序章⑤


  あの時の胸に満ちた小さな幸せを思い出して、時頼ときよりはくすくすと笑いをこぼした。

「まぁ、どうなさいましたの?」

 部屋を案内している内親王の女房が面白そうに尋ねる。

「いや、内親王の御幼少を思い出してね」

 時頼は内親王の女房として幼い頃から見知っている彼女に親しげに話しかけた。女房は、まあ、それはそれはと言って優しく微笑み、先の言葉に付け加えた。

「それではお話も弾みますわね。内親王様もお喜びになられますわ」

 幾分満ち足りた気持ちで外に目をやる。

 綺子内親王の屋敷の庭は、今を時めく藤咲中宮ふじさきのちゅうぐうの姫の名にふさわしく、今が盛りの藤の花のでいっぱいだった。

長い廊下を渡り、内親王の待つ部屋の前まで来ると、時頼は深呼吸をし て息を整えた。


左近中将さこんのちゅうじょう藤原時頼ふじわらのときより、まいりました」


 中で控える姫付きの女房から、中へ、の声がかかってから時頼は部屋の中へ足を進め、腰を下ろしてから頭を垂れて挨拶を述べた。

「この度の突然の訪問、快く迎えて下さいまして有り難うございます。

 本日は御東宮、常春ながはる親王様の命により参上いたしました。綺子内親王様 におかれましてはご機嫌麗しゅう」


「――……お久しぶりです、時頼様……」


 御簾みすの中から幼い時と違わぬ、いや、その記憶よりももっと美しく鮮やかな声が返ってきて、時頼は鼓動が波打つのを感じた。

「はい、本当に。中宮様の御病気がよろしくなってから一度も伺いませ んでしたから、かれこれ六年ぶりでしょうか。相変わらずお元気そうで何よりです」

 自然と顔がほころぶ。その時頼の表情をみて、内親王の女房は小さな吐息を漏らしたが、当の本人は全く気がついていなかった。


 そうなのである。時頼本人は全く自覚してないが、時頼は今もっとも京で力の強い、左大臣藤原頼直の嫡男であり、都一番の出世頭である。

 しかも顔は品よく整っており、真面目で帝や東宮の覚えもよい……と三拍子以上そろえば同僚からも、女性からも注目されないわけがない。

しかし 真面目で有能な藤原中将は、自分のことに対しては全く無頓着だった。

だから彼が彼の姉に対して、早く嫁に行けばいいなどと言っているが、時頼にも全く同じ事がいえた。

 しかし、時頼の目には幼いあの時より、あの小さく愛らしい桜の花のことしか映っていなかった。

 時頼が微笑むのを見て、綺子内親王もつられて笑みをこぼした。


「本当に御立派になられて……。私いささかびっくりいたしましたわ。

 私の記憶の時頼様はまだ元服げんぷく前の可愛らしい童子わらわでしたから。お兄さまがして下さるお話からいろいろ想像はしましたけれども、まさかこれほど立派になっていらっしゃるとは思っても見ませんでしたわ」

  鈴の音がなる。

時頼はその笑い声を聞いて、この方の心は本当にあの時のままなのだと確心し、自然に言葉がついて出た。

「もったいないお言葉、身に余ります。しかし私も内親王様のことはお聞きしていますよ。後は藤咲中宮をしのぐ都の華になるだろうと。

 この庭の藤も見事でしたが、御簾の中から薫る香に、外の藤の香はかすんでしまいますね」

「まぁ!」

 女房達にどよめきがおこる。時頼ははっと我に返った。一気に頭に血が上る。

ここで社交辞令の言葉であると匂わせればよいのだが、顔に集まってしまった熱はすでにごまかしようもない。


 藤原時頼。本当に正直な男である。


「……」

 内親王は黙したまま。

「あ、い、いや……その……」

  時頼は必死に取りつくろおうとしたが言葉が出てこない。

 そんな時、しどろもどろになっている時頼に、沈黙していた内親王がふいに答えた。

「……では、時頼様は風ですわね。この部屋に吹いた夏風。

 花の香も、風が吹かなければ香りませんわ」

「!」

 時頼は勢いよく顔を上げ御簾を見つめた。



 ――ワタシガ 薫ルノハ アナタノセイデスヨ――



「あ、あや――」

それはどういうことですかと続けようとした時、一刃の強い風が部屋を吹き抜けた。

「きゃあっ」

 風は部屋の中を強く吹き荒れ、まるで意志でも持っているかのように御簾をふわりと持ち上げた。


( ――ああっ!)


 時頼は息をのんだ。

 風で舞い上がった御簾の間から垣間見えた綺子内親王の姿は、今まで見た何ものよりも美しく時頼の脳裏に焼き付いた。


(あの時の小さな桜の花はこんなにも美しい藤の女王に御成長なされた!)


 鼓動が早くなる。


『では、時頼様は風ですわね』


 内親王の言葉が頭をよぎる。

 先ほどの風は何だったのか。


 (天の神が……俺の心をくみ取って下さったのか?)

 時頼は拳を胸に当て、ぎゅっと握りしめた。

「……すごい風でしたわね」

 少々驚いた様子の声が御簾から返ってくる。時頼は我に返ると内親王を気遣った。

「はい。お怪我はございませんでしたか?」

 内親王の姿に見とれて少々声をかけるのが遅れたことに、時頼は己の未熟さを感じたが、内親王は気にする風でもなく先ほどと変わらずに答えた。

「大丈夫です。

 ……それにしても、このような季節にあんな風が吹くなんて……不思議ですわね」

 綺子内親王は腑に落ちないと言った感じで首を傾げる。時頼は、少し考えてから一つ咳払いをすると口早にしゃべった。

「きっと天の神が先ほどの内親王のお言葉をお聞きになったのでしょう」

「え……?」 

 内親王はきょとんとしたが、さっき自分がなんと言ったのかを思い出 して頬を朱に染めた。

 時頼はいよいよ居づらくなって、退出しようと席を立った。

「で、では私はこれで」

 なんとか冷静に、と思ったが顔の熱はなかなか引いてくれない。時頰は内親王に一礼すると部屋を出ようとした。


「 時頼様!……今度はいつ……!!」


 途中まで言ってはっと口を押さえる。

 時頼は出ようとした足を止め、 内親王を真摯に見た。


「……お呼び下さいましたなら、いつでも。失礼」


 今度は迷わずに部屋を出る。綺子内親王はその背中をいつまでも見つめていた。


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