序章②

「浮かない顔だね、中将」


 疲れた顔の時頼ときよりを見て、東宮は面白そうに口を開いた。時頼は東宮を一瞥して、

「……仕事が忙しいものですから」

 不機嫌な顔でぼそりと呟く。そんな時頼を東宮はますます面白そうに、そして意地悪く(少なくとも時頼にはそう見えた)目を細めた。

「あまり無理をしてはいけないよ中将、体に良くないからね」

「はっ、 もったいない御言葉、痛み入ります」

 ぬけぬけと言い放つ東宮をきっと睨んでから、時頼は慇懃無礼いんぎんぶれいに返答した。二人の間にしばしの沈黙が降りる。

 周りで二人の会話を聞いていた女房たちは時頼の無礼な態度に東宮が怒り出すのではないかとハラハラしたが、東宮は気分を害するどころか声を上げて笑い出し、同時にもてあそんでいた扇をパチンと鳴らした。すると周りに控えていた女房たちがすうっと下がる。

 広い部屋には東宮と時頼のただ二人だけになった。


「まったく……一緒にいると本当に飽きないな、時頼は」


 肩を震わせながら東宮はごく親しげに時頼に話しかける。時頼はいよいよふてくされて、つっけんどんに返した。

「飽きないのは東宮だけでしょう。私は全然面白くありません」

 そう言ってプイッと横を向いてしまった時頼に、東宮は笑うのをやめると、ヤレヤレとわざとらしく肩をすぼめて見せた。


「やっと何年ぶりかに逢えたというのに、その態度はないだろう?」

「御自分のなさった事をよおーっく思い出してくださいッ」

  間髪入れずに時頼が返す。

 東宮は、はて、と思案顔になったがすぐに何とも雅な笑顔をつくって答えた。

「よく考えたが思い当たらないな。美しい思い出しか出てこないよ」

三秒の何処がよく考えただッ、と思ったが天下の御子、東宮をはたけるわけでもなく、時頼は思わず出かかった手をぐっと押さえた。

 そんな時頼をよそに、東宮は何か思いだしたように扇を鳴らした。

「ああ、そう言えば時頼」

「何でございましょう東宮」

 棘を含んだ返事をすかさず返す。東宮は明らかにつっけんどんな時頼の物言いに溜息をついた。

「時頼、二人でいる時ぐらい名前で呼んでくれてもいいだろう。昔のように、常春ながはると」

 東宮の言葉に、時頼は数秒考えてから口を開いた。


 過去の妄執が蘇ってくる。


「恐れ多くも、私は昔から東宮のことを御名前でお呼び申し上げたことはございません」

「呼んでいたくせに」


 ケロリとした東宮に、ついに時頼は声を荒げた。


「呼んでいませんっ! 私はずうーーッと一の宮様とお呼びしていたんですっ! 確かに過去にそんな間違いがあったかもしれませんが、アレは東宮に無理矢理言わされてたんじゃないですかぁっ!」


 そう、あれは時頼が八歳の時、今上帝きんじょうていの御正室であらせられる藤咲中宮ふじさきのちゅうぐうが重い病にかかられた。

僧都そうずの占いの結果、この病は悪しきもの(現代、悪い事が起こると物の怪、つまり妖怪の所為だとされていた)によるもので、このままでは藤咲中宮の御子、常春親王、つまり東宮と妹姫の綺子あやこ内親王にまで災いが及ぶ、難を逃れたけ れば御子達をある場所に移動させなければならない。と言う事で、中宮の病が良くなるまでの三年間をそのある場所、二人の御子の後見人で藤咲中宮の兄である、左大臣 藤原頼直ふじわらのよりなおの元で過ごしたのである。その間、二人の御子と歳が近いこともあって、時頼は御子達と寝食を共にした。




 何をする時も一緒だった幼かったあの時代とき――



「 一の宮さまぁっ」

 真夏の太陽が照りつける。

 時頼は額に滲んだ汗を手で拭い、あたりを見回した。


「……どうしよう……どこに行っちゃったんだろう」

  これでもう半時ほども時頼は左大臣家の庭を走り回っていた。


 探し人はまだ見つからない。 時頼は、できることならもう屋敷に帰りたかったが、見つけだせないまま屋敷に戻るわけにはいかなかった。なにせ時頼の探し人は今上帝の大切な御子だったのだから。

 時頼は泣きたくなるのを必死にこらえながら元来た道へ回れ右した。


 今上帝の御子達と初めて対面したのは昨日のこと、忙しい父から急に 呼び出されていった部屋で待っていたのは、秀麗な顔つきの美しい常春親王と、まるで桜の花びらみたいに愛らしい綺子内親王だった。


 時頼は信じて疑わなかった。この御子達は見た目通りの心の持ち主なんだろうと。


 その考えは誤っていたと、後で嫌と言うほど思い知らされた。




 いや、正確に言うと綺子内親王はちゃんと(?)見た目通りの可愛らしい姫君だった。黒い大きな瞳は何とも愛くるしく、笑い声は鈴の音が鳴ったようで、時頼は子供心にほのかな想いを抱いたりもした。

 しかし問題なのは常春親王の方である。時頼は後に、完全に騙されたと何度も思った。その秀麗で虫も殺さぬような顔からどうして想像できようか。いや、できるはずがない。


 よもや親王がこんな性格だとは。


 

 どれだけ探しても常春親王の姿は見あたらない。時頼の瞳に大粒の涙 が浮かんできた時、時頼の内心など全く無視した軽やかな笑い声が頭上から響いた。

「 やあ時頼、どうしたんだい」

 いきなりの声に驚いて見上げるとちょうど時頼の真上の桜に、常春親王はちょこんと座っていた。

 時頼はしばらくの間言葉が見つからず馬鹿みたいにぽかんと口を開けたまま木の上の親王を見つめた。

時頼の表情があまりにも情けなかったのであろう、親王は木の上で腹を抱えて笑い出した。その声ではっと我に返る。

「 いっ一の宮さまっ! そんな所で何なさってるんですかっ、危ないですよおっ」

 時頼は慌てたが、親王はさして怖がる風でもなく飄々ひょうひょうと言ってのけた。

「大丈夫だよ。時頼も登ってこいよ、いい眺めだよ」

  そう言ってひょいっと立ち上がり、枝の先へ歩いてゆく。枝は親王の重みにきしんで揺れた。時頼はハタ目にも分かるくらい青くなって叫んだ。

「一の宮さまっっ、本当に危ないですよ! お願いです、降りてください!」

「やだよ」

 どこか楽しげな声がすぐに帰ってくる。それを見て、時頼の表情がだんだん怪しくなってきた。

「い……一の宮さまぁ……」

 ついに時頼が鼻をすすり始めた時、親王は何を思ったのか自分の頭上にあった枝にしがみつき、足を放して宙ぶらりの状態になった。

「一の宮さまぁっ!?」

 親王の行動に気がついた時頼は泣くのも忘れて木の下に駆け寄った。 何するんですかと続けたかったが、親王は時頼が言い切る前ににっこり笑って言った。

「時頼が僕のお願い聞いてくれたら降りてあげるよ」

こんな時に何を言い出すんだこの人はと思ったが、今は降りてもらうことが先決と何度も首を振って答えた。

「聞くっ、聞きますっ! だから早く降りてください!!」

「うーん、じゃあまずね……」

 時頼の懇願などまるで耳に入ってない様子で、親王はお願い事を考え始めた。もちろん、まだ枝にぶら下がったままの状態である。

「お願いは後でお聞きしますから、早く降りて下さいッ」

  真っ青になって叫ぶ時頼を尻目に、親王は楽しそうに口を開いた。

「うん、まずはその敬語だな。ハイ、敬語禁止!」

「は?」

 唐突な親王の言葉に、時頼は一瞬意味が分からずぽかんと口を開けた。

「だからそのまどろっこしい敬語禁止ね。ああ、ついでにその“一宮さ ま”って呼び方もナシ。たった今から僕といる時は常春って呼ぶこと」


 ――何を言い出すんだこの人は。


  時頼は真っ先にそう思った。

 こんな親王、見たことも聞いたこともない。自分を敬えと言うのならまだしも、名前を呼び捨てにしろというのはどういう事か。時頼も大貴族のはしくれ、目上の人物への接し方は嫌と言うほどたたき 込まれている。それが目上の、しかも将来自分の主になるであろう人物 から『お友達宣言』されるとは……。

時頼は考えれば考えるほど頭がこん がらがってきて訳が分からなくなってきた。しかし理性はまだ残っていたらしい、何とか正しい返答をする。

「そんな事できるわけないじゃないですかぁっ! 親王様を御名前でお呼 びするなんて恐れ多いですよっ!」

 もし、ここに他の大人達がいたのなら、時頼の態度は手をたたいて賞賛されていたことだろう。しかしこの未来の帝は少々勝手が違った。


「あっそ。じゃあ手ぇはなすよ」

 そう言って左手をぱっとはなす。時頼は息が止まる思いがした。

「一の宮さまっっ!」


「な・が・は・る」

「そ、そんなぁ……」

「――……こっちの手もはなすよ?」


 親王の、本気とも冗談ともとれる台詞を(しかしこの人なら本当にや りそうだと時頼は思った)聞いて、時頼は倒れそうになるのをこらえな がら声の限り叫んだ。


「わかりましたっ! い、いや、わかったよ。お願いだから降りて……常春 ……ッ!!」

「よし」


 親王は満足そうに頷くと残りの右手もはなした。

 うわっと目をつむる時頼の心配をよそに、親王は器用に着地して何事も なかったように時頼の横を通り過ぎる。

「さて、屋敷に戻ろうか時頼。皆心配しているよ」

  悪びれもせずに去っていく親王の背中を呆然と見つめながら、時頼はその場にへなへなと座り込んだ。




 それから常春親王が左大臣家を去るまでの三年間、時頼がどんな目に あったのかは皆さんのご想像にお任せしよう。


 何はともあれその一件で二人の仲は急激に親しくなったのである。


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