ラジオの向こう
諏訪野 滋
序章 イントロダクション
午後九時からは私の王国
中学入学の時に奮発して買ってもらった、ワーキングスペースの広い木製の学習机。左側には、うずたかく積み重ねられた教科書やノートの山。右側には、
そして正面には、レトロな卓上ラジオ。スリットの入ったマホガニー調の前面パネルの右にある、銀色の大きな丸いチューニングダイヤルが、ひときわその存在感を主張している。
私は急いで椅子に座ると、やはりこだわって選んだ無線式のイヤホンを耳に押し込んでラジオの電源をオンにした。ディスプレイが淡いオレンジにその色を変え、私は自分の世界に戻ってきたことを実感する。ラジオのダイヤルは合わせなくても問題はない、なぜなら私がいつも聴くのはこの局だけなのだから。
「……明日の福岡地方は全体的に晴れ間が広がり、三月中旬にしてはやや暖かく感じられる気温となるでしょう。続いて、熊本地方」
よかった、間に合った。午後八時五十五分から始まる五分間の天気予報、いつもの女性天気予報士の声だ。
心に余裕のできた私はポテトチップスを一枚口に放り込むと、足元のボックス型のバックパックから筆箱やノート、今日返却されたテストの答案などを引っ張り出して、机の上に並べていく。日付が変わる前に期末テストの復習はすべて終わらせてしまう予定だ、鉄は熱いうちに打てとの教訓通りに。もっとも、英語Bと日本史については満点だったから、その分の手間は
「それでは、天気予報でした。また明日」
女性の柔らかな別れの
三、二、一。
私の耳に、ラテン調のポップなジングルが流れ込んできた。その軽快な音楽に乗って、張りのある男性の声が番組の開始を告げる。
「時刻は午後九時になりました、CKBラジオ『エルミタージュ』の時間です。司会は私、メインパーソナリティーの
「アシスタントパーソナリティーの、みやじーこと、
「それでは、午後九時から午前零時までの三時間。今夜もよろしくお付き合いください」
再び流れるジングル。普段と変わらない夜が訪れたことに、私はゆったりとした気分になって、まだ熱いままのお茶を一口すすった。番組スポンサーのコマーシャルを聞き流しながら、九十二点で返ってきた物理の答案を広げると、誤答した部分の見直しを始める。
もし誰かが今の私の様子を見たならば、ながら勉強は良くないよ、と訳知り顔に忠告してくれるかも知れない。しかしそんなことを言う人には、じゃあラジオを聴きながら勉強する私に負けるあなたは何なのよ、と反撃してやりたい。私は常にこのやり方で、高校一年、二年と、学年トップレベルの成績を維持し続けてきたのだ。いや、むしろラジオがあったからこそ、維持することが出来ているといってもいい。目の前にある木目調の救世主がいなければ、私は世間との交渉を絶った無気力な人間のままで、こうして机に向かう事すらなかっただろうから。
誰にも文句は言わせない、午後九時からの三時間が私の王国。
参考書と答案を見比べていた私の耳に、番組司会者である石田さんの軽妙なトークが聞こえてくる。
「……で、三学期の終業式が明日に
「僕はですね、友達と釣りなんかによく行ってましたね。
「おお、いいね」
石田さんのハスキーで耳心地の良い声を聴きながら、私は彼の年齢やルックスなどをイメージしてみる。三十歳前後の、頼れる兄貴って感じかな。もちろんネットで調べれば、彼の生年月日から実際の容姿まで、全ての情報を手に入れることは簡単だ。けれど、それじゃあつまらない。お気に入りの小説がアニメ化や実写化でがっかりしてしまうのと同じことだ。
ラジオや小説がほかのメディアと異なっているのは、それが受け手の想像力に依存していること大である、という点だ。そしてその特性は、私の内向的な性格に実によく合っていた。
「しかしですね、石田さん。釣りには、ひとつ問題点がありまして」
アシスタントのみやじー、宮崎さんが、釣りというかつての自分の趣味について問題提起を行った。私の中でのみやじーは、大学を卒業したての新人のお兄さん。ちょっと軽い感じで、それがまた先輩に可愛がられたりするような。しかしその若さの割には結構落ち着いた返しを石田さんにしてみせるのが、なかなか大器の予感を感じさせる。
「そうなの? 釣り、楽しくていいじゃない。問題点ってなによ、みやじー」
「実はですね。釣りって、あまり女の子受けしない趣味らしいんですよね。
みやじーのぼやきを受けて、石田さんが笑いながら突っ込む。
「君、それって自分のもてない理由を責任転換してない? 釣りの方こそ、いい迷惑というか」
自分の中での釣りのイメージと単振動の周期公式とを頭の中でマルチタスクしながら、私もつられて笑ってしまう。ふふ、その通り。好きな男の子の趣味なら、それが多少合わなくったって、見ているだけでも楽しいものだと思う。ギャンブルだとかナンパだとか、そういう論外なのを除いてはね。もっとも、楽しいデートなど単なる想像で、私にそんな経験が皆無であるのは悲しいところなのだけれど。
ペンを走らせている手を止めないままで、私は口をとがらせてみる。もちろん私だって、恋愛に興味がないと言えばうそになる。そりゃあそうでしょ、四月から花の高校三年生なんだから。まして私はラジオ大好き娘だ、想像力は人一倍だと自負している。脳内であれやこれやと妄想の一つもしてみては、
だいたい、男の子と知り合うってのがハードルが高すぎる。原因は言うまでもない、私に絶望的にやる気が欠けているからだ。いや、男の子だけではない。すべての老若男女に対して分け
公立中学での三年間、ずっと周囲と
私はやけになって、ポテトチップスをまとめて二、三枚、口いっぱいに頬張った。待っていても何も変わらない。他力本願で何かが手の中に勝手に転がり込んでくるなんてありえない。頭の中では、わかっているんだけれど。
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