5-2 物置部屋


 ほかにすることもないし、レジの番でもしてようか――と考えながら店のようすを見ていると黒いエプロンをつけたアルバイトのお兄さんがすっと来て、

「二階にジャンプ置いてんで」

 と肩をかるくたたいた。

 ゆうは顔を上げてお兄さんを見た。期待に輝いた子供の顔に、お兄さんは笑顔を返した。

「先週のやけどな」


 ランドセルにノートや教科書をつっこんで、厨房で働いているお祖父じいちゃんとお祖母ばあちゃんに声かけて、奥の扉を開けた。扉を開けた先にあるのはうすぐらい階段だ。

 ここのアーケードの商店街はみな一階が店舗で二階が住居になっている。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは二階に住んでいて、侑が泊まることもちょくちょくあった。

 慎重に手すりをつかみながら急な階段を上がってすぐ左側の扉をノックもせずに開けると、だれもいない部屋にするっと入った。いろんな人の匂いが混じって漂う物置部屋は、だれの所有ものなのか知る手がかりがまるでなくどこかよそよそしい。

 かつてその部屋はお母さんのものだったことがあり、双子の叔母さんとふたり、高校を出るまでその部屋で育ったんだとお母さんが言っていた。アルバイトのお兄さんお姉さんたちの荷物置き場になったのはふたりが卒業したあとだ。


 床に転がるジャンプは難なく見つかった。片手で拾いあげると、はしっこの壁にへばりつくみたいに座りこんで読みはじめた。

 侑の一番の目当てはどたばたコメディなマンガだが、ほかの連載作にもひととおり目を通すのが常だった。

 ときどきは血と肉の飛び散るスプラッタな戦いに恐怖したり、小学生には刺激のつよいお色気ものに赤面したりすることもある。そういうのに出くわすと、侑は海の深みに足をつっこんだみたいなつめたい恐ろしさを感じた。それは同時に蠱惑的でもあって、黄昏の部屋にひとりいる侑は小学三年生にはふつう許されない世界に揺蕩たゆたい、そのうち深く沈んでいくのだった。


 ときどきふと現実の荷物置き場に意識が戻る瞬間がある。たとえばこの部屋にだれかアルバイトが入ってきたときなんかがそうだ。

 でも今日は、扉の開く音がよほどしずかだったからかそれともマンガのクライマックスにのめり込んでいたからか、アルバイトのお姉さんが入ってきたことにさいしょ侑は気づかなかった。

 やがて部屋の鍵を内からかける音が聞こえて、はじめて侑はマンガの世界から黄昏の物置部屋に引き戻された。


 顔をあげるとアルバイトのお姉さんがこちらに背を向けて、バッグからシャツを取り出しているのが見えた。

 それから侑の目のまえで、お姉さんは背中に手をまわして身をよじった。みず色のワンピースの裾がひらひら揺れた。なにをしているのかと見ていると、どうやら彼女はワンピースのジッパーをおろそうとしているのだった。ジッパーは彼女の意に反してうまく下がってくれないようで、そのつどみず色のすそが揺れた。

 彼女のジッパーとのたたかいに侑は魅入られ、マンガの世界はみるみる遠くなった。


 やがてどうにかジッパーをおろすことができて、ワンピースが安っぽい絨毯の敷かれた床に落ちた。衣ずれの音が遅れてとどいた。

 床から目を上げると黄昏のなかに下着だけをまとったお姉さんのからだがなま白くぽっかり浮かびあがっていた。

 もううしろ姿ではなく横向きの姿だ。

 フリルのついた下着はからだを隠すことより美しさを引きたてるためにあるようで、いつも店内で目にするお姉さんとはまるでちがって美しく見えた。

 あるかないかのほのかな匂いが鼻先をくすぐり、息を吸うのにもぞわりと罪悪感が背中をはしった。

 知らないうちジャンプが手からすべり落ち、ばさばさっと無粋な音を立てた。

 その音はお姉さんにもとどいて、左右を見まわした彼女の視線が侑をとらえた。

「あれ、おったん?」

 彼女の声に非難の響きはない。

 一方、侑は視線を逸らしてしまった。

 ちいさな声で「ジャンプ」とだけ答え、いま落としたばかりのジャンプを手にとった。

「ああ」

 あっさり察してお姉さんは頬をゆるめた。それから床に落ちていたシャツを拾って袖を通し、ひとつずつ前のボタンを留めていった。もう侑に見られることは気にしていない。

 だが侑はひとり勝手に気まずいと感じてしまう。

「なんで着替えるん?」

 気まずさを紛らせるため侑は訊ねた。


 祖父母の店に服装のきまりはなく、ふつうはみんな着てきた私服のうえにエプロンだけを着けて店に出る。だからこの物置部屋も男女共用で問題ないし、侑も気兼ねなく出入りしていた。


「今日のはおろしたての服やから。汚したないねん」

 そう言って、床からワンピースを拾い上げた。折れていた襟をなおしてきれいにすると、からだにあてて侑に向けポーズをとった。

「ほら。可愛かあいいやろ?」

 侑は声も出せずにただうなずいた。

 ワンピースのむこうに、まだスカートをはかないお姉さんのからだが見え隠れした。


 おなじクラスの女子たちのだれかを好きだとか気になるとか、そんなのとは明らかにちがった感情が侑の胸にわいたのだが、それを恋と呼んでよいかどうかはわからなかった。

 ただお姉さんのなま白い肌と、下着の模様とワンピースのみず色が脳裏につよく焼きついた。

 もしそれが恋であるならば、どうして彼女がアルバイトの日に、わざわざおろしたてのワンピースを着てきたのかを問題にすべきはずだったが、幼い侑にはそこまで気がまわらないのだった。


「そんなじろじろ見るもんちゃうで?」

 からかう目で、鼻を鳴らしてお姉さんが言った。あわてて侑は目を逸らした。

 それでも意識はお姉さんから離せなかった。そっと視線を戻すとお姉さんはズボンに右から足を通していた。ズボンは部屋の暗さに馴染む濃紺で、目をおおいたくなるほどの蒼白さのももはその濃紺のなかにゆっくり吸いこまれていった。

 そのとき階下でコーヒー豆を挽く機械が独特の騒音を立てはじめたので、魔法が解けたみたいに侑は目をお姉さんから扉の方へと移した。

 やがて音は止み、馴染みあるコーヒーの匂いがほんのり部屋まで届いた。

 視線を戻すとお姉さんはもう着替えを済ませてしまっていた。


「ほんじゃ」

 扉がばたんと閉まって、とたとた足音が階段を下りていくのに侑は耳を澄ませた。

 手にしたジャンプにはもう見向きもしなかった。


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