花霞③


「小丸、こっちだ」

 警備の者もなく、薄暗くなった塀の前に一人待っていた牛飼童うしかいわらわは、主人の姿を見つけてぱっと顔を明るくした。

 しかし、主人のすぐ後ろにいる見慣れない人物に気がついて首を傾げる。 夕闇で顔ははっきりしないが、ほうから薫る香と身なりからしてかなりの人物としれた。顔を確認しようともう少し……と小丸が近づいた時、それを遮るように時頼から声が掛かった。

「出してくれ」

 小丸は我に返ると慌てて返事をして牛を引きに前へ回る。

前へ回ってからちらりと後ろを見たが、二人はすでに牛車の中に乗り込んでいてその姿を確認することは叶わなかった。


 さて、その高貴な二人を乗せた牛車の中では……


「いやはや、痛快だな。やはりこのスリルはやめられんよ」

 顔を隠していた扇をやっと取り払って東宮は肩をふるわせる。

時頼はそんな東宮を恨めしそうに見ると仏頂面でつぶやいた。

「早くやめて下さい。こちらの心臓がいくつあっても足りませんよ」

 ぼやいてそれでも肝心なことを尋ねる。

「それで? どこへ行くんです?」

「そうだな……」

 顎に手を当てて小首を傾げる。

悔しいがその姿は秀麗で、ただ考え込んでいるだけの姿の中にも華があった。の紫式部の書いた源氏物語の主人公、光源氏はたいそう美麗な男と聞くが東宮はその上を行くのではないか、などと確かめようもないことを思った。

(黙ってりゃ完璧なのに……)

 心の中で一人こちていると、東宮がふっと顔を上げた。

「よし! 左大臣家へ行こう!」

 牛車の揺れとともに時頼は器用にすっころんだ。

「おや? 大丈夫かね?」

 体勢を崩したまま恨めしそうに東宮を見る。……東宮の表情は楽しそうだ。

「今日は大臣おとどは外出しているだろう? なぁに、中将以外で私の顔を知っている者なんて大臣しかいないさ」

「そーゆー問題じゃありませんっ!」

 時頼は叫んだ。

 東宮を御所から連れだしたことでさえ大事であるのになぜわざわざ人目に付くところへ行こうとするのか。左大臣家へ東宮を招いて事がばれたときのことを想像して時頼はぞっとした。

「却下です。第一何で左大臣家なんですか」

遊ぶだけならもっと他の場所があるでしょうと時頼が目で言うと、東宮はすっと時順に近づき耳元でささやいた。

「……咲和姫さわひめの姿を拝みたい」

 ばさっと時頼の扇が落ちる。

「噂ではすごい美女らしいじゃないか。十八になっても結婚していないと言うことは大臣も東宮妃にとお考えなのだろう? 中将は姫の弟なんだからいつ入内の話をしてくれるかと思ったんだがいっこうにその様子はないし…… この際だ、いいだろう?」

 なにがこの際なのかよく分からなかったが、時頼は震えだした拳を必死に押さえて東宮を睨んだ。……東宮を前にして喜々と喜ぶ姉の姿を想像してぞっとする。

「駄目ですっ! なにを考えてるんですか、あんたはっ!」

  興奮から言葉使いがついおろそかになる。東宮はおかしなものでも見るように時頼を見た。

「入内が決まれば中将の出世も確実だろうに。おかしな奴だな、中将は」

「身の程はわきまえてますから」

 仏頂面できっぱりという。東宮はやれやれと笑って見せたが、左大臣行きをさらさら諦めるつもりはなかったのでさらりと小丸に声を掛けた。

「小丸、左大臣家へ行ってくれ」

「なっ……!」

 時頼は口をぱくぱくさせたが言葉にならない。抗議しようとなおも口を開いたが東宮に羽交い締めにされて口を押さえられる。

「 黙ってらっしゃいって」

 東宮は笑ったまま拘束の手を強めた。

「ちょ、ちょっと……」

 時頼は拘束から逃れようと手足をばたつかせたがなかなか逃れることができない。

二人が仲睦まじくじゃれるので、車は大きく揺れた。

東宮はまだ時頼を押さえながら、さてどうしたものかと視線を何気なく物見窓に移した。

「おや?」

 拘束の手が急にゆるめられる。時頼は怪訝な顔で東宮を見つめた。 東宮は物見窓から目を逸らさずに、ごく真剣な声音で時頼に尋ねた。

「中将、あれは誰の網代車あじろぐるまかね?」

 尋ねられて外を見ると、こざっぱりした網代車がちょうど小さなあばら屋に止まるところだった。時頼の車は相手から死角になっていてこちらからは見えない。


 時頼は中将という職業柄、多くの殿上人と知り合い、牛車も嫌と言うほど見ている。しかし目の前で止まった網代車は時頼のどの記憶にも当てはまらなかった。

「……私には解りませんね……でも」

「こんなあばら屋に、あんな網代車が止まるのは不自然……だろう?」

  時頼の続けようとしていた言葉を東宮は確かめるように聞いた。時頼は無言でうなずく。

目の前で止まった網代車はこざっぱりしているが、 しっかりした物で貴人がお忍びの時などによく使う車に似ていた。

 この車の持ち主は人目をはばからなければならない理由があるのだ。しかし、ただそれだけであればどこかの貴人が浮気相手の女の元へ通っているのだろう、と結論づけるが、止まった場所は貴人が決して近づきそうにないようなあばら屋だった。

倒れはしないだろうが家の壁は相当傷んでいて庭は草が伸びっぱなし、 その丈は女の背ほどもある。風情のふの字も感じられないこのような場所にあの牛車の持ち主は何の用事があるのだろう?

(しかもあの網代車、全く見覚えがない……)

 厳しい顔で時頼が考え込んでいると、突然東宮がふふんと鼻を鳴らした。

「 よし、咲和姫訪問は諦めよう」

 その東宮の声がやけに楽しそうだったので、時頼は嫌な予感がして恐る恐る東宮を見上げる。

「予定は変更。あの牛車の持ち主の正体を見極める」

 何とも意地悪く……いや、美しく東宮の唇のはしが持ち上げられて、時頼は駄目です! と静止しようとしたが、その前に有無を言わさずずるずると東宮に引きずられていった。

 


 さて、そんな外の状況を知らない屋敷の中では……


「こちらですよ父上。むさ苦しいところで申し訳ありませんが」

 そう言って上座へ席を勧めているのは右大臣うだいじん 源高嗣みなもとのたかつぐの長男、治部卿じぶきょう 源善嗣みなもとのよしつぐ

そして治部卿に勧められて上座へ座ったのは都の第二権力、右大臣 源高嗣その人であった。

「ふん、本当に汚いところだな。崩れてくるのではないか」

「まあまあそうおっしゃらずに。京極殿きょうごくでんでは誰が聞いているとも解りませんから」

 屋敷を不満そうに見る右大臣を何とかなだめ、治部卿は席について本題に入った。

「計画は順調に進んでおりますよ。秋前には確かな物となりましょう。 計画が実行に移れば左大臣は必ず失脚いたします。それまではどうかご辛抱を」

 息子の言葉に右大臣、源高嗣はまんざらでもなさそうにふんと鼻を鳴らした。

「まったく……ここまで来るのにたいそうな時間が掛かったわ……。左大臣め、藤壺が主上のご寵愛を受けているからといって大きな顔をしおって……。しかも息子の左近中将まで東宮のお気に入りときている、忌々しい親子よ。今に目にもの見せてくれるわ!!」

「仰せの通りです」

 治部卿は父の言葉に大仰に頷き、冷淡な顔で笑った。


  外でそれを聞いていた当の本人達は……


「……いやぁ、嫌われているねえ君達」

 まるで他人事のように東宮は至極楽しそうに呟き時頼を見た。

「何をするつもりだね、中将」

 今にも屋敷に飛び込みそうな時頼を見て声を掛ける。 あまりにものんきな東宮のセリフに、時頼は怒りさえ覚えた。

「何を言っているんです?! これは謀反の相談ですよ? 内裏だいりを守る左近中将として動かないわけには……」

 しかし東宮は全く動揺する様子もない。

「……ふむ。しかしそれは得策ではないな」

 そう言って東宮は音もなく立ち上がると牛車の方へすたすたと戻っていった。

「なっ……?」

 謀反人を見過ごす東宮に時頼は絶句する。しかし東宮を一人にするわ けにも行かず、後ろ髪を引かれる思いで東宮の後を追った。



「一体どういうつもりです!!」

 東宮御所に向かう牛車の中で、時頼は確かに東宮と名の付いたその人を怒鳴りつけていた。そんな時頼を横目に東宮は唇に笑みをたたえている。

「……まあ落ち着きたまえ」

これが落ち着いていられますかという表情がありありと見て取れる時頼を、全く職務に忠実な男だと思いながら東宮は苦笑した。

「君の憤りはもっともだがね、中将。あそこで踏み込んだら右大臣の思うつぼだよ」

 怪訝な顔をした時頼に東宮は続けて言う。

「……あんな時間のあんな場所に左近中将はもとより東宮がいるわけないだろう?」

「あ」

 目の前の密会に熱くなっていた時頼は一番重要なことを思い出して我 に返った。

「東宮が主上に何も告げずに御所を出たとなれば大問題だ。私はともかく君は確実に失脚するな。東宮拉致の汚名もついでに着せられるかもしれないよ? 優秀な君を私はこんなところで失いたくはないからね」

 物騒なことを笑顔で言う東宮に対し、時頼はでははじめから外に遊びになんて出ないでほしいと力一杯思う。東宮は時頼の声に出さない愚痴を正確に読みとると唇の端だけで笑って見せた。

「……まぁ、敵がはっきり解っていいじゃないか。目に見えない敵というのが一番恐ろしいよ」

 巻き込まれないように気をつけたまえ。と一言言うと東宮は目を閉じてしまい、時頼はそれ以上反論することができなかった。


 紺碧の空には美しい月。


 その月はまだこの世の穢れを知らぬように淡い金色の光を放っていた。


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