春風の吹く頃に

東雲 晴加

〈一〉 序章

序章①

 時は平安――


 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ

                           (古今和歌集)


 平安初期の歌人、紀友則きのとものりが歌ったように、散り急ぐ桜の花を惜しみながら、帝おはします京の都には夏が訪れようとしていた。


 その京の都でも一、二を争う名門貴族、左大臣家の一角で、左大臣、藤原頼直ふじわらのよりなおが第一子、正四位左近中将しょうしいさこんのちゅうじょう  藤原時頼ふじわらのときよりは心の中で毒づいていた。


(……いいかげんにしてくれよ……)


 左大臣家の庭は梅や桜といった春の様相から青々とした新緑に席を譲り、部屋に差し込む日差しも夏のそれに変わり始めている。

しかし今の時頼にとっては周りの風情などどうでもよく、いかにすばやくこの状況から逃げられるかだけを考えていた。


「時頼さん、黙っていらっしゃっては分かりませんわ。それで? 東宮様のご機嫌はいかがでしたの?」


 それ、きたぞ。と内心思いつつ、時頼は気の抜けた返事を返した。


「はぁ……東宮様におかれましては御機嫌麗しく……」


 心身共に疲れている時頼の前には今年で十七になる姉、咲和さわ姫が座っている。

 彼女咲和姫は、髪は漆黒しつこく、夜に煌めく桂川かつらがわの流れのようで肌は白磁の白、そしてその白を引き立てるかのように紅の華が口元を彩っている。……という、何というかこの世の美を全て集めたような絶世の美女である。

 が、時頼にとってこの美しい姉はただの困った人物でしかなかった。

時頼は嫌な役を押しつけられたものだと思いつつ、あくまでも控えめに、 持ってきた文を出して口を開いた。

「姉上、実は兵部卿常房ひょうぶきょうつねふさ殿から文を預かりまして――」

 最後まで言い終わらない内に、ヒステリックな声が飛んできた。予感的中である。

「時頼さん! そのような御文は迷惑だと申し上げたでしょう! それとも 時頼さんは実の姉を売るつもりですか!」

 そう言ってわっと泣く姉に、時頼は売るだなんて人聞きの悪い、たまには私の立場も考えてくださいと思ったが、姉がこういう態度をとった 時は何を言っても無駄なことを知っていたので何も言わずに出した文を胸にしまった。


 ――頭が痛い。


 そう、この困った姫君は、毎日雨あられと来る求婚の文を無視し続け、未だに独り身を保っているのである。(現代では、十四、五で結婚するのが普通である)

 そんな咲和姫を、時頼の同僚や公達きんだちたちはやれ東宮からの御声がかかるのを待っているんだとか、井筒いづつの君がいるんだとか、好き勝手な想像を巡らせていた。

 当然、噂の真相を確かめるために皆は姫の弟である時頼 に、本当のところはどうなんだと迫ってくる。その度に時頼ははぁとか、さぁとか曖昧な返事を返しているのだが、厄介なことに彼らの予想はかなり的を得ていた。というか、公達たちのその噂を耳にして、東宮妃入内を咲和姫が勝手に 夢見ているだけなのだが。


 ……なまじそれにふさわしい身分があるので始末が悪い。 おかげで時頼は東宮御所から帰ってくる度、必ず姉に呼び出されて東宮の御様子話をせがまれることになるのだった。


(選り好みしてるとそのうち誰も貰ってくれなくなりますよ、姉上)


 それでなくても東宮御所参内さんだいで気が滅入っている時頼は胸中で悪態をつきつつ、姉が早く話をやめてくれるのを祈るしかなかった。




 それから一刻後。時頼がようやく解放されて東の対の自室に帰ってきた頃にはすでに外は暗くなっていた。

「災難でしたわね、時頼様」

  くすくすと笑って時頼付きの女房、小世さよは時頼の手の碗に少しだけ酒を注いだ。

時頼は注がれた酒を一気に飲み干すと、詰めていた息を吐き出して小世 に愚痴っぽくこぼす。

「全く、毎日この調子じゃ体がもたないよ。参内しては東宮に遊ばれ、家に帰っても東宮、東宮……」

「まあ!」

 小世は少し驚くと、年下の主をたしなめるように言った。

「その様な事をおっしゃってはいけませんわ。時頼様のご苦労はこの小世、我が身のことのように分かりますけれども、恐れ多くも東宮様から毎日 のように参内のお声がかかると言うことは、それだけ時頼様をお気に召 していらっしゃるからでしょう?」

 自分の主人が東宮のお気に入りで鼻が高いのか、後半はちょっと夢見がちになっている。そんな小世を横目で見ながら、時頼はもう一度溜息をついた。


「 お気に召して……ね」


 主上おかみ(今上帝きんじょうてい)の聡明な統治の元、新しく東宮の位におつきになったのは主上の御正室であらせられる藤咲中宮ふじさきのちゅうぐうが第一子、御歳おんとし十七歳の常春親王ながはるしんのうであった。


 常春親王―― 東宮は、宮中一の美女と歌われている母君に似て、華のように美しい容貌を持ち、後は今上帝をしのぐ帝になるだろうと噂される完璧な東宮である。

 が、東宮の一番の信頼どころである時頼は、皆と一緒にそのパーフェクト東宮を褒めそやす気にはなれなかった。

 東宮の本性を知っている身としては。


(将来有望な東宮……か。アレのどこが有望なんだか。あんなのを帝にした日にはこの京の都は滅びるぞ)

 誰かに聞かれていたら謀反ととられてもおかしくない暴言を、時頼は心の中で苦々しく吐いた。

 小世は時頼のそんな内心も知らず、酒をつぎ足しながら今日あったことを報告している。時頼はそんな彼女をぼんやりと見た。

この小世は時頼よりもひとつ年上の乳兄弟ちきょうだいで、幼い時より一緒に育ち、結構なんでも話せる仲だが小世は東宮に会った事もあるはずないし、彼女にしてみれば東宮は雲の上の人、神の子に等しい。尊敬と憧れの念は持っていても不満なんて考えてもいないだろう。そんな神のごとき東宮に仕えている時頼が日々東宮への恨み言を思っていると知ったら卒倒するかもしれない。

 故に、誰かにこの日頃たまる愚痴をこぼしたいと思いつつ、しかしそん な事は口が裂けても言えないので、時頼は文句を溜息に変えるしかなかった。

 そんな時頼の視線をどうとったのか、小世は少し笑うと「今日はお早め にお休みになられますわね」と言って寝所の用意をてきぱきとし始める。 時頼は単衣ひとえに着替えながら、明日こそは東宮からのお呼びがかからない ように、しかしその願いは叶わないだろうと思いつつ眠りについた。


 翌朝、時頼の予感は見事に当たった。


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