パワハラ田モラハラ雄、美しい国に転生して貴族になる

@rarigo-en

長い序章


「そこには忘れてしまった何かがあるかもしれませんってどういう意味だ?」

「あの・・・昔にしかなかった・・何か、みたいな」

「そもそも忘れてんだよな。忘れてんるんだったら何かあるかも分からないだろ」

「ですから、あるかもしれません、と」


 ・・・はじまった


 会議室に集まった社員達が虚空を見つめたり、手の甲を見たりと今から始まる残酷ショーに備えている。

 

 生贄になった社員は第一課の三木さんだ。

 

 今日は「コノエ電機」企画開発部第一課、第二課、営業部合同で新しい商品企画のプレゼンをする日。社員同士で新商品を協議をする。企画を実現させる最初の関門だ。開発チームの代表者は商品の説明だけではなく、購買層の分析から宣伝広告のイメージも提案する。

 

 日頃から自信に溢れている三木さんの顔から血の気が引いていく。彼が提案した昭和レトロな掃除機の広告用につけた「きっとそこには忘れていた何かがあるかも知れません」のコピーに第二課課長からの手が上がった。

 

「あの・・ですから、この掃除機を使うことで、忘れていた何かを思い出すかもしれないと」

「吸い取ったゴミの中から出てくるのか?そんなテクノロジーがあるのか」

「そうではなくて、懐かしさみたいな、ですが、ないかもしれませんが、あるかもしれませんと言うことを思い出させてくれるかもしれませんと」

 

 全員の頭の上に「?」が浮かぶ


「自分で言っている意味わかってるのか?」

「あの・・・すいません。取り下げます」

「ちょっと待て。意味があるから最後に、この呪文みたいなものを唱えたんだろ。その意味を教えくれと俺は言っているんだが。ここにいる誰かを呪い殺そうとでもしてるのか」

 

 たまらず営業部長の黒田女史が助け舟を出す。 


「いいじゃないですか、そんな細かいこと。よく使われているフレーズじゃない。最後に適当につけただけでしょ。今はこのレトロ家電について協議しましょう」

 

 黒田女史の一言で三木さんも他の社員も困ったような笑みを浮かべる。

 

 1人だけ変なクレームをつける人がいて困ったな、みたいな空気が会議室を包み込む。

 

 企画開発部第二課には、課長である先輩と部下の僕だけの、たった2人だけの課なので、第一課と営業部勢揃いの中では完全にアウェーである。

 

 それでも先輩は表情も姿勢も一切変わらない。この人に場の空気なんて通用するわけないじゃないかと思う。なんで毎回そんな簡単なことを忘れてしまうのだろう。

  

 そう言えば、僕が先輩の下についてから、先輩が何かに驚いたり、慌てたりした姿を一度も見たことがない。

 

 3ヶ月前もそうだ。残暑が厳しい9月、法務部の和田部長がエントランスで倒れた。たまたま居合わせた人達は僕も含めてだが、何もできずオロオロするのみだった。

 そこへ、颯爽と現れた先輩は倒れた和田部長のそばに行き、ほんの数秒間だが全くの無表情で見下ろしていた。裏返って動かなくなった蝉でも見ているみたいだった。 その後、周りに的確に指示を出し、AEDで和田部長を蘇生させた。

 

 救急車を送り出し後、先輩に尋ねてみた。

「なんで、あんなに冷静でいられるんですか」

「冷静?俺は考えてただけだ」

「何をですか?」

「和田部長の人生を考えていた。彼はこのまま死なせてやった方が幸せなのかもしれんと思ってな。道端でよく蝉が裏返ってるだろ。無理に戻してやっても、少し飛んで、また落ちる。それが気の毒でな」

 

 ・・・本当に蝉だと思っていた


 

「俺が言いたいのは、そもそも、百億年前からありそうな馬鹿丸出しの定型分を使うなってことだよ。冒頭に新しい視点でって言ったのは君だろ」

「・・はい」

「このクソフレーズだけじゃない。レトロ家電を模した商品なんて、どこにでもあるじゃないか。どうやって最先端の商品じゃなくて、このクソみたいなモノを選んでもらえるんだ?」

「0から1とは言わない。10から11を生み出せとも言わない。ただ、新しいものを生みだす努力だけは怠るな。その結果がマイナスになってもだ。バカがクソで書いたようなクソ啓発本やクソビジネス書なんか読むな。これは、お前の頭の中にあるクソを掻き集めて、クソで固めてできた大きなクソだ。それが何だか分かるか?」

「・・・わかりません」


「クソだ」


 以上、会議終了

 

 すぐに立ち上がって会議室を出る先輩の後を慌てて追う。背後から皆の鋭い視線を感じる。


 やれやれ、またあいつのせいで


 これから第一課や営業部で先輩の悪口大会が始まるのだろう。

 三木さんが一課の課長や黒田女史に「モラハラだ」と訴えている。


 第二課に戻って、三木さんのフォローをしておく。

 なんで僕が?と思うけど、何となくそれも自分の仕事かなと思っている。先輩にも少しは他の社員の人達と仲良くして欲しい。


「アンポンタン電機は幼稚園でも始めたのか」

「あれでも友達には優しいんですよ」

「お前の頭は8ビットか」

「ファミコンじゃないですか」

「訂正する。2ビットだ。ファミコンに失礼だ」

 

 もう誰のフォローもしないと誓う


「いいか、よく考えろよ。誰もが友達には優しいに決まってるだろ。だってそうだろ、友達なんだから。ヤクザだって犯罪者だって友達には優しいに決まっている。要は、他人にどう接するかが問題だろ」


 先輩の口から他人にどう接するか?


「先輩は他人にどう接しているんですか?」

「他人とクソは違う」

「・・・先輩には友達いるんですか」

「当たり前だろ。今は思い出せないけどな」

「はぁ」


 世間一般の物差しで測れば、先輩は超人的に仕事ができる。その上、イケメンだ。しかも、かなりの。

 長身で細身の体躯は何を着ても似合うはずだが、いつもヨレたスーツに皺だらけのシャツ。ネクタイもいつも同じで色があせている。それでも先輩が着るとハリウッドスターが演じる探偵みたいに良い意味で気だるい感じが出て、それはそれで目を惹く。

 すれ違う海外からの観光客が何度も振り返って先輩を目で追うことはよくあることだ。


 世界に自慢したいジャパニーズビジネスマン


 男女問わず新入社員や初めて社に来た人達はほとんど皆、先輩に見惚れてしまう。

 ただし、それは先輩と会話するまでの話だ。会話した時点で容姿のことは全て吹き飛んでしまう。 

 二人称は「クソ」、世の中全ての事象も「クソ」、そして「クソ」を完膚なきまで叩き落とす。


「クソはクソだろ。同じクソなら差別はしない。どいつもこいつも仕事をしないクソだ。クソは平等にクソだ。そこに差別は存在しない」


「いつまで待たせるんだ。お前の仕事よりも氷河が溶けてなくなる方が早い」


「一日中くだらないこと考えてて自分が嫌にならないのか?」 


 

 コノエ電機企画開発部第二課課長「原田杜雄」


 ついた渾名は「パワハラ田モラハラ雄」

 

  

 先輩の言動はかなり問題がある。今のご時世を一人で逆流し続けている。ナイアガラの滝でも余裕で登っていく。そして本当に頂上まで登りきった。いや、まだまだ登り続けて月に辿り着こうとしている。

 

 元々、我が社「コノエ電機」は高度成長期に誕生した中堅家電メーカーで、初期は創業者の近衛氏によって革新的な商品を出して名を上げていた。しかし、近衛氏が一線を退いた90年代頃から大手が出した商品のジェネリック版を作るようになり、主に単身者向けの安い商品がメインの家電メーカーとなっていった。

 

 そこに約10年前、派遣社員として我らがパワハラ田モラハラ雄氏がこの会社で働き始めた。

 先輩はコミニケーション能力に難があることから「慇懃無礼で」「顔だけで使えない」奴とレッテルを貼られ、行く先々の上司たちに嫌われた。実際は合理的でない部分を指摘し、正社員たちのプライドを傷つけたのが真相らしい。

 

 終着駅として、全くやる気のない企画開発部に配属された。しかし、そこから先輩の快進撃が始まる。

 

 先輩は無駄な機能を排除したデザイン重視のシンプルな家電を企画し、もはや息することも面倒だと言い出しそうな当時の部長が機械的にハンコを押して、商品化した。

 

 その商品が創業以来の大ヒットとなり、そこから同様の家電を次々と出した。出せばヒットで、大手家電量販店の売り場を広げていった。

 

 そして、正社員になって権限を与えられると、デザイン性を重視しつつも、用途ごとに特化した高機能の家電「koe」シリーズを立ち上げ、付加価値を上げていった。

 

 その結果、「コノエ電機」の新ライン「koe」は憧れのブランド家電になった。富裕層のキッチンからリビングに至るまで「koe」の家電で占められている。もちろん、若者たちにも「コノエ」の安価だがお洒落な家電は絶大な支持を得ている。

 

 二流家電メーカーがほんの10年足らずで高品質でオシャレな家電メーカーと認識されるようになった。さらに、海外での業績も伸び続けている。衰退の一途を辿る日の丸家電メーカーの中で唯一の勝ち組と言っていいだろう。もちろん、業績は墜落直前の低空飛行から、まさにV字回復以上の成果だ。


 おそらく、この業界で「パワハラ田モラハラ雄」の名前を知らない人間はいないだろう。

 「松下、盛田、パワハラ田」とさえ言われている。

 

 ただ、当の本人が病的なほど人付き合いをしないので、この会社以外で先輩を知る人間は少ない。

 

 ライバルメーカーの間では「パワハラ田」氏の噂で持ちきりだ。


「本当はそんな人間はいない」

「一人でここまでするなんて、ありえないでしょ。パワハラ田というチームなんでしょ。コノエさんの戦略は何から何までお上手ですな」

「ヘッドハンティングしたアメリカ人がリーダーなんですよね」


 当初は実在はしない説が有力となっていた。

 

 しかし、最近では・・・


「歌舞伎町でキャバ嬢の守り神をしていた元ホストって聞きました」

「50代ぐらいの首のない全身刺青のアジア人らしいですね」

「元タクシー運転手で万引きGメンが本業の主婦って本当ですか」

「普段は覆面レスラーの元CIAでイケてるタスマニア人」

「パラレルワールドから逃げてきた罪人」 

「休職中の社員が凧揚げ中に発電所と接触して生まれた家電超人」

 

 なぜそれを信じている?


 パワハラ田課長は実在する。


 コノエ電機の全社員のプライドはその眩しすぎる業績(と罵詈雑言)からズタズタに切り裂かれ続けているので、誰もがあまり語りたがらない。

 謎が謎を呼び業界内での噂はエレクトしっぱなしだ。

 

 先輩と一緒にエレベーターに乗り込もうとした時、先客に会社の重役達が勢揃いだったことがある。僕は躊躇したが、先輩はお構いなく乗り込んだ。

「そうだ、この階に用事があるんだった」

「あっ私も」

 

 重役たちが一斉にエレベーターから降りた。怖い先生から逃げる生徒みたいだった。

 

 そんな先輩の周りは嫉妬の嵐である。


「あいつはスタンドプレーすぎる」「年上を馬鹿にしている」「偉そうに」「社長に媚を売っている」から「女が何人もいる」「他社メーカーから情報を盗んでいる」などと根も葉もない噂や誹謗中傷が乱舞している。

 

 先輩は誰に対しても面と向かって言いたいことを言うが、他の社員は言えないことを隠れて言う。

 


 「コノエ電機」は東京近郊のビルに入居していたが、2年前に東京の一等地に新社屋を建設した。通称「パワハラ田ビル」


「でかい墓石みたいだな」


 先輩が本社ビルのオープニング式典を遠巻きで見ながら言った感想だ。

「先輩、式典に出なくていいんですか?」

「どうでもいい。俺はまだ生きている。墓にはまだ入らない」



 兎にも角にも、僕が長きにわたる就職浪人を経て5年前にこの会社に入社できたのも先輩のおかげた。

 

 売り上げの増加により猫の手も借りたい程忙しくなり、社員を増員する必要があったからだ。先輩はその時点で、すでに伝説的な人物だった。もちろん両方の意味で。

 

 残念だが、僕は全てが先輩と真逆。仕事はできないし、相手の顔色ばかり窺ってしまうので、言うべきことも言えない。容姿も言わずもがなだ。


 なぜ、そんな先輩のいる第二課は僕1人だけなのか。大所帯の第一課とすごい差だが、もちろん先輩はこの会社にとって最重要人物だ。企画開発課の平社員に留めて置くわけにもいかず、どうすれば良いのか上層部で会議に会議が重ねられた。

 我が社が出した答えは先輩には自由に働いてもらう。先輩は元々一人で仕事を進める。それならばと第二課を設けて個室をあてがう。そこで思う存分商品開発をしてもらう。先輩のおかげで忙しいので人材は貴重だ。やめてもらっては困る。部下はアシスタントとして1人にする。その2代目アシスタントが僕だ。

 

 初代アシスタントで工業デザイナーだった藤間さんという方は、世界的な巨大IT企業にヘッドハンティングされた。大変優秀な方だったみたいだ。先輩の下についたばかりの頃、一度だけ会って色々とアドバイスをしてもらったことがある。そのおかげで先輩との接し方も少し理解できた。


「藤間さんってどういう方だったんですか」 

「お前、あのキテレツと会ったんだろ」

「会いましたけど・・・その時は先輩への用事だったじゃないですか」

「あんな口の悪い人間はいない」

「それ、先輩が言いますか?」

「アメリカ行きが決まって、FUCKの言い方だけ練習してたな」

 先輩の口癖が移ったのだろう。僕もそうなるのだろうか。

 


 先輩と一緒に働き始めて3年が過ぎた。徐々にだが分かったことがある。  

 

 常に罵られるけど、怒られるとは少し違う。先輩の罵りポイントは周りに流されたり、言うべきことを言わないことだ。それは僕の一番苦手なことだけど、先輩に罵られるうちに、少しつづだが克服?いや、慣れてきた。

 

 それと、これは一番驚いたことだが、先輩に対して何を言っても「冷静」に答えてくれるし、先輩の考えを教えてくれる。批判めいたことを言ってもだ。

 

 極端に上下関係や気遣いができない、というか、そういった概念が欠落しているだけだ。上に媚びないが、下にも当然気遣うこともない。上を敬ったりしないが、下にも命令しない。

 誰に対しても一貫している。同じ人間同士、対等な立場から発言している。言葉がキツいだけだ。もちろん、それが大問題なのだが・・・。

 

 その証拠に無駄なお茶汲みや雑用もさせらることもない。自分のことは自分でする。むしろ先輩がやってくれることの方が多い気がする。

 

 僕が淹れたコーヒーを一口飲んですぐに捨てた。

「泥水の方がうまい」

 以来、コーヒーは先輩が淹れてくれる。


 終業後に一杯飲みに付き合わされることはない。残業もしない。必ず定時に終われるように仕事をする。最初は難しかったが、先輩の叱咤激励罵詈雑言の中で何とか定時までに仕事を終えられるようになってきた。

  

 日常の中で発見をしろ。生活の中にヒントはある。先輩の教えだ。残念ながら充実はしてないが、それでも映画を見たり、展覧会を見に行ったり趣味の時間が増えた。そんな日常から思いついた幾つかの企画を発案したが、今のところゴミ箱に直行している。

 

 先輩は私生活や過去のことは一切教えてくれない。なぜか決まって金曜日は早く退社する。金曜日毎に、違う女性と会っていると噂が流れているが、どうだろう。あくまでも僕の所感だが、先輩にそんな雰囲気はない。先輩には孤独が似合うと言えば失礼かもしないが、そんな感じだ。

 

 僕は全社員から同情されているが、先輩と一緒にいることは全く苦痛ではない。顔色を窺う必要もないし正直でいられる。むしろ、この課に配属される前の方が嫌なことだらけだった。最初は死刑宣告だと思ったが、今では先輩の元でずっと働きたいと思っている。

 

 やめて欲しいこともある。よくお昼ご飯をご馳走になる。それはそれでありがたいことなのだが、注文する量が尋常ではない。何人分も注文する。そして僕に全て食べさせる。


 初めて第二課に配属されて、先輩に挨拶をした時だ。


「この度、第二課に配属されました岸誠です。今まで営業部にいました」

 

 先輩は顔も上げずに大学の研究室の論文を読み続けている。大手のような研究室を持たない我が社は、常に率先して最先端の技術を学ばないといけない。


「自殺した無能社員の地縛霊かと思ってたら、生きてる無能社員か」

「すいません」

「褒めて欲しいんだったら他にいけ。河原で空き缶でも拾ってたら、誰かが褒めてくれるだろ。俺がシルバー人材センターに推薦状書いてやる」

「褒められたことがないので、褒められて伸びるタイプかどうかも分かりません」


 先輩が手を止めて、初めて僕の顔を見た

 

 入社以来、何度か見かけたことがある程度で、噂でしか聞いたことがない伝説上の生き物と初めて目があった瞬間だ。目力で意識が遠のく。


「年齢は?」

「26です」

「俺のところに飛ばされるなんて、よほど仕事ができないのか、それとも全く仕事ができないかのどちらかか」

「自分なりに頑張ってはいるんですが」

「今のは質問じゃない。俺の独り言だ」

「・・・」

 先輩が論文を閉じて、立ち上がる。殺されるのかと思った。

「腹減った。飯食いにいくぞ」

 

 定食屋に入ると、先輩はすごい量の食事を注文した。カツ丼、うどん、いなり寿司、おはぎetcがテーブルに並ぶ。

 

 流石だ。仕事のできる人は胃袋から違う


「さぁ食え」

「え?」

 幸いなことに、第二課に配属されることが決まって以来、緊張からか全く食事が喉を通らなかった。緊張の糸が極限を超えて、ついに切れたのか、急にお腹が減ってきた。無我夢中で食べた。


「けっこう食えるんだな」

「すいません。第二課に配属が決まってから、緊張して、ろくに食事が・・アッ、すいません」

「これからは、しっかり食べて、しっかり寝ろ。不健康な奴はいらん」

 

 どうやら僕は合格したらしい


「はい!」

 カツ丼をかき込みながら先輩を見る。

 先輩が微笑んでいた。

 

 とんでもない破壊力だ。やばい。男の自分でもドキドキしてしまった

 


 ただ1つだけ、先輩に隠していることがある。後ろ暗いことがある


 実は僕が先輩の下についたのは営業部部長の黒田女史からの密命だ。

 当時、僕は営業部で成績が伸びずに悩んでいた。そんな時に、黒田女史から呼び出された。


「岸君には原田課長の部下になってもらいます。彼の良からぬ噂を聞いたことがある?取引先からキックバックをもらっているという噂があるの。その噂の真意と、もし事実なら、動かぬ証拠を押さえてきて」


 黒田女史は先輩に並ぶこの会社の重要人物だ。先輩の企画した商品を最初に売ってくれた人だ。走り回って口コミで火がつくまで、薪をくべ続けたのだ。


「私が原田くんが好きでって影で言っている人がいるけど、完全な誤解。私イケメン苦手なのよ。彼のためにじゃない。彼が企画したオーブントースターに可能性があると思ったの。我が社が飛躍するチャンスだと思ってね」

 

 黒田女史は悪い人ではない。先進的で包容力もあり決断する時は決断する。言わば理想の上司だ。部下のミスは自分の責任、成功は部下の功績。それ故に営業部の結束も固い。

 愛社精神が具現化したような人で、全てを投げ打って仕事をしている。

 

 一方、先輩に愛社精神のかけらもない。「ウチは」とか「我が社」とは絶対に言わない。


「この会社は」「クソ電機は」「アンポンタンの寄せ集めは」「テトリスのルールも理解できない人間の上澄み達」「ネクタイを締めた伸びたうどん達」「小学校停学処分者の憩いの場」「行くあてもないクソの面倒を見る託児所」だ。


「この会社は俺の家ではない。俺はここで雇用されて給料を貰っているだけだ。その分の仕事はしている。それ以上でも以下でもない。愛社精神?あぁ小五の時に後ろ席の奴に30円で売ったやつだな」 

 

 そんな愛社精神が30円ぐらいの「コノエ電機」は今、派閥争いの真っ只中だ。


 創業者である近衛氏が新社屋移転を機に引退を発表して会長職に就いた。新たに社長になったのは経営管理部出身の三谷副社長だったが、これに反発したのが副社長に昇格した営業部出身の千田常務だ。どうやら2人は入社以来のライバルだったらしい。

 三谷社長と千田副社長は今でも何かにつけ争っている。そして、社内に派閥が生まれた。

 当然、黒田女史率いる営業部は副社長派だ。企画課発部第一課は社長派とされている。


 この派閥争いのキーパーソンにされてしまったのが「パワハラ田課長」だ。どちらの派閥に属さない最重要人物をどちらの派閥に肩入れさせるか。そんなことは、当然無理なので、両派閥は相手陣営に入らせないように排除する方向で動いている。

 

 どうしてそんなことになるんだろう。表立って派閥争いが表面化して以来、ますます先輩への風当たりが強くなっている。誰のおかげで、この会社が成長できたのか皆忘れてしまっているみたいだ。


 黒田女史がこんな派閥争いに加担するなんて、と思うが、彼女には彼女なりの正義があるのだろう。彼女は義理人情に熱い。お世話になった副社長をなんとか助けたいのだ。先輩とは真逆だが分からなくもない。

 

 僕が密命を受けたのはそんな理由だ


 それでも先輩は社内政治なんて、どこ吹く風で全く興味なし。

 

 そして、先輩は自覚していないが、強力な盾が存在するのも事実だ。「コノエ電機」創業者である近衛十吾会長のお気に入りなのだ。先輩が業績を上げる前から何かにつけ守っていたらしい。


「あれだけ、問題を起こしているのに首にならないのは先代のおかげだ」 

 

 これは少し当たっていると思う。

 

 根も歯もない噂だが、反社だった先輩を会長がスカウトしてきたとも言われている。

 

 会長は一線を退いた今もフラッと第二課やってきて、窓際に座ってお茶を飲みながら過ごす。そして先輩の手が空くのをひたすら待っている。


「全く暇なジジイだな」


 これが先輩の時間ができた時の合図だ。


「今はどんなもんを作ってるんだ」

「これ読んでみな」

 元々優れた技術者だった会長と論文を読みながら、商品に転用可能かどうか議論する。

「なるほどな。で、これを?」

「車椅子に使えるんじゃないか」 

「そうか、多少の段差なら衝撃を抑えられる」 

「ジジイももう時期必要になるだろ」

 

 会長は先輩と話すのがよっぽど好きみたいだ。「ジジイ」「棺桶」「冥土の土産」と言われる度に怒るが、どこか楽しそうだ。 


「岸がジジイの葬儀委員長するから、今のうち要望言っとけよ」

「そんな先輩、何言ってるんですか」

「岸くん、こいつだけは呼ばんでくれ。腹立って生き返ってしまう」 

 

 調べる前から分かっていたことだが、先輩がキックバックも貰っている事実もない・・・と思う。

 



 僕は先輩の命を受けて取引先の工場に新商品の相談に行く。


「おい!お前んとこのパワハラ田、刺されて死んだか?」

「なんだ、あいつまだクビになってねぇのか。可哀想だから拾ってやるのに」

「うちの社員がな、あいつと目が合って妊娠したぞ。四十の男だけどな。責任とってウチに来い」 


 取引先の人達はみんな先輩のことが好きだ


 先輩は下請けの工場に対して力関係を利用した無理な注文をしなかった。適正価格かそれ以上の金額を約束して、そして実行した。高くても売れる、それだけの商品を生み出していた。そして、その利益は必ず関わった会社、工場にも行き渡るようにしていた。


 この会社には先輩以外誰1人として、そのような事をしている社員はいない。誰もが少しでも安くして、利益を得ようとしている。立場を利用して、下請けに無理難題を押し付けている。

 

「1000円のジーパンを作って誰が得をするんだ。クソみたいな賃金で作らせたクソを売って、少しばかりのクソを得て、何になる?一部のクソみたいなクソ連中がクソが積み上がった数字を見て満足しているだけだ。クソはいくら積み上がってもクソだ。この会社の社訓を言ってみろ」

 

 僕は慌てて会社支給の手帳を取り出す。


「革新的な商品の開発で、社会をより良くする」


「社会をより良くする。それを理想として掲げているんだから、社員は給料を貰っている以上は、それを実行するよう努力するべきだ」

 

 意外にも原理主義だ

 

 そして、会長の理想を継承する唯一の人間だ。

「わしにはできんかったが、あいつが成し遂げてくれた。よりによってだけどな」 

 先輩のいない間に来た会長に新商品の技術的なことで相談に乗って貰っていた時だ。

「ただ、問題なのは、あいつしかおらんことだな。岸くん頼んだよ」 

「はい」 

 そう答えるしかない。でも、僕には到底無理だ。


 実は一度だけ、先輩が下請けの工場の社長から封筒を渡されるのを見たことがる。

 先輩の下について半年ほどした頃だ。まだ先輩のことを怖い上司だと思っていて、毎日ビクビクしながら働いていた。もしかしてキックバック?もちろん確証はない。

 

 黒田女史に報告するべきかどうか迷っていた。でも、僕の勘違いだったら?先輩という人をまだよく分かっていない。ただ何となくイメージしていた人とは違うなと感じていた。先輩に聞けば済む話だが、その勇気はない。

 

 正直、悩んでいた。仮にキックバックを貰っていたとしよう。先輩はこの会社を追い出される。その結果は火を見るより明らかだ。一気に業績は落ちるだろう。

 それに、これだけのことを成し遂げた人だ。少しぐらいのキックバックは当然の権利だとも思う。

 でも、社会通念上許されることなのか。 

 

 ある日、そんなことを考えながら出社すると、聞いたこともない舌打ちが聞こえたと思った瞬間、

「ファッーーーーーーーーク!」

 日本ではあまり聞くことのない言葉が響き渡る。


 え?なに?  

 出社してきた社員たちに動揺が走る。

 

 受付でジーンズ姿でピンク色の髪をした女性が受話器を叩きつけた。

「塔子ちゃん、あそこに立っているのが第二課の人」

 受付の人が僕を指す。

「あいつ?」 

「名前は知らなけど。原田課長の2代目アシスタント」


「え?僕?」

 ピンク色の人が振り返って僕を睨みつける。

「あっ!藤間だ」

「やだ、今更何よ」

 

 初代アシスタントの藤間さん?

 ・・・たぶん僕は今から殴られるのだろうか。すごい形相でこっちに向かってくる。

 藤間さんが僕の目の前に立つ。意外と小柄だが、迫力がすごい。

「モリオさんに用があるんやけど」

「あの・・・原田はいると思いますけど」

「部外者に用はないって切られた。あんた代わりに聞いていくれる?」

「何か御用ですか?」

「ちょっと付き合って」


 藤間さんがエントランスから出ていく。訳も分からず慌てて追いかける。

「ついにピンクかよ。さすが世界のITは違うな」

 元同僚たちが藤間さんに気づいて、からかってくる。

 藤間さんは中指を立てて出ていく。

 先輩に認められた人だけはある。流石だ。

 

 2人で会社の向かいにあるカフェに入る。

「これ渡しといて」

「なんですか?」

「条件。コノエ、モリオさん必要としてないんやろ。だから。こっちは役員待遇」

「必要に決まってるじゃないですか」

「さっき元同僚に聞いた。モリオさんの現状。相変わらず嫉妬の嵐なんやろ。どいつもこいつもアホ」

「それは課長にも原因があるのかなと」

「あんたもアホか。まぁいいわ。必ず渡しといて」

「・・・はい、一応。受け取ってもらえるよう善処します」

「・・・あんた、モリオさんの下についてどのくらいなん?」

「半年ほどになります」

 

 藤間さんが腕を組み、虚空を見つめて何かを思い出している。そしてニコッと笑う。


「まぁウチもあんたのこと言えないわ。最初の1年ぐらいは毎日殺人計画練ってたわ」

 

 笑うと意外と童顔なのが分かる。僕より少し年上ぐらいだろうか。牙を剥いた凶暴な獣から猫みたいな小動物に変わった。ちょっと惹かれている。


「あの、原田課長ってどんな人ですか?恥ずかしながら今だによく分からないです」


 藤間さんはコーヒーを一口飲んでから、昔を懐かしむみたいにコノエ時代のこと、先輩のことを話してくれた。


「ウチは工業デザイナーとして、コノエに入社したん。ちょうどモリオさんがkoeを立ち上げて第二課ができた頃」

「まだまだ人手不足やったから、すぐに第一課でデザイン担当させてもらって、やり甲斐はあった。でも、その時の和田ってオヤジが顔を合わせる度に、髪型とか持ち物のこと言ってくんの。我慢して黙って聞き流してたんよ。そしたら、ある時、なんだ生理かって」

「もう完全に我慢の限界で、和田に座ってた椅子投げたんよ。残念なことに当たんなかったんやけど、窓ガラスが割れて大騒ぎ。まぁこりゃクビやなって覚悟したんね」

「それをたまたま通りかかったモリオさんが見とってね。声出して笑ったん。人類が初めてモリオさんが笑うとこ見た瞬間よ。モリオさんも今までの人生で一番面白かったって」


「課長、笑うんですか」


「たまに笑う。皆既日食ぐらいの頻度やけど」

「お前、俺のところで働けって。あのパワハラ田やで。絶対無理やん。転職も考えたんやど、でも、やり甲斐はあるんかなって。koeのデザイン任せてもらえるかもって。まぁセクハラされたら殺したらええわって決めて、モリオさんのとこに」


「デザインはさせてもらった。でも、毎日チラ見でゴミ箱行き。人が寝ないで制作した作品を。どこが悪いのかって聞いても、どこがのレベルではないって」

「今やったら分かるんよね。あの頃はまだ流行っているデザインを知らず知らずのうちに踏襲してた。勝手に自主規制しているって感じやね。家電はこんなもんやろって。頭の中で汗かいてなかったんよ」

「悔しいけど、あの人のイメージ図の方が圧倒的に新しかった。ほんまになんなんよ。デザインのことなんか何も知らん奴がやで。完膚なきまで叩きのめされた気分よ。モリオさんのイメージ図を正式に書き起こしているうちに涙が出ていきてな」

「ウチは悔しいって。お前なんやねんって。人生勝ちすぎやろって。前世で何したん。ガンジーか野口秀雄かって」

「そしたら、モリオさん、悔しいって何だって?勝ちってなんだ?デザインは勝ち負けかって」


「勝ち組の人ってウチらみたいな人間の気持ち分からんのかなって。でも、よくよく考えたら、あの人は本当に勝ち負けみたいな、しょうもない価値観で人を見ていないし、生きていない。クソって罵っているけど、誰に対しても同じ。ホンマ分かりにくいけど、誰に対しても対等なんよ」

「ウチも人に負けたくないとか意識するから、抜け出せないんかなって。デザインが好きで好きで書きまくってた頃に戻ってみようって。そしたら、なんとなく自分なりのこつを掴めてきてな。ようやくモリオさんに認められた。そこから、幾つも採用されて、賞も受賞できて、今の会社に誘ってもらえるきっかけにもなった」

「最初は行く気なかったんよ。実は熱心に誘われてるのはモリオさんの方やったし。俺は興味ないって。でも、お前はもっと広い世界に出るべきやって後押ししてくれて。あの人こそ、もっと外に出るべき人やのにね。なんか、あの人、その辺がよく分からんのよね。今回も会社の命令で来てるけど、無理なんは分かってるんよ。とりあえず渡しといて。それがウチの役目やから。あんたが唯一のアシスタントなんやろ。頼むで」


「僕は、その・・・今のまま課長の元でやっていく自信はありません」


「ウチは知らんがな。それはあんたの問題や。まぁ先輩としてアドバイスするなら、あの人はホンマは何も怖くない。こっちの先入観や思い込みがほとんどや。まぁ無理もないけどな」


「できるかなぁ。あの見た目で、この業績ですよ。もう業界では本当は存在なんてしないみたいになってますし」


「これはウチの勝手な解釈かもしれんけど、公の場とか人目につくとこには出てこんやろ。興味ないってのもあるんやろうけど、あえてそうしてるんかもなって。それでもって、ほんまに自分の過去のこと話さんやろ。ウチは4年一緒やったけど、何も知らんもん。過去に何があったら、あんな人間になるんやって」


「あの・・課長がキックバックもらってる噂があるんですけど」


「それはない。お金とかには興味ない。これは言い切れる。考えてみ。身なりあれやで。見た目で莫大なお釣りもらってるけど、普通の人間やったらやばいで。一度な、いくら貰っとるんやって聞いたけど、安月給過ぎてビックリしたわ。コノエはほんまに打ち出の小槌持っとるようなもんよ。ウチ、爺ちゃんのとこ行って、どういうつもりやって言いに行ったもん。爺ちゃんも無頓着やから知らんかったって。で、すぐに給料上げるみたいな話になったんやけど、モリオさん、そんなことはどうでもいいって。やりたいことがあるから、その分に回してくれって言ったみたいなんよね。やりたいこって何やったんか知らんけど、まぁたぶん研究室のことで何やかんや言ってたから、その関係やと思うけどな」


「だから、キックバックを・・・」


「まぁ、あんたももう少し一緒にいたら分かるわ。モリオさんがどんな人間か」

「うーん」

「胃袋は強いんやろ」

「そこだけは」

「それなら大丈夫や。ウチも飯だけは食えるから。なんやろな、あの習性」

「人がお腹いっぱいになってる時だけ、機嫌いいんですよね」

「そう言えば、引っかかってることがあんねん。ウチが辞める日にな、最後やからって昼メシ奢ってもらったん。いつもの定食屋やけど」

 

 

「だいぶ前だが、前世がどうとか言ってただろ。人は輪廻すると思うか」

「そんこと言うた?」

「配属されてすぐの頃にな。突然、泣き出して喚いて」

「やめて!忘れるか!あえて、とぼけてんのに気つかえや!モラハラ雄!!」

「椅子が飛んでくると思って楽しみにしてんたんだけどな。あれはお前の唯一の長所だ。次の会社でも絶対披露しろよ」

「ほんまにやめて。で、輪廻の話が何?」

「人は生まれ変わると思うか?」

「仏教では、それはあかんことやろ。この世界は苦しみまみれのクソやから、そもそもこの世界で生まれ変わりを繰り返す輪廻から抜け出すのが目的やなかったっけ。モリオさんはどう思うん?」

「ろくでもないクソってのは同意する。でもな、大切な人たちが、いなくなっても生まれ変わってくれるのであったら、俺にっとては、救いのある話ではある」

「えー!?意外やわ。パワハラ田でもそんなこと考えるんや。つうか、大切な人おるん?それも意外なんやけど」

「当たり前だろ。俺にとってはお前も大切な人間だしな」

「・・・・・」

「他にも友達みたいなのもいるしな。まぁ大切だな」

「ーーーーーーーーーーーーーーうぅ・・・なんやねん・・・今さら、そんなこと言って・・・ひどい。ウチ、明日からアメリカ行くんやで」


「うわっ原田課長、女の子泣かせてる」「容赦ねぇな」


「うるさい!!クソは黙っとけ」

 とりあえず、なんか投げたる!あっ椅子があった

「やめとけ」

「ゔぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーうぅ行きたくない!モリオさんと仕事がしたい」

「決めたんだろ。向こうで思いっきり椅子投げてこい」



「ウチ、不意打ちくろうて泣きそうになったわ。まぁ泣かんかったけど」

「生まれ変わり。そんなこと課長が言いますか?」

「言うたんよね。なんか信じられんけど、でも、なんか切実なもんは感じた」

「ちょと信じられないです」

「そうやろ。でも、あの人は意外の塊。と言うよりかはウチらがどんだけ偏見で人を見てるかっていう証明やな」

「はぁ」

「つうか、会社行かんでええんか?だいぶ遅刻やで」

「え?やば」

「渡してな」 

「はい」


 偏見か・・・僕が先輩のことを知ろうとしていないだけかもしれない


「遅れて申し訳ございません」

「藤間か」

 あれ?怒られない。

「はい。これ渡しといてくれって」

 中身も見ずにゴミ箱に捨てる。

「中身ぐらい確認しても」

「どうせ俺に対する告訴状だろ」

「慰謝料よこせって言ってました」

 しまった。条件反射で言ってしまった。お母さん、ごめんなさい。先立つ不幸を・・・


「訴えたいのは俺の方だ」


「元気にしてたか」

「はい」

「そうか」

 

 この日を境に僕は先輩との距離が縮まった気がする。

 

 キックバックのことはしばらく黙っておこうと決めた




 胃袋はどれだけ拡張できるのだろうか。先輩と働き出して、もう5キロは太った。


「おい!岸!ちょっと来い」

 

 僕が胃袋の限界を更新した直後に社内をふらついていたら、第一課所属の同期たちや後輩に呼び止められ、会議室に半ば強引に引き込まれた。 


「パワハラ田課長様は?」

「今日は金曜だから早く帰ったよ」

「やっぱりな」

「何?どうせ、どうでもいいことでしょ。戻るよ」

「おいおい!岸のくせに生意気だな。お前だいぶパワハラ田に影響されてんな」

 

 ため息しか出ない


「鴻池ちゃんが何か凄いもん見たってよ!」

「私見ちゃったんですよ。さっき原田課長が女の人と一緒にいるところ」


 入社一年目の鴻池さんが目をキラキラさせて報告してくる。


「でも、なんか言い合いしてて。よく聞こえなかったんですけど、どうやら、ちょっと女の人の方が強気で。それで、原田課長が何か言った後に、女の人が課長のお尻蹴ったんですよ」 

「な?やっぱりパワハラ田だって人の子なんだよ。普段は偉そうにしているのに彼女に弱い。むしろ、情けないよな。会社では威張り散らして、彼女にヘコヘコしてな。内弁慶じゃん」

「逆じゃね?逆内弁慶だろ」

 

 誰もが、あぁでもない、こうでもないと妄想を加速して盛り上がる

 

 先輩に限ってそれはないだろう。そもそもプライベートのことを勝手に詮索するなんて、どういう神経なんだ。でも、まぁ彼女はやっぱりいるんだ。少しがっかりしている自分もいる。


「彼女ブスだったりして」

 我が同期ながら最低だ。

「それが、もう」

「やっぱり、あぁいう人に限って割とアレなんだよね」

「超美人で、背も高くてスタイル神ですよ。あれは絶対モデルさんか女優さんのどっちかですよ。原田課長と並んで立ってると、本当にドラマのワンシーンみたいで、東京ヤバイってなっちゃいました。やっぱり原田課長って超カッコいいんだなって。なんか社内で目撃するうちに慣れちゃってんだなって。外であらためて見るとヤバいですよ」

「・・・そうなの」 

「へぇ・・」

 一気に盛り下がる。残念でしたね。  


「でも、この前あれだろ。みっちゃんがなぁ」

 皆んなから「みっちゃん」と呼ばれている第一課のアイドル的存在の川藤さんが泣きそうな顔で訴えてくる。

「聞いてくださいよ!」 

「原田課長がうちに来て、研究費の件で部長と言い合いになって」

 

 イケオジと呼ばれている久保田部長だ。お洒落で常に笑みを絶やさない企画開発部の頼れるリーダーだ。


「部長も最初は余裕のある対応してたんですけど、だんだん反論できなくなって。なんだか見てると可哀想で・・」


「さっきから何度も同じこと言ってるよな?あんたの耳は飾りか?」

「だから、業績伸び続けている状況なんだから、今のところは、このラインに予算を投入すべきで」

「それはお前らの仕事だ。今は俺の仕事について話している」

「今、新しい事業、それも介護分野なんて、おいそれと研究費は出せない」

「新規事業の開発って言ったのはあんただろ。若年層の減少し続けているんだ。今まで通り売れ続けると思っているのか」

「それは・・たぶん、絶対・・大丈夫だと思っている。うちの製品は自信を持って・・」

「たぶん絶対・・・一体何語を喋っている?俺は今まで誰に向かって話してたんだ?おい、そこのお前、部長と会話するには、どこの国の言葉を使えばいい」

「おい!失礼だぞ」

「ほう、それくらいは理解できるんだな」

「もういい!出ていってくれ」

「それは俺が決める。話を戻そう。報告書通り、主に車椅子、それから介助者が使えるサポート用の機器を開発する。これは工科大の篠崎教授の研究室と共同ではじめる」

「なんなんだ!お前は。だいだい、介護なんて、そんなもん」

「残念だが、この会社の社訓が『革新的な商品の開発で、社会をより良くする』となっているんだから、それに則っているだけだ」

「綺麗事だ。社訓でビジネスはできない」

「なら、何のために、この会社が存在する?お前は何のために働いている?」

「それは・・・」


「私、出張のお土産のお菓子持ってたんで、部長に反論の時間を作るために、原田課長の空いてる手にお菓子を渡したんです。後ろから。原田課長もはいどうぞって」

「そしてら、原田課長、お菓子見た途端に手が震え出したんです。それで、汚い物みたいに払いのけたんですよ」


「サイテー」

「で、怖い顔して出てったんです。私・・次に原田課長に会うのが・・・もう怖くて」 

 

 おかしい。先輩がそんなことするはずない


「あれは、ちょっとないよね。てか、原田課長の顔、青ざめてなかった」

 

 他の人も見ているのか。青ざめる?どうも変だな


「何か別の事情があったんだと思う。先輩に限って、そんなことで怒るとかないよ」

「お前!みっちゃんがどんな怖い思いしてるか考えろよ!」

「いや・・ごめん。川藤さん、僕から先輩に言っておくから大丈夫だよ」

「岸、カッコつけるなよ」

「なんで、俺がカッコつけるんだよ」 

 

 これじゃあ本当に先輩の言っている通り幼稚園だ


「あっ岸、お前今度の企画開発部の忘年会でろよ。第二課の代表として」

「なんで?」

「いい加減にしろよ。お前も同じ開発部だろ。特別扱い受けてるのはパワハラ田であって、お前ではない。初めて企画が通ったからって勘違いすなよ」

 

 あぁ本当に面倒くさい。でも、まぁ仕方ないか。僕はあくまでも仕事のできない社員だ。先輩の分も付き合いとかしないといけないのだろう。


「わかったよ」



 先輩がデート・・・やっぱり、しっくりこない。超越者であって欲しいのは僕の願望なことぐらい分かっている。

 でも、なでだろう?あの容姿だ。モテて当たり前だが、先輩には、何かそういった匂いみたいなものが全くない。無機質とも違う。

 寒々しいところで風に吹き飛ばされないように一人で立っているような「孤独」な感じと言えば良いのだろうか。誰か好きな人がいるとか、温かみのある暮らしとはかけ離れている気がする。

 



 月曜日、先輩がコーヒーを淹れている時に尋ねた。何か聞きたことがある時はいつもこのタイミングだ。というか、先輩が仕事のことで質問できる時間をわざと作ってくれている気もする。

「先輩?」

「なんだ」

 

 怒るかな?


「金曜日って早く帰るじゃないですか。どこか行ってるんですか?・・・デートとか」


 先輩が不思議そうに、僕の顔を見る。


「お前、掲示板を見てないのか?」

「掲示板?なんですか」

「掲示板というのはな、業務連絡すべきことや告知すべきことを」

「大丈夫です。見てきます」

 

 掲示板を隅々まで見る。特に大したことは張り出されていない。商品が掲載された雑誌の切り抜きや今度CMに起用する女優の紹介、慈善事業でやっている「子ども食堂」ボランティア募集のチラシ、新しい海外の事業所の写真、社員のペット紹介コーナー。

 どれも先輩につながりそうなことは何もない。

 

 CMに起用した女優さんの記事を読む。この会社は基本的にテレビCMをしない方針だが、新発売の高性能ドライヤーでは珍しく売れっ子の女優さんを起用して制作する。

 人気実力トップの三田凪子。舞台出身の確かな演技力と圧倒的な美貌で長い間トップを走り続けている。

 そして、このドライヤーは僕が初めて企画を通した商品だ。ようやくここまで辿り着いた。

 

 きっかけは先輩の散髪だ。会長が髪の毛がボサボサに伸びた先輩を見かねて、行きつけの理容師さんをわざわざ第二課に呼び寄せた。大人しく髪を切られる先輩は普段と違って可愛らしく見えた。


「先輩、なんだか連れてこられた犬みたいですね」

「こんな凶暴な犬でも大人しくなるんじゃのう」

「黙ってろ」  


 給湯室で洗髪され先輩が、髪をドライヤーで乾かしてもらっている時だ。僕はその様子をぼんやり眺めながら、なんとなく理容師さんに質問していた。


「ドライヤーってプロの人が使っているのと家庭用って違うんですか」

「風量が違いますね。あと熱源の違いですか。これはセラミックですけど、家庭用はそこまでじゃないと思いますよ」

「そうなんですね。プロ仕様か・・・家庭でもプロ仕様のドライヤーで素早く乾かして、且つ髪も傷めない・・・とか」

「・・・いんじゃないか」

「はい!やってみます!!」

 

 そこから先輩の叱咤激励罵詈雑言人格及び先祖否定のおかげで企画会議もなんとか通過して、実験に実験を重ね、初の家庭用高級ドライヤーの試作品ができた。ただ、デザインがなかなか決まらない。従来のドライヤーの域をでない。

 

 そこで、ダメ元で売れっ子デザイナーに依頼してみた。パワハラ田初代アシスタントで世界的なIT企業で実績を積み、そこから独立してロスに事務所を構える工業デザイナーTOUKO FUJIMA Officeにメールを送った。送信して1分も経たないうちに電話が鳴った。


「ファッーー-ク!ウチ、忙しいねん」

「すいません。是非お願いしたかったんですけど」

「なんで謝るんよ。これ、あんたの名前やけど、誤植?」

「誤植じゃないです。何とかここまで漕ぎ着けたんですが、納得できるデザインにならないんです。すいません、他をあたります」

「誰がやらんてって言うた」

「え?じゃあ」

「ウチ髪めっちゃ傷んでんのよ。できたら一つよこせよ」

「もちろん!」

 

 藤間さんのデザインは完璧だった。今までの常識を覆しながらも、パッと見でドライヤーと分かる無駄のない洗練されたフォルム。koeブランド初のドライヤーで僕のデビュー作でもある商品が完成した。



 CMに起用した女優の記事を読むだけで心が躍る。この女優さんの起用も僕が決めさせてもらった。

「ハリウッド進出も成功した三田さん。自立した女性を体現する三田さんを起用することによって」か。

 目力が凄い。なんとなく先輩に通じるところのある人だ。芯のあるイメージで、この人しか考えられなかった。

 

 社員のペット紹介・・・営業部の課長が小型犬と写っている。

「僕の家族を紹介します」か。

 着飾った小型犬の目が死んでいているのが気にはなる。

 

 「子ども食堂」?そんなことをしていたのか。恥ずかしながら初めて知った。調理スタッフと学習サポート。まさに「社会をより良くする」だ。ちょっと、この会社を見直した。

 毎週金曜日16時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

・・・・・・・・・・毎週・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金曜日・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・16時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・マジか


「先輩!なんで言ってくれなかったんですか!」 

「だから掲示板というのは」

「子ども食堂ですよ!言ってくださいよ!」

「なんで言う必要があるんだ。あそこで募集しているだけで充分だろ」

「誰も見てませんよ」

「社員なら見るべきだろ。そのための掲示板だ。俺は、動物虐待の記事を毎月楽しみにしている」

「そうですけど・・なんで誘ってくれないんですか?」

「言ってどうする?無理にやらされるもんでもないだろ」

「・・・・・そうですけど」

「あくまでもボランティアだ。強制されるもんじゃない」

「・・・はい、仰るとおりですけど・・・いつからやってるんですか?」

「確か5年前だな。ジジイに言って無理やりはじめた」

「・・・・気づいていませんでした。すいません」

「わからん。なんで謝る?」

「だって、全然意識が、なんか、その・・いえ・・あの僕行きたいです。お手伝いさせてください」

「手伝う?だからボランティアと言ってるだろ。やるんだったら来ればいいだけだろ。俺の許可なんていらん」

「やります!」

「じゃあ今週な。実は別のスタッフが海外出張でな。ちょうど人手が足りんところだ。まぁお前が来てくれたら助かる」

 

 助かるって言われた!泣きそうだ



 本当にこの会社の人は誰も先輩のことを理解していない。そして僕もだ。先輩と一緒にいて少しだけ分かった気になっていただけだ。

 


 次の金曜日、僕は先輩と一緒に退社して、公民館の調理場で「子ども食堂」の準備に取りかかった。いくつかの公民館を週ごとに回っているみたいだ。

 

 今日のメニューは生姜焼き定食。


 二人で玉ねぎやらキャベツやらを切り込んでいく。定時で仕事が終われるので、ずっと自炊を心掛けてきた。けっこう手際が良いと思う。先輩も少しは僕のことを見直してくれるだろう。


「包丁けっこう自信あるんですよね」


 それにしても大量の食材だ。あれ?もうない。

 先輩が、最後のキャベツを千切りにしていた。なんだ?そのスピードは。人間の手の動きじゃないだろ。


「なんか言ったか?」

「何も言ってません」

「俺は豚肉の準備するから、生姜切ってくれ。自信あるんだろ」 

「聞いてたんじゃないですか」

 

 先輩が笑って生姜を投げてきた。


「悪くはないけどな」

「先輩と比べないでください。一般男子レベルでは、です。先輩が異常なんですよ」

「昔、仕事でやってたからな」

「コノエに入る前ですか?え?料理人だったんですか」

「あぁ。でも、少し違うか。小さな店だったからな。調理場から始まって、食材の調達からビルのメンテナス。あと、ボディガード、支払いの取り立てとかもやったな」

「へぇ意外・・・ボディガード?取り立て?なんの仕事ですか?」

「俺もよくわからん。便利屋みたいなもんか」 

「どこでですか?」

「新宿のあたりだな」

「なら、先輩も今度の忘年会来てくださいよ。僕あの辺苦手なんですよ」

「俺は出禁だ。お前も嫌なら行かなきゃいいだろ」

「そうですけど。そういう訳にもいかないんですよ」

「お前は本当に不思議な生き物だな。死んだら解剖させてくれ」

 

 今日は先輩の機嫌がやけに良い


「ここの運営費ってどうしてるんですか?食材もこれだけの量ですし」 

「あぁジジイが出せる予算は限られてるしな。他に下請けの工場とかにも賛助金もらってる。全部じゃないけど、俺が行ってるところは協力してくれてる」

「あの、先輩がたまに貰っている封筒って」

「ここの賛助金だが」  

 

 安心した。それと同時に少しでも疑ってしまった自分を恥じる。藤間さんの言っていた通りだ


「それでも毎週金曜日ですよね。それだけで足ります?」

「最初は大丈夫だったんだけどな。最近、結構な人数が来るようになってな。だんだん厳しくなって、俺の給料も大したことねぇしな」

「え?先輩?自腹でしてたんですか」

 

 本当に分からない人だ。僕の理解を超えている


「それでも足りなくて、どうするかなぁって。ジジイには色々無理聞いてもらってるしな。そしたら、ボランティアスタッフの職場が銀行でな。そこが賛同して、ようやく」

「スタッフは何人なんですか?先輩と」

「ふたり」

「え?この量を?じゃあ、その人が海外出張中なら、先輩だけじゃないですか」

「元々1人でやってたしな」

 

 たった一人で「子ども食堂」をはじめたのか。いや、先輩は掲示板で賛同者を募っていた。僕も含めてだが誰も気にも留めなかっただけだ。

 

 とりあえず、準備は整った。少しでも暖かい食事を提供するために、調理はギリギリまで待つ。その間に会場の設営だ。ただ、先輩の機嫌はめちゃくちゃいい。楽しそうだ。こんな姿を今まで一度も見たことながない。はっきり言って別人だ。そんな先輩に甘えてしまって、僕も余計なことを喋ってしまう。


「僕は自分が空っぽだと感じています」

「クソは入っているだろ」

「クソぐらいですよ。なんか、昔からなんですけど、自分には自分がないんです。でも、周りの人もそんな感じだし、あまり気にならなかったんですが・・・先輩といると、やっぱり自分には何にもないなって」


「考えたこともねぇけどな・・・まぁその方が幸せかもしれん。耳触りの良い言葉に安易に飛びついて、涎垂らしているの見てると、たまに羨ましくもなる」

「幸せ自体がわからないんですよ。やっぱり、先輩みたいに信念というか、そういった確固たるものを持つべきだと思います」

「でもな・・・俺が持っているかどうかは置いといてだ。お前の言うように、何か持っている人間がいたとしよう。でも、それが正しいものとは限らないんじゃないか。冷たくて重くて暗いもの、なんで、そんなもん大事に抱えてんだって。捨ててしまえばいいと自分でも分かってるけど、なぜか捨てれない。確固たるものの正体なんて、案外そんなもんかもしれぞ」

「そうだとしても、自分は空っぽよりマシだと思います」

「・・・そうか。

「まぁお前は大丈夫だ」

「本当ですか」

「大きな穴が空いているからな、なに入れても漏れてなくなる」

「ひどいです」

 

 先輩は笑っていたけど、どこか寂しそうだった。先輩のことを知ってしまった今となれば、後悔しかない。僕は自分のことしか考えてない本当に度し難いクソだ。


 いつの間にか外が賑やかになっている。子供達の気配がする。


「そろそろだ。いいか、ここからが本番だ」

 

 先輩が顔が更に生き生きしてくる。


「はい!」

「できるだけ、お代わりには答えてやれ。ただ、中高生が食べずに手伝ってくれる。そいつらの分は、何がなんでも確保しとけよ」

「はい!」


「お腹減ったァ」 

「モリオ!今日は?」「生姜焼き!」

「モリオ!」「モリオ!」「モリオ!」「誰?」「モリオ!」

 

 小学生たちがどんどん入ってくる。先輩がひたすら肉を焼く。僕はご飯と味噌汁を入れていく。子供たちは新顔の僕に興味あるのか、いろいろ聞いてくる。


「誰?「何?」「誰?」「何?」

「ねぇ誰?」「誰?」「誰が?」「この人誰?」


 もう戦場だ。子供たちの相手をしながら、ひたすら手を動かす。

 

「俺の同僚。今日から手伝いに来てくれた。名前は岸誠」

「初めまして。よろしくお願いします」


「お願いしますだって」「へぇ」「ねぇ誰?」

「モリオのツレだって」「モリオのツレ?」「モリオのツレの岸君」

「海子ちゃんは?」「出張」「えぇ!無理」「勉強どうすんの」

「後で岸が教えてくれる」

「やだ。海子ちゃんがいい」

「ワガママ言うな」

 

 食べ終わった子たちは、自分で食器を洗いに行く。

 いつの間にか中学生たちもやってきて、自己紹介もそこそこに配膳を手伝ってくれた。当然、思春期真っ只中なので手を動かすよりは口の方がよく動いていたが、ものすごく助かった。というよりは、彼らの方が先輩なので当たり前だ。


「ねぇモリオ聞いて」「その先生がめっちゃ嫌なやつで」「母ちゃん仕事決まった」「俺もモリオみたいな料理人になる」「彼氏が嫉妬して」

 

 この人数をたった2人でさばいているのか?でも、ご飯を食べている時の子供たちの笑顔を見てると、もの凄くやり甲斐がある。


 手伝ってくれた中高生たちの食事を出して、ようやく一息ついた。

 宿題を始める子やグループになってボードゲームをする子達。みんな、それぞれの時間を過ごす。楽しそうでなによりだ。

 

 僕は女の子の算数の宿題を手伝った。理解力もあって、感もいい。すぐにスラスラ解き始めた。

「ここに来るのは楽しい?」

「うん。ご飯いっぱい食べれるし、みんないるし、寂しくない」

「・・そう。美味しかった?」

「生姜焼きっていうの?初めて食べた」

 

 この子達の普段の食生活を考えてしまう。この場所は絶対必要だ


「よかった。また美味しいの作るからね」

「やった。岸はまた来てくれるの?」

「来るよ」



 子供達が帰り、片付けを済ましたのは、公民館を閉める時間ギリギリだった。

 先輩と二人で駅まで歩く。


「なんか、喜んでもらえるっていいですね」

「本来は俺たちのやることではない。現状が変わらないなら、誰かがやらないとな」

「やっぱ先輩すごいです」

「変態日本代表に選ばれたことか」

「そうです。こんなことを一人で始めるなんてド変態ですよ」

「かもな」

「僕の時にも、こんな居場所があったならって。うち、あまり両親が仲良くなくて。僕も父親と考え方が違いすぎて、家に居場所がなかったんです」

「おい、不幸自慢はやめろ。昨日見たトトロの余韻が冷める」

「はい」


 



 気が重い。忘年会なんてどうでもいい。どうせ先輩の悪口大会だ。新しいネタを僕から提供してもらいたいのだろう。

 居酒屋の2階を貸し切って企画開発部の忘年会が始まる。僕はできるだけ目立たないように隅っこに座る。

 

 ようやく、お開きになって、帰ろうとしたところで安藤君に捕まった。

「お前も2次会くるやろ」

 

 僕の同期である安藤君は、我が社とも取引のある関西の大手量販店の息子だ。東京の大学を卒業して、いずれ継ぐことになる家業のために修行として我が社に入社した。ラグビーをやっていたらしく体格が良く、関西の人特有の明るさで、上司から可愛がられ、後輩達からも慕われる社内の人気者だ。

 僕は彼の視界には入っていない。初めて会った研修会で、出身大学を聞かれたので答えた。すると、彼は鼻で笑って、「なんや、ただのモブやん」それ以来無視され続けていた。

 

 安藤君は一度、先輩にからんだ。合同企画会議での一幕だ。 

 皆から恐れられている先輩に物申すことで目立ちたかったのだ。

 

 先輩は工学的に再考された羽根をもつ家庭用サーキュレーターのプレゼンをした。

 普段は文句を言っているが、誰もが異論を挟む余地のない完璧なプレゼンだった。改良の余地のないと思われているもの、新商品に取って代わられたモノをもう一度生き返らせる。先輩の真骨頂だ。

 

 突然、安藤君が質問をした。余裕の笑みを浮かべながら、決して真剣ではないですよと言いたげだ。


「原田課長の企画、少し時代から遅れ始めてませんか」

「そこに、むしろ需要があると思っている」

「でもエアコンがここまで当たり前になってますやん。今さら扇風機って」

「さっきから何度も説明しているが、これからは家電を選ぶ基準が節電になってくる。残念ながら、この会社は節電に関しては技術的に遅れをとっている。今できる最善の提案だと思って、この商品を提案した」

「なんか古いわ。それに節電で選びますか」

「ちょっと安藤くん」

「いや聞こう。合理的な意見があるなら言って欲しい」

「・・なんか、まぁ売れますか?」

「それを説明してたんだが、もう一度最初からやるか」

「・・・僕は買いませんわ」

「じゃあ、もう一度やり直そう。気になるところがあったら質問していくれ」

「原田課長、充分です。この商品の素晴らしさはここにいる全員が理解しています」

「全員じゃない」

「今日はこの辺にしておきましょう」

 

 会議は解散。先輩の商品は有耶無耶なまま流れてしまった。

 1年後、新興の企業が同じような商品を発売して、大ヒット。


「原田課長の責任やろ」「あの情報、他社に流したんちゃいますか」「いよいよ原田課長の神通力も終わり」

 

 後ろめたさがあるのか、安藤君は先輩の悪口を言い続けている。


 

 安藤君は飲みすぎたのか、僕の肩に手を回し、「俺とお前は同期や」と突然言い出し、先輩の犬は俺の犬でもあると言って無理やり行きたくもない2次会に連れて行かれた。

 

 事件はその2次会のバーで起こった。歌舞伎町のダーツバー。

 

 酔った安藤君がダーツをしていた若者グループに喧嘩を売った。夜の街で絶対に揉めてはいけないない人達なのは明らかだった。だけど、向こうも騒いでいたわけでもなく、仲間同士で楽しんでいただけだった。


「将来どうすんの?自分ら終わってんで」


 意外にも彼らは怒ることなく聞き流し、リーダー格と思しき人が安藤君をなだめて、謝らなくても良いのに謝っていた。それでも安藤君は執拗に絡む。予想外の大人な対応に相手にされていないと感じて、プライドが傷ついたのか。


「底辺なんやから、俺がな、ダーツやりたいと視線送ったんやから、感じとって、さっさとどけな」

 

 社員達はどうして良いのか分からず、笑っていただけだった。

 

 彼らの我慢の限界を感じたので、怖かったけど間に入った。


「安藤くん、言い過ぎだよ。すいませんでした。酔っているみたいで。行こう」 

「おもんな!なんやねん!ザコの分際で。お前もこいつらと一緒やで。ザコが」


「ちょっとお兄さん、そろそろ」

 リーダー格の人が安藤君の肩に手をかけた。

「触んなや」

 安藤君が殴った。


 店員が駆けつけて来る。殴られたリーダーの目配せで、ドアの前に立つ。彼らの店だった。

 今まで気づかなかったけど、店奥に座っていた仕立ての良いスーツ姿の、見るからに本職の男の人が出てきて、僕たちに「こちらに座ってください」と促してくる。

 

 落ち着いた丁寧さが本物だと感じさせる。


「なんや!」

 

 流石の安藤君でも、自分の置かれた状況に気づいたらしく、徐々に青ざめていく。

 スーツの人が僕たちの席の前に立つ。


「ちょっとやり過ぎたかな」

「アオ、大丈夫か」 

「はい大丈夫です。すいません、ヒタチさん」

 

 アオと呼ばれたリーダー格の男がスーツの男に椅子を持ってくる。見るからに高級そうな腕時計。眼鏡をかけて理知的な感じだが、頬の傷がある。明らかに切られた跡だ。滲み出るオーラに圧倒される。


「私はここのオーナーのヒタチと申します。反社ではないので、安心してください。ただ、ちょっと話し合いが必要ですね。ご覧の通りドアに鍵はかけていない。警察を呼ぶならどうぞ。もちろん被害届を出すのは我々だけど」

 

 安藤君はそれでも強がる。多分、この中に意中の川藤さんがいるからだろう。


「慰謝料払いますわ。ナンボですか。言い値でええっすよ」

「それだと君の言ってた通りの底辺のザコになってしまう」

「どうしたらええんですか」

「忘年会?責任者は?」


 誰も手をあげない。久保田部長と第一課の田中課長は下を向いたままだ。


「あの、少し待っていただけますか」 

 

 先輩なら何とかしてくれるかも。淡い期待を抱いて、先輩に電話する。


「ダメだ、それはお前らが悪い。東京湾で魚の餌か。来世はもう少し頑張れよ」

「・・・先輩」

「俺は今、魔女の宅急便を見ている。何があっても無理だ」

「場所だけ送っておきます。気が向いたら来てください」


 なんとか、僕が謝っていたが、その度に安藤君がややこしくする。当然、相手の若い子が応戦する。間に入って何度も喧嘩になるところを止めたが、そろそろ限界に近い。

 

 1時間後、先輩が現れた。


「原田課長!」

 

 社員たちが驚いている。来てくれたことに安堵している。こんな時だけ調子が良いと思ってしまう。

 

 ただ、それ以上に、なぜか向こうの人たちが驚いて、お互い顔を見合わせている。


「くだらんことに呼びやがって」 

「先輩、すいません」

 

 アオさんが先輩に走り寄ってくる。

「モリオさん!」

「おぉアオか!相変わらずバカか」

「はい!」

「・・・つうことは、ヒタチの店か」

 

 ヒタチさんが頭を抱えている。


「マジか・・モリオの会社かよ」

「俺の会社ではない。因みに、部下はこいつだけな」

「モリオの下で揉まれてんだな。彼は度胸がある」

「他の人達はどうする?」

「知らん。東京湾にでも沈めるなり、山に埋めるなりしてくれ。なんなら手伝うぞ」

「本当にするぞ」

「頼む。手間が省ける。だいたい聞いた。悪いのはこっちだ」

 

 向こうの若い子達が耳打ちしている。

「え?あの人がモリオさん」「マジで!?」

 先輩の言ってたことを思い出す。ボディガードとか取り立てとか・・・


「おい、ゴリラ来い」 

 安藤君が前にくる。

「謝れ」

「すいませんでした」

「俺じゃない」

「すいませんでした!」

「ヒタチ、帰らしていいか」 

 

 ヒタチさんが、どうでもいいって顔で手を振って帰れと合図する。

 

 皆、逃げるように帰っていく。

 久保田部長が先輩に耳打ちをする。


「君は、この人たちと知り合いなのか」

「何か問題ありますか」 

「別に問題はないが、上の人達はどう思うか」

「ゴリラが騒いだだけだろ。檻の問題だ」

 

 先輩に助けてもらってお礼の一言も言わないなんて


「じゃあな。キキが魔法使えなくなったんだ。続きが気になる」

「冗談だろ。久々なんだし飲もうぜ」

「あいにく金ならねぇぞ」

「奢ってやるよ。貧乏サラリーマン」 


「ちょっとムカついたすわ」

「ほっとけよ、あんなのはすぐに自滅する」

 

 2ヶ月後、安藤君は取引先の上司に向かって何を勘違いしたのか「オッサンお茶買ってこい」と言って大問題になった。そのまま安藤君は実家に戻ることになった。少し家業の行く末が心配だ。


 ヒタチさんもアオさんも、仲間の人たちも気持ちのいい人たちで、ようやく僕も楽しく飲めた。

 先輩の過去を知るチャンスだと思ったが、核心は教えてくれなかった。その話題は僕に聞かせないように、わざと避けているみたいだ。

 

 若い子が先輩に昔の事を聞きかけたが、ヒタチさんが素早く別の話題に変えた。 

「モリオさんが一人で事務所に乗り込んだって本当っすか」

 

 事務所?乗り込んだ?


「いいよ、今は。そう言えば何年か前にモリオのこと尋ねて回ってる女がいるって噂になってな。お前なんかしただろ」


「しらん」


「飲み屋とかホストクラブとかに来て、モリオって男は知らないかって聞いて回ってたらしいですよ。古株のホストやオーナーたちの間で噂になってました」

「俺も一度聞かれましたよ。なんか背が高くてサングラスにマスク姿なんすけどね、それでも超美人ってのは分かるぐらい。どっかで見た気がするんですけど」


「だから、知らんって言ってるだろ」


「きゃーーーーーーーーーモリオちゃん!」

 派手な女性たちがドカドカと一斉に入ってきた。

 

 ヒタチさんが頭を抱える。

「おい!誰だ言ったの!!」

 若い男の子が頭下げる。

「自分です。すいません。さっきタバコ買いに行った時に思わずオバちゃんに」

「何やってんだ!2丁目からも進撃してくるぞ」 

  

 そこから2丁目のオネエさん達やその筋の方々までどんどんやってきて店は鮨詰め状態になっていった。誰もが先輩に一目会おうと集まってきた。もう店内はお祭り騒ぎになっていった。

 

 先輩はカウンターで静かに飲みながら、次から次へとやってくる人たちと言葉を交わした。

「私ね今店2軒持ってんのよ」

「お前が?悪い冗談やめろ」

「ひどい。繁盛してんだから。あっそうだ、ナミいたでしょ。あれから、いい人と再婚して千葉で幸せに暮らしてるよ」

「ユズは?」

「大丈夫。再婚した旦那さんが、自分の子供のように可愛がってくれてるって」

「そうか」

「それでね。ナミも、旦那さんも一度お礼が言いたいって」

「いいよ。今の話で十分だ」


「うちのオヤジ、まだモリオさんのこと諦めてませんぜ」

「やだぁいい男ましてんじゃないの!ねぇいつになったら貰ってくれんのよ」


 誰もが先輩との再会を喜んでいた。何度もお礼を言う人、泣いている人もいた。


「モリオ、ロ・リンが来てる」

 ヒタチさんが奥のソファを指した。黒いスーツの男性が座ってグラスを傾けていた。先輩と同い年ぐらいだろうか。振り返った先輩と目が合うと、そっとグラスを掲げた。ロ・リンと呼ばれている人には片腕がなかった。

「あぁ」

 

 先輩が近づいて、軽く抱擁をして、2人で飲み始めた。穏やかに笑っている先輩を初めて見た。先輩に感じる孤独感みたいなものが抜け落ちたように見えた。

 

 店内の人たちはその様子を見て、少し静かになったが、すぐに賑やかな飲み会に戻った。

 2丁目のオネエさん達にからかわれて困っていると、肩を叩かれた。振り返ると先輩が立っていた。

「そろそろ帰るぞ」

「はい」 

 

 ソファにロ・リンと呼ばれていた人はもういなかった。


 帰りのタクシーの中でロ・リンと呼ばれている人についてい聞いてみた。

「古い友人だ。10代の頃、2人で中華料理屋をやっていた」

 

 それ以上、何も聞いていはいけないと思った。


 先輩のルーツを少し知れたけど、何か怖くもなってきた。底がしれないというか、一体どうやって、今まで生きてきたのか。容姿、能力が完璧だからサバイブできた、そういったものではない気がする。僕の想像の及ばない何かがあるのだろうか。  

 



 次の日、黒田女史から呼び出された。

「原田課長が反社と繋がりがあるって本当なの?ちょっと上の方で問題になっているみたい」

「あの、先輩に助けてもらっただけですし、揉めたのは安藤くんで、僕が無理やり先輩に来てもらって。そもそも、あの人たちは反社とかじゃないですよ」

「その安藤君が反社だって言ってまわってるのよ」

 

 何を考えてるんだ、あのゴリラは


「違います」

「ずいぶん肩入れするのね」

「当たり前じゃないですか。事実じゃないんですから」

「それとこれとは別。反社との付き合いは大問題よ。でも、違うのよね。それは間違いないの?」

「間違いないです。都内で何軒も飲食店を経営されている方です」

「分かりました。安藤くんには私から言っておきます」

「もういいですか?」

「キッキバックの件は?」

「あれは賛助金です」

「何?どういうこと?」

「子ども食堂のこととか、会社の人はどう思ってるんですか」

「?」

「ご存知ないですよね。アシスタントの僕でも知らなかったんですから。先輩は毎週金曜日に子ども食堂を運営しています。取引先で賛同してくれる所から賛助金を頂いてます」

「そんなことやってるの?いつから?」

「もう5年も前からだそうです」

「・・・そう」

「一度お伺いしてみようと思っていたんですが黒田部長はバカですか?」

「聞き捨てならないわね」

「くだらない派閥争いに先輩を巻き込もうとしないでください」

「くだらない?ウチの未来がかかっているのよ」

「先輩はこの会社の未来じゃないんですか」


 黒田女史が大きくため息をついて、窓から外を見下ろした。


「キックバックなんて彼がもらうわけないじゃない。ホントに皆んなどうかしてるわ。副社長は躍起になっててね、証拠を取ってこいだ、あいつを黙らせろだって、もうホントに嫌になる」

「でもね、今のままでもダメなの。誰もが文句を言っているけど、結局は原田くんに頼りきっている。私も彼の人間性は少しぐらい理解しているつもり。パワハラ田って呼ばれてるけど、そうじゃない。恐ろしいくらい芯のある人で、誰よりも優しいことは知っています。長く2人でやってたんだから」


「でも、黒田部長は先輩を追い出そうと」


「追い出すわけないじゃない。でもね、彼は簡単にここを去るわ。彼にとったら、たまたま就職した先が家電メーカーで、たまたま配属された先が商品開発だったから、やっているだけ。信じられないけど、そうでしょ」

「・・・まぁ、そうですね」

「彼がいつウチを去ってもいいように、全社員が自覚を持って仕事をしないと。コノエは砂の城だって気づかないといけないの」

「そうかも知れませんけど、だからって」

「だから、彼をなんとかコントロールして、少しでも長くいてもらおうと私も考えた。その間に社員たちを育てないと」


「でも、先輩の中心は子ども食堂です。一緒にやってみてわかりました。それが生き甲斐なんだと思います。この会社が子ども食堂を続けている間は大丈夫だと思います」 


「そうね・・・子ども食堂か・・・彼らしいわね・・・」


「黒田部長?」


「ウチの会社が軌道に乗った頃ね。そんな時に私、妊娠したの。仕事優先だったから産むの正直悩んだわ。そしたら、原田くんが絶対に産めって。あんた子供好きだろ、後悔するぞって。まだその時は今ほど育休の理解とかなかったしね。女の私が休職して戻ってこられる保証はないじゃない。でも、俺があんたが戻れるようにするからって。それで会長に掛け合って、役員たちを脅しまくって、私が戻れるように道を作ってくれた。それで、私も覚悟ができたの。ウチの福利厚生が手厚いのも彼のおかげ」


 先輩らしいエピソードだ


「子供産んだ時ね、毎日病院に来てね、赤ちゃん見にくるの。抱っことかも上手なのよ。子供育てたことあるのかと思ちゃったわ。歳の離れた兄弟とかいたのかもね」

「本当に不思議な人です」

「娘は私の宝。だから仕事も頑張れる。彼には感謝しかない」


 黒田部長には彼女なりの正義があった。そして、先輩の理解者だってことも分かって安心した。

 

 その時、電話が鳴った。なんで不吉な知らせって取る前から分かるのだろうか。黒田部長も感じていたみたいだ。緊張が走る。少し間をおいて受話器を取った。


「近衛会長が倒れたみたい」




 

 金曜日。いつも通り先輩と2人で子ども食堂に向かった。今日で4回目だ。僕もだいぶ慣れてきた。今日はカレーと野菜スープ。場所は少し遠出して川崎市だ。

 会長のことを考えながら食材の切り込みをしていたら、うっかり指を切ってしまった。

「先輩は会長のこと気にならないんですか」

「ジジイも年なんだから仕方ないだろう」

「でも、あれだけお元気だったし」

「俺たちがクヨクヨしてもジジイがよくなるわけじゃない。今は料理のことだけ考えろ。俺はカレーを仕込んでくる。お前は野菜と自分の指を切っとけ」

「はい。気をつけます」


 もし会長に万が一のことがあったら、この子ども食堂はどうなるんだろう



「あなたが岸君ね」

 

 振り返るとスーツケースと紙袋を持った女性が立っていた。スラリとして、切れ長の目が印象的な女性に突然名前を呼ばれたので、戸惑った。というより、こんな美人と会話したことないので緊張して口が半開きのまま動けなかった。背も僕より少し高い。モデルさんか女優さんだろうか。それにしても何で僕の名前を?差し出された名刺を受け取る。


「帝都city 銀行 融資課次長 皆川海子」


 スーパーエリートだ。ちょっと待って。海子ちゃんって子供達が言っていたのは、この人のこと?


「よく言ってるわよ、クソがようやくまともなクソになったって」

 女性の口から出る言葉ではなかったので、なんと答えて良いのか戸惑ってしまう。

「あの、先輩と一緒にやっている方って」

「私。よろしく岸くん。これ切ればいい?」

「はい!」

  

 海子さんも超人だ。みるみる野菜が斬り込まれていって、あっという間にスープを作り始めた。


「先輩といつから知り合いなんですか」

「悲しいことに小学校からね。あいつが小5の時に転校してきてね。中学3年でまたあいつが引っ越して以来会ってなかったんだけど。運悪く、ここでばったり。教えてあげる。神様はいないわ」

「え?先輩の同級生?なんですか?」

「驚きでしょ。あいつにも子供時代があるのよ」


 海子さんと話してるうちに、いつの間にか緊張はほぐれていた。自然体でケラケラとよく笑う海子さんと話していると、自分も明るく社交的な人間だと勘違いしてしまう。


 海子さんがいるだけで周りは自然と明るくなる


 子ども食堂が始まった。3人だと渋滞が起こらない。次々とやってくる子供たちはみんなカレーに喜んでくれる。


「おっといけね。これお土産ね。多分、数あると思うけど」

「お前ら分かったか」

 金髪に染めてヤンチャな感じだけど、まとめ役のテル君が海子さんからプリンを受け取り、小さな子から配っていく。

 先輩はテル君や他の男の子たちにカレーをよそうのを手伝わせる。男の子達は文句を言いながらも、どこか楽しそうだ。


「なげぇ海外出張だな」

「あんたがいる日本なんて、できれば帰ってきたくなかったわ」 


 先輩と海子さんと言い合いを見て、女の子たちがクスクス笑う。


「海子ちゃん、モリオに会えてなくて寂しかったね」


「今年聞いたジョークで一番面白くないな」

「私、そこまで悪いことしてないわよ。日本では、モリオと一緒にいるだけで捕まるのよ」

 

 先輩は用事があると言って先に帰ってしまった。多分、病院だ。会長のところに行くのだろう。

 

 帰りは海子さんと2人だった。先輩の子供時代を知る人だ。聞いてはいけないと思いつつも、聞いてしまう。


「先輩って昔から、あぁなんですか?」

「・・・笑っちゃうぐらい変わらないよ」

「やっぱり。先輩、会社で色々言われてるんですけ、先輩と一緒に過ごして分かったんです。誤解されてるだけなんだなって」

「パワハラ田でしょ。超ウケる」

「先輩から聞きました?」

「コノエ電機のパワハラ田モラハラ雄様。銀行でも超有名だったのよ。その名前が轟きまくって、どこもコノエに融資したがってたの。で、ここで再会してね。話している内に、モリオがパワハラ田って知ったの。最高!言い得て妙すぎて」

「あのひょっとして出張行かれる前に先輩と会ってました?」

「あぁ・・会った。ムカついたから蹴っといたけど」

 

 やっぱり海子さんだったのか。ひょっとして? 


「あの数年前に歌舞伎町で先輩のこと探してました?」

「なんで?本当にここで偶然よ」

「あの・・多分なんですけど先輩のこと探している女性がいるみたいなんです。先輩の友達の方が言ってました。心当たりはないですか?」

「ふ〜ん。知らね。まぁ見た目だけは良いから、そんな女も何人かいるんじゃない」

 

 心なしか言葉に怒気が含まれている気がする


「なんで海子さんは子ども食堂手伝うって決めたんですか?」

「あいつに借りがあんのよ。小学校の時にね、助けてもらったの。こんなことなら断っとけばよかった」


「あぁ・・・私ね、5年生の時にイジメられてたの。結構ハードにね。きっかけは何かよく分からないけど、まぁ昔から可愛いかったし、超勉強もできたからね、クラスのボスみたいな子が気に入らなかったのよ」

「冗談よ。でも、そのイジメっ子が地元の国会議員の娘で、同級生も先生も誰も助けてくれなかったの。でも、あいつだけは助けてくれて。まず、皆んながいる前でイジメっ子にやめろって、イジメっ子を庇う先生にも抗議してね、というよりは冷静な罵詈雑言ね。それでも、イジメは続いたから教育委員会に行って、最後は父親の東京の事務所にまで行って」


「すごい行動力ですね」


「もう異常よ。お前のことなんだからお前も来いって。事務所で私泣きまくって上手く話せなくて。そしたら、あいつ、隠し持ってた包丁を机に突きさして、今からここで約束しろって」

「最初は笑ってた議員も面食らってね。あまりの迫力にもうお手上げ。頭下げて謝ってくれたわ」

「その議員、帰り際にモリオに言ったの。君は見込みがある、俺のところに来いだって。やめてよね。モリオが国会議員の国なんて住めるわけないじゃん」


「まぁあいつに大きな借りがあるのは確か」


「なんで、先輩はあんなに強いのかって考えるんです。僕も少しぐらいは先輩のように自分が正しいと思ったことを正しいと言いたいです」

「生まれた時からじゃないと思うよ。生きていく上で必要だったのよ、たぶん」

「あいつも色々大変だったからね」


「あぁごめん、今の話忘れて」





 コノエ電機創業者近衛重吾会長が亡くなった

 

 青山の大きな斎場で葬儀は執り行われた。もちろん葬儀員長は僕ではない。

 先輩が葬儀に現れたのは出棺前に棺の中に花をたむけている時だ。

「え?あれがパワハラ田?」

「ウソ、超イケメン。誰よ首のない刺青親父って言ったの」

 

 先輩が会長のご遺体に花を投げ入れた。

「おい、ジジイ来たぞ・・・生き返んじゃねぇのかよ」

「・・・」


 


 会長の四十九日法要が執り行われた次の日、コノエ電機後期報告会が開催された。各部署から代表者数名が参加して、後期報告と来期の目標を発表する。全社員が見られるように中継もされる。

 会の最後、おもむろに社長が立ち上がり、訓示を垂れた後に「そう言えば」と思い出したかのように話し始めた。 


「子ども食堂のサポートは終了します」

「!?」

 僕は思わず椅子から立ち上がりそうになった。黒田女史も驚いている。先輩はまっすぐ前を見つめたままだ。


 僕なんかが何を言ってもと思うけど、言わずにはいられない。

「我が社の理念と反するのではないでしょうか?」

「そもそも民間企業がやってることに違和感があるので」

「誰もやらないから我々がやっています」

「君は誰だね。は?岸?どっかで聞いたな。まぁいいか。だた我々としてもだ、仕事に支障をきたすまでやるべきことではないと思っている」

 

 先輩がゆっくりと社長を見遣る。いつもの無表情だ。


「いつ支障をきたした?そもそも、子ども食堂に関わっているのは第二課の俺たちだけだ。何もやってない奴が口出しするな」

 

 あれ?先輩の口調が変だ。本気で怒ってる?


「これからは別の形で社会貢献に励もうと思っています」 


「おい!岸、あいつの耳は飾りか」

「みたいですね。シリコンじゃないですか」

 

 たまらず黒田部長がフォローしてくれる。


「すぐにというのは如何でしょうか。多くの利用者がいると聞いています。続ける意義は十分あると思いますが」

「君まで何を言ってるんだ。我が社だけでやっても意味がないだろう。当事者意識は社会全体で持つべきだ」

 

 何を言っているんだ?明らかに先輩に対する嫌がらせだ

  

「社長、冗談は、その頭だけにしといてもらえませんか」

 

 ・・・嘘だろ。社長のカツラのことを言っているのか。これは全部署に流れている。流石の黒田女史も目を見開いたままフリーズしている。


「ハハハまいったな。私はカツラではない」

「どっからどう見てもズラじゃないか。当事者意識?だったら社長もズラを取って、当事者意識を持つべきじゃないのか?」


 先輩、それはまずいです


「原田くん!社長のハゲは今関係ないでしょ!!」


 黒田部長・・・それは逆効果です 

 

「俺はハゲとは言っていない。そもそも人の容姿について俺は否定したことはない。偉そうなことを言えるような見てくれでもないしな。ただ、それを誤魔化そうとする根性が気に食わないと言ってるんだ」


 その容姿で、その発言は・・・

 

「何を気にするかは人それぞれでしょ!ハゲを気にしない人もいれば、ハゲを気にする人もいます」


 フォローになってませんよ


「誤魔化す人間がいるから、いつまでたってもハゲを恥じる人間が生まれるんだろ。同族で足の引っ張り合いをするなと俺は言っている。いいかげん、ありのままを受け入れたらどうだと言っているんだ」

 

 社長が湯呑みを手にとるが、怒りで震えてお茶がこぼれている。

 

「まぁズラなんてどうでもいい。今は子ども食堂についてだ。コノエ電機の社訓には社会をより良くするとある。創業者である近衛会長の掲げた理想であり目標だ。ズラ社長の一存で変えられるものじゃないだろう」 

 

 社長の顔が真っ赤を通り越して、黒くなった。初めて見る色だ。


「まぁ私はズラではないが、我が社の代表なんだよ。会長の四十九日も終わったことだし、社訓もそろそろ変えようと思っていたとろだ。そうだ!社内で公募しよう。選ばれた社員には賞金を出そう」


 僕には砂の城が崩れ去るのが見えた 


 

 


 先輩が移動になった。当たり前だけど。会社のトップにミサイルを打ち込んだのだ。


 資料編纂室。誰もがすぐに辞めると思っていたが毎日定時に出社してきた。

 

 一方、社内の人間は我が世の春を謳歌していたが、先輩の噂話だけは相変わらずだったが・・・


「もう大手メーカと話はついている」「我が社のデータ持って就活している」「あいつは、この会社を潰す準備をしている」「社長ってズラがバレてないと思っていたのか」


「つうか原田課長がいなくなったら、ヤバくない?」「銀行が融資を渋ってきたらしい」「社長もなんだよ。意地になって。原田課長の功績を考えてみろよ」「やっぱり原田は凄いよな」

 

 皆さん今さら何なんでしょうか


 

 真っ先に辞めないように説得に来たのは黒田女史だった。


「私も一緒に謝るから、社長のところに行きましょう」

「謝るって。やはり、ここは幼稚園だったのか」

「もうどこかに就職決まってるの?」

「誰が辞めるって言ったか?」

「やめるでしょ。原田くんのことだから、子ども食堂の引き継ぎ先探しているんでしょ。見つかったら辞めるね」

「俺1人が辞めたぐらいで潰れるような会社なら、どっちみち駄目だろ」

「どうすればいいと思う?」

「縁故採用でクソを集めすぎた。全員が考えることをせずに、他人を出し抜こうとすることに集中している」

「あぁーぁ、そうよね。昔からホントに嫌になる。私も辞めようかな。今だったらどこでも行けるし」

「黒田さんの大切な愛社精神はどこいった?」

「昨日ね、キオスクで落としたみたい。誰か拾ってくれたらいいんだけど」

「拾ったやつも、ゴミだと思って捨ててるんじゃないか」

「あら、それじゃもう無理ね」


 先輩の携帯が鳴った。

「海子からだ」

「子ども食堂大丈夫よ。上が承認してくれた。帝都が責任を持って引き継ぐわ」

「わかった・・・ありがとう」

「ちょっと待って。モリオ、今ありがとうって言った?」


「・・・ねぇじゃあご飯奢ってよ」

「は?」

「今日は?」

「あぁ今日は辞表出すだけだからな。いつも行く定食屋でいいか」

「どこでもいい」


 先輩が携帯を切って、頭をボリボリかく。

「う〜ん」

「どうしたんですか」

「飯奢れだってよ」

「いいじゃないですか。引き継いでくれるんですから」

「あいつはそんなこと言うタイプじゃない」

「2人で食事とかないんですか?」

「子ども食堂で何度もある」

「外では?」

「ない」

「誰?」

「先輩の同級生で子ども食堂を一緒にやってくれている女性です。どうやら引き継いでくれるみたいで」


 黒田女史が先輩を見つめて何かを察したみたいだ。


「原田くん、その子大事にしなよ」

「どういう意味だ」

「安心した。私、原田くんのその辺すごく心配してたのよ」

「だから、どういう意味だ。訳がわからん」

「さて、私も就活だ。まぁ思い返せば、パワハラ田のおかげで色々面白かったわ。あっそうだ、タマキが原田くんに会いたがってるのよ。全く人の娘たぶらかしといて、ほっとくのはやめてよ。たまには会いにきてやって」

「落ち着いたら、行くって伝えといてくれ」

「じゃあね」




 やばい。言ってしまった。どうする。何を着ていけばいい?とりあえずメイクを直そう・・・・か。ちょっと待て・・・・そんなこと気にするタイプではないのは重々承知だ。冷静になれ。定食屋なんだし





 僕も就活だ。役員たちのブラックリストに載ったみたいだし。でも、少し誇らしい気もする。思ったままのことを言ったんだ。後悔はない。

 できれば先輩と同じところに再就職したいが、それは無理だろう。逆に考えれば独り立ちするチャンスだ。ここからは自分で決めるんだ。

 新商品のドライヤーCMの撮影が終わったら、辞表を出すことにする。 




 先輩と便箋と封筒を買いに大型書店に出向く。先輩がメモ用紙に「辞める」と書いて久保田部長に持っていったが、受け付けてもらえなかったからだ。


「キミ、いくら何でもこれはないんじゃないか」


「原田くんね。開発部に戻れるように、俺が上に掛け合うから、これからは私と一緒に新商品を開発しないか。前に言ってた介護用品。考えてみたら素晴らしいと思う」

「便箋に書いて封筒に入れても、中身は同じだろ」


「俺が上に掛け合えばなんとかなると思うんだ。いや、絶対なんとかする。別に恩着せがましいことは言いたくないんだよ。でもね、君はこの会社に必要な人だし」

「わかった。便箋に書いて封筒に入れて持ってくる」


「前々から君と僕はいい相棒になれると思っていたんだ。さぁ第2章の始まりだ。画期的なもの作ろうぜ」

「今日中に持ってくるから、絶対ここにいろよ」


「みんなも原田課長に残ってもらいたいよね」 


 開発部の全員が立ち上がって、先輩に懇願する。

「原田課長!辞めないでください」「課長が必要です」 

 

「お前ら・・・」


「その面、鏡で見てみろ。気持ち悪くて反吐が出るぞ」



「・・・」

 



 便箋と封筒を買って、エレベーターを持っていた時だ。

「海子さん、いつもの定食屋に連れて行くんですか」

「どういう意味だ」

「いや、いいお店ですよ。でも、せっかくなんだし、もう少し」

「俺が知ってんのは定食屋だけだ。あとは歌舞伎町あたりになる。あの辺に行ったら色々と面倒だしな」 

「海子さん楽しみにしてますよ」

「だから、俺がいつも行くところに連れていく」

「・・・はぁ」


 エレベーターに乗り込む。次の階でドアが開くと子ども食堂に来るテル君が立っていた。

「モリオ!あっ岸さんも」

「俺は呼び捨てで、岸にはさん付けか」 

「いいじゃん、そんなこと」

 テル君が「すいません」と謝りながら僕達の隣にやってくる。

「テルくん、どうしたの?」

「へへ、これ」

 手にしてたのは高校受験の問題集だった。

「受験することにした。私立金かかるし、頑張って公立目指そうかなって」

「頑張ってね」


「おい!謝ったか」


 大きな鉢植えが入ったビニール袋を持った初老の男性がこちらを睨んでいた。

「?」

「お前、ぶつかっただろ」

 

 何を言っているんだ?テル君が入ってきた時のことを言っているのか?


「聞こえませんでしたか。彼はちゃんと謝りましたよ」

「お前に言ってるんじゃない」

「え?」

「君は日本人か」

「・・・」

 

 先輩が僕と男性の間にスッと入ってくれる。


「どういう意味ですか」

「日本人なら謝るはずだ」

「何人だろうが謝りますよ。彼は謝りましたよ。あなたが聞こえなかっただけでしょう」

「なんだ貴様は!失礼な奴だな」

「失礼なのはあなただ。彼にもそうだし、そのクソのような偏見は他の国の人達にも失礼だ」

「外人に失礼もクソもあるか。貴様こそ何人だ?」

「あなたは今すぐクソみたいなネットを見るのをやめた方がいい。みっともない」


「私は日本人だぞ!!最近の奴は礼儀を知らん」

「その言動が日本人を貶めているし、礼儀を知らないのはあなただ」

「私は日本人だ!侮辱するのか!!」

 

 エレベーターが次の階で止まる。

 先輩が僕とテル君を降りるように促してくれる。

「行こう」

「待て!話は終わっていない」

「あなたと話すことは何もない。道端に落ちている軍手の方がまともな会話ができる」

 

 男性も降りてくる。かなり興奮しているようだ。

「落ち着いてください。彼は謝りました。聞こえなかったんなら、もう一度謝ります」 

「黙れ!」

 

 いきなり、手にしたビニール袋を振り下ろしてくる。中身は大きな鉢だ。バランスを崩し、足元がよろめいて大きく振りかぶってしまった。振り上げられた鉢はあろうことか僕とテル君の上に落ちてきた。


 ゴツんと鈍い音がエントランスに響いた 


 先輩が僕たちを庇ってくれた。倒れて動かない。やばい。どこに当たっんだ?


「何やってるんですか!テルくん救急車!!」

「・・お前らが・・悪いんだろ」


 先輩が立ち上がった。後頭部に手で摩っている。


「大騒ぎするな。大丈夫だ」

「よかったぁ」

 

「年甲斐もなく、そんなもん振り回すな」

 男性は無視して立ち去ってしまった。 


「モリオ、大丈夫?」

「先輩、病院行きましょう」

「だから大丈夫って言っているだろう」


 心配するテル君と別れて、会社に戻る。花屋の前で先輩が立ち止まった。

「お花ですか」

「海子はああ見えて、花が好きだ。引き継ぎのお礼だ」

「いいと思います」 


「プレゼントですか?」


「女性にプレゼントです。バラとかがいんじゃないですか?先輩」

「あいつは確か白い花が好きだったんだが」


「でしたら、白い花を中心にブーケをお作りしましょうか」


「でも、ここには赤い花しかないみたいだな。奥にあるのか」

「先輩?何言ってるんですか。白いの沢山あるじゃないですか」

「どこにある?」

「先輩?」 


 先輩がふらついて、テーブルに手を着いた。

 

 と、思った瞬間、そのまま電池が切れたみたいに倒れた。



 


 先輩の意識は戻らなかった。この先、目を覚ます可能性は少ないと言われた 





 駆けつけた海子さんはいつもと違うメイクで、黒いワンピースにジャケット姿だった。一瞬、先輩のことを忘れてしまうぐらい見惚れてしまった。


 海子さんはベットで横たわる先輩を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。


 自分に何ができるのか分からないままロビーの長椅子に座っていた。目を真っ赤にした海子さんが僕の隣に座る。


「先輩のご家族、ご存知ないですか。連絡しないと」 


 海子さんが先輩のことについて話してくれた。

 

 先輩には家族がいないことを知った

 

「議員のところに行った帰りの電車の中で、泣きじゃくる私に言ったの」


「モリオは施設で育ったのよ。生まれた時から家族はいないって」


「私ね、モリオのことがずっと好きだったの。中学の頃にはもうモリオには私しかいないって。同情じゃなくて、純粋にモリオという存在が好きだった」


「先生だろうが相手は関係ない。間違ってるものは間違ってるって言うの。もう学校一の変人よ。で、みんな先生に言えないこととかモリオに言わせようとするのよね。そんな同級生たちをモリオは相手にしなかった。モリオは孤立したけど、下を向くことはなかった」

「モリオと同じ施設から通う子たちが他にもいたのね。イジメの対象になる子もいたんだけど、モリオは絶対許さなかった。施設の子たちにとってはモリオは守神みたいな存在でね。そんな感じだから、結構人気でちゃってね。教育実習の大学生とか若い教師までもモリオに気のあるそぶり見せ始めて」


「だから私ね、自分でモリオと付き合ってるって噂を流したの。馬鹿よね。告白する勇気がないから、せめて他の子を近づけないようにするつもりだったの」


「だけど、逆に私のことを好きな同級生や先輩たちに目をつけられてね。いつも呼び出されて殴られてた。モリオは暴力を毛嫌いしてたから、やり返さないの。でも、だんだん避けれるようになってね。最後は誰が来ても、もう全て見切ったから大丈夫だって。相手が疲れて倒れるまで避け続けてね」


「中3の2学期の途中で突然転校して、別の施設に行っちゃったの。そこで、あっけなく離れ離れ。一切音沙汰なし。そこから何があったかはモリオしか知らない。でも、真っ当な道ではなかったと思う。少しだけ話してくれたの。移った先の施設長がひどい奴でね。気に入らないことがあると、すぐに子供達に手を挙げるような人間だった。当然、モリオはみんなのために抵抗した。施設長の逆鱗に触れたモリオは中学卒業する前に追い出されたみたいなの。そこから生きていくのに必死で、いつの間にか自分が一番嫌いな人間になりかけてたって。人言えないようなこともしてきたと思う。でも、同じような境遇の仲間達と出会って、ギリギリのところで踏みとどまれたって」

 

 たぶん、ヒタチさん達のことだ


「貯めたお金で大検受けて、夜間の大学卒業して、派遣社員として、コノエに入社したんだって」


「ずっとモリオのこと忘られなくてね。でも、私は絶対また会えるって信じてたの。街を歩くといつもモリオの姿を探してた。あっ歌舞伎町で探してたのは私じゃないから。これは本当」


「ある日ね、仕事帰りに公民館の前を通りかかった時、アッ!この中にモリオがいるって。私ね、感だけはいいの」


「もう足が超震えて。はい!運命きました、申し訳ないですけど、モリオ君もうこの運命から逃れませんよって。モリオがどんな大人になってようとどうでも良かった。確信もあったの、モリオは絶対モリオのままだって。モリオも会った瞬間に私だと気づくはずだって。子ども食堂の看板のある部屋の前に来てね、ここだ!ってドアを開けた」


「そしたら、いたの。やっぱりモリオのままだった。鍋持って子供に本気で怒鳴ってんの。お前らに順番という概念を教えてやるって!」


「でね、モリオもやっぱり私のことにすぐ気づいくれて。目が合った瞬間に分かったわ」


「好きですって言おうと一歩近づいたの」

「そしたら、おぉ海子か、手伝えっだって」

「もう何にも言えないわよ。気がついたら、モリオの隣で文句言いながらご飯よそってた」

「本当に、何も変わっていない。嬉しかったけど、良いことじゃないよね。思えば出会った時から、もう子供じゃなかった。もっと弱くていいのにね。真っ黒い何かに呑み込まれてしまわないように、必死になってギリギリのところで耐えている」


「子供たちに、お腹いっぱい食べさせることだけが生き甲斐・・・って言うか、それがモリオにとっての唯一の命綱みたいな感んじなんだと思う」


「私、分かるの。こいつは絶対に目が覚める。モリオには、少しでいいから自分のために生きてほしい」


「これは私のワガママだけど、せめて私に好きですの一言だけ言わせてほしい」


「たった一言でいいから」




 次の日、海子さんと2人で先輩の家に行った。入院等の必要な保険証が必要だったからだ。

 会社で調べた住所には、見るからに築年数の古い雑居ビルが建っていた。窓ガラスが割れている部屋もある。明日取り壊しが決まっていてもおかしくない。


「住所はここですね。ここの4階です」 

「モリオらしいね。でも、無頓着にも程がある」


 部屋も想像した通りだった。何もない。片隅にベットとシンプルなコーヒーテーブルと椅子。テレビがあるのが意外だ。ジブリやディズニーのDVDがある。本当に見てたんだ。この部屋で独りでファンタジーを見ている先輩を想像する。孤独すぎる。


「・・・岸くん、これ」

 振り返ると、海子さんが壁に向かったまま固まっている。テレビの反対の壁だ。


「どうしました?」 

「これって骨壷だよね」

 

 壁をくり抜いて作ってある小さな棚に骨壷が安置されている。レースの引き物の上に子供用の骨壷だろうか。ミニカーや小さなおもちゃ、花も供えている。綺麗に整えられている。


「先輩、ご家族いないんですよね」

「そう聞いている」


 安置している所からテレビを見る。ちょうど正面だ。この骨壷の子にテレビを見せてあげているのか。


 一体誰のお骨で、先輩とはどういった関係なのか?今では知る由もない


 


 海子さんは病院を駆けずり回って、脳を専門とする病院に先輩を移した。毎日、先輩のところに来てベットの隣で仕事をして、週末は子ども食堂を運営した。

 僕ももちろん参加した。黒田女史も、娘のタマキちゃんを連れて手伝いに来てくれた。日本に一時帰国した藤間さんも来てくれた。ヒタチさんも、アオくんも来てくれた。2丁目のオネエさん達も、先輩のことを知る人が次々と手伝いに来てくれた。

 

 僕はロ・リンと呼ばれている人が気になっていた。伝えなくて良いのだろうか 

 

 子ども食堂の後にヒタチさんに聞いてみた。

 

「岸くん、これからちょっと時間ある。俺の店こない?」


 ヒタチさんのお店の個室で先輩と出会った頃の話を聞いた。

 どうやらアオさんが、ロ・リンさんに直接伝えに行ってくれたらしい。


「起きたら教えてくれって。あいつはモリオのそんな姿は見たくないんだろう」


「先輩は歌舞伎町で何をしてたんですか?ロ・リンさんと中華屋って聞いてますけど」


「それは本当。俺が17で暴走族の仲間たちと歌舞伎町に出入りし始めた頃には、モリオとロ・リンはすでにいた。路地裏の中華屋で働いていた。2人とも店の親父に拾われたらしいんだ。詳しくは知らないが、モリオは施設を追い出されたんだろ。ロ・リンは中国残留孤児の3世で、どうやら父親が問題を起こして地元に住めなくなって家族が離散した。マフィアの従兄弟を頼って歌舞伎町に流れ着いた」

「モリオは店の前で倒れているところをオヤジに助けられたみたいだ。ロ・リンも頼るはずの従兄弟がすでに亡くなっていて、食い逃げするつもりで入った中華屋でバイト募集を知って、みたいな始まり」

「でも、ある日、オヤジが忽然と姿を消した。なんの問題も抱えていない、本当に善人だったらしいんだけどな。2人はオヤジに恩義があるから、戻ってくまで2人で切り盛りするって決めたんだ」

「ガキ2人だけでやっているなんて、舐められて当たり前。俺たちも含めてカモにしてやろうって魂胆の奴らが店に行く」


「仲悪かったんですか?」


「気に食わなかった。モリオもロ・リンも誰だろうと全く物怖じしないだろ。肝が座っているというより、壊れている。俺もどうしようもないクソガキだったから、舐めやがってって」

「1度しめてやろうって仲間集めて店に行った。言うこと聞かせて、好きに飲み食いできる店にしてやるつもりだった」

「そしたら、同じようなこと考えてる連中が先に来てたんだ。残念なことに店前で伸びて、山のように積まれてた。それ見た仲間達がビビりだして。俺も、これはやばいなって思ったんだけどな、でも、メンツもあるし、覚悟を決めて1人で店に入った」

「そしたら、2人で言い合ってるんだよ。なんか新しいメニューで。入って来た俺を見て、お前ちょっとどっちが美味いか教えろって」

「その場の勢いに押されて、思わず食べた。で、どっちもイマイチだったんだよ。それを言ったら、2人とも黙って厨房に戻って何か作り始めるわけ。で、今度は野菜炒めと餃子出してくれて、そしたら、それがめちゃくちゃ美味かった。思い返したら、まともな飯なんか食ってこなかったからかな。夢中で食べたな。外にいた仲間達も入ってきて、そいつらにも飯出してくれて。みんなでガツガツ食べた」

「食ってるうちに、なんかメンツとかそんなもんどうでも良くなってさ。それまでは仲間ってのは喧嘩で勝って従わせて増やしていくもんだって思ってたんだけど。初めてかな、こいつらと友達になりたいって思ったの」

「で、中途半じゃいけないって思って、しょうもないこと辞めて、俺も飲食で働き始めて、腹減ったら2人の店に行ってみたいな」

「そんな若い連中が少しずつ増えて。でも当然、場所柄上しょうがないことだけど、トラブル抱えてくる奴が出てくるわけ」

「あの2人は、理不尽なことだと助けてくれる。相手がヤクザだろうが、何だろうがお構いなしだから、大概は解決してくれた。どんどん一目置かれるようになっていったって感じかな。みんな、色んな事情抱えてるだろ、親とか警察に頼れないからな。困った奴らが最後に頼る駆け込み寺みたいなところ」


「似たような境遇の2人が、たまたま中華料理屋で一緒になった。仲間も増えた。その中華屋のオヤジさんは戻って来たんですか」


「それが、ある日突然戻ってきた。ただ、その後に色々なことがあって、ロ・リンが怒りで暴走した。モリオは止めようとした。その結果、ロ・リンは片腕を失った。いや、片腕だけで済んだってところかな。そして、モリオは歌舞伎町を去ることになった」


「詳しい話は勘弁してくれ。俺もあまり思い出したくない」


「あと一つ。モリオさんの家に小さな骨壷があったんです。何かご存知ないですか」

「・・・骨壷?」 

「子供用の骨壷です」 

「それは知らない。でも、その・・・ロ・リンが暴走したっていうのは、中華屋を放火されたのがキッカケだったんだ。モリオは住み込みだったから2階に部屋があった。みんなが見ている前で、あいつは平然と燃える中華屋に入って行った。そして、小さな鞄を抱えて出てきて、そのまま倒れて病院に」

「・・・小さな鞄」 

「その後のゴタゴタで忘れてたけど、確かにあいつは、その鞄を取りに火の中に入って行った。ひょっとすると中は」

「誰かの骨壷」

「その可能性はある」




 CM撮影の日に先輩の過去が分かった。できれば知りたくなかった

 

 原田杜雄。その生い立ち、どうしてこんな人間が生まれたのか

 

 知ってしまった今、僕は自身の言動を全て恥じる


 彼は独りで立ち続けていた。とてつもなく重くて、冷たいものを抱き抱えたまま


 


 三田凪子さんを起用したCMは順調すぎるほど順調に進んだ。全て三田さんのおかげだ。これがプロフェッショナルかと、ただただ感嘆するばかりだった。監督スタッフ以上にこちらのイメージを明確に汲んでくれた。

   

 ただ、近寄りがたい。大柄とか偉そうにしているわけでもない。誰に対しても挨拶をしてくれるし、受け答えも丁寧だ。ただ、愛想笑いといったものが一切ない。真っ直ぐ相手を見て話す。蛇に睨まれている心持ちになる。緊張するが、どこか懐かしい感じもする。


 先輩みたいな人だな。この場に先輩がいたら、どんなことになっていたのだろうか


 

 全ての撮影が終了し、帰り支度をしていた時だ。僕もいよいよコノエをやめる。明日から就職活動だ。その前に先輩に報告だ。

 

 ん?なんだか外が騒がしい


「三田さん!三田さん!どうしたの!!」 


 コノエ社員用の控室のドアが大きな音を立てて開かれる。


 三田凪子さんが、肩で息をしながら、部屋中の人間を1人1人睨みつけてくる。誰かを探しているいみたいだ。握られているのはCM撮影用の資料だ。


「あの・・・何か」

「この人はどこ?」

 握っていた資料を差し出してくる。

「え?」

「モリオ・・・原田モリオはどこだって聞いているの」

 

 新商品とコノエの資料だ。開発者は僕で、開発責任者に先輩の名前を書いていた。

 

 先輩、この人に何したんですか 


「今はいませんが」

「どこにいるの?」

「あの・・・申し上げにくいんですが」

「あんたの恥ずかしい話聞いてんじゃないの。すぐに答えなさい」

「・・・あの」

「あんたの耳、飾りなの?」

「病院です」

「病院?」

「失礼ですけど、原田とはどういったご関係で」

「すぐにその病院に連れて行きなさい」


「あとで説明します。モリオに会わせなさい」



 三田さんの車に乗せられて、一緒に病院に向かった。


 車内で今までの経緯と先輩について知っていることを話した。

 三田さんは黙って聞いていた。


「モリオはもう目を覚さないの」 

「お医者さんは0ではないと言っています。ただ」

「可能性は低い」

「はい」

「そう」



 日本を代表する女優が先輩を見下ろしている。


 先輩の顔色はいい。今にも起きがってきそうだ。 


 仕事終わりの海子さんが入ってきた。少しやつれている。


「岸くん、こちらはどちら様・・え?」

「あの・・・僕もよく分かってなくて」

「あなたが海子さん?」

 

 海子さんの目つきが変わる。好戦的だ。


「そうですけど、モリオとはどういったご関係で」



 初めまして。原田凪と申します。


 原田杜雄の姉です



「!?」

「ちょっと待ってください。モリオには家族がいないと聞いています。そんな、突然現れて、姉だって言われても」

「そうね。今からお話しします。でも、ちょっと待って」 

 

 三田さんが海子さんを抱きしめる。


「ありがとうね。あなたがいてくれてモリオがどれだけ救われたか」

 

 海子さんの瞳から涙が溢れる。 


「あなた達、少し顔色悪いわ。ちゃんと食べてる?」

「あの・・本当にモリオの?」

「場所を移しましょう。この子、聞いているでしょ。起きたら、余計なこと言うなって私が怒られる」


 

 屋上は少し肌寒かった。日が沈みかけ、遠くの公園では花見用の灯籠の灯りが見える。もうすぐ桜の季節だ。

 

 そこで誰も知らなかった先輩の生い立ちを聞いた

 




 母親はそれぞれ父親の違う子を3人産んだ。私が長女で、モリオが真ん中で、一番下にテツオっていう弟がいたの。

 

 母は女優を目指して上京したんだけど、見た目でチヤホヤされて、甘やかされて育ってたから、少しでも上手くいかないと、すぐに周りのせいにする。当然、そんな甘い世界じゃない。すぐに夜の街の人間になった。銀座のホステスね。高級店のNo.1。それが彼女の唯一の勲章。  

 

 私の生物学上の父親とはそこで出会ったの。妻子のいる政治家。政界のホープと持て囃されていた男で、今も気持ち悪いと笑顔とゲロみたいな言葉を撒き散らしながら官房長官をやっているわ。

 

 ・・・・


 母が私を産んだ途端に、捨てられたの。端金でね。それでも、母は銀座の一流店に勤めていたから、生活には困っていなかった。母1人娘1人で自由気ままに暮らしていた。

 

 私が5歳の時に、モリオが生まれた。父親は世界に近いと言われていたプロボクサー。責任感のある人で、母にも私にも、いいお父さんだった。生まれたばかりのモリオを本当に可愛がった。母も仕事をやめて、家族4人で小さな家で暮らしてた。今から思えば、私たち唯一の幸せな時間だった。でも、男は日本王者防衛戦で負けるはずのない相手に負けて、しかも、網膜剥離になって引退。

 

 男は仕事を始めたけど、どれも長続きしなかった。そこからアルコールに溺れて、口数が少なくなった。でも、酔うと負けたのはお前らのせいだって暗い顔してネチネチ言い続けるの。どんどん家の雰囲気が悪くなった。

 母は銀座で再び働き始めた。少しお店のレベルが下がったから生活は苦しくなっていった。

 

 モリオは3歳になったばかり頃かな。あの子は本当に優しい子なんだけど、もの凄い泣き虫でね。いつも誰かがそばにいてあげないといけなかった。いつも私の後をついてくるの。友達の家に遊びに行くのについてくるのよ。

 

 ある日、男とモリオがいなくなった。どうやら、酔ってふらっと出ていった男の後をついて行ったみたいなの。モリオは男のことが大好きだったから当然よね。

 

 母はもう男に対して何にも思ってなかったし、トラブルとかに対処できるような人間じゃなかったから、面倒なことから現実逃避するの。そのうち戻ってくるでしょって言って出勤した。

 

 私は必死で探した。駅で保護されているモリオを見つけた。モリオの顔がうつろなの。何があったのって聞いても上の空。

 

 男はホームから電車に飛び込んで、もうこの世にいなかった。モリオの目の前でね。モリオは独りホームで泣きづつけて、涙が枯れちゃったみたい。

 

 その日から、モリオは泣かなくなった。


 そこから下町の古くて小さなアパートに引っ越した。母も年齢から銀座の店を辞めさせられて、スナックで働き始めたから。

 

 私が10歳、モリオが5歳の時に母がまた妊娠した。今度の父親は分からない。母は大企業の重役だって言ってたけど、嘘。不摂生からどんどん容姿が衰えてきて不安だったのよ。それしかない人だったから。酔って褒められたら、誰とでも寝るようになっていたの。

 

 真夜中に男連れてきて、あんた達ちょっと外に行って来なさい、みたいなことが頻繁にあった。

 

 ある時は、冬で雪が降っててね、公園のドカンの中で2人で抱き合って寒さを凌いだわ。私は辛くて泣いていた。でも、モリオは泣かなかった。5歳の子がそんな状況でも泣かなかった。「大丈夫、大丈夫」って私を慰めてくれるの。5歳の子が。

 

 そして、テツオが生まれた。お金がなかったから、母はすぐに仕事に復帰した。だから、2人でテツオを見たの。私が小学校に行ってる間はモリオが面倒をみた。母はいたけど、寝てるだけだったから。

 

 モリオは小学校に入学しても、行かなかった。テツオが心配で。私も中学を休もうと思ったんだけど、僕が見るからって、私には学校に行けって。私はそれに甘えちゃった。本当は行きたかったんだと思う。時間があると教科書を隅々まで読んでいるの。

 たまに行政の人とか家に尋ねてくるけど、モリオはもう誰も信用していなかったから、居留守とかしていたみたい。

 

 私が中三の時に母親の新しい男がアパートに転がり込んできた。どこかのチンピラね。男は毎日働きにも行かず、母親とやるか暴力をふるうかのどちらか。私たちがいても関係ない。救いようのないクズ。ふたりで仲良くクスリやってるか、もしくは掴み合いの喧嘩。地獄ってまであるのかって思った。まだまだ序の口だったけどね。


 その男の私を見る目が気持ち悪いの。当然、私は警戒してた。絶対に2人きりにならないようにしていた。

 

 3人で公園で遊んでいる時にね、テツオがパンツを汚しちゃったの。私がアパートに着替えを取りに行った。母もいるから大丈夫だと思って。案の定、部屋に戻ったら母と男がいた。で、私を見た男が母に合図を送ったの。そしたら、母が「私が持っていってあげる」って。


 母が出ていって、そこで私が襲われた。必死に抵抗して、殴られたりしたけど、なんとか逃げたの。

 

 私は公園でタバコを吸っている母親を見つけて、叩きながら泣いて訴えた。

「娘を売ったのか」って。でも、母親はもう壊れていたのよ。「減るもんじゃないだろ」「お前も少しは私を助けろ」って。あれ以上の絶望はない。もう何だか笑えてきた。

 

 その夜、モリオがね、「姉ちゃん逃げろ」「このままじゃ姉ちゃんが殺される」って。私は必ず2人を迎えに来ると約束して、逃げた。すぐに仕事を見つけて、2人を迎えに来るつもりだった。


 ここからは、後から警察に聞いた話とモリオ本人に聞いた話。


 「警察?何があったんですか」


 海子さんの目には涙が溢れていた。腕を組んで必死で耐えていた。

「もうやめる?」

「いえ、聞かせてください」


 男の暴力は水が低いところに落ちていくようにモリオとテツオに向かった。ますますモリオはテツオを残して学校には行けなくなった。目を離したら何をされるか分からなかったから、幼いテツオを連れて教会やお寺で食べるものを貰って、時には生ゴミをあさって何とか生き延びていたみたい。

  

 私は、何とか住み込みのバイト先見つけたんだけど、共同部屋で2人を呼べる状況じゃなかった。時間があると様子を見に行ったの。でも、そんな状況だとは知らなかった。モリオは「何とかなってる。大丈夫だ」「姉ちゃん無理しなくていいから」って。


 ある日、母親がこっそりお小遣いをくれた。モリオの小学校で明日遠足があることをどこかで聞いて来たらしいの。これで遠足用のオヤツを買いなさいって。学校にほとんど行ってなかったから、当たり前だけど、遠足になんか一度も行ったことのないモリオにとって夢のような響のする言葉だった。

 

 でも、モリオはテツオを残してまで遠足には行きたくなかった。それでも母親が男は明日競艇に行くはずだからって。万が一戻ってきても男からテツオを守ると約束してくれた。

 

 モリオは生まれて初めての遠足に行った。学校に行ってなかったから友達もいなかったけど、平気だった。バスの車窓から初めて世界を見た気がしたって。持って行ったお菓子には手をつけず、帰ってテツオと一緒に食べながら、見てきたことを話してあげるつもりだった。


 

 帰ってきたらテツオは冷たくなっていた



 ・・・男と・・・そして母親も一緒になって朝から折檻し続けた結果だった。蜘蛛膜下出血と内臓破裂。原因はトイレでの粗相だった。



 そして、モリオは台所にあった包丁で男を刺した



 致命傷にはならなかった。俺にもっと力があったらなって。お腹から血を流してわめき散らす男に母親は抱きついて、大丈夫、大丈夫って泣いてるんだって。動かなくなったテツオはほったからしのまま。


 その時に、モリオは誓った。俺はこんな大人にはならないって。自分たちの父親みたいな無責任な人間、弱いものイジメしかできない目の前でわめき散らす男みたいな情けない人間、自分では何も決められない母親みたいな弱い人間には絶対にならない。


 クソみたいな人間には絶対ならないって。


 小学4年生の子供が考えることじゃないよね。それ以来、お菓子も食べれなくなったって。


 男と母親は捕まった。モリオは施設に入り、海子さんの小学校に転校してきた。



 私はたまたまバイト先に来た人が劇団関係の人で、その縁で芸能事務所にスカウトされたの。興味はなかったけど、アパート用意してくれるって聞いて、飛びついた。これで迎えに行けるって。3人で幸せに暮らせるって思って、迎えに行ったら、モリオもテツオもいなかった。

 

 警察に聞いたり、児童相談所に行って、なんとかモリオの居場所を探し出した。


 モリオを迎えに児童養護施設に行ったの。一緒に暮らそう。テツオのお墓を建てようって言ってもモリオは首を縦に振らなかった。


 その意思に圧倒された。もう、何を言っても無駄だって分かった。でも、会いにくるし、中学を卒業したら、一緒に暮らそうって一方的に言ったの。モリオは黙って聞いていただけ。

 

 モリオが中三の時に会いに行った。私も舞台中心だったんだけど、映画とかにも出始めた頃で、生活にも余裕ができていたの。モリオを高校大学に行かせるぐらい大丈夫だからって。施設長ともうまくいっていないのも聞いてたし、何がなんでも引き取るつもりだった。

 

 モリオは次の日いなくなった。多分、自分のやったことで私に迷惑をかけると思ったんだと思う。

 

 本当に消えちゃった。手がかりは何もなかった。


「歌舞伎町で先輩のこと、聞いて回ってたっていうのは」

「私よ」


 何年か前にね、事務所に入った若い子が昔のヤンチャ自慢してたの。どうでもよくて、聞き流してたんだけど、そこでモリオの話が出たの。歌舞伎町にはモリオさんっていう、すごい人がいたって。それを聞いて、すぐに歌舞伎町に行ったわ。


 でも、モリオがいたのは10年以上前の話だって。どこに行ったかは誰も知らなかった。

 

 私はいつも手遅れなの。


「あの、お母さんとその男は」


 出所後に精神病院に入れたわ。だいぶ良くなって、スーパーでパートを始めて、今は・・・再婚して幸せに暮らしている。


「・・・」


 言いたいことは分かるわ。でも、正気に戻したかったの。正気になって罪の意識を待たせるためにね。今、彼女は張り裂けそうになっている。子供を見る度に辛くて、自分のしたことが襲いかかってくるのね。自由な世界で一生苦しめばいい。 

 

 男は一度私のところに来たわ。金よこせって。昔のことをバラすぞって言ってきた。本当にバカって一生バカなのね。出所してから、ずっと監視しているのに。ちょっと費用はかかるけど、人生が上手くいかないように、全ての可能性を事前に摘んでいるの。あいつは運が悪いと思ってるだけかもしれないけどね。あいつは絶対に許さない。私の見ている前で無様に野垂れ死んでもらう。

 

 私はモリオにもテツオにも何もしてやれなかった。だから、復讐だけは私の役割。 


 

 子ども食堂のこと聞いたわ。

 

 モリオはテツオにしてあげたかったけど、できなかったこと。子供達の姿とテツオを重ねてる。それで、ギリギリのところで正気を保ってたんだと思う



 


 入院費は全て三田凪子さんが持つことになった。子ども食堂の支援も約束してくれた。

 

 海子さんは先輩の手を握りしめたまま、眠っている。壮絶な過去だ。聞いているだけで、とてつもない疲労感だ。

 


 僕は病院を出て、気がつけば先輩の部屋に来ていた。お花を新しいのに替えて、テツオくんのお骨に線香を手向けた。

 

 運命の分岐点があるとするなら、兄弟が幸せに暮らしている世界があるのかもしれない。でも、その世界の先輩はやっぱり僕の知っている先輩で、ただ弟がいて、お姉さんもいる。綺麗な彼女と喧嘩しながら幸せに暮らしている。出来の悪い後輩を叱りつけて、たまにご飯を奢ってくれる。

 

 きっとそんな世界もあるはずだ。そう思いたい。

 

 僕は僕のやるべきことをやる。僕は父親に罵られて育った。出来の良い兄と常に比較されて。岸家の恥とまで言われた。家出して以来、会っていないし、会うつもりもなかった。でも、そんなことは、どうでもいい。 

 父親は責任を取るべきだ。端金で捨てた母娘のことだ。全ての発端はあなたにある。

 記者会見で綺麗事を並べて、日本の将来について憂う前にすべきことがある。





 楽になった。生きること全てが苦痛だった。あのオヤジのおかげだな。上出来だ。思いっきりやってくれた。一瞬、何か思い出して避けようと思ったけどな。 

 

 さて、俺はテツオに会えるだろうか。会えたら、ちゃんと謝らなければならない。お腹いっぱい食べさせてやれなかったこと、1人だけ遠足に行ったこと、そして守ってやれなかったこと。

 

 これからは兄ちゃんがついている。

 

 あの時食べられなかったお菓子を2人で食べるんだ。

 

 あぁそうか、思い出した。海子との約束か。飯奢らないといけなかったんだ。

 





 光が見える。その光が徐々に近づいてきて眩しくて思わず目を閉じてしまう。

 ゆっくりと目を開ける。

 牛車?

 梅?兎?

 光に慣れてくる。天井に一枚一枚日本画が描かれている。

 

 これが死後の世界か?随分と日本的だな。

 

 ゆくっりと視線を下ろしていく。後頭部に激しい鈍痛が走る。

 痛?俺は死んでないのか?

 なんだここは?四方の襖に描かれた虎が俺を睨んでいる。

 

 腕には点滴。酸素マスク、心電図等々管まみれだ。

「六蜜院さま?」 

 海子が覗き込んでいる。

「すまん、へました。飯はまた今度だな」

「?」

 とりあえず上体を起こそうとするが、どうにも頭が痛い。

「いけません。まだ安静にしてください」

 白衣を着た海子だが、何かがおかしい。

 大体この部屋はなんだ。何十畳もある畳敷の大広間の中央にポツンとあるベットに寝かされている。

 

 ベットに名札が見える。

 

「六蜜院杜雄様」


 「六蜜院」?このふざけた苗字はなんだ。「様」?大いなる勘違いか、もしくは海子の悪ふざけか。

「おい・・海子・・・冗談は顔だけにしとけよ」

「申し遅れました。主治医の青木海子と申します」


 青木?

 

 海子が柱に取り付けられた昔の黒電話のようなものに向かった。


「六蜜院の若様がお目覚めになられました」


 だめだ。状況が整理できない。そもそも、なんで俺はこんな所で寝ている?後頭部の激しい痛みはなんだ?

 そうだ。興奮したオヤジが鉢植えを振り落として、岸とテルが・・・それが俺の頭に直撃して・・・花屋に行った気がする。でも、目が覚めたら、ここだ。


 遠くから廊下を走ってくる足音が聞こえてくる。一体どんだけ長い廊下なんだ?木が軋む音と共にぞろぞろと部屋にやって来た男たち。

 

 燕尾服?


「六蜜の若様、お伝えしなければならないことがあります」

「十五行院様!今は」

「遅かれ早かれ知ることなります」

「お父様は昨夜、逝去されました」

「若様を救うために自らが御供になられたのでしょう」

 お父様?ゴクウ?

「ちょっと待て」

 後頭部に激しい鈍痛。思わず頭を抱えてしまう。


「主治医は何してんの?どこにおんの?あんた早よ呼んで」

「失礼いたします」

「女やないの?」

「君、主治医を呼んでくれ」

「三三斎宮様。彼女が主治医です」

「どういうことどす?帝都は女なんかに医者やらすんどすか?」

「残念ながらこの病院で一番の医師です」


 ふざけたナリのふざけたノリにますます頭が痛くなる

 

 そして、開いた襖の奥に見える、あの馬鹿でかい城はなんだ

 

 あの辺りは・・・

 

 ・・・江戸城?

 

「おい!頼むから口からクソ吐くのやめてくれ。頭に響く」


「ひゃ」 

「・・・若様、今なんと」


「クソがクソ吐くのやめろと言っているんだ」


 燕尾服の中でも一番馬鹿そうな関西弁馬鹿燕尾が倒れた。


「三三斎宮様!!」


 無様な姿に思わず笑ってしまった。海子の口元も僅かだが緩んだ。


「お前らは出ていけ。しばらく1人にしてくれ」


 呆気に取られたままの燕尾服たちが出ていく。

 

 医者コスプレの海子は残ってもらう。


「さて、いろいろ教えてくれ。ここは一体どこだ」


「大日本帝国の帝都大学附属上級病院です」 


                               

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