますし、いつしか恋バナにも発展していくことでしょう」


 恐ろしい、それはもはや脅迫ではないのか。これを聴いているであろう「迷い猫」さんが、彼らの策を真に受けなければよいのだが。


「図書館で話を咲かせてはいかんと思うが。そしてもし仮に、隣に座っちゃいけないと言われたら?」


「そんな器の小さい男は、『迷い猫』さんの彼氏となるにはふさわしくありません。きっぱりと忘れて、次の恋を探しましょう」


 私は苦笑しながら、すっかりぬるくなったお茶の残りをぐっと飲みほした。冗談めいてはいたが、石田さんたちなりの「迷い猫」さんへの最大限のエールだということは理解できた。一度だけの勇気、というみやじーの言葉が、濃い緑茶よりも私の心を苦くする。そいつが大変なんですよ、お二人さん。


「リスナーの皆さん、参考になりましたでしょうか。それでは、最後の曲を聴きながらお別れです。邦楽ヒットチャート急上昇中、リリ・プリンシパリティーズの先月発売のニューアルバムから『久しぶりは魔法の言葉』」


 クリアな女性ボーカルの歌声をきっちりと最後まで聴いてから、私はイヤホンを外してラジオのスイッチを切った。淡いオレンジから灰色へと変わったディスプレイが、私にお休みを告げる。


 やっぱりラジオは最高だな。「ここ、座っていい?」と誰かに言われてみたいだなんて、こんな私に一瞬だけでも思わせることが出来るのだから。それでも明日の朝になれば、「私に構わないで」オーラで武装して、ハリネズミのように他人と距離をとる自分がいるのだろう。


 私は小さくため息をつくと、明日の時間割の確認もそこそこに、ベッドにもぐりこんで明かりを消した。

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