〈二〉 花霞―はながすみ―

花霞①

「おはようございます、時頼ときより様」

 朝のまばゆい光が顔に当たる。いつもならすがすがしい朝だが、今日の時頼にとっては些かこの日差しはツライ。

「う……ん……」

 決して寝起きが悪くない主人がなかなか起きてこないので、小世さよは不審に思い声をかけた。

 「時頼様? 具合がよろしくないのですか? 朝餉あさげの御用意が整っておりますけれど……おさげいたしましょうか?」

「……いや、もらうよ」

 重い体をゆっくりと起こして、時頼はやっと床から起き上がった。


(――……昨日は、一睡もできなかった)

 心の中で情けない、と呟く。

 あの後、綺子あやこ内親王の屋敷から職場へ戻り仕事を続けたが、昼間見た 内親王の姿がちらついてどうも仕事がはかどらない。

同僚は何時にない時頼に首を傾げ、主上おかみには、「ついに中将にも春が来たかね」などとからかわれて時頼を硬直させた。(言っておくが主上は 時頼と内親王がそういう仲だとは夢にも思っていない)

家に帰ってからも内親王の顔と声がちらつき、つらつらとそんなことばかり考えているうちに朝がきた。

おかげで体はだるいし、頭も何となく痛い。仕事はできても恋愛はさっぱりの藤原中将だった。

(あー……今日は確か出仕もないし、一日家でのんびりするかな……)

 まだ少し働きの鈍い頭で考える。

「そういえば時頼様、今日の権中納言ごんのちゅうなごん様のお呼ばれには何を着ていかれ ますか?」

 小世の何気ないセリフに時頼は着物を着る手を止めた。

「は?」

 きょとんとした時頼に小世はあきれて加える。

「は? じゃございませんでしょう。二、三日前に権中納言様にお酒の席に誘われたとおっしゃっていらしたじゃないですか」

「げ」

 そんなことは完全に忘れていた時頼は、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「……お止めになりますか? お体の調子もあまりよろしくないようですし」

 小世が気を使っていってくれたが、どこまでも真面目な時頼は頭を抱 えながらも誘いに応じる旨を伝えた。



 そして夕刻。気の進まない酒の席にも時頼は時間通りに参加した。

「 権中納言様、この度はお招きいただき有り難うございます」

「おお! 藤原中将ふじわらのちゅうじょう、よく来てくれた、よく来てくれた!」

 口上を述べる時頼を、小太りで顎にひげを生やした権中納言は上機嫌で迎え入れた。

 ……どうやらすでにお酒が少々入っているらしい。

「さあさあ早くこちらへ、今日は酒もさかなも沢山そろっておるぞ!」

 そういってかかと笑い、 豪快に時頼の背中をたたく。

 体が本調子でない時頼は、背中を叩かれた勢いで前につんのめりそうになったが、すでにできあがっている中納言は全く気づかずに後から来た 客を迎え入れていた。


 この権中納言という人物は人当たりもよく、気さくな人柄で時頼から見 ればの部類にはいる。

 表面は綺麗でも、影では罵り合い、蹴落とし合うこの政界の中で数少ない貴重な人物だが、いささか配慮に欠けるところがあり、簡単に言えば鈍感である。

 普段の時頼ならば中納言の酒の席もそこそこ楽しめたのだが、寝不足の 体には少々きついものがあった。杯に盛られた酒をちびちびと飲みなが

ら、宴の中心から少し離れた場所で時頼は溜息をついた。


 五月の夜の風が酒で火照った体に心地よく吹く。


「やあ、あなたも逃げてきたんですか」

 穏やかな声にふと顔を上げると、そこには右大臣家次男、従四位じゅしい 右近中将うこんのちゅうじょう源冴嗣みなもとのさえつぐが立っていた。

 時頼は少し表情を和らげると、冴嗣につられてこちらも穏やかな口調で返事を返した。

「はあ、どうも酒の席は苦手で……。別に飲むのは嫌いではないいんですが」

「同感です。しかもああも人が多いとちょっと気が引けてしまいますね」

 そして手に持っていた酒を時頼の方へ差し出す。

時頼は杯に注がれた透明の液体を受け取ると、視線で中将に軽く会釈してからそれを口に運んだ。


 右中将うちゅうじょう、源冴嗣は時頼の父、左大臣 藤原頼直ふじわらのよりなおの政敵、右大臣 源高嗣みなもとのたかつぐの息子であり、立場的にいえば時頼と冴嗣は敵対関係にある。

 しかし冴嗣という人物は主上を守る武官の一人でありながらどちらかというと争いを好まず、父左大臣のような野心も持っていない。笛や和歌をたしなみ穏やかに日々をおくることを望む、そんな人物だった。

だから政敵であるはずの時頼にも冴嗣は気さくに声をかけてくる。冴嗣が時頼よりも二つ年上であることも加わって、この大樹の雰囲気を匂わせる青年を時頼はなかなかに好いていた。

「いや、しかし葉桜もいいものですね、華やかさはないが心が落ち着く」

 そう呟いて側にあった桜の枝を手に取ると、冴嗣は愛しそうにその葉に口づけた。

 その彼の姿は美しく切なげで、時頼はふいに冴嗣が消えてしまうような錯覚を起こした。

「……冴嗣殿? 何か……あったのですか?」

  憂いをふくんだ冴嗣に、時頼は控えめにたずねる。冴嗣は顔を上げると気遣わしげな時頼に向かってかすかに微笑んだ。

「……いいえ、ただ世の中という物は決して平等ではないのだと……。そう思いながら何もしようとしない臆病な私が、一番悪いんですがね……本当は。

 ――……だから、若葉の一枝さえも手に入らない」

 自嘲するように言って視線を杯に落とす。

 時頼は冴嗣の言っている意味が分からず、どう答えてよいものかと言葉を濁らせた。

「いや、失礼。訳の分からないことを言ってしまったな」

 冴嗣は困惑している時頼に気がつくと快活に笑い席を立った。

「久しぶりにうまい酒を飲ませてもらいました。また、近いうちに」

 そういって優雅に一礼する。時頼も会釈して言葉を返した。

「こちらこそ、いずれまた」

  そう言って踵を返そうとする。

 しかし冴嗣はふと立ち止まってもう一度視線を時頼と合わせると、優しく微笑んで独り言のようにつぶやいた。


「私は……あなたが羨ましい。できることならば、私はあなたになりたか った」

「え……」


 初夏の夜風が若葉を揺らしてざわざわと音を立てる。


 冴嗣は困惑して立ちつくす時頼をひとり残し、今度は立ち止まらずに去っていった。


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