逢瀬③


 かげり始めた空はどんどん雲に埋め尽くされ、馬の刻になる頃には昼間だというのに夜のような暗さになっていた。

 そのうちに雨まで降り出し、雷鳴がとどろき始める。

牛車ぎっしゃの下に猫が死んでいたことを口実に仕事を休んでいた、従四位じゅしい右近中将うこんのちゅうじょう 源冴嗣みなもとのさえつぐは右大臣家の自室で恋人からの文を読んでいた。

文から顔を上げると目を伏せて溜息をつく。


 ……今日は一体何回溜息をついたことだろう。そのうちに溜息に埋め尽くされてしまうのではまうのではないだろうか。そんな馬鹿なことを考えて、冴嗣は一人自嘲気味に笑った。

「何を笑っている?」

「?!」

  突然の声に、冴嗣はとっさに読んでいた文を後ろ手に回した。

冴嗣の後ろに立っていたのは、治部卿じぶきょう 源善嗣みなもとのよしつぐだった。自分でも情けないくらいに声がかすれる。

「あ、兄上……」

「何を隠した?」

 治部脚はすっと冴嗣に近づくと、後ろに隠した文を取り上げる。


 冴嗣は文を取り上げる治部卿の動作を呆然と眺めていた。 取り返そうと思えば取り返せたに違いない。しかしそうしなかったのは 隠し通す事に疲れたという気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。

いっそばれてしまえ、と。


 しかし冴嗣は後に治部郷から文を奪わなかったことを非常に後悔することになる。だがそんなことは今の冴嗣には解らなかった。


「お前……左大臣家の女房に通っていたのか?」

  少し驚いた治部郷の声音に、冴嗣は沈黙で通す。それは、肯定の印に違いない。

治部郷は冷めた目で弟を見るとあきれたように肩をすくめた。

「父上の宿敵である左大臣家の女と通じるとは……父上がお知りになったらなんとお嘆きになることか……」

「それは誠か!」

  低い怒鳴り声が響く。部屋に入ってきたのは彼らの父、右大臣 源高嗣みなもとのたかつぐ

右大臣は怒りの形相で冴嗣につかみかかると大きく揺さぶって、冴嗣を問いつめた。

「この右大臣家に生まれておきながら、歌や楽ばかりに明け暮れおって……儂の役に立つことは何一つせん! そして極めつけは左大臣家の女と通じておる! よもや情報など流してはおらんだろうな!」

 冴嗣は一気にまくし立てる右大臣を静かに見つめ返すと落ち着いた声で言った。

「……そんなことはしていません。私は父上や兄上のように欲や名誉のために人と付き合ったりはしませぬ」

 右大臣はさっと顔色を変えると冴嗣の横っ面を張り倒していた。激しい音を立てて几帳きちょうとともに冴嗣が倒れる。

右大臣は肩で大きく息をすると、二、三冴嗣に怒声を浴びせた後、再び冴嗣に掴みかかろうとした。

 しかし……

「まぁまぁ父上、よろしいではありませんか」

「な……?」

  先ほどまで冴嗣のことをなじっていた治部卿が二人の間に割って入った。

薄く笑みを浮かべて冴嗣を引き起こしてやる。

「このように殴られて……これでは冴嗣が哀れというものです。どうです、父上。二人の仲を認め、お膳立てしてやっては」

 目を丸くしたのは冴嗣である。その表情を見て治部卿は醜く顔を歪めた。

「もちろんただではありません。女が左大臣家の女房なら都合がいい。例の文を中将殿に渡していただこう」

 そこまで言うと右大臣も合点がいって、乱れた息を整えるとニヤリと笑う。

冴嗣はそれが只の文ではないことを感じ取り、背中に冷たい物が流れた。

「嫌です……謀反むほんの片棒を担ぐ気はありません!」

 そう叫んだが、治部卿は冴嗣の胸ぐらをつかむと残酷に彼に宣告した。

「これは命令だ。それに従えないと言うのなら答えは一つ。我らにとって女房の一人や二人の命など、どうでもよいことだからな」

「!」

 冴嗣の表情がさっとこわばる。

「女との幸せな暮らしをとるか、屍を抱いて彷徨さまようか一つに二つ。迷う 必要はあるまい?」

 治部卿の声を聞きながら、冴嗣は目を閉じた。


 先日酒を酌み交わした青年の姿を思い出す。

 ……彼ならばどちらの道を選ぶ? 右か、左か。どちらへ進んでもきっと自分達に未来はない。


 行き着く先は闇。解っていても、冴嗣は選ぶしかなかった。


 朝が来なければいいと願ったのは自分達。しかし冴嗣は確かに後悔をもって永遠に明けぬ夜を歩き出した。



 わずかな希望と、絶望を胸に。


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