花霞④
東宮に連れ回されたあの悪夢のような晩の翌日、時頼は盛大に
空は快晴。
澄んだ青色を見ていると昨日のことは夢ではないかと錯覚を起こしそうになる。時頼は行儀悪く
まだ夏であるから日差しは強いが、前ほど感じなくなった暑さに夏の盛りが過ぎたのを知る。
「あと一月もすれば秋か……」
ぽつりと呟くと、庭の茂みに見知った女房を見つけてその名を呼んだ。
「若菜」
若菜と呼ばれた時頼と同年の女房は主が突然現れたことに驚いたが、さすがは左大臣家の女房ですぐに笑顔をつくり返事を返した。
「おはようございます時頼様。よい朝になられましたわね」
「うん、おはよう。全く良い日和だ。ちょっと遅いが
若菜は、はいと答えると一礼してい時頼に背を向けたが思い出したようにすぐに時頼に向き直った。
「時頼様、そういえば今ほど文を届けに童が待っておりますわ」
「文? 誰からだい?」
時頼は小首を傾げると若菜に聞いた。
「さぁ……その牛飼童がとある高貴なお方からだと……不審に思いましたので追い返そうとも思いましたが、主に必ず渡してこいと言われたと……藤の花を添えて……」
言いかけて若菜は言葉を失った。
……時頼が笑ったからだ。
怪訝な顔が一気にほころび、そのあまりに優しい微笑みに若菜は立ちつくす。
……主はこのように笑う人だっただろうか? ……
確かに、時頼は昔から下々の者にまで気を配っていたし、優しく誠実な若き主であったがこのような表情は一度も見たことがない。
何がその笑顔をつくるのか。
同じ経験をしたことがある若菜には痛いほどその意味が解って胸がチクリと痛んだ。
時頼はそんな若菜の心情に気づくこともなく、もう一度微笑むと口を開いた。
「ああ、大丈夫。知った人からの文だよ。小世に私の部屋に通すように言っておくれ、菓子を添えてね。それと次からその牛飼童が来たらすぐに通しておあげ」
そう言うと時頼は若菜に背を向け屋敷の中に戻っていった。
一人残された若菜はその姿が屋敷の中に消えるまで見送り、自分にも聞こえないような溜息をこぼした。
さて、意気揚々と部屋に戻った時頼は……
「おはようございます時頼様。お着替えお手伝いいたしますわ」
若菜に言われてすぐに時頼の部屋に来た時頼付きの女房小世は、いつものようにてきぱきと時頼の衣を整えた。
「ああ、ありがとう小世。すまないが紙と筆を取ってきておくれ、朝餉の前に待たせていた童と会う。文の返事をしなければならないからね」
小世はかしこまりましたと言うと筆を取りに下がっていった。
程なくして、文の使いに来た牛飼童が女房に連れられてやってきた。 愛らしい顔立ちをした牛飼童は緊張した面もちで促された席に着くと頭を垂れた。
「童、名は何と申す?」
「
柔らかい時頼の声音に、使いの童は少し緊張を解き、しかしはっきりした声で名を告げた。
童は賢そうな目を時頼にむけると持っていた文箱を時頼に差し出した。 一葉という童は十二、三歳のたいそう美しい牛飼童で、緊張気味ではあったが物怖じすることもなくまっすぐな瞳をしている子供だった。
そして、さすがは綺子内親王の童だと感心する。
「 一葉、か。よい名だな」
そう言って一葉に微笑みかけると時頼は文箱の蓋を開けた。
中には、淡いすみれ色の紙一枚……
君想ふ 風になれるものならば 桐の花庭 髪にふれたし
『貴方になかなか逢えなくて、私の想いは日々募っていきます。もしも風になれるのならば、桐の花咲く庭にいるであろう貴方の髪にふれてみたいものです』
それは確かに恋文。
時頼は口の端を持ち上げるとゆっくり筆を取り、紙の上で滑らせた。
『私も心は同じです。なかなか逢えないことは寂しいことですが、もし風が私の髪をすくっていったなら、それは貴女だと思うことにします』
時頼は筆を置くと丁寧に文箱に入れ、庭の桐の花を一枝折ると文に添えて一葉に手渡した。
「彼のお方は元気そうだね、一葉」
まるで綺子内親王を自分の後ろに見るかのようにして話す時頼に、一 葉は少しどぎまぎしながら答えた。
「は、はい。お方様は毎日つつがなくお過ごしになられております」
「……そうか、それはよかった。なかなかお会いする機会はないが私の心はその文に込めたつもりだ。……しっかり届けておくれ」
時頼の真摯な瞳をうけて、一葉ははいっと答えると受け取った文箱をしっかりと胸に抱きしめた。
半刻後。
一葉から時頼の文を受け取った『彼のお方』は……
桐の花の添えられた それを読むと頬をほんのり染めて空を見つめた。
外に吹く風に、この想いよ乗れとばかりに。
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